藤原時光
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天暦2年(948年) |
死没 | 長和4年10月4日(1015年11月18日) |
別名 | 町尻(号) |
官位 | 従二位、中納言 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇→三条天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流 |
父母 | 父:藤原兼通、母:大江皎子(大江維時の娘) |
兄弟 | 顕光、媓子、時光、朝光、遠光、正光、婉子、親光、用光 |
妻 | 紀貞興の娘 |
子 | 忠任、兼任、朝慶 |
藤原 時光(ふじわら の ときみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の次男。官位は従二位・中納言。
経歴
[編集]右兵衛尉・左近衛将監を経て、円融朝初頭の天禄元年(970年)従五位下に叙爵する。また、天禄4年(973年)春宮大進に任ぜられ、春宮・師貞親王に仕える。
天延2年(974年)父・藤原兼通が関白太政大臣として執政の座に就くと、時光も同年正月に従五位上、11月に正五位下と続けて昇叙され、天延3年(975年)従四位下・蔵人頭兼右近衛権中将と急速に昇進し、天延4年(976年)参議に任ぜられ公卿に列す。貞元2年(977年)3月に従四位上に叙せられるが、同年11月に兼通が没すると昇進は止まってしまう。
議政官の傍らで、左兵衛督・大蔵卿などを兼帯し、この間の永観2年(984年)かつて春宮大進/亮として仕えた師貞親王の即位(花山天皇)に伴って正四位下、永延3年(989年)従三位と昇叙されている。
藤原道長執政下の長徳3年(997年)参議の職20年以上を経てようやく中納言に昇任する。長保3年(1001年)正三位に、三条朝の長和2年(1013年)従二位に至る。長和4年(1015年)10月4日薨去。享年68。最終官位は従二位中納言弾正尹。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 応和4年(964年) 日付不詳:東宮昇殿(春宮:憲平親王)
- 康保2年(965年) 5月11日:右兵衛尉(東宮御給、殿上労)
- 康保4年(967年) 9月5日[注釈 1]:昇殿
- 安和元年(968年) 12月18日:左近衛将監
- 天禄元年(970年) 11月20日:従五位下(大嘗会)
- 天禄3年(972年) 正月24日:美作介。2月19日:甲斐守
- 天禄4年(973年) 正月29日:昇殿、2月19日:春宮大進(春宮・師貞親王)。8月19日:兼少納言
- 天延2年(974年) 正月7日:従五位上(少納言労)。10月11日:春宮亮。11月18日:正五位下(東宮御給、朔旦)
- 天延3年(975年) 正月7日:従四位下(中宮御給)、還昇。11月27日:右近衛権中将、蔵人頭[1]
- 天延4年(976年) 正月28日:兼備前守。12月22日:参議、右中将備前守去之[2]
- 貞元2年(977年) 正月28日:伊予権守。3月26日:従四位上(閑院行幸日)。4月24日:兼左兵衛督
- 天元4年(981年) 日付不詳:止権守
- 天元5年(982年) 正月30日:兼周防権守
- 永観2年(984年) 10月10日:正四位下(御即位日)
- 寛和2年(986年) 日付不詳:止権守
- 永延元年(987年) 7月21日:兼大蔵卿
- 永延3年(989年) 3月7日:従三位
- 永祚2年(990年) 正月29日:兼大和権守
- 正暦5年(994年) 日付不詳:止権守
- 長徳2年(996年) 正月25日:兼備前権守
- 長徳3年(997年) 7月5日:中納言。
- 長保3年(1001年) 正月24日:正三位(納言労)
- 寛弘元年(1004年) 8月29日:兼弾正尹
- 長和2年(1013年) 正月7日:従二位
- 長和4年(1015年) 10月4日:薨去(従二位中納言弾正尹)[3]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 或いは9月4日
出典
[編集]参考文献
[編集]軍職 | ||
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先代 源伊陟 |
左兵衛督 977 - 987 |
次代 源時中 |