向島百花園

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向島百花園
Mukojima-Hyakkaen Gardens
Mukujima-hyakkaen 2010-11-10.JPG
向島百花園の位置(東京都区部内)
向島百花園
分類 都立庭園名勝史跡
所在地
座標 北緯35度43分27.1秒 東経139度48分55.6秒 / 北緯35.724194度 東経139.815444度 / 35.724194; 139.815444座標: 北緯35度43分27.1秒 東経139度48分55.6秒 / 北緯35.724194度 東経139.815444度 / 35.724194; 139.815444
面積 8,718.52m2
運営者 東京都公園協会
2011~2015年度指定管理者
設備・遊具 集会場(御成座敷)
告示 1939年7月8日開園
公式サイト 公式ホームページ
向島百花園入場門

向島百花園(むこうじまひゃっかえん)は、東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園で、江戸時代に発祥をもつ花園である。みどころは早春のと秋のである。隅田川七福神の発祥の地であり佐原鞠塢が所有していた、ともいわれる「福禄寿」が祭られている。

沿革[編集]

仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1804年文化元年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「梅は百花にさきがけて咲く」といって「百花園」の命名者であった絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。当初梅園として営まれたが、その後、園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、の草花の美しさで知られた。また、池泉園路建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。

その後も民営の公園としての長い歴史を経たが、明治以降、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け、明治末年頃よりその影響で草木に枯死するものがあり、一時は園地も荒廃したが、のちに東京市に譲渡されて1939年昭和14年)には公営の公園として出発した。

福禄寿尊堂
向島百花園

文化元年(1804)、佐原鞠きく(骨董商の北野屋平兵衛)によって開かれた梅園。開園当初は、大田南畝(幕臣、戯作者1749 - 1823)や加藤千蔭(国学者1735 - 1808)などの文人墨客が集うサロンであったが、秋の七草などの詩歌にゆかりの深い草木類を多彩に植え込み、やがて、江戸の町人文化爛熟期の文人趣味豊かな名園として、庶民に親しまれるようになっていった。臥竜梅で名高い亀戸の梅屋敷に対して、新梅屋敷、花屋敷とも呼ばれた。茶店では、庭でとれた梅干が茶うけに出された。秋の七草と掛行燈が描かれていて、「百花園」と記された印が書き写されている。掛行燈には、千蔭の手蹟といわれる「花やしき御茶きこしめせ梅干もさふろふぞ」の句が見える。

— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「向島百花園」より抜粋[1]

文化財指定[編集]

1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により全焼し、それまで遺っていた往時の建物も焼失してしまった。戦後は跡地を少年向けの野球場にしようという声も出るなか、「百花園」として復興されることとなり、1949年(昭和24年)に再開された。

幾度か変転を経ながらも、園内の景観は今なお旧時の趣きを保っており、文人庭の遺構としても貴重なものである。江戸時代の花園として僅かに今日に遺るものであり、その景観、遺跡ともに重要であるとして、1978年(昭和53年)10月13日、国の史跡および名勝に指定され、保護措置がとられることとなった。

営業時間・入園料・休園日[編集]

営業時間
9:00~17:00(入園は16:30まで)
入園料
一般 150円(中学生以上。65歳以上70円)
休園日
年末・年始(12月29日~翌年1月3日まで)
ただし正月三が日は隅田川七福神巡りのため、無料開放されている。

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「向島百花園」国立国会図書館蔵書、2018年2月9日閲覧

参考文献[編集]

  • 向島百花園サービスセンター編集 『向島百花園創設200年記念 江戸の花屋敷 百花園学入門』 財団法人 東京都公園協会、2008年3月31日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]