名越時兼

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名越 時兼(なごえ ときかね、生年不明 - 建武2年(1335年8月)、または北条 時兼(ほうじょう ときかね)は、鎌倉時代末期の武士名越流北条氏。名越太郎。

概要[編集]

名越時兼は鎌倉時代末期に越中守護であった名越時有の子とされる。

正慶2年/元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の滅亡後、幕府再興と建武の新政転覆を謀り北条氏の残党が各地で蜂起する。建武2年(1335年)7月北条時行信濃諏訪頼重らに擁立され鎌倉奪還を目指し挙兵すると(中先代の乱)、時兼もそれに呼応して、越中や能登加賀で長沢氏や井口氏、野尻氏ら新政に不満を持つ武士を結集し北陸で蜂起した[1]

時兼は杉本城を拠点とし、松倉城椎名六郎入道等北陸の新政権側の勢力を攻撃しつつ[2]、3万騎余を率い上洛を目論んだが、加賀の大聖寺城に拠り迎撃した福田・敷地・山岸・上木といった狩野一党や、援軍として派遣された瓜生保を初めとする越前の武曽・深町ら武士団に敗れ討ち取られた[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『太平記』巻13中前代蜂起事「名越太郎時兼には、野尻・井口・長沢・倉満の者共、馳著ける間、越中・能登・加賀の勢共、多く与力して、無程六千余騎に成にけり」
  2. ^ 『太平記理尽鈔』では、時兼が境川を経由し、向川を越えて親不知へ出撃した事が記されている。
  3. ^ 『太平記』巻13足利殿東国下向事付時行滅亡事「名越太郎時兼が、北陸道を打順へて、三万余騎にて京都へ責上けるも、越前と加賀との堺、大聖寺と云所にて、敷地・上木・山岸・瓜生・深町の者共が僅の勢に打負て、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報ぜり」

参考文献[編集]

  • 『越前の新田義貞考(上) 歴史研究学習資料』(福井・新田塚郷土歴史研究会著)
  • 『太平記』(巻十三 足利殿東国下向事付時行滅亡事)
  • 久保尚史「国吉名相論の位置-執権北条泰時と越中守護家名越氏との関係について-」『富山史壇』62・63合併号、1976年(久保1976A)
  • 久保尚史「越中守護名越時有とその所領について」『富山史壇』64号、1976年(久保1976B)
  • 久保尚史「鎌倉期越中の守護支配について」『富山史壇』80・81合併号、1983年

関連項目[編集]