六義園

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りくぎえん
六義園
全景
所在地
分類 都立庭園特別名勝
面積 8万7809m2
設備・遊具 集会場(心泉亭)、茶室(宣春亭)
駐車場 なし
告示 1938年10月13日開園
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初夏の六義園 藤代峠からの展望
大雪の蓬莱島

六義園(りくぎえん)は、東京都文京区本駒込六丁目にある都立庭園

概要と沿革[編集]

六義園は、徳川五代将軍徳川綱吉側用人柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。

「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する[1]。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。

1702年(元禄15年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える[2]

柳沢家は次の吉里の代に甲府から大和郡山転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。

明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。

見所[編集]

六義園は躑躅の花が特に有名で、地元では「駒込と言えばツツジの花の咲く街」と謳われるような象徴的な存在となっている。また庭園入口近くにある枝垂桜も、3月末に枝いっぱいの薄紅色の花を咲かせる名木として有名で、この枝垂桜の最盛期と紅葉の最盛期にはライトアップもされる。芝生の整備も行き届いており、都内を代表する日本庭園として名高く、海外からの観光客も多い。

  • 内庭大門(ないてい おおもん)    
  • 出汐之湊(でしおの みなと)
  • 妹山、背山(いもやま、せやま)
  • 臥龍石(がりょうせき)
  • 蓬莱島(ほうらいじま)
  • 石柱(せきちゅう) 
  • 滝見之茶屋(たきみの ちゃや)
  • 躑躅茶屋(つつじ ちゃや)
  • 藤代峠(ふじしろ とうげ)
  • 蛛道(ささかにの みち)
  • 渡月橋(とげつきょう)

アクセスなど[編集]

イベント[編集]

桜と紅葉の見ごろに合わせて日没後のライトアップが行われる。庭園にふさわしい魅力あるライトアップで定評がある。

  • 3月下旬:正門近くの枝垂桜
  • 11月下旬~12月上旬:紅葉

関連項目[編集]

補注[編集]

  1. ^ この「六義」の原典は『詩経』にある漢詩の分類法で、3とおりの体裁「風」「雅」「頌」と、3とおりの表現「賦」「比」「興」からなる。紀貫之はこれを借用して和歌の六体の基調を表した。
  2. ^ その当時将軍世子だった後の六代将軍徳川家宣や、紀州藩主だった後の八代将軍徳川吉宗も、六義園を度々訪れていることが記録されている。
  3. ^ 3月下旬の枝垂桜の時期、ゴールデンウィークの躑躅の時期・11月下旬~12月上旬の紅葉の時期など。

外部リンク[編集]