円融天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
圓融天皇から転送)
移動先: 案内検索
円融天皇

元号 安和
天禄
天延
貞元
天元
永観
先代 冷泉天皇
次代 花山天皇

誕生 959年4月12日
崩御 991年3月1日
円融寺
陵所 後村上陵
守平
別称 金剛法(法名)
朱雀院上皇
父親 村上天皇
母親 藤原安子
中宮 藤原媓子
藤原遵子
女御 藤原詮子
尊子内親王
子女 一条天皇
テンプレートを表示

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日969年11月5日) - 永観2年旧8月27日984年9月24日))は、第64代天皇守平(もりひら)。

村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子冷泉天皇の同母弟。

略歴[編集]

村上天皇の第五皇子、中宮安子所生の3番目の皇子として誕生する。冷泉天皇・為平親王の2人の同母兄のほか、4人の同母姉妹がおり、特にすぐ上の同母姉資子内親王と仲がよく、即位後に資子内親王を一品准三后とした。応和4年(964年)、幼くして母・安子を亡くす。

兄である冷泉天皇即位後、3か月余りにわたる皇太子不在の後、康保4年(967年)9月1日、9歳にして、同母兄の為平親王を差し置いて立太子。これは為平親王が源高明の娘を妃にしていたため、これを警戒した藤原氏の意を受けたものと考えられている。安和2年(969年安和の変で源高明が失脚すると、その5ヶ月後冷泉天皇の譲位を受けて即位する。

即位時はまだ数え11だったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼摂政に就任。天禄元年(970年)に実頼が薨去すると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ。同3年(972年)、伊尹が在職一年あまりで薨去すると、その弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って熾烈なる争いが始まったが、天皇は亡母の遺訓に従って兼通を関白に任じた。翌4年(973年)、兼通の娘・媓子を入内させ中宮とする。貞元2年(977年)に関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任とした。これは兼通の権勢に従ったものと考えられるが、兼家が当時天皇の兄である冷泉上皇には長女・超子を入内させていたにも関わらず、天皇である自分の許には娘を入内させていなかったために、天皇自身も兼家に含むところがあり、娘・遵子を入内させていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もある。

その後兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)6月に女御となった詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けた。しかしそれにもかかわらず、前年天元2年(979年)の中宮媓子の崩御で空いていた中宮には天元5年(982年)になって遵子を冊立した。遵子はこれ以前にも以後にも皇子女を産むことはなく、「素腹の后」とあだ名された。こうした一連の動きに立腹した兼家は、娘の詮子と外孫の懐仁親王をともなって自邸に籠り出仕しなかった。これに対して天皇も2度にわたる内裏の焼失の際には兼家への依存を拒んで、里内裏としたのは関白頼忠邸や譲位後も仙洞御所として使用した故兼通邸の堀河殿で、両者の意地の張り合いは収まらなかった。

こうした藤原氏の勢力争いに翻弄された天皇は、永観2年(984年)懐仁親王の立太子を条件に花山天皇に譲位。その後は比較的自由な上皇の身で、詩歌管絃の遊楽や石清水八幡宮石山寺南都諸寺への御幸を行った。寛和元年(985年)2月13日、紫野において盛大な「子の日の御遊」を催し、平兼盛大中臣能宣清原元輔源重之紀時文らを含む当代の著名歌人和歌を奉らせた。『今昔物語集』巻28にある、曾禰好忠が召されもしないのにみすぼらしい狩衣姿で推参して追い出されたという有名は逸話は、この時の話である。

一条朝では幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれる。摂政兼家と意見が対立することもあったことが、院別当として信頼厚かった藤原実資の『小右記』によって分かる。

和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わる。

在位中の重臣一覧[編集]

系譜[編集]

系図[編集]

 
(60)醍醐天皇
 
(61)朱雀天皇
 
 
広平親王
 
 
 
 
 
 
 
(62)村上天皇
 
 
(63)冷泉天皇
 
(65)花山天皇
 
 
 
 
 
 
 
兼明親王
 
 
致平親王
 
 
(67)三条天皇
 
敦明親王(小一条院)
 
 
 
 
 
 
 
(源)高明
 
 
為平親王
 
 
禎子内親王
(後三条母、陽明門院)
 
 
 
 
 
(64)円融天皇
 
(66)一条天皇
 
(68)後一条天皇
 
 
 
 
 
 
昭平親王
 
 
(69)後朱雀天皇
 
(70)後冷泉天皇
 
 
 
 
 
 
具平親王
 
(源)師房
村上源氏へ〕
 
 
(71)後三条天皇
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

追号・異名[編集]

譲位後は後院の名に因み、朱雀院上皇と記された(『日本紀略』『小右記』『大斎院前の御集』などに散見)。寛和元年(985)8月、寛朝大僧正の授戒により出家し、以後勅願寺である円融寺に住む。よって崩御後「円融院」と追号。

在位中の元号[編集]

陵・霊廟[編集]

円融天皇陵

(みささぎ)は、京都府京都市右京区宇多野福王子町にある後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

遺体は円融寺の北原で火葬に付し、父村上天皇陵の傍らに遺骨が納められた。今日でも龍安寺裏の朱山に円融院火葬塚が残っている。

また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇や皇族とともに円融天皇の霊が祀られている。