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「瀬戸電気鉄道ホ103形電車」の版間の差分

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{{鉄道車両
{{otheruses|名鉄モ560形電車 (初代)|名鉄モ560形電車 (2代)|北陸鉄道モハ2200形電車}}
|車両名= 瀬戸電気鉄道ホ103形電車<div style="font-size:80%;">名鉄モ560形電車(初代)</div>
'''瀬戸電気鉄道ホ103形電車'''(せとでんきてつどうホ103がたでんしゃ)は、[[名鉄瀬戸線#歴史|瀬戸電気鉄道]](瀬戸電)が新製した同社初の半鋼製[[ボギー台車|四軸ボギー車]]。瀬戸電の[[名古屋鉄道]](名鉄)合併後は'''モ560形'''(初代)と改称・改番され、さらに晩年'''モ760形'''と再び改称・改番が行われている。
|社色= #C00029
|画像= Seto Electric Railway ho 107.jpg
|pxl = 280px
|画像説明= ホ103形107(落成時)
|unit= self
|編成両数=
|営業最高速度=
|設計最高速度=
|起動加速度=
|減速度=
|車両定員= 90人(座席35人)
|全長= 14,204 [[ミリメートル|mm]]
|全幅= 2,641 mm
|全高= 3,716 mm{{Refnest|group="注釈"|数値は竣功当初<ref name="NBP-1-1_p234" />。集電装置のパンタグラフ化後の全高は4,296 mm<ref name="RP120_p36" />。}}
|車体材質= 半鋼製
|車両重量= 22.96 [[トン|t]]{{Refnest|group="注釈"|数値はホ103・ホ104<ref name="RP120_p36" />。ホ105以降の自重は23.36 t<ref name="RP120_p36" />。}}
|軌間= 1,067 mm([[狭軌]])
|電気方式= [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])
|主電動機= [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] WH-546-J{{Refnest|group="注釈"|ホ105以降の主電動機はTDK-30-B(定格出力48 PS)<ref name="RML32_p40" />。}}
|主電動機出力= 65 [[馬力#英馬力|PS]]
|搭載数= 4基 / 両
|歯車比= 3.83 (69:18)
|定格速度= 32 [[キロメートル毎時|km/h]]
|駆動装置= [[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]
|制御装置= [[主制御器#電空単位スイッチ式|電空単位スイッチ式]]間接非自動加速制御(HL制御)
|台車= [[ブリル#77E|ブリル77E-1]]
|制動方式= SME[[直通ブレーキ#SME|非常直通ブレーキ]]
|保安装置=
|製造メーカー= [[日本車輌製造]]本店
|備考= 各データは竣功当初<ref name="NBP-1-1_p234" /><ref name="RP473_p114-115" /><ref name="RP473_p175" /><ref name="PRC11_p102" />。歯車比および定格速度はWH-546-J主電動機搭載車の数値を示す<ref name="RML32_p40" />。
}}
'''瀬戸電気鉄道ホ103形電車'''(せとでんきてつどうホ103がたでんしゃ)は、後の[[名鉄瀬戸線]]に相当する路線を敷設・運営した[[名鉄瀬戸線#歴史|瀬戸電気鉄道]](瀬戸電)が、[[1926年]]([[大正]]15年)より導入した[[電車]]([[動力車|制御電動車]])である。


瀬戸電の運営路線の低い[[プラットホーム]]高に対応するため<ref name="RP248_p60" />、落成当初は瀬戸電保有の従来車と同じく、客用扉下部のステップが[[軌条]]面に近い位置まで引き下げられて設置されており、[[併用軌道|軌道線]]用車両([[路面電車]])のような外観を特徴とした<ref name="PRC11_p102" />。
{{Double image aside|right|Meitetsu-mo766 01.jpg|200|Meitetsu-mo766 02.jpg|200|モ766(瀬戸市民公園にて静態保存)}}


瀬戸電は[[1939年]]([[昭和]]14年)に[[名古屋鉄道]](名鉄)へ吸収合併され、名鉄への継承後は形式称号が'''モ560形'''(初代)と改められた<ref name="PRC11_p102" />。さらに後年'''モ760形'''と再び形式称号を改め、[[1978年]](昭和53年)まで運用された<ref name="PRC11_p102" />。
== 概要 ==
ホ103 - 112の10両が在籍した。製造時期により主電動機の仕様等、一部に差異が生じている。製造当初の形態は路面電車に近く、大型のステップを有していたが、瀬戸電の名鉄への吸収合併後の[[1949年]]([[昭和]]24年)頃に[[プラットホーム]]のかさ上げが行われ、ステップの撤去、車体、扉の一部が切り取られるなどの改良が加えられている。同時期には[[集電装置]]もポールからパンダグラフに換装された。


以下、本項では瀬戸電ホ103形として導入された車両形式を「本形式」と記述する。
後年、半数の車両は[[北恵那鉄道線|北恵那鉄道]]に譲渡され、同社の全線廃止まで使用された。


