ミシャグジ
ミシャグジとは、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジ信仰)で祀られる神(精霊)である。長野県にある諏訪地域はその震源地とされており、実際には諏訪大社の信仰(諏訪信仰)に関わっていると考えられる。全国各地にある霊石を神体として祀る石神信仰や、塞の神・道祖神信仰と関連があるとも考えられる。
呼称
「ミシャグジ」の発音は「サク」「シャグ」「サグ」「サコ」「サゴ」「ショゴ」などが見られ、中には「おシャモジ様」まであるという[注 1]。「ミシャグジ」のほかに、「ミシャグチ[2]」「サグジ[1][3]」「ミサクジ[4]」「ミサグチ[5]」「シャクジン」[6]「シュクジン」[7][8]「シュクジ」「シュクシ」「シキジン」「シキジ」[7][9]「(お)さんぐうじ[1]」「(お)しゃごじ[1]」「じょぐさん[1]」「しゃごっつぁん[1]」「しゃごったん[1]」など多様な音転呼称がある。
当て字と漢字の組み合わせも大変多く(200以上もあるといわれている)、諏訪では「御左口神」「御社宮神」「御射宮司」「御社宮司」「御作神」が見られるが[10]、柳田國男は「石神」として取り上げたこともある[11]。柳田の『石神問答』(1910年)には「石護神」「石神井」「宿神」などもある[12][注 2]。金春禅竹の『明宿集』(1465年頃)は、「宿神」と「翁」とを同一存在と見なし[15]、翁(宿神)を諏訪明神や筑波山の岩石などと同一視している[16]。なお、石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を同一視する辞書は複数ある[17]が、『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』は「石神(いしがみ)とは異なる」としている[18]。また検地の神といって「尺神(しゃくじん)」をあて、検地棒や検地縄を奉納する所もある[11]。このほか、「守護神」[19]「佐軍神[1]」「射軍神[1]」「赤口神[1]」「参宮神[1]」「社子神[1]」「曲口[10]」「佐口[10]」「山護神[1]」「釈護子[1]」「御佐久知神[20]」「御闢地神[20]」などとも表記される。
名前の由来については諸説あり、稲を守護することから「作(さく)神」とする説や[10]、土地を開拓する(=さく)ことによってその中に秘められた生命力を表出させることから「御作(咲)霊(みさくち)」とする説[21][注 3]、または蛇神とされたことから「御赤蛇」とする説[22]などが唱えられる。
概要
ミシャグジの実態については様々な説があげられているが、解明されたとは言い難い[18]。
分布・根源
ミシャグジの分布を調べた今井野菊によると、長野県には750余りのミシャグジ社が存在し、そのうち諏訪109社、上伊那105社、下伊那36社、小県104社などが多い郡であるという。全国では山梨県160社、静岡県233社、愛知県229社、三重県140社、岐阜県116社、滋賀県228社のほか関東各県にも見られる[11]。なお、大和岩雄(1990年)は今井が「ミシャグジ社」とした滋賀県内にある神社のほとんどが大将軍神社であると指摘し、それはミシャグジ信仰に含まれないとしている。また、群馬・埼玉・山梨ではチカト信仰と重なっている[23]。
信仰の分布からミシャグジ信仰の淵源は、諏訪信仰に関わるとする見方がある[18]。昭和9年(1934年)に書かれた「地名と歴史」の中で柳田國男はこう書いている[24]。
なお、近年では全国に見られる「ミシャグジ的なもの」やミシャグジめいた石神はすべて諏訪に由来すると考えるのは乱暴で、諏訪大社において特化したミシャグジ信仰と、諏訪から切り離されてしまった諏訪由来と思われるミシャグジ信仰、または他所に見られる「ミシャグジ的信仰」をそれぞれ分けて考えるべきである、という意見が現れている[26]。かつての諏訪大社においてはミシャグジは特定の神官しか扱えない存在とされており、この神官が直接参向していなかった関東・東海等の石神信仰はそもそも諏訪地方のミシャグジとは直接の関係は持っていないはず、という指摘もある[27]。
ミシャグジの実態
石の神か木の神か
幕末に書かれた『諏訪旧蹟誌』はミシャグジについてこう述べている。
『駿河新風土記』にも、村の量地の後に間竿を埋めた上でこの神を祀る一説がみられる他、『和漢三才図会』は「志也具之宮(しやぐのみや)」を道祖神(塞の神の一種)としている[18]。
柳田國男は、日本にみられる各種の石神についての山中笑らとの書簡のやりとりを『石神問答』[29]として1910年に出していた。神体が石ということからミシャグジを石神とする山中に対し、柳田は石を祀らないミシャグジもあり、石を祀ってもミシャグジといわない例があると指摘し、検地に使われる間竿がその神体として祀られることもあるから、ミシャグジは土地丈量の神であると主張した[30][31]。また、ミシャグジは大和民族に対する先住民によって祀られていた塞の神(境界の神)で、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であるとも考察した[32]。『石神問答』の再刊の序では、柳田は「是は木の神であったことが先ず明らかになり、もう此部分だけは決定したと言い得る」と宣言している[33][30]。
