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諏訪神党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神氏
氏姓 神朝臣
出自 なし(氏子の宗教的結合)
氏祖 伝承:神有員(御衣木法理有員)
種別 皇別・神別・諸蕃等の分類はなし(神そのものである現人神たる大祝、およびその一族・氏子)
本貫 信仰上:字義通り「神(カミ)」そのものであるため(諏訪大明神が自身の依代に授けた氏族名)
大神氏同族説(神=ミワ説):信濃国諏訪郡美和郷(近世の箕輪郷、近代以降の長野県上伊那郡辰野町)
金刺氏同族説:鎌倉時代中期ごろに氏子への称号としていたものが、南北朝時代ごろまでに上社大祝権威強化のために宗家自身が改姓
著名な人物 諏訪氏を参照
凡例 / Category:氏

諏訪神党(すわしんとう)は、諏訪大社上社の長である大祝(おおほうり)家の諏訪氏(諏方氏)を中核として,諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団、または氏族団。南北朝時代成立の軍記物語『太平記』(1370年ごろ)では、神家(じんけ)の集団名が用いられている。伝説的氏祖は御衣木法理有員(みそぎほうり ありかず)。しかし、有員を人間の少年とするのは南北朝時代とそれ以降の文献でしか確認できないため、氏祖の少年としての有員は、当時の大祝で諏訪氏中興祖の諏訪頼嗣(直頼)自身がモデルであるとする説もある。

神党に属する一族は「神」を本姓とする神氏(かみうじ/みわうじ)を称した。また、通称に「神」を加えて(神左衛門など)諏訪神党であることを示す。神氏の「神」の訓読みは「かみ」説と「みわ」説がある[注釈 1]。「みわ」説は、諏訪大社上社の信仰が出雲信仰の分派であるとする説(大神氏(おおみわうじ)の兄弟氏族とする説)に基づく。

諏訪大社の分霊に伴って一族は全国各地に拡がり、その後裔は長野県などの東日本を主として、西日本では長崎県肥前神氏や福岡県などにも現存するとされている。

概要

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誕生期については諸説あるが、概ね鎌倉時代に諏訪氏を中核として、諏訪明神の氏人である諸族が同族的な結束力を持った集団を形成したとされる。

鎌倉時代の信濃武士は、治承・寿永の乱で木曾義仲に味方した者が多く、鎌倉幕府の御家人としては冷遇されることが多かった。比企能員の変後に北条義時が信濃国守護になると、諏訪氏は執権家北条氏の有力な御内人となり、将軍から執権へと実権が移る得宗専制の中で、その地位を高めていくことになる。

鎌倉時代中期には、諏訪神党であることを示す「神」の姓が史料に登場するようになる。室町時代初期には、幕府奉行を務めた京都諏訪氏により「前田本 神氏系図」という神氏の系譜も登場する。ただし、鎌倉期の史料では諏訪祠官家本家は除目などの本姓では「金刺」と記されている。

諏訪神党は諏訪明神の氏人であることが条件とされ、諏訪一族以外にも大族滋野氏三家の根津氏を始めとする諸族が多く含まれており、越後との国境に近い奥信濃志久見郷の市河氏も神氏を名乗った記録が残されている(諏訪氏と婚姻関係を結んでいる氏族が大半を占めるが、明確な婚姻関係が確認できない氏族もあり、必須条件ではないとする説もある)。

諏訪神党の多くは鎌倉幕府が終焉を迎えた後も北条氏への恩顧を残しており、諏訪社上社大祝家の諏訪照雲(頼重)・時継父子が北条時行を擁した中先代の乱では、中核となって挙兵した[1]。

続く南北朝時代(1337–1392年)では、時継の子の諏訪頼嗣(直頼)が大祝となり、中先代の乱の敗北で傾いた家運を取り戻すため、小笠原氏と信濃の覇を激しく争った[2]。北朝から念願の「信濃守」の官位を得ることに成功し、初期には室町幕府の実質的な最高権力者である足利直義(足利尊氏の弟)の側近として活躍した[3]。観応の擾乱(1350–1352年)では、敵方の関東方面軍を統帥する有力武将・高師冬を討ち取るという活躍をしている[3]。