==沿革==
== 導入経緯 ==
瀬戸電気鉄道(瀬戸電)は輸送力増強を目的として、前年の[[1925年]](大正14年)に導入された木造[[ボギー台車|2軸ボギー車]]の[[瀬戸電気鉄道ホ101形電車|ホ101形]]2両に引き続き<ref name="PRC11_p102" />、1926年(大正15年)3月にホ103・ホ104の2両を導入した。本形式はホ101形より2軸ボギー構造を継承したものの<ref name="RP473_p175" />、車体主要部分を[[炭素鋼|普通鋼]]製とした半鋼製車体を瀬戸電において初めて採用した<ref name="RP249_p57" />。
[[1926年]]([[大正]]15年)にホ103・104の2両が[[日本車輌製造]]で新製された。その後[[1928年]](昭和3年)にホ105 - 110の6両が、1929年(昭和4年)にはホ111・112の2両が増備され、全10両の陣容となった。[[1939年]](昭和14年)に瀬戸電気鉄道が名鉄に合併された際、'''モ560形'''(初代)561 - 570と改称・改番された。


その後、翌[[1927年]](昭和2年)5月にホ105 - ホ108の4両が、[[1928年]](昭和3年)8月にホ109・ホ110の2両が、[[1929年]](昭和4年)3月にホ111・ホ112の2両がそれぞれ増備され<ref name="NBP-1-1_p234" />、本形式はホ103 - ホ112の計10両が導入された<ref name="RP473_p175" />。製造はいずれも[[日本車輌製造]]本店が担当した<ref name="NBP-1-1_p234" />。
[[1964年]](昭和39年)から翌[[1965年]](昭和40年)にかけて、モ561 - 564の4両が名鉄の[[名鉄グループ|子会社]]であった[[北恵那交通|北恵那鉄道]]に譲渡され、同社でも同形式同番号で使用された。名鉄に残存したモ565 - 570はそれと前後して[[名鉄揖斐線|揖斐線]]・[[名鉄谷汲線|谷汲線]]に転属している。


== 車体 ==
[[名鉄岐阜市内線|岐阜市内線]]の体質改善を目的として、[[1967年]](昭和42年)に廃止された[[北陸鉄道]][[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]]から車齢の若い[[ボギー台車|四軸ボギー車]]を大量に譲り受けた際、譲受車のうち[[北陸鉄道モハ2200形電車|モハ2200形]]がモ560形(2代)として導入されたため、本形式は'''モ760形'''765 - 770と改称・改番された。
車体長13,410 [[ミリメートル|mm]]・車体幅2,560 mmの半鋼製車体を備える<ref name="NBP-1-1_p234" />。前後各妻面に運転台を備える両運転台仕様で、妻面構造は前後とも貫通扉を持たない非貫通構造とした<ref name="NBP-1-1_p234" />。前後各妻面には673 mm幅の前面窓を3枚均等配置し、妻面および側面の窓上下部には補強帯([[ウィンドウ・シル/ヘッダー|ウィンドウシル・ヘッダー]])を設置した<ref name="NBP-1-1_p234" />。


前照灯は[[白熱電球|白熱灯]]式のものを中央窓下腰板部へ前後各1灯設置し、また[[尾灯|後部標識灯]]は前面向かって左下の腰板下部へ前後各1灯設置した<ref name="RP473_p114-115" />。後年、前照灯は屋根上に移設され、また後部標識灯は前面向かって右下の腰板下部にも増設された<ref name="RP473_p175" />。
以降も順次廃車が進み、その内モ765は[[1973年]](昭和48年)に北恵那鉄道に譲渡され、既に同社へ譲渡されていた同形車の続番であるモ565と改番された。


側面には3箇所の片開式客用扉と、各客用扉間に前面窓と同じく673 mm幅の2段式側窓を6枚、それぞれ配置した<ref name="NBP-1-1_p234" />。客用扉幅は両端扉が890 mmであるのに対して、中央扉は820 mmと異なる<ref name="NBP-1-1_p234" />。[[構体 (鉄道車両)#側面窓配置|側面窓配置]]はD 6 D 6 D(D:客用扉、各数値は側窓の枚数)で、乗務員扉は設置されていない<ref name="NBP-1-1_p234" />。前述の通り、プラットホーム高の関係から各客用扉の下部には大型の内蔵ステップを備える<ref name="NBP-1-1_p234" />。客用扉の下端部は軌条面より380 mmとし、車内床面との間に2段式の階段状のステップを設置した<ref name="NBP-1-1_p234" />。
[[1978年]](昭和53年)9月18日、北恵那鉄道線が廃止され北恵那鉄道に譲渡された車両は廃車となる。また同年に、揖斐線に残った最後の2両(766・767)も瀬戸線の架線電圧1500V昇圧による車両配転により廃車された。


屋根上には[[ベンチレーター#吸い出し式|ガーランド形ベンチレーター]](通風器)を1両あたり8基、屋根部左右に4基ずつ二列配置する<ref name="NSC1930S_p14" />。
== 主要諸元 ==
データは北恵那鉄道モ560形(561 - 565)