この柳田の説に対して大和岩雄(1990年)は、自説に不都合だからか、柳田が『諏訪旧蹟誌』を引用した際に「此は即石神也」という文を省いていたと指摘し、そもそも『旧蹟誌』の著者がミシャグジを石神としたのは境の神に石神が多いからと書いている[30]。さらに大和は、ミシャグジが祀られる古樹の根元に祠があり、神体として石棒が納められているのが典型的なミシャグジのあり方であるという今井野菊の観察に基づいて、ミシャグジはやはり石にもかかわっており、木の神と決定するわけにはいかないという見解を述べている[34]。石埜三千穂(2017年)も、柳田が民間信仰としての石神の調査の延長としてミシャグジを扱っており、中世諏訪信仰にちゃんと注目していなかったからこの結論に至ってしまったと批判している[26]。
鹿の胎児・酒の神
中山太郎は、1930年(昭和5年)「御左口神考」の中で口噛み酒を古くは「みさく」「さくち」と呼ばれていたことからミシャグジは酒神であるという説を立てた。更に鹿の胎児が「さご」と称されていたことや、諏訪大社と鹿の因縁深い関係からミシャグジの正体を雌鹿・孕み鹿とし、「鹿の胎児を造酒に用いる一種の呪術的作法が行われたのではあるまいかと思われるのである」と推察していた[35]。
しかし、郷土史家の伊藤富雄にこの説に関して訊ねられた今井野菊は、鹿の胎児を酒造に用いる呪術的作法は聞いたこともない、と中山の推察を否定した。北村皆雄(1975年)も中山説を「どうも肯定しうるだけの説得力に欠けている」と批判すると同時に、中山が論考で取り上げた、三河国設楽郡振草村大字小林(現在の愛知県北設楽郡東栄町)で行われる種取りの神事で鹿の腹に納める苞が「鹿のサゴ(胎児)」と呼ばれるのをミシャグジの名称、または土地の開拓との関係を「なんらかの因縁をつけることができるかもしれない」と推測している[36]。大和岩雄もこの情報を踏まえて、ミシャグジは植物(畑作・田作)だけでなく、動物にもかかわると提唱している[37]。
ミシャグジと古木・石棒
藤森栄一・今井野菊・宮坂光昭・古部族研究会(野本三吉、北村皆雄、田中基の3人)らの研究により、ミシャグジと石棒や石皿との関係が明らかになった。上記の通り、今井の実地踏査で古木の根元に石棒を祀るのが最も典型的なミシャグジのあり方であることが判明した[38]。このことから、ミシャグジは木に降りて、石に宿る神霊と信じられていたと考えられる。
北村は、ミシャグジの神体となっている石棒や石皿のほとんどが縄文中期のものであると指摘し、石棒は本来のミシャグジの神体ではなかったとする宮地直一の説に対して、ミシャグジ信仰のルーツを縄文中期の地母神信仰に求め、石棒の中にその信仰的胚珠をもっていたと捉えた[39]。いっぽう宮坂は神木・石棒信仰を古代の蛇信仰と結びつけ(神木-蛇-男根-石棒)、諏訪大社の龍蛇信仰はやはり縄文中期に遡るといわれるミシャグジ(石棒)信仰と繋がっていると考えた[40]。
ただし、諏訪大社上社の過去の祭事においては、ミシャグジが木や石だけでなく、笹や人間などにも憑くため、単なる木や石の神ではないという指摘もある。また、他の神(天白神、千鹿頭神など[41])を祀る社祠にも石棒が神体として納められることもある。この事から、石棒祭祀はミシャグジ信仰特有のものではなく、それとは元々直接の関係がないとする見解もある。この説では「地中から出た特殊な石・石器(石棒や石剣など)を神社に奉納して祀る」という各地に見られる石神信仰が諏訪信仰の拡散につれてミシャグジと結びつけられたとされている[27]。
その一例として、石埜穂高(2018年)は武蔵国(現・埼玉県、東京都)を中心に分布している氷川神社にも石棒・石剣を祀る例が多いことを挙げている。氷川信仰における霊石祭祀はミシャグジ信仰と関連がなく、石棒・石剣を天叢雲剣に比定して生まれた信仰であるとしている[42]。
神か精霊(力)か
現在はミシャグジを「神」として見るのが一般的であるが、細田貴助(2003年)は「精霊と人格神(神)とを、古くの日本人は区別していた。ミサクジを神とはしなかったであろう」と主張している[43]。
これに対して石埜三千穂は、上社の神事においてミシャグジに憑かれた人が託宣する(神意を示す)ことがまずなく、一年の間に上社に奉仕する郷村を決める御占神事もあくまでも諏訪明神の託宣であって、祭事中に降ろされるミシャグジはそのために作用しているに過ぎないと指摘している。このことからミシャグジは本来、抽象的な「諏訪大神のために働く純粋な力」(すなわち自然エネルギーそのもの)と理解されていたという説を石埜が提唱している[44]。北村皆雄と田中基(2018年)もミシャグジをマナ(実体性のない、人や物に付着する神秘的な力)や折口信夫の言う「外来魂」と例えている[45]。寺田鎮子・鷲尾徹太(2010年)もミシャグジの本質を「生命力を励起するパワーのようなもの」、「空からやってくる(…)大気(空気・空)に充満するエネルギー」としている[46]。
神徳
神徳は百日咳治癒、口中病治癒、安産、子育てなど様々だが、社祠・神座や伝承は年々消滅し続けている[18]。
信仰
諏訪上社におけるミシャグジ
守矢氏と神氏
諏訪大社は上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)という2つの神社で成り立っている。諏訪湖南岸に位置する上社にはかつて大祝(おおほうり)と呼ばれる最高位の神官と、そのもとに置かれた5人の神職が奉仕していた。諏訪氏(神氏)から出た上社の大祝は古くは祭神・建御名方神(諏訪明神)の生ける神体とされ、現人神として崇敬された。
その大祝を補佐して神事を司ったのは守矢氏出身の神長(かんのおさ、後に神長官(じんちょうかん)ともいう)である。神長は大祝の即位式を含め上社の神事の秘事を伝え、神事の際にミシャグジを降ろしたり上げたり、または依代となる人や物に憑けたりすることができる唯一の人物とされた[47][48]。
