井伊谷城

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井伊谷城跡からの眺め.jpg

井伊谷城(いいのやじょう)は、遠江国井伊谷(現在は静岡県浜松市北区引佐町)にあった日本である。

歴史[編集]

別名・井伊城。

奈良時代、この地は古くより渭郷と呼ばれていたが、713年(和銅6年)に渭伊郷と改め、これが井伊谷の地名のもととなった。733年(天平5年)には行基龍潭寺(当時は地蔵寺と言う)を開いたと伝わり、井伊氏代々の菩提寺となっている。

平安時代に入り1010年(寛弘5年)、井伊谷の八幡宮神主は御手洗の井の傍らに男児を見出した、これが井伊氏の祖、井伊共保である。1032年(万寿9年)には井伊谷城を築城したと伝わる。南は三方からの敵の動きが分かり、北は標高が高い山が連なっており、攻めにくい地形に造られている城である。本丸二の丸三の丸などで構成されていた山城である[注釈 1]

戦国時代以前は三岳城井伊氏本城だった。南北朝時代の記録は、三岳城を「井伊城」としている。この2つの城の関係はよく分かっていないが、南北朝時代は、井伊谷城が、普段、井伊氏が戦がないときに生活していた居城で、三岳城が、戦になったときに立て籠るための詰め城だったとされる。(しかし、戦国時代の井伊家の詰め城は三岳城から、背後の山に変わった。)

1336年(延元1年)、南北朝が分立し、出城として「三岳城」を築いたとある。翌年、井伊道政南朝後醍醐天皇の皇子宗良親王を助け、伊勢より井伊谷城に招いた。親王は道政の娘を正室として迎えている。また宗良親王の子・尹良親王も井伊谷城に生まれたと伝承されている。親王は井伊谷遠江国についてのを多く残しており、井伊谷城跡の山裾には宗良親王と、多遅摩毛理古事記日本書紀に登場する男性)とを祀る二宮神社がある。

今川範国が井伊谷を攻め、今川方と井伊一門は井伊城や麓の三方ヶ原で戦闘となる。室町幕府が成立し、1340年(暦応3年)には北朝方(室町幕府)の高師泰仁木義長らに攻められ井伊谷城は落城した[2]

宗良親王は駿河から信濃に入り南朝の征夷大将軍となり、新田氏と共に各地を転戦するが足利方に敗走を続ける。この頃、井伊弾正(直秀と伝わる)も討ち死にしている。

今川貞世の鎮西九州攻めに井伊氏も同行する。奥山直朝が敗死。1385年(元中2年)には宗良親王が薨去し、その後南北朝合一が成る。

南北朝合一後、戦国時代までは比較的平穏な時代が続く。斯波氏が武功により室町幕府から井伊谷を含む遠江守護の地位を与えられるが、15世紀末の戦国時代に入ると今川氏親、北条早雲による遠江侵攻が始まる。対する尾張守護斯波義達も遠江に侵攻し両者の鍔迫り合いとなる。井伊直平は斯波方に付き氏親と戦うが、1514年(永正11年)、今川家臣朝比奈泰以に攻められ三岳城が陥落する。これにより井伊氏は今川氏の配下となる。以降、井伊氏は今川方として従軍する事になる。

1542年(天文11年)には井伊直宗今川義元に従い三河国田原城を攻めるが戦死(異説あり)。1544年(天文13年)には直宗の弟直満直義が武田氏に内通したとの家臣小野政直の讒言により義元に自害させられる。1560年永禄3年)には伝・直宗の子直盛桶狭間の戦いで戦死。家督を直満の遺児・直親が継ぐが、小野政直の子小野道好の讒言により今川に謀反を疑われ掛川朝比奈泰朝の襲撃を受け討死。直親亡き後の井伊谷は直親後見役の中野直由が治めるが、曽祖父の直平、重臣新野親矩ら共々、今川配下として戦いに出て戦死。直親の遺児・虎松(のちの井伊直政徳川四天王の一人)が城主となるまでの期間、出家していた伝・直盛の娘井伊直虎が還俗し城主を務めた。

城の南にある龍潭寺は井伊谷城の防衛の役割もあり、直虎は井伊家を任されてからも身を寄せていた龍潭寺に留まることはできたが、井伊谷城に移る決断をした。理由は井伊家を継ぐのが確実な虎松に武将としての振る舞いを城できちんと学ばせる為と、城が醸し出す「戦場の一部」という雰囲気に慣れさせるためだと考えられている。

今川で直虎への反感を持つ者が多くなった事と、甲斐国武田氏駿河国に侵攻してきたことによって、今川寄りの家臣小野道好今川氏真から、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢せよとの命を受け入れたことで、直虎は城主の座を奪われてしまい、直虎と虎松は龍潭寺に追いやられてしまう。

1568年(永禄11年)、「次郎法師」(直虎説が有力)と関口氏経の連名で井伊谷に徳政令が発布される。しかし同年末には武田氏の駿河侵攻が起こり戦国大名としての今川氏は滅びる。また武田氏に呼応して徳川家康が遠州攻め。井伊谷三人衆は徳川方に寝返りこれを支援し、井伊谷城を専横していた小野道好を攻めて捕らえる。翌年、小野は直親を讒言したかどで家康により処刑される。

1572年(元亀3年)、武田氏が遠州に侵攻。三方ヶ原の戦い。井伊谷三人衆は井伊谷城を武田方に明け渡す。翌年の1573年(天正元年)、武田軍は猛攻するも信玄が病に倒れ、甲斐への撤退を余儀なくされる。井伊谷の城下を焼き払う。また撤退途中で信玄が病没。その後、家康、井伊谷三人衆の力を借りて井伊谷を奪還する。

1575年(天正3年)、出家していた虎松(直政)の還俗、家康への出仕が認められ、井伊万千代と名乗る。この時、旧領である井伊谷が家康より直政に下賜される。

関ヶ原の戦いまでの武功により直政には彦根城が与えられ、井伊氏の拠点は井伊谷からそちらに移ったので、江戸時代以降は城としての役割がなくなった。しかし、はっきりとした廃城年は分かっていない[3]。また近藤秀用近藤康用の子)も関ヶ原の武功により井伊谷の一部を与えられる。

現在、井伊谷城は建物は残っていないが、二の丸三の丸跡などがある。

大河ドラマおんな城主 直虎』の放送が決定した後、城跡の頂上までの山道が浜松市によって舗装された。井伊谷城跡は標高110mで山頂まで約15分ほどで行くことができる[4]。  

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 井伊共保により築城されたと記述している[1]

出典[編集]

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  1. ^ 『歴史人』2017年3月号「おんな城主の決断」(KKベストセラーズ)
  2. ^ 歌人 宗良親王物語」(歌人宗良親王物語編集委員会)
  3. ^ 童門冬二「井伊直虎 聖水の守護者」(成美堂出版 2016年)
  4. ^ 「広報はままつ」2016年7月号