車内座席は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]仕様で、車内側窓上に網棚を、天井部には吊り革をそれぞれ設置した<ref name="NBP-1-1_p234" />。車内照明は白熱灯仕様で、天井部へ1両あたり6基設置した<ref name="NBP-1-1_p234" />。
*全長:14,204mm
*全幅:2,641mm
*全高:4,121mm
*自量:
:23.15t(561・562)
:23.55t(563・564・565)
*定員:90人(内座席28人)
*電気方式:直流600V(架空電車線方式)
*主電動機:
:[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]WH546J形(65kW)×4基 (561・562)
:[[東洋電機製造|東洋電機]]30B形(48.5kW)×4基 (563・564・565)
*台車:[[ブリル]]77E1


== 現在 ==
== 主要機器 ==
基本的に先行して導入されたホ101形の仕様を踏襲した<ref name="CB521_p126" />。
*北恵那鉄道に譲渡された車両のうち3両が、以下の北恵那交通のバス待合室に使用されたが、解体され現存していない。

:561 [[下付知駅|下付知]]
[[主制御器|制御装置]]は[[ウェスティングハウス・エレクトリック]] (WH) 社の原設計による[[主制御器#電空単位スイッチ式|電空単位スイッチ式]][[主制御器#手動進段|間接非自動加速制御器]](HL制御器)を採用する<ref name="RP473_p175" />。
:562・564 [[山之田川駅|山之田川]]

*565は[[愛知県]]のレストランに展示されていたというが、1990年頃解体されている。
主電動機は[[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]]を1両あたり4基搭載するが、製造時期によって機種が異なり<ref name="RML32_p40" />、ホ103・ホ104の搭載する主電動機はウェスティングハウス・エレクトリックWH-546-J(端子電圧600 [[ボルト (単位)|V]]時定格出力65 [[馬力#英馬力|PS]]&#8786;48.49 [[ワット|kW]])、ホ103 - ホ112の搭載する主電動機は[[東洋電機製造]]TDK-30-B(端子電圧600 V時定格出力48 PS&#8786;35.8 kW)である<ref name="RML32_p40" />。駅間距離が短く勾配区間が点在する瀬戸電の路線条件に合わせて<ref name="CB521_p126" />、[[歯車比]]は高速性能よりも起動加速および引張力を重視した低速向き(ローギヤード)の設定とされ<ref name="CB521_p126" />、後年の名鉄への継承後は「スピードの出ない電車<ref name="RP473_p175" />」「その鈍足には定評があった<ref name="CB521_p126" />」などと評された。
*揖斐線で廃車された767は、[[岐阜県]][[養老郡]][[養老町]]の[[養老ランド]]に展示されていたが、1988年頃解体されている。766は[[愛知県]][[瀬戸市]]の瀬戸市民公園に静態保存されている。

[[鉄道車両の台車|台車]]は[[ブリル]] (J.G.Brill) 社が開発した郊外電車向けの台車である[[ブリル#77E|77E-1]]を原設計として、日本車輌製造が模倣製造した「日車ブリル77E-1<ref name="NBP-1-1_p234" />」あるいは「ブリル77E-1タイプ<ref name="RML32_p39" />」と称される台車(固定軸間距離1,900 mm・車輪径864 mm<ref name="RP473_p114-115" />)を装着する<ref name="RP473_p175" />。

制動装置は、常用制動として構造の簡易な[[直通ブレーキ]]に非常弁を付加したSME[[直通ブレーキ#SME|非常直通ブレーキ]]を採用<ref name="CB521_p126" />、その他[[手ブレーキ|手用制動]]を併設する<ref name="NSC1930S_p14" />。

[[集電装置]]は[[集電装置#トロリーポール|トロリーポール]]を採用、屋根上に前後各1基搭載する<ref name="RP473_p114-115" />。この集電装置は名鉄への継承後に「名鉄式Yゲル」と称する[[集電装置#Yゲル|Y字型ビューゲル]]へ換装され、さらに後年[[集電装置#菱形|菱形パンタグラフ]]に換装された<ref name="PRC11_p102" />。

[[連結器]]は[[連結器#並形自動連結器|並形自動連結器]]を採用、前後妻面下部に装着する<ref name="NSC1930S_p14" />。

== 運用 ==
[[画像:M0766-岐阜工場.jpg|thumb|190px|現役最晩年のモ766<br />(旧ホ103形108)]]
導入後は既存の車両形式とともに運用された。その後、瀬戸電気鉄道は[[陸上交通事業調整法]]を背景とした地域交通統合の時流に沿う形で1939年(昭和14年)9月1日付で名鉄へ吸収合併され<ref name="RP473_p75" />、本形式は名鉄への継承に際して'''モ560形'''(初代)と形式称号を改め、[[鉄道の車両番号|記号番号]]はホ103 - ホ112の旧番順にモ561 - モ570(モ561 - モ566は初代)と改番された<ref name="RP249_p57" />。

戦後の[[1949年]](昭和24年)に瀬戸線内のプラットホーム嵩上げ工事が実施され、その完成に伴って本形式全車の客用扉下部の大型内蔵ステップの切り上げ改造が施工された<ref name="RP248_p60" />。この改造は、客用扉下端部を原形より510 mm切り上げ、軌条面より890 mmとしてステップを1段化し<ref name="RML32_p40" />、客用扉・ステップおよび戸袋窓の下部を切り取り撤去するもので<ref name="RP248_p65" />、施工後は従来の路面電車然とした印象は一掃され、郊外電車のスタイルに変化した<ref name="PRC11_p102" />。