諏訪地域に伝わる諏訪明神の入諏神話によると、建御名方神が諏訪に進入した際に地主神の洩矢神と相争った。洩矢神が戦いに負けて、建御名方神に仕える者となったという。守矢氏は洩矢神の後裔で、神氏は諏訪明神の後裔とされた[49][50][51][52]。
地元の郷土史家はこの神話は諏訪に起こった祭政権の交代という史実を反映していると考えている。この説においては、外来の氏族(神氏)が諏訪盆地を統率した在地豪族(守矢氏)を制圧して、諏訪の新しい支配者となるが、守矢氏が祭祀を司る氏族として権力を維持した。この出来事が諏訪上社の祭祀体制の始まりとされている[53][54][55]。この権力の交代劇の時期については諸説あり、諏訪に流入した神氏を稲作技術をもたらした出雲系民族(弥生人)とする説や[56][57]、金刺氏(科野国造家、後に諏訪下社の大祝家)の分家[58][59]、または大神氏の一派あるいは同族[60][61][62]とする説がある。後者の場合、政権交代劇を下伊那地方に開花した馬具副葬古墳文化が諏訪地域に出現した時期(6世紀末~7世紀初頭)によく当てはめられる[63][64]。
なお、入諏神話は中世に成立した説話で、考古学的知見と結びつけるべきではないとする見解もある[65]。洩矢神が中世の文献では「守屋大臣」という名前で登場することから、入諏神話は中世に広く流布していた聖徳太子と物部守屋の争い(丁未の乱)にまつわる伝承の影響を受けている[66]、あるいはその伝説をもとにして造作されたもの[67]という説が挙げられている。
ミシャグジと建御名方神
国史では諏訪の神が「建御名方神」という名前で登場しており、『古事記』や『先代旧事本紀』の国譲りの場面で建御雷神との力比べに敗れてしまう大国主神の次男として描かれている。しかし、『日本書紀』や、出雲地方の古文献である『出雲国風土記』と『出雲国造神賀詞』にはこの建御名方神が登場せず、『古事記』でも大国主神の子でありながらその系譜に名前がみられないため、建御名方神は国譲り神話に挿入されたという説を唱える研究者が多い。
諏訪にも建御名方神(正確に言うと『古事記』等における建御名方神)の影が薄いと言える。中世の祝詞には神名が出て来ず[68]、「建御名方神」という神名もほぼ浸透しておらず、祭神の事を単に「諏訪明神」「諏訪大明神」「お明神様」等と呼ばれることが多い[注 4]。また、『古事記』の説話とは異なる神話と伝承(入諏神話や、諏訪明神を蛇(龍)とする民話など)が現地に伝わっている[注 5]。このことから、建御名方神は「ミシャグジ信仰をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果生まれた神名」(大和岩雄、1990年)[70]または「朝廷への服従のしるしとして諏訪に押し付けられた表向けの神」(寺田鎮子・鷲尾徹太、2010年)[71]で、諏訪の本来の神はむしろミシャグジであるという説が度々立てられている。
『日本書紀』の持統天皇5年(681年)8月の条には「使者を遣わして、龍田風神、信濃の須波(諏訪)・水内等の神を祭らしむ」とあり、諏訪に祀られている神は奈良時代以前に既に朝廷に風の神・水の神として崇敬されていたことが分かる[72]。建御名方神を後世に創作された神とする研究者はこの「須波神」をミシャグジ[73]または守矢神(洩矢神)[74]としている。
なお、後で述べるように中世の上社ではミシャグジ(御左口神・御社宮神)と諏訪明神は各々別神であると理解されていたことが明らかである。
ミシャグジと大祝
上社の大祝は神長が執り行う就任儀式(即位式)を受けていた。この際に、大祝となるべく選ばれた者(この職に若い男の子に当てる例が多い)は柊またはカエデの木のある鶏冠社(前宮境内にある上社摂社)の石の上に立ち、大祝の装束を着せられる。この儀式を受けることによって少年が諏訪明神の「御正体」(神体)となるとされた[75][76][77]。実際には諏訪明神が8歳の男児に自分の衣を着せつけた後に「我に体なし、祝(ほうり)を以て体とす」という神勅を告げて祭神の身代わりとしたという伝承があり、それが神氏と大祝職の始まりとされている[78][79]。
大祝に依り憑く神は実体のない霊的な存在とされることから、この神は建御名方神ではなくミシャグジであるとする見解がある。この説では大祝はいわばミシャグジの憑巫(よりまし)である[80][81]。この説を唱えた田中基は「外来魂・ミサグジに装塡したがゆえに大祝になった童児は、生き神様・現人神と考えられた」と述べ[82]、春に行われる御頭祭で大祝の代理を務める6人の神使(おこう)にはミシャグジが付けられることを指摘し、「神使は構造上どう見ても仮の大祝であり、神使が御左口神であるならば、大祝は大御左口神であってタケミナカタではない」と論じた[83]。なお、近年では意見を変えている様子である[注 6][84]。
神仏習合
平安時代末期に諏訪に仏教が入り、上社本宮には神宮寺・如法院・蓮地院・法華寺ができた[85][86]。本地垂迹説が広まると、上社の男神は普賢菩薩、下社の女神は千手観音の垂迹とされていた[87]。室町時代に入ると、両部神道を学んだ神長・守矢満実が密教要素を導入して独特の「諏訪神道」を作ろうとした。天皇の即位灌頂や神道灌頂を参考にしつつ大祝を即位式を密教風にし、神事に密教的解釈を施した[88]。
満実が著した奥義書『諏訪大明神神秘御本事大事』[89]には両部神道・真言密教の影響が見られる。ミシャグジを「付け申す」時の儀礼には印相と真言が用いられていることはその一例である。
