与那城ジョージ
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名前 | ||||||
本名 | 与那城 ジョルジ | |||||
愛称 | チグリーニョ、ジョージ | |||||
カタカナ | ヨナシロ ジョージ | |||||
ラテン文字 | YONASHIRO George | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1950年11月28日(73歳) | |||||
出身地 | ブラジル・サンパウロ州 | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 66kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW、MF | |||||
代表歴 | ||||||
1985 | 日本 | 2 (0) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
与那城 ジョージ(よなしろ ジョージ、本名:与那城ジョルジ、1950年11月28日 - )は、ブラジル・サンパウロ州イタリリ市出身の日系二世の元サッカー選手、指導者。
略歴
沖縄県からブラジルに移民した両親の元で5人兄弟の末っ子として生まれ、日系人リーグで活躍する。
1972年に当時日本サッカーリーグ2部の読売クラブに入団。本名はジョルジ与那城 (Jorge Yonashiro) だが、登録名はジョージ与那城(George Yonashiro)にされた(本人談)。同クラブの1部昇格とその後の躍進の立役者として大きく貢献し「ミスター・ヨミウリ」と呼ばれた。1977年にはルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョを日本に呼び寄せている。
ブラジル出身者らしい足元の柔らかいボールコントロールが特徴で異彩を放っていた。またラモスや戸塚哲也らで構成する細かいパスワークは相手を翻弄し、これがヴェルディ川崎から現在の東京ヴェルディへと続くクラブのイメージとしてそのまま受け継がれている。
クラブ側の外国人選手を一人でも多く起用したいという方針により帰化を勧められ、1985年1月に日本に帰化。登録名は与那城ジョージ。帰化当初は日本代表入りは想定していなかったが、森孝慈監督の抜擢により同年に行われたメキシコワールドカップ最終予選2試合に出場した。しかし既に34歳となったジョージはこのワールドカップ予選での戦いを通じて、自分のプレーがトップレベルにないことを実感し、引退を決意した。
引退後は指導者の道へ進み、1986年から読売クラブの監督に就任した。監督経験の無い与那城であったが、ブラジルから招聘したジノ・サニ特別コーチのサポートもあり、監督就任1年目で日本リーグ、天皇杯全日本サッカー選手権大会の二冠を成し遂げた。1989-90シーズン限りで長年過ごした読売を離れ、Jリーグ開幕後は名古屋ヘッドコーチ、京都監督代行等を務めた。
2004年、当時沖縄県1部リーグ所属のFC琉球の監督に就任。1年で九州サッカーリーグに昇格、翌2005年にはJFL昇格に導いたが、昇格初年度の2006年に成績不振によりシーズン終了後に解任された。
2007年には当時九州リーグ(Kyuリーグ)所属のニューウェーブ北九州(現在のギラヴァンツ北九州)監督に就任。1年でJFL昇格、その後2年でJリーグ昇格を達成。2010年に初めてJリーグで正式な監督として指揮を執ったが、33試合連続未勝利のJリーグワースト記録を喫するなど苦しみ、年間でわずか1勝の最下位に終わった。同年限りで、契約満了に伴って監督を退任[1][2][3]。
所属クラブ
- グレミオ・レクラチーボ・トウキョウ (ブラジル)
- 1972年-1985年 読売サッカークラブ (日本)
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1972 | 読売ク | JSL2部 | - | - | |||||||
1973 | - | - | |||||||||
1974 | 13 | - | |||||||||
1975 | - | - | |||||||||
1976 | |||||||||||
1977 | |||||||||||
1978 | JSL1部 | ||||||||||
1979 | 7 | ||||||||||
1980 | |||||||||||
1981 | 10 | ||||||||||
1982 | 5 | ||||||||||
1983 | 18 | ||||||||||
1984 | 17 | ||||||||||
1985 | |||||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 143 | 40 | |||||||
日本 | JSL2部 | ||||||||||
総通算 |
指導歴
- 1986年-1990年 読売サッカークラブ:監督
- 1992年-1993年 名古屋グランパスエイト:ヘッドコーチ
- 1994年後半 京都パープルサンガ:監督代行
- 1996年後半 京都パープルサンガ:ヘッドコーチ (監督代行)
- 東京ヴェルディ1969:普及部育成コーチ
- 2004年-2006年 FC琉球:監督
- 2007年-2010年 ニューウェーブ北九州/ギラヴァンツ北九州 :監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1986-87 | JSL1部 | 読売ク | 優勝 | 22 | 29 | 11 | 7 | 4 | 1回戦 | 優勝 |
1987-88 | 5位 | 22 | 24 | 8 | 8 | 6 | 1回戦 | 優勝 | ||
1988-89 | 5位 | 22 | 32 | 8 | 8 | 6 | 準決勝 | 準々決勝 | ||
1989-90 | 2位 | 22 | 46 | 13 | 7 | 2 | 準決勝 | 準決勝 | ||
1994 | 旧JFL | 京都 | - | - | - | 準々決勝 | ||||
1996 | J | - | 15 | 24 | 8 | - | 7 | 3回戦 | ||
2004 | 沖縄県1部 | FC琉球 | 優勝 | 9 | 25 | 8 | 1 | 0 | 3回戦 | |
2005 | 九州 | 2位 | 18 | 42 | 8 | 1PK勝/1PK敗 | 3 | 3回戦 | ||
2006 | JFL | 14位 | 34 | 29 | 6 | 11 | 17 | 2回戦 | ||
2007 | 九州 | 北九州 | 優勝 | 20 | 54 | 17 | 1PK勝/1PK敗 | 1 | 予選敗退 | |
2008 | JFL | 10位 | 34 | 49 | 13 | 10 | 11 | 3回戦 | ||
2009 | 4位 | 34 | 58 | 16 | 10 | 8 | 1回戦 | |||
2010 | J2 | 19位 | 36 | 15 | 1 | 12 | 23 | 3回戦 |
1994年は代行、1996年はヘッドコーチとして指揮。
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 2試合 0得点(1985)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1985 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
脚注
- ^ 与那城ジョージ監督 契約満了に伴う退任のお知らせ ギラヴァンツ北九州公式サイト 2010.11.5付ニュースリリース
- ^ ギラヴァンツ与那城監督退任 朝日新聞福岡・北九州版 2010.11.6付記事 (アーカイヴ)
- ^ ギラヴァンツ北九州 与那城監督退任 驚くサポーターら 西日本新聞 2010.11.6付記事 (アーカイヴ)