その後、東洋電機製造TDK-30-B主電動機を搭載したモ563 - モ570について、他形式の廃車または電装解除により発生したウェスティングハウス・エレクトリックWH-546-J主電動機を転用して順次換装を実施し<ref name="RP120_p33" />、本形式は全車とも仕様が統一された<ref name="RP248_p65" />。

[[1962年]](昭和37年)6月に、モ564 - モ570の5両が[[名鉄揖斐線|揖斐線]]系統へ転属した<ref name="RML130_p11" />。さらに[[1964年]](昭和39年)7月にはモ561 - モ564の4両が名鉄の[[名鉄グループ|子会社]]であった北恵那鉄道(現・[[北恵那交通]])へ譲渡され<ref name="RML32_p39" />(詳細は[[#譲渡車両(北恵那鉄道モ560形)|後述]])、残るモ565も同年10月に揖斐線系統へ転属した<ref name="JTBC-R131_p142" />。この結果、本形式は瀬戸線の運用から撤退し、名鉄に残存した6両は全車揖斐線系統へ集約された<ref name="RML130_p11" />。

名鉄は、軌道線区である[[名鉄岐阜市内線|岐阜市内線]]の運用車両近代化を目的として、[[1967年]](昭和42年)に[[北陸鉄道]]より廃止された同社[[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]]にて運用されていた経年の浅い2軸ボギー車各形式を譲り受けた<ref name="RML130_p28-29" />。その際、北陸鉄道からの譲渡車両の形式を500番台で統一する目的で<ref name="RML130_p28-29" />、本形式はモ560形(2代、元[[北陸鉄道モハ2200形電車|北陸鉄道モハ2200形]])に形式称号・記号番号を譲り、'''モ760形'''765 - 770(モ770は初代)と形式称号および記号番号を改めた<ref name="RML130_p11" />。

その後、経年による老朽化のため<ref name="RP248_p60" />、[[1968年]](昭和43年)8月22日付でモ768・モ770が<ref name="PRC11_p179" />、[[1970年]](昭和45年)7月27日付でモ769が<ref name="PRC11_p179" />、[[1973年]](昭和48年)12月25日付でモ765が<ref name="PRC11_p179" />それぞれ[[廃車 (鉄道)|除籍]]された。このうち、モ765のみはモ561 - モ564と同じく北恵那鉄道へ譲渡された。

残るモ766・モ767はHL制御の[[制御車]]である[[名古屋鉄道デセホ700形電車|ク2150形(2代)]]・[[名鉄ク2180形電車|ク2180形]]と編成を組成して運用された<ref name="Titech-guide4_p222-223" />。その後、1978年(昭和53年)3月の瀬戸線の架線電圧1,500 V昇圧工事完成に伴って余剰となった[[名古屋鉄道デセホ700形電車|モ700形・モ750形]]および[[愛知電気鉄道電7形電車|ク2320形]]の揖斐線系統への転用によって代替されることとなり<ref name="Titech-guide4_p222-223" />、モ766・モ767とも1978年(昭和53年)10月2日付で除籍された<ref name="PRC11_p179" />。これにより、瀬戸電ホ103形として導入された車両群は全廃となった<ref name="PRC11_p102" />。

== 譲渡車両(北恵那鉄道モ560形) ==
北恵那鉄道は、老朽化が進行した木造車[[北恵那鉄道デ1形電車|デ1形]]の代替を目的として<ref name="RML32_p32" />、1964年(昭和39年)7月7日付設計認可にて名鉄よりモ560形561 - 564を譲り受け<ref name="RML32_p39" />、形式称号・記号番号とも名鉄在籍当時のまま運用を開始した<ref name="RP246_p69-70" />。導入に際しては車内照明の[[蛍光灯]]化、車内放送装置および暖房装置の新設が施工された<ref name="RP246_p69-70" />。

前述した起動加速および引張力重視のモ560形の性能は、線内に勾配区間が多く、かつ貨車牽引の[[貨物列車#混合列車|混合列車]]運用が存在した北恵那鉄道においても合致し<ref name="CB521_p126" />、同社路線([[北恵那鉄道線]])における主力車両として運用された<ref name="RML32_p40" />。その後、老朽化した[[鶴見臨港鉄道の電車#モハ110形(モハ100形)|デ8形]]および[[名岐鉄道デボ300形電車|モ300形]]の代替を目的として<ref name="RML32_p40" />、名鉄モ765が1973年(昭和48年)12月に譲渡されて北恵那鉄道モ565となり、モ560形は全5両となった<ref name="RML32_p39" />。

[[1960年代]]後半より、北恵那鉄道線は[[モータリゼーション]]の進行や沿線人口の減少などの影響により利用客が激減した<ref name="RML32_p8-9" />。[[1972年]](昭和47年)1月には日中の列車運行を休止して[[路線バス|バス]]による代行輸送を実施するなど合理化を図ったものの効果はなく<ref name="RML32_p8-9" />、1978年(昭和53年)9月18日をもって北恵那鉄道線は[[廃線|全線廃止]]され<ref name="RML32_p8-9" />、モ560形を含む保有車両も全車廃車となった<ref name="RML32_p30-31" />。

