北条時行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
北条時行
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 正平8年/文和2年5月20日1353年6月21日
改名 亀寿丸[1]・長寿丸[2]・勝長寿丸[3]→時行
別名 相模二郎
氏族 北条氏得宗
父母 父:北条高時、母:二位局
兄弟 邦時時行
豊島輝時?、行氏?、時満?、惟時?

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代武将である。

鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。鎌倉幕府残党を糾合して北条氏復興のため中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。のち足利尊氏方に捕らえられ処刑されたとされる。

鎌倉幕府滅亡[編集]

幼名を亀寿丸という。母は安達時顕の娘・二位局。

1333年、新田義貞による鎌倉攻めが行われ、執権北条高時を始め北条一族郎党は集団で自害し、鎌倉幕府は滅亡したが、時行は北条泰家の策によって諏訪盛高に連れられ鎌倉を脱出した。兄北条邦時も鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の裏切りによって朝廷方に捕らえられ処刑されている。

太平記」には、1335年、逃亡潜伏していた北条泰家や旧幕府の関係者達、西園寺公宗らが北条氏の復興を図った際、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立てられ、泰家は諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた。盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ処刑された邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅して二位局らを困惑させている隙に時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後二位局は悲観して入水自殺したともされる。

幼年期[編集]

時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主(大祝)である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。

信州では得宗家被官であった諏訪神党などは冷遇され、代わって足利氏と懇意の小笠原氏が優遇されていた。時行は諏訪氏の勢力下、または中央の目の届き難い伊那谷地方にて潜伏・養育されていたとみられ、伊那地方には時行が住んだとされる遺跡や地所の伝承が多く残る。

時行挙兵、鎌倉奪還[編集]

(詳細は「中先代の乱」項目参照)

建武2年(1335年)7月、成長した時行は、後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、時継親子や海野氏根津氏望月氏滋野氏滋野三家)らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった。

建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、7月22日には武蔵国の女影原(埼玉県日高市)で待ち構えていた渋川義季岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見(横浜市鶴見区)で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へと進軍した。尊氏の弟である鎌倉将軍府執権足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破り、鎌倉へ迫ると足利直義らは鎌倉を放棄して足利氏所縁の三河国へ逃走。時行は父祖の地である鎌倉を奪回した。またこの際、鎌倉に幽閉されていた護良親王(大塔宮)は、時行に利用されることを恐れた直義方の手により殺害された。

「中先代」[編集]

鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった。

直義と合流した尊氏は東進し、迎え撃つ時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。遠江国・駿河国・相模国など十七か所で局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび破れ退却を余儀なくされた。

ついには鎌倉にまで追い詰められ時行軍は壊滅。諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら信濃の諾将四十余名は勝長寿院で自害した。この自害した者達の遺体は皆顔の皮を剥がれており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと判断されていた。

時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日間であるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる。

また、この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどした為に後醍醐天皇の勘気を被った。両者の亀裂は次第に深みを増し、尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり(延元の乱)、南北朝時代の幕開けとなった。

南朝への帰参[編集]

足利尊氏にとって、時行の挙兵は帝の疑心を招き、新田義貞や弟・直義との関係を悪化させるなどしたが、勝長寿院で戦死したと思われていた時行が実は今だ生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を免除され、南朝と結託したことは、さらに尊氏を驚かせた。

時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明していないが、後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された上、父北条高時に対する朝敵恩赦の綸旨を受けた。

時行による高時の朝敵撤回に関しては、後世に時行の子孫を自称した横井小楠から「この上ない親孝行である」と礼賛されている。

復活と転戦、鎌倉再陥落[編集]

朝廷への帰参を果たした時行は今度は南朝方の武将として各地で転戦した。時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を称揚した(梅松論)。

南朝へ帰順した時行は北畠顕家の征西遠征軍に加わり、美濃青野原の戦いなどで足利軍と闘う。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた形の新田義貞と連携を取らず、足利方の諸軍との連戦で疲弊した末に和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。総大将の敗死により北畠征西遠征軍は結果として瓦解してしまった。

顕家が戦死したことにより北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、信州諏訪周辺に潜伏していたとされる。南朝から送り込まれた宗良親王らと信濃を拠点に活動していた。足利政権の内紛である観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指して新田義貞の子義興らとともに新田氏の根拠地である上野国で挙兵した。正平一統が破綻した際の1352年(正平7年/観応3年)に南朝の征夷大将軍である宗良親王を奉じて新田義興と弟義宗、その従兄弟脇屋義治諏訪直頼ら信濃の諸将、旧足利直義派の武将(上杉憲顕ら)と挙兵。鎌倉を一時占拠し、尊氏を武蔵国石浜に孤立させた。同時期に南朝方が京都を占拠し尊氏方を追放しており、尊氏派を窮地に追い込んだが、尊氏の反撃にあって時行らの南朝勢は鎌倉を追われ、信濃や越後へと退却した。(武蔵野合戦

何度敗れても再び姿を晦まし、水面下でなおも尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていたとも伝わっている。この鎌倉陥落ののちの正平8年(1353年)尊氏方は鎌倉府の機能を、関東の尊氏派らが守り易い入間川御陣へと移している。

最期[編集]

鶴岡社務録などの史料によれば、正平8年(1353年)5月20日に尊氏方の足利基氏の手勢に捕らえられ、鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わる。だが、洞院公賢の日記園太暦今川了俊難太平記などによるとここでも時行は脱走し行方を晦ましたとある。足利氏としては、未だ全国で蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実をつくりたかったのであろう、とする説がある。

以上のように、1353年に処刑されたことになっているが、時行の末路について、不明瞭な点が多い。

人物[編集]

  • 時行を庇護した諏訪氏の頼重は、時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていたと伝わる。
  • 鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだといわれるが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある。
  • 時行は、たとえ自分が非命に倒れても、北条の血が後世に残るようにと、育った諏訪の地で大勢の巫女手を付け、また各地を転戦する中でも地元の豪族の娘などを寝取ったりして多くの胤子を残したとする伝承がある。諏訪で育った時期は幼少期であり、実情と合致しないのであるが、ともあれ時行の落胤、末裔を称する家は多く、例えば賤ヶ岳の七本槍の一人である平野長泰[4]や、後北条氏家臣の板部岡江雪斎、幕末の思想家横井小楠もその一人である。

子孫[編集]

岡野氏横井氏(子孫には横井小楠)や平野氏(尾張平野氏、子孫に平野長泰)など時行の子孫を称する家系がある。なお、近年黒田基樹後北条氏第2代に数えられる北条氏綱の正室であった養珠院殿が後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している[5]。ゆえに、あくまで可能性だが養珠院殿の子孫(子の北条氏康など)は時行の子孫であると考えることもできる。

脚注[編集]

  1. ^ 太平記』・正宗寺本『北条系図』
  2. ^ 梅松論』『桓武平氏系図』
  3. ^ 保暦間記』(幼名)
  4. ^ 公家の「清原氏」の子孫とも称する。
  5. ^ 黒田基樹「伊勢宗瑞論」(黒田 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-071-7)pp.16-17

参考文献[編集]

  • 「北条時行」「中先代の乱」(国史大辞典
  • 鎌倉・室町人名事典(新人物往来社)
  • 北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」