直義の敗退・急死後、頼嗣は、南朝の宗良親王を奉じ、諏訪神党を統率して武蔵野合戦(1352年)などに参戦した[4]。桔梗ヶ原の戦い(1355年)の敗戦などで南朝が行き詰まったのちは、第二代将軍・足利義詮のもとに帰参し旧直義党復権の機運と共に勢力を挽回、管領斯波氏と手を組んで小笠原氏と対抗するなど、巧みな政治感覚で乱世を渡り歩いた[5]。南北朝の内乱が終わった後の応永2年(1395年)、当時数え67歳の時にも、諏訪氏一門の大御所として力を振るっていることが確認できるという[6]。諏訪信仰の再構築と体系化は、頼嗣および同族の諏訪円忠が共同で行ったものであるという説もある[7](#氏祖)。

戦国時代、武田信玄の子の諏訪勝頼(のちの武田勝頼)は、信濃国筑摩郡小野社(小野神社・矢彦神社)に寄進した銅鐘(永禄7年(1564年)11月)の文で、「大檀那諏方四郎神勝頼」と、神氏の名乗りを用いている[8]。なお、文は諏訪郡下諏訪町の慈雲寺(下社大祝の金刺満貞が開基した寺)の住持である天桂玄長が著したものである[8]。

江戸時代に諏訪氏諏訪藩主家が清和源氏を自称したことにより、武士団としての諏訪神党は事実上消滅した[9]。『寛政重修諸家譜』(文化9年(1812年))では、神氏の本姓を名乗る武家は、日本全国で大熊氏のただ一氏しか存在しない[9]。

氏祖

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後に南北朝時代に諏訪円忠が著した『諏方大明神画詞』(正平11年/延文元年(1356年))では、8歳の有員という童男の体を諏訪大明神が依代にしたとされ、この現人神の有員少年が神氏の始祖だとしている[10]。

御衣木法理有員(みそぎほうり ありかず)という者を初代大祝とする説話自体は、鎌倉時代末期の『陬波私注』(正和2年(1312年))にも見られる[11]。しかし、そこでは天竺(インド)出身者で諏訪大明神の叔父の「続旦大臣」であるという、『諏方大明神画詞』以降とは全く異なる説話になっている[11]。

青木隆幸によると、童子が諏訪大社上社の大祝になるという物語は、この南北朝時代の『諏方大明神画詞』が初見である[12]。そして、(7歳で大祝に就任し、8歳で再就任した)当時の大祝である諏訪頼嗣(直頼)をモデルとして成立したのではないか、という[12]。南北朝内乱で大祝の権威が揺らいだため、円忠の『諏方大明神画詞』と共に、南北朝時代に権威の再構築と諏訪信仰の体系化が進められたのではないか、とされる[12]。頼嗣(直頼)の伝記を著した花岡康隆も、史料からわかる頼嗣の人生や当時の状況と整合性がある、として青木説を肯定的に見ている[7]。

名称

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神の読み方

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信濃国(長野県)における神氏の「神」の訓読みでの読み方には、「かみ」と「みわ」の2説がある[13]。「みわ」説は、20世紀前半の氏族研究者の太田亮に始まるという[13]。

なお、醉古生によると、1935年時点の長野県では、「神」の家名は「じん」と読まれていたという[14]。ただし、「じん」は「神」の呉音による音読みであるため、古代氏族としての氏(ウジ・カバネのウジ)なら訓読みでの呼称があったはずである[14]。また、古文献では「かみ」「かん」と書かれることが多いという[14]。

1924年、太田亮は『信濃』で、諏訪大社上社信仰の出雲神話分派説を支持し、神氏=「みわ」氏説を唱えた[15]。『和名類聚抄』(10世紀)によると、信濃国の諏訪郡に「美和郷」がある[15]。また、神家の神は「ミワ」とも訓むことができるため、(『古事記』(712年)で諏訪の建御名方の兄弟神とされる)事代主を祖神とする一族と同じく、「美和」「三輪」もしくは「大神」(おおみわ)が本姓なのではないか、とした[16]。また、『万葉集』第20巻には「主帳埴科郡神人部子忍男」という歌人が見える[17]。この神人部氏は、神氏の部曲(かきべ、私有民)の末裔と考えてもよいでのはないか、としている[17]。

1935年、醉古生は太田の「みわ」氏説を支持し、信濃「みわ」氏の根拠地とされる古代の美和郷を、近世の箕輪郷、現代の長野県上伊那郡辰野町に比定した[14]。三輪明神(奈良県の大神神社)の「三輪」(みわ)は、蛇が何重にもとぐろを巻いた様が語源であるという説があり、意味からすれば「三の輪」(みのわ)が本義である[14]。そこから考えると、信濃の「美和」(みわ)も、「三輪」(みわ)=「三の輪」(みのわ)=「箕輪」(みのわ)と変化したのではないか、という[14]。