室町時代書写の『諏訪上社物忌令之事』(1237年成立)の写本(神長本)に載録されている「陬波六斉日精進之日記」[91]においては、「諏方南宮法性大明神・十三所王子[注 7]・御左口神」が礼拝の対象とされ、6つの斎日に六道の主として六観音と習合された御左口神(ミシャグジ)が当てられている[94]。
ミシャグジと諏訪御子神
近代の諏訪においては「御左口神」(御闢地神=土地開発の神)という名称は国土開発に功績のあったと言われる13柱の御子神を指すと解釈された[20][95]。明治時代の神社明細帳では、諏訪に存在していたおよそ40のミシャグジ社のほとんどが建御名方神(諏訪大神)の御子神を祀る神社として記録されており、その中には「健御名方命御子」として「御射宮司神」の名を挙げる神社が一社ある[96]。長野県(旧信濃国)全体に見られる諏訪御子神を単独で主神として祀る神社を「社子神」「御佐久地」等と称される例もある[97]。
ミシャグジを諏訪明神の眷属神・御子神として位置付ける見方は既に中世に見られる。例えば、守矢満実は「当社御神の王子」について以下のように述べている。
要するに、満実は御左口神(ミシャグジ)を6人の神使(おこう)や「十三所(王子)」のように諏訪明神の王子神であると理解していた。これは、『上社物忌令』「陬波六斎日」に記されている「大明神・十三所王子・御左口神」と通じるとみられる[98]。また、『守矢神長古書』には「当社にて御社宮神というのは皆御子孫の事言う也」とある[99]。『諏方大明神画詞』(1356年)にも「十三所の王子」が諏訪明神を守護する眷属神として登場している[100]。
石埜三千穂の説
石埜三千穂(2017年、2018年)は諏訪御子神(十三所王子)信仰の発展を中世の王子信仰に照らして自説を挙げており、それにはミシャグジ(ここではミシャグジそのものと「ミシャグジを称する社祠」が区別されている)が絡んでいる。
元日の御占神事で一年の間に上社の神事に奉仕する郷村(御頭郷)が選定されると、選ばれた村から婚姻未犯の童男が神使(おこう)として出仕させられる。少年たちは新築されミシャグジを降ろした精進屋の中に30日間の精進潔斎に臨む。それが終わると神使(おこう)たちにミシャグジが付けられ、諏訪・上伊那の各地にある湛(たたえ・たたい)と呼ばれる聖地(樹木・岩石など)を巡る。精進屋に付けられたミシャグジが神上げされた後に取り壊され、その場に新たな祠が建てられる。これが「ミシャグジ社」である。つまり、石埜の説では諏訪に見られる「ミシャグジ社」は本来「ミシャグジを祀る社祠」ではなく「ミシャグジが降りた場所を記念する祠」である[101]。
新造された「ミシャグジ社」には諏訪明神の御子神(王子神)が祀られる。いわば、神長が降ろしたミシャグジによって新たな神が「生まれる」とされる[102]。(上述の通り、石埜はミシャグジそのものを神長が扱う「諏訪明神のために働く力」・「生命力」という抽象的なものと解釈しており、神社に鎮座するような存在ではなかったとしている。)このことが諏訪御子神信仰の発展に繋がるとしている。
「前宮二十の御社宮神」
諏訪上社の
神原一帯は古くは祭事の中心地でもあったため、いうまでもなくミシャグジとの縁が深いと言える。嘉禎3年(1237年)の『諸神勧請段』に載録されている以下の神楽歌から、前宮には古くは「二十のミシャグジ」が祀られていたという見解がある[104][105]。
前宮ワ廿ノ御社宮神 内ノオワカタ 外ノオワカタ
御社宮神ノ四ナノ
孫 カ モモムスフ モモムスフ
ヤヱニホコレテ ゲキヤウメサレル[106](前宮は二十の御社宮神 内のお
八重に綻れて県 () 外のお県
御社宮神の四十の孫 ()が百 ()結ぶ 百結ぶ
現形 ()召される)
『諏訪大明神神秘御本事大事』にも「二十御左口神之王子」という呼称が見られる。
これに対して石埜三千穂は大祝の即位式の記録や古絵図をもとに前宮のミシャグジ(前宮に付属しているミシャグジ社)と前宮そのもの(前宮社・前宮大明神)はそれぞれ別の社祠であることを推測している。石埜の説では、前宮に本来祀られていたのは「ヒトとしての大祝一族の祖霊」であり[注 11]、それと対比して内御霊殿(うちみたまでん、うちのみたまどの)に祀られているのは諏訪明神の幸魂と奇魂、すなわち「現人神としての大祝の神格」である[107]。石埜は「二十の御社宮神」(=前宮を守護する御子神の社祠)を22柱の御子神を祀る若御子社に比定している[108]。
鉄鐸(さなぎの鈴)
銅鐸によく似た鉄製の
「御宝鈴」「大鈴」「
鉄鐸の使用には礼銭が定められており、神長の収入源の一つであった。郡外不出のものとされ、宝鈴のタブーを犯すと契約が破綻するといわれていた。また、違約のある時はミシャグジの祟りがあると信じられていた[109][110]。
天文4年(1535年)、武田信虎と諏訪頼満の和睦の際に、神長の守矢頼真が鉄鐸を鳴らしたという[112]。
塩尻市にある小野神社にも12個1連の鉄鐸が保管されている。上社の鉄鐸とは異なり、原形のまま鉾に吊るされている。多数の麻幣が結びつけられており、御柱祭が行われる年に1かけずつ結ぶ習わしが現在も続いている[113][114]。
ミシャグジの祟り
『諏方大明神画詞』(諏方祭巻第一 春上)は「御作神」(ミシャグジ)について「若(も)し触穢ある時は、此の神必ずたたりをなす。鳥犬に至るまで其の罰を被る」と述べており、つまりミシャグジは穢れた者に祟りをなす神で、その祟りは一族、家に飼う犬鳥にまで下るという[115]。郷土史家の宮坂光昭(1991年)は以下の出来事を「ミシャグジの祟りがあった」として挙げている。