== 保存車両 ==
{{multiple image
| align = right
| footer = モ760形766(元ホ103形108、瀬戸市民公園にて静態保存)

| image1 = Meitetsu-mo766 01.jpg
| width1 = 190

| image2 = Meitetsu-mo766 02.jpg
| width2 = 190

}}
名鉄に最後まで残存した2両は、モ766が[[愛知県]][[瀬戸市]]の瀬戸市民公園にて、モ767が[[岐阜県]][[養老郡]][[養老町]]の[[養老ランド]]にてそれぞれ[[静態保存]]された<ref name="PRC11_p105" />。このうち、モ766については[[2010年]]([[平成]]22年)6月現在も現存する<ref name="RML130_p11" />。

また、北恵那鉄道に譲渡された5両は、路線廃止後解体処分されたモ563を除く4両が何らかの形で再利用された<ref name="RML32_p30-31" />。

* モ561 - 北恵那交通のバス待合室へ転用、[[下付知駅|下付知駅跡]]に設置<ref name="RP370_p110-111" />
* モ562・モ564 - 同上、[[山之田川駅|山之田川駅跡]]に設置<ref name="RP370_p110-111" />
* モ565 - [[名古屋市]]内のレストランにて静態保存<ref name="RP370_p110-111" />

これらは後年いずれも撤去処分され、現存しない<ref name="RML32_p30-31" />。
{{-}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="NSC1930S_p14">[[#NSC1930S|『日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)』 p.14]]</ref>
<ref name="Titech-guide4_p222-223">[[#Titech-guide4|『私鉄電車ガイドブック4 相鉄・横浜市・名鉄・名古屋市』 pp.222 - 223]]</ref>
<ref name="CB521_p126">[[#CB521|『日本の私鉄4 名鉄』 p.126]]</ref>
<ref name="PRC11_p102">[[#PRC11|『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.102]]</ref>
<ref name="PRC11_p105">[[#PRC11|『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.105]]</ref>
<ref name="PRC11_p179">[[#PRC11|『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.179]]</ref>
<ref name="NBP-1-1_p234">[[#NBP-1-1|『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 上』 p.234]]</ref>
<ref name="RML32_p8-9">[[#RML32|『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 pp.8 - 9]]</ref>
<ref name="RML32_p30-31">[[#RML32|『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 pp.30 - 31]]</ref>
<ref name="RML32_p32">[[#RML32|『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 p.32]]</ref>
<ref name="RML32_p39">[[#RML32|『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 p.39]]</ref>
<ref name="RML32_p40">[[#RML32|『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 p.40]]</ref>
<ref name="RML130_p11">[[#RML130|『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 p.11]]</ref>
<ref name="RML130_p28-29">[[#RML130|『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 pp.28 - 29]]</ref>
<ref name="JTBC-R131_p142">[[#JTBC-R131|『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 p.142]]</ref>
<ref name="RP120_p33">[[#RP120_p32-39|「私鉄車両めぐり(46) 名古屋鉄道 補遺」 (1961) p.33]]</ref>
<ref name="RP120_p36">[[#RP120_p32-39|「私鉄車両めぐり(46) 名古屋鉄道 補遺」 (1961) p.36]]</ref>
<ref name="RP246_p69-70">[[#RP246_p69-70|「他社で働く元名鉄車両」 (1971) pp.69 - 70]]</ref>
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}}

== 参考資料 ==
=== 書籍 ===
* {{Anchor|NSC1930S|日本車輛製造 『日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)』 日本車輛製造 1928年}}
* {{Anchor|Titech-guide4|[[東京工業大学]]鉄道研究部 『私鉄電車ガイドブック4 相鉄・横浜市・名鉄・名古屋市』 [[誠文堂新光社]] 1978年11月}}
* {{Anchor|CB521|[[白井昭]]・白井良和・井上広和 『日本の私鉄4 名鉄』 [[保育社]] 1982年8月 ISBN 4-586-50521-4}}
* {{Anchor|PRC11|白井良和 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 [[保育社]] 1985年12月 ISBN 4-586-53211-4}}
* {{Anchor|NBP-1-1|日本車両鉄道同好部 鉄道史資料保存会 編著 『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 上』 [[鉄道史資料保存会]] 1996年6月}}
* {{Anchor|RML32|清水武 『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 [[ネコ・パブリッシング]] 2002年3月 ISBN 4-87366-267-2}}
* {{Anchor|RML130|清水武 『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 ネコ・パブリッシング 2010年6月 ISBN 4-7770-5287-7}}
* {{Anchor|JTBC-R131|[[徳田耕一]] 『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 [[JTBパブリッシング]] 2013年5月 ISBN 4-533-09166-0}}

