井伊谷城

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井伊谷城跡からの眺め.jpg

井伊谷城(いいのやじょう)は、遠江国井伊谷(現在は静岡県浜松市北区引佐町)にあった日本である。

歴史[編集]

別名・井伊城。南北朝時代に、南朝方に味方した井伊道政によって築城されたと伝わっている(井伊共保の説もある)。南は三方からの敵の動きが分かり、北は標高が高い山が連なっており、攻めにくい地形に造られている城である。本丸二の丸三の丸などで構成されていた山城である[注釈 1]

戦国時代以前は三岳城井伊氏本城だった。

南北朝時代の記録は、三岳城を「井伊城」としている。この2つの城の関係はよく分かっていないが、南北朝時代は、井伊谷城が、普段、井伊氏が戦がないときに生活していた居城で、三岳城が、戦になったときに立て籠るための詰め城だったとされる。(しかし、戦国時代の井伊家の詰め城は三岳城から、背後の山に変わった。)

南北朝時代の井伊道政は南朝後醍醐天皇の皇子宗良親王を助け、井伊谷城に招いた。親王は道政の娘を正室として迎えている。また宗良親王の子・尹良親王も井伊谷城に生まれていると伝承されている。親王は井伊谷遠江国についてのを多く残しており、井伊谷城跡の山裾には宗良親王と、多遅摩毛理古事記日本書紀に登場する男性)とを祀る二宮神社がある。

井伊谷城は、暦応3年(1340年)に北朝方(室町幕府)の高師泰仁木義長らに攻められ落城した[2]

その後、井伊氏は、駿河の遠江守護となった今川の支配下に置かれることになった。

戦国時代になると、井伊氏は今川に従軍する。

1560年永禄3年)に21代目当主 井伊直盛桶狭間の戦いで戦死。その後家督井伊直親が継いだが、今川に謀反を疑われ掛川で殺害される。その後、直親の一児・虎松(のちの井伊直政 徳川四天王の一人)が城主となるまでの期間、井伊直虎が城主を務めた。

城の南にある井伊氏の菩提寺龍潭寺は井伊谷城の防衛の役割もある。

直虎は井伊家を任されてからも身を寄せていた龍潭寺に留まることはできたが、井伊谷城に移る決断をした。理由は井伊家を継ぐのが確実な虎松に武将としての振る舞いを城できちんと学ばせる為と、城が醸し出す「戦場の一部」という雰囲気に慣れさせるためだと考えられている。

今川で直虎への反感を持つ者が多くなった事と、甲斐国武田氏駿河国に侵攻してきたことによって、今川寄りの家臣小野道好今川氏真から、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢せよとの命を受け入れたことで、直虎は城主の座を奪われてしまい、直虎と虎松は龍潭寺に追いやられてしまう。

しかし、武田信玄が亡くなった事で武田の力は弱くなり、徳川家康井伊谷三人衆の力を借りて直虎は再び井伊谷城を取り戻した。

井伊直政以降は井伊氏の拠点が井伊谷から彦根に移ったので、江戸時代以降は城としての役割がなくなった。しかし、はっきりとした廃城年は分かっていない[3]

現在、井伊谷城は建物は残っていないが、二の丸三の丸跡などがある。

大河ドラマおんな城主 直虎』の放送が決定した後、城跡の頂上までの山道が浜松市によって舗装された。井伊谷城跡は標高110mで山頂まで約15分ほどで行くことができる[4]。  

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 井伊共保により築城されたと記述している[1]

出典[編集]

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  1. ^ 『歴史人2017年3月号 戦国』「おんな城主の決断」
  2. ^ 「歌人 宗良親王物語 歌人 宗良親王物語編集委員会」
  3. ^ 「井伊直虎 聖水の守護者 童間冬二 成美堂出版 2016年」
  4. ^ 「広報はままつ2016年7月号」