- 現人神である大祝は諏訪郡を出てはならない、または穢れの元となる人や馬の血肉に触れてはならないという厳しい不文律があった。この掟を破って奥州征伐に従軍し、また源義家(八幡太郎義家)の誘いで上京しようとした諏訪為信の子為仲は、大祝在職中ということで諏訪社一同に反対されたものの、それを押し切って出立したが、社の鳥居を出ると馬が数匹病気で倒れ、更に群外を出ると馬が七匹も病死した。やがて美濃国にたどりついたところ、源義光一行と酒宴を催するが、部下双方が喧嘩し死傷者を出すに及んで、為仲は責任をとって自害する。父の為信はこの事件を神罰と見なし、遺児の為盛を大祝の職に就けさせなかった。次に大祝となった為仲の弟の為継(次男)は任職3日後に頓死し、同じく弟の為次(三男)も任職7日後に急死したため(いずれも神罰とされている)、四男の為貞が当職を継ぐことになった[116]。(ただしこの出来事を記録する『画詞』[117]や『前田本 神氏系図』[118][119]では「神罰」という表現が見られるのみで、ミシャグジの仕業であると明記していない。)
- 大祝即位式の時、神長官における授職を行わない人には神罰が下るとされた。戦国大名諏訪頼満は嫡子の頼隆を大祝に立てたが、頼満は32歳で死去した。神長官の守矢頼真はこれを「即位式不足による御罰」と言っている。大祝となった頼隆の嫡男である諏訪頼重も即位式も正式でなかったためか、母が死亡したので大祝を退位した。ところが、次の大祝として立つべき人がなく、再度大祝となったものの、即位式もなく、かつ一周忌もたたずして大祝となった結果、やがて武田晴信(信玄)に滅ぼされる[116]。
ミシャグジと上社の神事
諏訪上社においてミシャグジは諏訪明神を祭る祭礼には欠かせない役割をしてきたが、単独に祀られることはなかった。ミシャグジが主に活躍したのは、冬から春にかけて行われる神事祭礼であった。
御室神事
旧暦12月22日になると、諏訪郡の郷民が奉仕して神原(前宮)の一部に建築した
『諏方大明神画詞』(1356年成立)には以下のように書かれている。
『年代神事次第旧記』(室町初期成立)によると御室には柱4本、桁2本、梁2本がある。田中基の計算によると24畳分の菅畳が用意されたため、広さはそれ以上ということになる。中には「萩組の座」というものがあり、神長による祭事の覚え書きである『年代神事次第旧記』(室町初期成立)には御室本体の用材とは別に「東の角、南の角、棟木、東西の桁、囲い」とあることから、御室の中に設けられる仮小屋と考えられる[121][122]。「うだつ」とも呼ばれるこの構造物には大祝、神長、神使(おこう)しか入ることができなかった。破風には葦で壁体を作り、そこにミシャグジを祀ったという記録もあるが、このあたりの記述が混乱しているため、これは御室自体の破風を指すのか、「萩組の座」の破風を指すのか不明である。ミシャグジの依り代も剣先板と呼ばれる板(後述)なのか、八ヶ岳西麓にある神野(こうや、禁足地とされた上社の神聖な狩り場)から切り出された笹なのか、それとも別のものなのかよくわからない[123]。
22日の祭事の時に御室に入れられる「第一の御体」とは、祭事に関する部分が所々改変されている神長本『画詞』[124]から、ミシャグジであることが明らかにされている[125]。また「御体三所」は、『旧記』から「そそう神」と称する神霊(後述)で、23日の神事の項に「例式小へひ入」とあることから3つの蛇体であることが分かる。小蛇に麻と紙をからめて立てられるが、これは注連縄に紙をつけ、大幣に麻を垂らすのと同じで、蛇形に神格を付着するためである[126][120]。
『旧記』によると、24日の夜(大巳祭)[注 12]にはミシャグジを依り憑けた「御笹」が「萩組の座」の左より、「御正体」(上記の3体の小蛇)がその右より搬入される。「萩組の座」に安置された笹は「うだつの御左口神」とも呼ばれ、3月丑日までに御室の中に位置する。大小の蛇形も同様で、3月まで御室に納められていた[121]。「萩組の座」の中で何が行われたのかははっきりしないが、大祝が笹を持ちながら唱え言をしたようである[123]。
25日の大夜明祭にはハンノキの枝で出来た長さ5丈5尺(約16m)、太さ1尺5寸(70cm)の蛇体3体と「又折(またおり)」と呼ばれるもの[注 13]が御室に入れられる。「御身体」または「ムサテ」と呼ばれるこの蛇形も「そそう神」であるという。すなわち、大小の蛇体が各々3体ずつ2日間を隔てて入れられている。田中基はこれについて、小蛇が大蛇に急成長することで神霊であることを示した儀式的表現であると述べている。蛇形が御室の中に安置されるのは3月卯の日までである[121][123][125][126]。
ソソウ神
御室神事関連の申し立て(祝詞)では「そそう神」という神が見られる。12月22日の神事と、23日の神事、25日の神事と二十番の舞、更にまた3月末日の神事の際に何度も繰り返される申し立てには、その出現の様が語られている。
一 かけまくもかしこ、つねの跡に仍つかへまつる冬の御祭に、そゝう神みちのくちましの神主の本にあまはり給ひたれは、うれしみよろこひて、つかへまつりぬと、
一 みちのなかにしんへい三の本に、そゝう神あまはり給たれは、うれしみよろこひて つかへまつりぬと、
一 みちのしりにあるかかうしの本に、そゝう神あまはり給たれは、うれしみよろこひて つかへまつりぬと、のかつか申
(かけまくもかしこ、常の跡に仍つて仕へまつる冬の御祭に、道の口・
道の尻に、真志野 神主[注 14]のもとに、そそう神のあまはり給たれば、嬉しみ悦び給ひて、仕へまつりぬと、ぬかづか申す。