=== 雑誌記事 ===
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]
** {{Anchor|RP120_p32-39|渡辺肇 「私鉄車両めぐり(46) 名古屋鉄道 補遺」 1961年7月号(通巻120号) pp.32 - 39}}
** {{Anchor|RP246_p69-70|渡辺英彦・鈴木鋼一・山口宏一 「他社で働く元名鉄車両」 1971年1月号(通巻246号) pp.69 - 70}}
** {{Anchor|RP248_p60-65|渡辺肇・加藤久爾夫 「私鉄車両めぐり(87) 名古屋鉄道 3」 1971年3月号(通巻248号) pp.60 - 65}}
** {{Anchor|RP249_p54-65|渡辺肇・加藤久爾夫 「私鉄車両めぐり(87) 名古屋鉄道 終」 1971年4月号(通巻249号) pp.54 - 65}}
** {{Anchor|RP370_p110-112|渡辺英彦 「他社で働く元名鉄車両」 1979年12月臨時増刊号(通巻370号) pp.110 - 112}}
** {{Anchor|RP473_p65-81|[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]] 「名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.65 - 81}}
** {{Anchor|RP473_p114-115|小山徹 「『せとでん』の思い出」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.114 - 115}}
** {{Anchor|RP473_p166-176|白井良和 「名古屋鉄道の車両前史 現在の名鉄を構成した各社の車両」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.166 - 176}}


{{名古屋鉄道の前身事業者が導入した車両}}
{{名古屋鉄道の前身事業者が導入した車両}}

2014年9月28日 (日) 15:07時点における版

瀬戸電気鉄道ホ103形電車
名鉄モ560形電車(初代)
ホ103形107(落成時)
基本情報
製造所 日本車輌製造本店
主要諸元
軌間 1,067 mm(狭軌
電気方式 直流600 V架空電車線方式
車両定員 90人(座席35人)
車両重量 22.96 t[注釈 1]
全長 14,204 mm
全幅 2,641 mm
全高 3,716 mm[注釈 3]
車体 半鋼製
台車 ブリル77E-1
主電動機 直流直巻電動機 WH-546-J[注釈 2]
主電動機出力 65 PS
搭載数 4基 / 両
駆動方式 吊り掛け駆動
歯車比 3.83 (69:18)
定格速度 32 km/h
制御装置 電空単位スイッチ式間接非自動加速制御(HL制御)
制動装置 SME非常直通ブレーキ
備考 各データは竣功当初[3][4][5][6]。歯車比および定格速度はWH-546-J主電動機搭載車の数値を示す[2]
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瀬戸電気鉄道ホ103形電車(せとでんきてつどうホ103がたでんしゃ)は、後の名鉄瀬戸線に相当する路線を敷設・運営した瀬戸電気鉄道(瀬戸電)が、1926年大正15年)より導入した電車制御電動車)である。

瀬戸電の運営路線の低いプラットホーム高に対応するため[7]、落成当初は瀬戸電保有の従来車と同じく、客用扉下部のステップが軌条面に近い位置まで引き下げられて設置されており、軌道線用車両(路面電車)のような外観を特徴とした[6]

瀬戸電は1939年昭和14年)に名古屋鉄道(名鉄)へ吸収合併され、名鉄への継承後は形式称号がモ560形(初代)と改められた[6]。さらに後年モ760形と再び形式称号を改め、1978年(昭和53年)まで運用された[6]

以下、本項では瀬戸電ホ103形として導入された車両形式を「本形式」と記述する。

導入経緯

瀬戸電気鉄道(瀬戸電)は輸送力増強を目的として、前年の1925年(大正14年)に導入された木造2軸ボギー車ホ101形2両に引き続き[6]、1926年(大正15年)3月にホ103・ホ104の2両を導入した。本形式はホ101形より2軸ボギー構造を継承したものの[5]、車体主要部分を普通鋼製とした半鋼製車体を瀬戸電において初めて採用した[8]

その後、翌1927年(昭和2年)5月にホ105 - ホ108の4両が、1928年(昭和3年)8月にホ109・ホ110の2両が、1929年(昭和4年)3月にホ111・ホ112の2両がそれぞれ増備され[3]、本形式はホ103 - ホ112の計10両が導入された[5]。製造はいずれも日本車輌製造本店が担当した[3]

車体

車体長13,410 mm・車体幅2,560 mmの半鋼製車体を備える[3]。前後各妻面に運転台を備える両運転台仕様で、妻面構造は前後とも貫通扉を持たない非貫通構造とした[3]。前後各妻面には673 mm幅の前面窓を3枚均等配置し、妻面および側面の窓上下部には補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)を設置した[3]

前照灯は白熱灯式のものを中央窓下腰板部へ前後各1灯設置し、また後部標識灯は前面向かって左下の腰板下部へ前後各1灯設置した[4]。後年、前照灯は屋根上に移設され、また後部標識灯は前面向かって右下の腰板下部にも増設された[5]

側面には3箇所の片開式客用扉と、各客用扉間に前面窓と同じく673 mm幅の2段式側窓を6枚、それぞれ配置した[3]。客用扉幅は両端扉が890 mmであるのに対して、中央扉は820 mmと異なる[3]側面窓配置はD 6 D 6 D(D:客用扉、各数値は側窓の枚数)で、乗務員扉は設置されていない[3]。前述の通り、プラットホーム高の関係から各客用扉の下部には大型の内蔵ステップを備える[3]。客用扉の下端部は軌条面より380 mmとし、車内床面との間に2段式の階段状のステップを設置した[3]

屋根上にはガーランド形ベンチレーター(通風器)を1両あたり8基、屋根部左右に4基ずつ二列配置する[9]

