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樋口士郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
樋口 士郎
名前
カタカナ ヒグチ シロウ
ラテン文字 HIGUCHI Shirou
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1959-09-09) 1959年9月9日(66歳)
出身地 三重県川越町
身長 177cm
体重 68kg
選手情報
ポジション MFDF
監督歴
2026- ヴィアティン三重
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

樋口 士郎(ひぐち しろう、1959年9月9日 -)は、三重県三重郡川越町出身の元サッカー選手サッカー指導者 。ポジションはMF(守備的MF)、DF日本サッカー協会公認A級ジェネラルライセンス保有。

実弟の樋口靖洋も元サッカー選手。

来歴

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四日市中央工業高校3年次に主将として1977年度の高校選手権準優勝に貢献[1]。大会後には優秀選手として日本高校選抜に参加、また日本ユース代表にも選出され長く主将を務めていた[2]

卒業後の1978年に当時日本サッカーリーグ(JSL)2部の本田技研工業サッカー部に入部。1980年に得点王に輝き、JSL1部昇格の原動力となった。その後、1987年に本田時代の桑原勝義監督がクラブを立ち上げたばかりのPJMフューチャーズに移籍、創設期の中心選手として活躍し、1989年の天皇杯に2試合フル出場した。また、これと並行して佛教大学に入学し教員免許を取得、1990年に現役を引退した。

1991年からは母校の四中工に赴任し、サッカー部コーチとしてその年に高校総体ベスト4、高校選手権初優勝を経験した。1995年に恩師の城雄士[3]の後を継いで監督に就任。現在、多くの選手をJリーグ及び各年代の日本代表に送り出している。 

2018年10月、今季限りで勇退することが発表される。2018年12月31日、第97回全国高校サッカー選手権第1回戦、対秋田商業戦に0-2で敗れ四中工監督として最後の試合となった[4]

2019年4月よりヴィアティン三重強化部長兼アカデミーダイレクターに就任[5]

2026年よりテクニカルダイレクターに就任も5月20日に菅原太郎監督の解任に伴い、トップチーム監督に就任した[6]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯天皇杯期間通算
1978本田JSL2部
19790021
19801121
198119JSL1部18030
198218111
19831201030160
198441103010150
198510000
通算日本JSL1部 69181
日本JSL2部
総通算

代表歴

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指導歴

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  • 1989年 - 1991年3月 PJMフューチャーズ 選手兼コーチ
  • 1991年4月 - 2019年3月 三重県立四日市中央工業高等学校
    • 1991年4月 - 1994年 コーチ
    • 1995年 - 2019年3月 監督
      • 2002年 日本高校選抜デュッセルドルフ国際ユース大会 監督
      • 2005年 U-16日本代表モンテギュー国際大会 コーチ
  • 2019年4月 - ヴィアティン三重
    • 2019年4月 - 同年12月 強化部長兼アカデミーダイレクター
    • 2020年 U-15監督兼アカデミーダイレクター
    • 2021年 - 2025年 三重県サッカー協会 FAコーチ (出向)
    • 2021年 アカデミーアドバイザー
    • 2022年 - 2025年 トータルアドバイザー
    • 2026年 - 2026年5月 テクニカルダイレクター
    • 2026年5月 - トップチーム監督

DVD

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脚注

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  1. 準優勝時のメンバーには同期に伊藤直司、1年下に熊谷義一、2年下に吉川亨らがいる。伊藤、熊谷とは本田技研、PJMと共に渡り歩いた。
  2. 1979年のFIFAワールドユース日本大会の最終合宿まで残っていたものの落選。本大会の主将は尾崎加寿夫が務めた。
  3. 閉校するまで三重中京大学サッカー部監督を務めていた。
  4. 四中工一筋27年…「僕にとってサッカーは樋口士郎」 名将との二人三脚は今年限りも歴史は続く | サッカーキング
  5. 樋口士郎 強化部長兼アカデミーダイレクター就任のお知ら | ヴィアティン三重公式サイト 2019年4月1日
  6. 樋口 士郎監督 就任のお知らせ』(プレスリリース)ヴィアティン三重、2026年5月20日2026年5月21日閲覧

関連項目

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