道の中に、しんへいみ(?)の本に、そそう神あまはり給ひたれば、嬉しみ悦び給ひて、仕へまつりぬと、ぬかづか申す。
有賀 神主[注 15]のもとに、そそう神あまはり給ひたれば、嬉しみ悦び給ひて、仕へまつりぬと、ぬかづか申す。) — 12月23日(擬祝神事)の申し立て、『年代神事次第旧記』[128]
「道」の「口・中・尻」に「そそう神」が現れ給うたので喜んで仕えるという内容の祝詞である。上社神域の北限である有賀(現・諏訪市豊田)にある「こしき原」、その次に真志野(現・諏訪市湖南)、そして大祝が住む館・神殿(ごうどの)の入り口付近にある所政社(所末戸社)がその出現の場所として特定されており、諏訪湖の方角から神原(前宮)まで水平に現れるという性質を持つと考えられる[121][129]。
「そそう神」の正体については以下の説が挙げられている。
- 女性的精霊説
- 女性器は「そそ」とも呼ばれていることから、「そそう神」は諏訪湖の方より水平的に訪れる女性的精霊と解釈され、上空から降りてくるミシャグジ(ここでは男性的精霊とされる)と対照的な存在とされている。この説では、御室の中に笹の付いたミシャグジと「そそう神」を象徴する蛇形が入れられるのはこの2つの精霊の「聖婚」を表し、それとともに参籠する大祝は蛇との婚姻で生まれる聖なる子供であると解釈される。12月25日に演じられた神楽歌(「総領申す」)がかなり淫猥な表現になっていることから、御室神事が性的な意味を持っていたと考えられる[130][131]。
- 祖霊神(諏訪明神)説
- この説によると「そそう神」は「祖宗(そそう)神」、すなわち大祝の祖霊としての諏訪明神を指すのである。ここでは御室神事が他界(根の国)からやって来る龍蛇の姿を持った諏訪明神が御室に籠ることによって衰えた生命力(=ミシャグジ)を増殖させることを意味すると解釈されている。また、これによれば冬の御神渡りは本来、龍蛇体の祖霊神の出現の証として見られたという[注 16][132]。
宮地直一(1937年)はこれを諏訪明神を蛇体とする説のもととしていた。
按ずるにそゝう神と蛇神とは、その起源を一にするといひ難いが、互に相結んで地上に降るそゝう神は、蛇形に化現するといふやうな信仰心の発生に導き、延いて小蛇又は蛇形を以て御体とする思想をも起したのであらう。後に転じて諏訪神に結び、大明神は蛇を御体とせらるゝとも、御室に忌籠らせらるゝともいふに至つた。諏訪神蛇体説の源流の一は此にある。[133]
蛙狩神事
さて御手洗河にかへりて漁猟の儀を表す。七尺の清滝氷閇 て一機 の白布地に敷けり。雅楽数輩、斧鉄を以て是を切り砕けば、蝦蟆五つ六つ出現す。毎年不闕の奇特なり。壇上のかへる石と申す事もゆえあることにや、神使、小弓小矢をもて是を射取りて、各串にさして捧げもちて生贄の初とす。 — 『諏方大明神画詞』「諏方祭 巻第一 春上」
元日の朝に上社本宮で行われる蛙狩神事では、本宮前の御手洗川から捕らえられたカエルが小弓と矢で射抜かれ、生贄とする。かつてはカエルを「射取る」のが神使(おこう)の役目であり、6匹を捕獲したのは6人の神使がいたからと思われる。しかし時代が下がるとカエルの数も少なくなり、現在は2匹が平均的である。「不闕の奇特」と言われるほど川には必ずカエルが現れると信じられ、これが諏訪大社七不思議の一つとして数えられている[注 17]。射抜かれたカエルは本宮の「帝屋」(現在の勅使殿)に座す大祝の前に供えられ、丸焼きした後に神薬として配られた[注 18][134]。
中世の伝承では諏訪明神による蝦蟆神の退治を模した神事とされているが、カエルを供える本当の理由は謎に包まれており、いろんな説が挙げられている[注 19][135][136]。一説ではこの話が蛇神としての諏訪神と土地神(ミシャグジあるいは洩矢神)による神権争奪を意味するという[137][138]。
御占神事
元日の夜、神長が御室の中で当番として一年間上社に奉仕する御頭郷と神使(おこう)を抽選する御頭御占神事(神使御頭御占、神使殿御頭定とも)を行う。
6人の神使と14人の村代神主(むらしろこうぬし、諏訪郡内の郷村を代表する在地領主層)のために神長は「二十のミシャグジ」を降ろす。その神体は剣型の板(剣先板)で、これが藁馬に差し立てられ、御頭の役名(「内県介(うちあがたのすけ)」等)が書かれた紙を小刀で刺し止める。ミシャグジを降ろすと神長は大祝に対し呪文を唱えて、ススキの芯を投げ打っての丁半の占いで神使(内県介・宮付(みやつけ)、外県介・宮付、大県介・宮付)を選んだ[注 20]。新しい神使が決定されると前年の神使は退下する[139][140][141]。
今でも御頭郷を選ぶ占いは諏訪大社の宮司によって行われるが、諏訪頼水が1614年(慶長19年)に諏訪の郷村を15組[注 21]に分けてから輪番制に替わったため、形ばかりの神事となっている。
神使の精進
御頭郷に当たった村には上社の神印[142]が押された御符(みふ)が授けられ、村境に境締めの幣帛が立てられる。神長が神使(おこう)のために新造された精進屋(お贄場、御頭屋とも)にミシャグジを降ろし[注 22]、神使とその従人、鹿人(ろくびと、料理人)等が2月上旬から30日間、この中に厳しい精進潔斎を行う。物忌みの期間中、女性との交接や触穢は禁じられている。もし違反する時は、ミシャグジの祟りがあると信じされていた[144][145]。