なお、箕輪は現代では諏訪郡に含まれないため、一見、諏訪郡美和に比定する説に反する[14]。しかし、古代には箕輪より南にあった手良郷(伊那市手良各町)も諏訪郡だったため、当然、箕輪も当時は諏訪郡だっただろうとしている[14]。さらに、近古「箕輪郷」の中心地は現代の箕輪町より北にずれており、辰野町にあったのではないか、と推測する[14]。「みわ」とは蛇神のことであるから、「辰」(龍)の字にも通じる[14]。そして、辰野町にはまさに「三輪神社」が現存するため、この地こそが神氏(上社系諏訪氏)の本来の根拠地だったはずである、と醉古生は主張した[14]。

ただし、「みわ」説は諏訪大社の上社系信仰が出雲信仰の分派であるという説を採っており、かつ古代から下社系諏訪氏とは別族の「神氏」が存在したという仮定に基づいている[15][14]。小林計一郎は、鎌倉期にはどちらも「金刺氏」だった(あるいは太田説どおり上社にも下社の金刺氏の血が混ざって鎌倉期までに金刺氏化した)のではないか、とする説も提示している[18]。訓み方については、「かみ」か「みわ」かは判然としない、としている[13]。

諏訪神党という用語

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軍記物語『太平記』(1370年ごろ)の古態本の一つ「西源院本」では、第31巻「笛吹崇軍の事」で、武蔵野合戦(1352年)に繁野の一族20人と共に「神家の一族」33人らの武将が加わっていたと描かれている[19]。兵藤裕己の校訂本は「神家」に「じんけ」の訓みをふっている[19]。

「諏訪神党」という用語は、1929年に山田肇の『諏訪大明神』で用いられている[20]。同書では南朝の征夷大将軍・宗良親王に加勢し、桔梗ヶ原の戦い(1355年、諏訪頼嗣#桔梗ヶ原の戦い)に参戦した諏訪大社戦力のことを指す名称となっている[20]。同書では南朝の親王に味方した「勤皇の軍」として、当時における賛辞で賞賛されている[20]。また、同書では「宗良親王が下之宮に御参詣あり」と書かれ、南朝との繋がりでは下社の方が強調されている[20]。

1939年に伊藤伝が著した『信濃宮御詠と史伝』では、宗良親王に加勢した南朝勢に加えて、北条時行の中先代の乱(1335年)に加勢した一党も「諏訪神党」と呼ばれている[21]。

1958年には河出書房新社の『日本歴史大辞典』が、「信濃国」の項目で、地縁・血縁で団結した信濃国の一団として「諏訪神党」の用語を採用している[22]。

1967年には、小林計一郎が、『伊那』472号において、諏訪社の氏人である諏訪神党と「神」の字の通称や本姓を関連付けて考察を行った[23]。

諏訪神党の各家

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諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族といい、信濃国には一門が多い。さらに鎌倉時代に諏訪氏が北条氏の御内人となったことから全国に社領を拡大し、多くの一族が全国に拡散していった。地方の領主としては駿河国の滋野氏系の安部氏、丹波国の上原氏、出雲国の牛尾氏、薩摩国の上井氏なども諏訪氏の一門に該当する[24]。

神家一党33氏

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以下の氏族は諏訪氏の一族であるという。

関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、千野氏、松島氏、座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、小島氏、中野氏、根津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、桓原氏、宮所氏、宮川氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、櫻澤氏

その他の諏訪氏一族

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岡屋氏、栗田氏、三輪氏、箕輪氏、埴原田氏、一瀬氏、武井氏、安宿氏、足羽氏、桑原氏、山井氏、花岡氏、関氏、大平氏、大島氏、小野氏、小林氏、平林氏、周防氏、片倉氏、藤森氏、原氏、矢澤氏、宮下氏、宮崎氏、金山氏、津波木氏、岩波氏、高木氏、横田氏、海口氏、西條氏、櫻井氏、栗澤氏、福島氏、春日氏、大藍氏、宮坂氏、小田切氏、小井弖氏、平栗氏、早出氏、濱氏、中尾氏、波間氏、吉田氏、木村氏、大木氏 、米澤氏、沖氏、杵淵氏、寺尾氏、保坂氏、諏訪部氏

