福岡藩
福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。
略史
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの戦功により筑前を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津城主の黒田長政が同じく関ヶ原の戦功により筑前一国52万3千石を与えられたことにより当藩が成立した。
入府当初の居城は名島城であったが手狭であったので、慶長6年(1601年)福岡城築城に着工し、慶長11年(1606年)に完成した。
2代・忠之は父・長政の遺言により弟の長興に5万、高政に4万石を分知した。これにより石高は43万3千石となった。忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きた。
6代・継高は直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千石となり廃藩置県までこれが表高となった。
9代・斉隆は天明4年(1784年)修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。
幕末には、慶応元年(1865年)当初、勤王派が主力を占めるが佐幕派の巻き返しにより、家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、14名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった。
その後、慶応4年(1868年)勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。
明治3年、(1870年)、日田県知事松方正義より福岡藩が太政官札を偽造してそれが日田県内に流通しているとする告発が挙げられる。その後の明治政府の調査の結果、松方の告発が事実で福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代・長知は知藩事を解任され、後任の知藩事には有栖川宮熾仁親王が就任した。熾仁親王の福岡藩支配は廃藩置県までの12日間に過ぎなかったが、知藩事の世襲が認められなかったことは江戸時代の改易に匹敵する重い処分であった。その後、廃藩置県により福岡県となった。
黒田騒動
黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。加賀騒動、伊達騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には二千石の田地で百姓をするか、一万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるかと非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に進める。そして六百石以上二千石未満の藩士の嫡子達を集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。大膳はそこで忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹、次第に距離を置くようになる。2代藩主・忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、彼とその側近と筆頭家老・栗山利章(大膳)など宿老との間に軋轢を生じ、お家騒動へと発展した。忠之は児小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に幕府より咎めを受けるに至った。栗山利章は寛永9年(1632年)6月、藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。このため幕閣は利章を尋問した。寛永10年(1633年)2月、幕府は所領安堵の触れを出し10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。利章は騒動の責を負って陸奥国の盛岡藩預かりとなり、十太夫も追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に戻り鎮圧軍に従軍したが、戦死した。
この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した利章が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色し描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。
歴代藩主
- 黒田(くろだ)家
外様 52万3千石→43万3千石→47万3千石 (1600年 - 1871年)
- 長政(ながまさ)〔従四位下・筑前守〕
- 忠之(ただゆき)〔従四位下・筑前守、侍従〕 分知により43万3千石
- 光之(みつゆき)〔従四位下・右京大夫、侍従〕
- 綱政(つなまさ)〔従四位下・肥前守、侍従〕
- 宣政(のぶまさ)〔従四位下・肥前守、侍従〕
- 継高(つぐたか)〔従四位下・筑前守、侍従〕 直方藩廃藩により47万3千石
- 治之(はるゆき)〔従四位下・筑前守、侍従〕
- 治高(はるたか)〔従四位下・筑前守、侍従〕
- 斉隆(なりたか)〔従四位下・筑前守、侍従〕
- 斉清(なりきよ)〔従四位下・備前守、侍従〕
- 斉溥(なりひろ)のち長溥(ながひろ)〔従四位下・美濃守、侍従〕
- 長知(ながとも)〔正二位・下野守、左近衛権少将〕
- 知藩事 有栖川宮
(1871年)
- 王熾仁親王(たるひとしんのう)
支藩
秋月藩
秋月藩(あきづきはん)は福岡藩の支藩。元和9年(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。藩庁は秋月陣屋(福岡県朝倉市)。無城大名ではあるが城主格が与えられていた。
明治4年(1871年)の廃藩置県により秋月県となり、その後、福岡県に編入された。
明治17年(1884年)黒田家は子爵となり華族に列した。現在でも、藩祖といえる黒田如水の血統をつないでいる(本家である福岡藩は血統としては断絶している)。
秋月藩家臣
- 田代家(秋月藩家老)
- 戸波家(知行300石)
- 戸波家は上級武士で六兵衛定次を祖とし馬廻り組、知行300石を拝領。代々馬廻り頭、鉄砲頭、中老、家老等の要職にあった家柄である。明治9年(1876年)秋月の乱のとき、半九郎定夫は他の六士とともに江川谷で自刃するが、その後戸波屋敷は旧藩主黒田家に譲られ秋月の別邸として用いられた。その屋敷は秋月城の桜馬場にあり昭和40年郷土館を開設し、黒田家の遺品と共に寄贈され一般公開されている
- 林家(知行120石)
- 林家は上級武士でその屋敷は今も戸波家の隣にあるが一般公開されていない
- 久野家(知行100石)
- 久野家は上級武士で馬廻組の家柄でその屋敷は今も久野邸として一般公開されてある。茅葺きの本屋と瓦葺きの二階建て離れ座敷、庭園と往時のままで保たれている蔵内に資料館がある。また久光製薬の会長の母方の実家で、今は久光製薬が管理している。
歴代藩主
- 黒田(くろだ)家
外様 5万石 (1623年~1871年)
- 官位・官職は従五位下・甲斐守(但し7代・長堅は早世のため官位官職なし)
- 長興(ながおき)
- 長重(ながしげ)〔奏者番〕
- 長軌(ながのり)
- 長貞(ながさだ)
- 長邦(ながくに)
- 長恵(ながよし)
- 長堅(ながかた)
- 長舒(ながのぶ)
- 長韶(ながつぐ)
- 長元(ながもと)
- 長義(ながよし)
- 長徳(ながのり)
東蓮寺藩(直方藩)
東蓮寺藩(とうれんじはん)、のち直方藩(のおがたはん)は、福岡藩の支藩。藩庁として東蓮寺(福岡県直方市)に陣屋が置かれた。
同藩は前後2期に分かれる。第1期は元和9年(1623年)黒田長政の四男・高政が福岡藩より4万石を分知され立藩したことに始まる。3代・長寛の時代の延宝3年(1675年)この地が直方と改称されたことにともない直方藩と改称。延宝5年(1677年)長寛は実父で福岡藩3代藩主・光之の後任となり領地を本藩に返還した。のち長寛は福岡藩4代藩主・綱政となった。
第2期は元禄元年(1688年)光之の四男・長清が5万石を分知されたことにより成立。長清の嫡子・長好は福岡藩5代藩主・宣政に子がなかったため養嗣子(のちの福岡藩6代藩主・継高)となった。享保5年(1720年)長清が没し、長好の他に子が無かったため廃藩となり、所領は福岡藩に還付された。
歴代藩主
- 黒田(くろだ)家
外様 4万石 (1623年~1677年)
- 黒田(くろだ)家
外様 5万石 (1688年~1720年)
- 長清(ながきよ)〔従五位下・伊勢守〕
家老
- 三奈木黒田家(筑前三奈木領1万6205石・重臣筆頭)藩大老職世襲・維新後男爵
黒田一成(加藤重徳の二男・黒田孝高の養子)=一任-一貫-一春=一利-一誠-一興=隆庸=清定-一葦=一美=一雄=一義
幕末の領地
福岡藩
明治維新後に、嘉麻郡20村(秋月藩領)が加わった。
秋月藩
- 筑前国
- 穂波郡のうち - 2村(残部はすべて福岡藩領。以下同)
- 嘉麻郡のうち - 20村(福岡藩に編入)
- 下座郡のうち - 11村
- 夜須郡のうち - 38村
関連項目
関連作品
参考文献
- 児玉幸多・北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1977年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
- 八幡和郎『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社新書、2004年
- 福田千鶴『御家騒動 大名家を揺るがした権力闘争』中公新書、2005年
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