精進初めの日には神長が鹿の皮を敷き、鹿の足を載せたまな板を置き、神使にミシャグジをつける儀式を行う。透き烏帽子・狩衣を着た神使たちは神長から「極意の大事」の印相と呪文を授けられる。心身を清浄に保つのが重要であるため、10日ごとには装束と、精進屋にある畳や調度品等がすべて取り替えられ、火も毎日3度改めた。行水は初めの10日間は1日1回、その次の10日間は1日2回、そして最後の10日間は1日3回を取った。そればかりでなく、『上社物忌令』では精進屋に入る前に「七日の精進」が定められている。御頭郷全体にも禁戒が定められ、諏訪社の社殿造営(現在の御柱祭)と同様に奉仕期間中は祝い事(元服・結婚など)や葬式が禁じられた[145]。
精進屋の前に設置された鳥居型の御贄柱(おんね柱)に付いている25本の串には贄の鹿肉が大量に掛け並べていた[146][145]。
境締めは今でも御頭郷となる地区の境に立てられている。御室や神使関連の神事のほとんどが廃止してしまったため、現存する諏訪大社の神事の中でミシャグジが登場するのはこれだけである[注 23][147]。
精進期間が終わると神使が精進屋から出て、神長が「ミシャグジ上げ」(神返し)をしてから精進屋は撤去される。神長は精進満行の証として神使の首に「結麻(ゆいま)」(結袈裟と似たものと思われる)を懸けて、また別に印相・真言を授与した。しかし神使の精進生活はこれで終わったわけではなく、江戸時代の記録では神長家の敷地(現在の神長官守矢史料館)にある潔斎屋に神長ともども7日間籠った。つまり精進屋に入る前に7日間、忌明けの最後に7日間潔斎をしたということになる。こうして忌み籠りの生活を終えた神使たちは大祝の身代わりにふさわしく聖化されたものとなる[148]。
神使たちは本宮に参詣して、若芽のカワヤナギの幣を4束ずつ奉納してから、諏訪明神の御正体(大祝)の代理となったという旨の申し立てをする[149]。
二月晦日。荒玉の社の神事。
当年の神使六人(上﨟四人・下﨟二人)、童子を直垂を着して出仕、饗膳あり。当人の経営なり。是則ち正月一日の御占に任て、氏人を差し定めて、其の子孫の中に婚姻未犯の童男を立て、来月初午以前、三十ヶ日の日限を点じて、面々新造の仮屋をかまへ、精進を初む。
三月以後、大祝の左右に随ひて、明年正月一日に至るまで神事を取り行ふ。当社末社の内、若宮・児宮まします。神代童体のゆえある事等なり。 — 『諏方大明神画詞』「諏方祭 巻第一 春上」
先ず神長此の室に望みて、御作神と云ふ神を立て、神使の食物、飯・酒・魚鳥の上分をたむけて、日々行水・散供・祓の儀、厳重なり。随逐の禄人已下、従類相共に潔斎す。此所に女人の経廻をとどむ。若し触穢ある時は、此の神必ずたたりをなす。鳥犬に至るまで其の罰を被る。不思議の事なり。
他所におけるミシャグジ的信仰
ミシャグジと三狐神
三狐神はサグジ[150]、シャグジ[151]、シャゴジ[152]、ミシャゴジ等と読まれる[153]。三狐神(サグジ)は農家で祭る田の神(田畑の守り神)であり[150]、「三狐神(さんこしん・さんこじん)」の音から変化した名称である[154]。「三狐神」を「シャゴジ」と訓んで、シャグジの同類とする考えもある[152][注 24]。機殿神社の末社では、諏訪の土俗神として「三狐神(ミシャゴジ)」が祀られている[153]。また、伊勢市の二見興玉神社に存在する「天の岩屋」は、稲荷神(宇迦之御魂神)を祀る三宮神社の遺跡とされるが、かつては石神(シャグジ)または三狐神であり、洞の奥に燈火が点されていた[151]。
注釈
- ^ 今井「御社宮司の踏査集成」では、長野県および他1都1府13県にまたがる、数千社での呼び名を調査している[1]。
- ^ 水本正人の『宿神思想と被差別部落』によると、「宿神」の読みは「シュクジン」の他に「シュクジ」があり、さらに少し訛った読みとして「シキジン」「シキジ」等もある[13]。愛媛県の「祝詞権現姉姫神」(シュクシゴンゲンアネヒメノカミ)は、もとは「シュクジ(ン)」と呼ばれていた[7]。その呼び方が訛って「シキジ(ン)」となり、後にそこへ当て字の「姉姫神」が与えられたが、「シュクジ」という音は「シュクシ(祝詞)」という添え名として残った[13]。一方で、この姉姫神が祀られている地域から数キロ離れた場所には、「縮地権現姉姫神」(シュクジゴンゲンアネヒメノカミ)がある[14]。これらを踏まえた水本の推測では、「シュクジ(ン) 宿神」・「シュクジ 縮地」・「シュクシ 祝詞」・「シキジ(ン) 姉姫神」は繋がっている[14]。
- ^ 実際に新海三社神社では主祭神で当地の開拓神である興波岐命のことを新開神(にいさくのかみ)と呼んでいる。
- ^ なお、中世から近世にかけては多くの神々が神社名を冠した「明神」で呼ばれる事が普通であり[69](「春日大明神」「鹿島大明神」「三輪大明神」「住吉大明神」等)、むしろ本来の名前で呼ばれる方が珍しかった。今でも神・神社を「明神」と称されることがある(神田明神、稲荷大明神等)。
- ^ 近世から現代まで『古事記』に見られる建御名方神の敗走が諏訪の入諏伝承と結びつけられることはしばしばあるが、元々は繋がっておらず、それぞれ別系統の神話である。
- ^ 「あの御曽衣祝(みそぎほうり)は衣でこう覆って、胞衣で覆うような形で「我はタケミナカタだ」っていうような言い方するじゃないですか。(…)それについて僕は、初期には間違って書いたけれども。宮坂光昭さんもそういうふうに書いてるけれども。ミシャグジは大祝につけないよね。(…)神使さまには完全につけてあるけど。十四人の村代神主にもミシャグジつけちゃう。やっぱ、大祝だけは大明神だから。」
- ^ 上社の摂末社群の祭神[92]、あるいは後世でいう諏訪御子神の原型[93]を指す。
- ^ 上伊那郡を指す。
- ^ 現在の茅野市周辺を指す。
- ^ 諏訪湖周辺を指す。
