山中共古

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やまなか きょうこ
山中 共古
生誕 (1850-12-06) 1850年12月6日
江戸四谷仲殿町西念寺(現在の東京都新宿区
死没 (1928-12-10) 1928年12月10日(満78歳没)
日本の旗 日本 東京府
国籍 日本の旗 日本
別名 平蔵(幼名)、保生、笑(1872年以降)
出身校 東洋英和学校
職業 武士牧師(メソジスト派)、民俗学者

山中 共古(やまなか きょうこ、1850年12月6日嘉永3年11月3日) - 1928年昭和3年)12月10日)は、日本の牧師民俗学者。「共古」は筆名幼名は平蔵で、後に保生。1872年(明治4年)に改名して笑(えむ)。日本メソジスト教会の最初の牧師の一人である。

略歴[編集]

御家人[編集]

江戸四谷仲殿町西念寺(現在の東京都新宿区)に生まれる。山中家は徳川氏に仕える御家人の家柄で、遠祖は伊賀衆であるという。1864年元治元年)和宮親子内親王広敷添番に登用され、江戸城和宮に仕えた。

賤機舎教授[編集]

1868年(明治元年)徳川家が戊辰戦争で敗北すると、徳川家と共に駿府に移住した。そこで、旧幕府の学問所静岡藩の英学所賤機舎の英学教授となった。外国人教授であったエドワード・ウォーレン・クラークデイヴィッドソン・マクドナルドの影響を受けた。1872年(明治4年)笑と改名する。

メソジスト牧師[編集]

1874年(明治7年)9月27日、カナダ・メソジスト教会の医療宣教師マクドナルドから受洗した。1878年(明治11年)静岡県梅屋町に講義所(伝道所)を開設、カナダに帰国中のマクドナルドに代わり伝道した。[1]

1881年(明治8年)本格的に神学を学び東洋英和学校神学科を卒業した。卒業した年の1881年9月に平岩愃保土屋彦六と共に按手礼を受け、日本メソジスト教会教職試補に任命される。

1882年(明治15年)9月には正式に牧師となり、メソジスト最初の牧師の一人になった。

民俗学者[編集]

1886年(明治19年)には甲府教会甲府市中央、旧桜町)の牧師となる。共古は甲府教会や結城無二三の開いた日下部教会を拠点に山梨県の各地で伝道活動を行い[2]、その一方で庶民の生活史を見聞し、その成果を『東京人類学会雑誌』へ発表する(のちに『甲斐の落葉(おちば)』として集成)。

1905年(明治38年)には民俗学者柳田國男に出会う。また、後に民俗学考古学として確立する分野の先駆者である藤井貞幹松浦武四郎らとも親交を持つ。

山梨を離れた後は沼津教会や東京下谷教会、東京牛込教会、吉原教会などで牧師を務め、1912年(明治45年)には牧師を辞して本格的な民俗学・考古学研究に専念する。

1928年(昭和3年)に79歳で死去。

山中の評価[編集]

著作に『土俗雑語』(明治32年)、『見付次第』、『吉居雑話』、『仙梅日記』、『三猿塔』(大正11年)など。共古は日本民俗学の先駆者として知られ、柳田國男も共古の業績を評価し著作の出版に尽力している。『甲斐の落葉』は山梨県の道祖神祭りや山梨独自の節供人形であるかなかんぶつなど同時代に廃れつつあった民俗事例を記録しており、山梨県民俗史研究の嚆矢として評価されている。

著書(新版)[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1878年(明治11年)の梅屋町の講義所改設以来、1912年まで山中は東京甲府静岡沼津見付吉原の教会を巡回し、静岡教会をはじめいくつかの教会で牧師として活動した。
  2. ^ 共古は1886年(明治19年)に峡東の名望家である飯島信明中沢徳兵衛に洗礼を施しているが、中沢家やその周辺では道祖神や飛礫など共古の『甲斐の落葉』を継承した民俗研究を行った中沢厚や宗教学者である中沢新一、さらに山梨の民俗事例を意識し「網野史学」と呼ばれる一連の社会史論考を展開した網野善彦がおり、共古の影響が指摘されている。杉本仁「『甲斐の落葉』と『見付次第』-山中共古から中沢新一まで-」『甲斐路』(106号、2004年)

参考文献[編集]

  • 中沢厚「山中笑翁略伝」『甲斐路 No.24』(山梨郷土研究会、1974年)
  • 志摩阿木夫「山中笑(共古)」『郷土史にかがやく人々』(1987年)
  • 杉本仁「『甲斐の落葉』と『見付次第』―山中共古が残したもの―『甲斐路 No.116』(山梨郷土研究会、2004年)
  • 杉本仁「山梨県におけるキリスト教と民俗学-山中共古から中沢新一まで-」『甲斐 第118号』(山梨郷土研究会、2009年)
  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年