インノケンティウス7世 (ローマ教皇)

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インノケンティウス7世
第204代 ローマ教皇
インノケンティウス7世
教皇就任 1404年10月17日
教皇離任 1406年11月6日
先代 ボニファティウス9世
次代 グレゴリウス12世
個人情報
出生 1336年
Flag of the Kingdom of Naples.svg ナポリ王国 スルモーナ
死去 1406年11月6日
Flag of the Papal States (1808-1870).svg 教皇領 ローマ
その他のインノケンティウス
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インノケンティウス7世(Innocens VII, 1336年 - 1406年11月6日)は、ローマ教皇(在位:1404年 - 1406年)。15世紀初め、教会大分裂の時期の教皇である(アヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世)。アブルッツォ地方スルモーナの出身で、本名はコジモ・デ・ミリョラーティ(Cosimo de' Migliorati)。

ボローニャ大学で法律を学んだ後、ペルージャ大学パドヴァ大学で法学教授を務め、教皇ウルバヌス6世の下でローマ教皇庁に入った。1387年ラヴェンナ大司教1389年ボローニャ大司教、同年にボニファティウス9世から枢機卿に任命された。翌1390年は教皇特使にも任命、北イタリアへ派遣された[1][2]

1404年のボニファティウス9世死後のコンクラーヴェ(教皇選挙)で選出後、ローマで市民が不穏な動きを見せたため、ナポリラディズラーオ1世の働きかけで一旦市民と和睦した。ところが治安を任せた甥のルドヴィーコ・ミリョラーティがローマ市民指導者層11人を殺害したため、1405年にローマ市民が反乱を起こし、教皇はヴィテルボに逃れる。反乱鎮圧後ローマに戻るが、1406年に急死した。ベネディクトゥス13世との交渉は無視したため上手く行かず、分裂終息は次の教皇グレゴリウス12世の代に持ち越された[1][2][3]

脚注[編集]

  1. ^ a b 新カトリック大事典、P563。
  2. ^ a b バンソン、P131。
  3. ^ スチュアート、P182 - P184。

参考文献[編集]

  • 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第1巻』研究社、1996年。
  • P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。