- ^ 実際には前宮の周辺に多くの墳墓(大祝一族のものか)がかつて並んでいた。
- ^ 室町中期に書かれた『画詞』と日付が異なっているのは、時間が経つにつれて祭事の日取りが変更されたからと思われる[127]。
- ^ 何を指すかは不明。長さは4尋1尺、まわり1尺8寸と言われている。
- ^ 現在の諏訪市大字湖南の南真志野地区にある「のやきの原」(習焼神社周辺)を指す。
- ^ 現在の諏訪市大字豊田の有賀地区にある「こしき原」(甑原・小敷原とも)を指す。古くは上社神域の最北端とされていた。
- ^ 現在は上社の建御名方神が下社の八坂刀売神のもとへ訪れに行った跡とする伝説のほうが知られている。
- ^ ただし、実際はカエルを一つも捕れなかった年も過去にはある。
- ^ 大祝職が廃止されてから本宮の幣拝殿で供えられるようになったが、近年では動物愛護団体から抗議を受けているため神事自体が非公開となっている。
- ^ 蛇神とされた祭神に好物のカエルを捧げる説、古代人に食料とされたカエルを祖先神に捧げる説、諏訪上社の御狩始めの儀式説、月(陰気)を象徴する蛙を殺し春を迎える説、三毒の退治を表す密教風儀式説など。
- ^ 中世では外県介と付属の宮付の2名は上社の社家が務め、残り4名は郷村から選ぶのが慣例になっていたようである。
- ^ 現在は10組である。
- ^ 精進屋は原則として御頭郷に建てられる一時的な建物であるが、神長の屋敷(現在の神長官守矢史料館)には恒久的な精進屋があって、御頭郷がそれを利用した例が見られる[143]。
- ^ なお、茅野市・諏訪市にある4社の御頭御社宮司社には例祭に諏訪大社の神職が出向する習慣が今も残っている。
- ^ 柳田はこの考えに対し否定的だった[152]。
出典
脚注
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参照文献
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- 大庭祐輔『竜神信仰―諏訪神のルーツをさぐる』論創社、2006年。ISBN 978-4846003142 。
- 大場四千男「加藤幸信「北炭真谷地炭鉱の友子制度と軌跡」 北海道炭鉱汽船㈱百年史編纂(五)」『開発論集』第89号、北海学園大学開発研究所、2012年3月、141-189頁、ISSN 0288-089X、NAID 120003967405。
- 大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年。ISBN 978-4-479-84078-7。
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- 「『遠野物語』研究草稿」 後藤総一郎編、明治大学政治経済学部後藤総一郎ゼミ、1996年。
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- 茅野市神長官守矢史料館 編『神長官守矢史料館のしおり』(第三版)、2017年。
- 寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書店、2010年。ISBN 978-4-8729-4608-6。
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- 松村明 監修 著「三狐神」、小学館国語辞典編集部 編『大辞泉』小学館、2012年。ISBN 978-4-095-01213-1。 デジタル大辞泉『三狐神』 - コトバンク
- 小学館国語辞典編集部 編「三狐神」『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006年。ISBN 978-4-095-21022-3。 精選版 日本国語大辞典『三狐神』 - コトバンク
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関連文献
- 金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年。 NCID BN01626104。
- 鈴鹿千代乃・西沢形一 編『お諏訪さま―祭りと信仰』勉誠出版、2004年。ISBN 978-4-062-11850-7。
- 宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年。
- 宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年。
- 柳田國男『石神問答』聚精堂、1910年 。
- 論文
- 武井正弘「祭事を読む-諏訪上社物忌令之事-」『飯田市美術博物館 研究紀要』第9巻、飯田市美術博物館、1999年、121-144頁、doi:10.20807/icmrb.9.0_121、ISSN 1341-2086、NAID 110008434555。
関連項目
外部リンク
- 文書
- 祝詞段(『信濃史料 巻16』収録)
- 諸神勧請段(『信濃史料 巻16』収録)
- 諏訪社上社年内神事次第旧記(『信濃史料 巻11』収録)
- 諏訪大明神神秘御本事大事(守矢満実 著、『諏訪史料叢書 巻30』収録)
- 守矢頼真書留(『甲斐叢書 第8巻』収録)
- 諏訪上下社神事祭礼ノ事断簡(『諏訪史料叢書 巻30』収録)
- 守矢家諸記録類(『諏訪史料叢書 巻26』収録)
- 諏訪神使御頭之日記(守矢頼真 著、『甲斐叢書 第8巻』収録)
- 神長官守矢家文書目録 (PDF, 2.5 MiB)