「澤」のつく庶族

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栗澤氏、藍澤氏、宮澤氏、中澤氏、元澤氏、唐澤氏、福澤氏、藤澤氏、松澤氏、大澤氏、増澤氏、谷澤氏、吉澤氏、金澤氏、柴澤氏、平澤氏、米澤氏、蕗澤氏、胡桃澤氏、神澤氏、大澤氏、能澤氏、粟澤氏、駒澤氏、西澤氏、北澤氏、奥澤氏、前澤氏、横澤氏、赤澤氏、蘆澤氏、白澤氏、樋澤氏、戸澤氏、立澤氏、三澤氏、石澤氏、廣澤氏、岡澤氏、柿澤氏、長澤氏、尾澤氏、鳴澤氏、柳澤氏、瀬澤氏、古澤氏、澤氏、鮎澤氏、入澤氏、木澤氏、笹澤氏、田澤氏、野澤氏、小澤氏、菅澤氏、増澤氏、二澤氏、有澤氏、黒澤氏、味澤氏、矢澤氏

脚注

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注釈

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  1. ↑ 詳しくは#神の読み方を参照。

出典

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  1. ↑ 花岡 2021, pp. 207–208.
  2. ↑ 花岡 2021.
  3. 1 2 花岡 2021, pp. 211–214.
  4. ↑ 花岡 2021, pp. 214–217.
  5. ↑ 花岡 2021, pp. 217–220.
  6. ↑ 花岡 2021, pp. 221–222.
  7. 1 2 花岡 2021, pp. 208–211, 219.
  8. 1 2 信濃史料刊行会 1968, pp. 550–551.
  9. 1 2 小林 1982, p. 182.
  10. ↑ 信濃史料編纂会 1913.
  11. 1 2 高階 1943.
  12. 1 2 3 花岡 2021, pp. 208–211.
  13. 1 2 3 小林 1982, p. 155.
  14. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 醉古生 1935.
  15. 1 2 3 太田 1924, pp. 51, 154.
  16. ↑ 太田 1924, pp. 51.
  17. 1 2 太田 1924, pp. 51, 176.
  18. ↑ 小林 1982, pp. 155–203.
  19. 1 2 兵藤 2023, vol. 5, pp. 112–120.
  20. 1 2 3 4 山田 1929, pp. 82–84.
  21. ↑ 伊藤 1939, pp. 113, 132.
  22. ↑ 河出書房新社 1958, p. 296.
  23. ↑ 小林 1967.
  24. ↑ 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年(昭和9年))3099頁参照。

参考文献

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  • 伊藤伝『信濃宮御詠と史伝』山村書院、1939年。NDLJP:1148438。 
  • 岩本尚実 編『神氏系図 前田古写本之写』1873年。doi:10.82680/03OD0624101600。  オープンアクセス - 前田本『神氏系図』を写した修史館所蔵本をさらに明治6年(1873年)に旧高島藩士の岩本尚実が写したもの。長野県立歴史館所蔵。
  • 太田亮『信濃』磯部甲陽堂〈日本国誌資料叢書〉、1924年。NDLJP:982145。  オープンアクセス
  • 河出書房新社 編『日本歴史大辞典 9 さかーしは』河出書房新社、1958年。NDLJP:2998379。 
  • 小林計一郎「諏訪神党について 一」『伊那』第472号、伊那史学会、1967年、1–7頁、NDLJP:4431309。 
  • 小林計一郎『信濃中世史考』吉川弘文館、1982年。NDLJP:9570740。 
  • 信濃史料刊行会 編『信濃史料 第十二巻』信濃史料刊行会、1968年。https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000012/1201/。  閲覧は自由
  • 信濃史料編纂会 編「諏訪大明神絵詞 下 諏訪祭一 春上 正月一日、荒玉社若宮宝前を拝して」『信濃史料叢書 第三』信濃史料編纂会、1913年。https://books.google.co.jp/books?id=vYcDZygQHLIC&pg=PP56。  閲覧は自由
  • 醉古生「我が信濃に於ける出雲民族 三輪伝説を再検討す(下)」『信濃』第4巻第10号、信濃史学会、1935年、24–27頁、NDLJP:2263827。 
  • 高階成章「金澤文庫本陬波私注について」『信濃』第19号、信濃史学会、1943年、1–11頁、NDLJP:2202798。 
  • 花岡康隆 著「諏訪直頼―小笠原氏打倒にかけた生涯」、亀田俊和; 生駒孝臣 編『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、2021年、206–222頁。ISBN 978-4864033800。 
  • 兵藤裕己 編『太平記〔電子書籍版〕』岩波書店、2023年。 
  • 山田肇『諏訪大明神』信濃郷土文化普及会〈信濃郷土叢書 第1編〉、1929年。NDLJP:1026869。 

関連項目

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