車内座席はロングシート仕様で、車内側窓上に網棚を、天井部には吊り革をそれぞれ設置した[3]。車内照明は白熱灯仕様で、天井部へ1両あたり6基設置した[3]

主要機器

基本的に先行して導入されたホ101形の仕様を踏襲した[10]

制御装置ウェスティングハウス・エレクトリック (WH) 社の原設計による電空単位スイッチ式間接非自動加速制御器(HL制御器)を採用する[5]

主電動機は直流直巻電動機を1両あたり4基搭載するが、製造時期によって機種が異なり[2]、ホ103・ホ104の搭載する主電動機はウェスティングハウス・エレクトリックWH-546-J(端子電圧600 V時定格出力65 PS≒48.49 kW)、ホ103 - ホ112の搭載する主電動機は東洋電機製造TDK-30-B(端子電圧600 V時定格出力48 PS≒35.8 kW)である[2]。駅間距離が短く勾配区間が点在する瀬戸電の路線条件に合わせて[10]歯車比は高速性能よりも起動加速および引張力を重視した低速向き(ローギヤード)の設定とされ[10]、後年の名鉄への継承後は「スピードの出ない電車[5]」「その鈍足には定評があった[10]」などと評された。

台車ブリル (J.G.Brill) 社が開発した郊外電車向けの台車である77E-1を原設計として、日本車輌製造が模倣製造した「日車ブリル77E-1[3]」あるいは「ブリル77E-1タイプ[11]」と称される台車(固定軸間距離1,900 mm・車輪径864 mm[4])を装着する[5]

制動装置は、常用制動として構造の簡易な直通ブレーキに非常弁を付加したSME非常直通ブレーキを採用[10]、その他手用制動を併設する[9]

集電装置トロリーポールを採用、屋根上に前後各1基搭載する[4]。この集電装置は名鉄への継承後に「名鉄式Yゲル」と称するY字型ビューゲルへ換装され、さらに後年菱形パンタグラフに換装された[6]

連結器並形自動連結器を採用、前後妻面下部に装着する[9]

運用

現役最晩年のモ766
(旧ホ103形108)

導入後は既存の車両形式とともに運用された。その後、瀬戸電気鉄道は陸上交通事業調整法を背景とした地域交通統合の時流に沿う形で1939年(昭和14年)9月1日付で名鉄へ吸収合併され[12]、本形式は名鉄への継承に際してモ560形(初代)と形式称号を改め、記号番号はホ103 - ホ112の旧番順にモ561 - モ570(モ561 - モ566は初代)と改番された[8]

戦後の1949年(昭和24年)に瀬戸線内のプラットホーム嵩上げ工事が実施され、その完成に伴って本形式全車の客用扉下部の大型内蔵ステップの切り上げ改造が施工された[7]。この改造は、客用扉下端部を原形より510 mm切り上げ、軌条面より890 mmとしてステップを1段化し[2]、客用扉・ステップおよび戸袋窓の下部を切り取り撤去するもので[13]、施工後は従来の路面電車然とした印象は一掃され、郊外電車のスタイルに変化した[6]

その後、東洋電機製造TDK-30-B主電動機を搭載したモ563 - モ570について、他形式の廃車または電装解除により発生したウェスティングハウス・エレクトリックWH-546-J主電動機を転用して順次換装を実施し[14]、本形式は全車とも仕様が統一された[13]

1962年(昭和37年)6月に、モ564 - モ570の5両が揖斐線系統へ転属した[15]。さらに1964年(昭和39年)7月にはモ561 - モ564の4両が名鉄の子会社であった北恵那鉄道(現・北恵那交通)へ譲渡され[11](詳細は後述)、残るモ565も同年10月に揖斐線系統へ転属した[16]。この結果、本形式は瀬戸線の運用から撤退し、名鉄に残存した6両は全車揖斐線系統へ集約された[15]

名鉄は、軌道線区である岐阜市内線の運用車両近代化を目的として、1967年(昭和42年)に北陸鉄道より廃止された同社金沢市内線にて運用されていた経年の浅い2軸ボギー車各形式を譲り受けた[17]。その際、北陸鉄道からの譲渡車両の形式を500番台で統一する目的で[17]、本形式はモ560形(2代、元北陸鉄道モハ2200形)に形式称号・記号番号を譲り、モ760形765 - 770(モ770は初代)と形式称号および記号番号を改めた[15]

その後、経年による老朽化のため[7]1968年(昭和43年)8月22日付でモ768・モ770が[18]1970年(昭和45年)7月27日付でモ769が[18]1973年(昭和48年)12月25日付でモ765が[18]それぞれ除籍された。このうち、モ765のみはモ561 - モ564と同じく北恵那鉄道へ譲渡された。

残るモ766・モ767はHL制御の制御車であるク2150形(2代)ク2180形と編成を組成して運用された[19]。その後、1978年(昭和53年)3月の瀬戸線の架線電圧1,500 V昇圧工事完成に伴って余剰となったモ700形・モ750形およびク2320形の揖斐線系統への転用によって代替されることとなり[19]、モ766・モ767とも1978年(昭和53年)10月2日付で除籍された[18]。これにより、瀬戸電ホ103形として導入された車両群は全廃となった[6]

譲渡車両(北恵那鉄道モ560形)

北恵那鉄道は、老朽化が進行した木造車デ1形の代替を目的として[20]、1964年(昭和39年)7月7日付設計認可にて名鉄よりモ560形561 - 564を譲り受け[11]、形式称号・記号番号とも名鉄在籍当時のまま運用を開始した[21]。導入に際しては車内照明の蛍光灯化、車内放送装置および暖房装置の新設が施工された[21]

前述した起動加速および引張力重視のモ560形の性能は、線内に勾配区間が多く、かつ貨車牽引の混合列車運用が存在した北恵那鉄道においても合致し[10]、同社路線(北恵那鉄道線)における主力車両として運用された[2]。その後、老朽化したデ8形およびモ300形の代替を目的として[2]、名鉄モ765が1973年(昭和48年)12月に譲渡されて北恵那鉄道モ565となり、モ560形は全5両となった[11]

1960年代後半より、北恵那鉄道線はモータリゼーションの進行や沿線人口の減少などの影響により利用客が激減した[22]1972年(昭和47年)1月には日中の列車運行を休止してバスによる代行輸送を実施するなど合理化を図ったものの効果はなく[22]、1978年(昭和53年)9月18日をもって北恵那鉄道線は全線廃止され[22]、モ560形を含む保有車両も全車廃車となった[23]

保存車両

モ760形766(元ホ103形108、瀬戸市民公園にて静態保存)

名鉄に最後まで残存した2両は、モ766が愛知県瀬戸市の瀬戸市民公園にて、モ767が岐阜県養老郡養老町養老ランドにてそれぞれ静態保存された[24]。このうち、モ766については2010年平成22年)6月現在も現存する[15]

また、北恵那鉄道に譲渡された5両は、路線廃止後解体処分されたモ563を除く4両が何らかの形で再利用された[23]

これらは後年いずれも撤去処分され、現存しない[23]

脚注

注釈

  1. ^ 数値はホ103・ホ104[1]。ホ105以降の自重は23.36 t[1]
  2. ^ ホ105以降の主電動機はTDK-30-B(定格出力48 PS)[2]
  3. ^ 数値は竣功当初[3]。集電装置のパンタグラフ化後の全高は4,296 mm[1]

出典

  1. ^ a b c 「私鉄車両めぐり(46) 名古屋鉄道 補遺」 (1961) p.36
  2. ^ a b c d e f g 『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 p.40
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日車の車輌史 図面集 - 戦前私鉄編 上』 p.234
  4. ^ a b c d 「『せとでん』の思い出」 (1986) pp.114 - 115
  5. ^ a b c d e f g 「名古屋鉄道の車両前史 現在の名鉄を構成した各社の車両」 (1986) p.175
  6. ^ a b c d e f g h 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.102
  7. ^ a b c 「私鉄車両めぐり(87) 名古屋鉄道 3」(1971) p.60
  8. ^ a b 「私鉄車両めぐり(87) 名古屋鉄道 終」(1971) p.57
  9. ^ a b c 『日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)』 p.14
  10. ^ a b c d e f 『日本の私鉄4 名鉄』 p.126
  11. ^ a b c d 『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 p.39
  12. ^ 「名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-」 (1986) p.75
  13. ^ a b 「私鉄車両めぐり(87) 名古屋鉄道 3」(1971) p.65
  14. ^ 「私鉄車両めぐり(46) 名古屋鉄道 補遺」 (1961) p.33
  15. ^ a b c d 『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 p.11
  16. ^ 『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 p.142
  17. ^ a b 『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 pp.28 - 29
  18. ^ a b c d 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.179
  19. ^ a b 『私鉄電車ガイドブック4 相鉄・横浜市・名鉄・名古屋市』 pp.222 - 223
  20. ^ 『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 p.32
  21. ^ a b 「他社で働く元名鉄車両」 (1971) pp.69 - 70
  22. ^ a b c 『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 pp.8 - 9
  23. ^ a b c 『RM LIBRARY32 北恵那鉄道』 pp.30 - 31
  24. ^ 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.105
  25. ^ a b c 「他社で働く元名鉄車両」 (1979) pp.110 - 111

参考資料

書籍

雑誌記事

  • 鉄道ピクトリアル鉄道図書刊行会
    • 渡辺肇 「私鉄車両めぐり(46) 名古屋鉄道 補遺」 1961年7月号(通巻120号) pp.32 - 39
    • 渡辺英彦・鈴木鋼一・山口宏一 「他社で働く元名鉄車両」 1971年1月号(通巻246号) pp.69 - 70
    • 渡辺肇・加藤久爾夫 「私鉄車両めぐり(87) 名古屋鉄道 3」 1971年3月号(通巻248号) pp.60 - 65
    • 渡辺肇・加藤久爾夫 「私鉄車両めぐり(87) 名古屋鉄道 終」 1971年4月号(通巻249号) pp.54 - 65
    • 渡辺英彦 「他社で働く元名鉄車両」 1979年12月臨時増刊号(通巻370号) pp.110 - 112
    • 青木栄一 「名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.65 - 81
    • 小山徹 「『せとでん』の思い出」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.114 - 115
    • 白井良和 「名古屋鉄道の車両前史 現在の名鉄を構成した各社の車両」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.166 - 176