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パドヴァ大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パドヴァ大学
Università di Padova
ラテン語: Universitas Studii Paduani
モットー Universa Universis Patavina Libertas
ラテン語:全てに普遍的な、パドヴァの自由
モットー (英語) Liberty of Padua, universally and for all
種別 公立
設立年 1222年
学長 Giuseppe Zaccaria
教員数
2,201人
学生総数 59,317人
学部生 38,495人
大学院生 20,822人
所在地 イタリア
パドヴァ
キャンパス 市街地
Sports teams CUS Padova
スクールカラー Padua Red  
コインブラ・グループTIME network
公式サイト www.unipd.it
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パドヴァ大学(パドヴァだいがく、伊: Università degli Studi di Padova, 略称: UNIPD)は、イタリア共和国ヴェネトパドヴァに所在する公立研究大学である。1222年に創設された中世大学で、ボローニャ大学からヴィチェンツァに移ってきた学生と教員の一団によって設立された[1]。同大学はイタリアで2番目に古い大学、ならびに現存大学として世界で5番目に古いとされる[2]

パドヴァ大学は近世初期ヨーロッパで最も著名な大学の一つであり、特にアリストテレス論理学と自然学の厳密さで知られた[3]コペルニクスガリレオ・ガリレイトスカネッリダンテペトラルカ等の歴史的な偉人達が活躍し、ヴェサリウスウイリアム・ハーベージョバンニ・モルガーニ英語版に代表される世界的医学革命の中心地として、ボローニャ大学と双璧を成す近代科学勃興期のルネサンスにおける世界史的一大拠点であった。

2021年時点で、同大学は32の学科と8つのスクールから構成され[4]、歴史ある研究大学の国際ネットワークであるコインブラ・グループに加盟している[5]。学生数は学部・大学院・博士課程を合わせて約7万2千人である[6]

歴史

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創設(13世紀)から18世紀まで

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通説では、1222年に多くの学生と教授がボローニャ大学を離れ、より大きな学問の自由を求めて設立したとされる。ただし、1222年以前の数年間、パドヴァ近郊、とりわけヴィチェンツァにおいて、各国からの学生を擁する法学・医学の学校が存在していたことが確かである。彼らが最初に落ち着いたのはヴィチェンツァ大学であり、そこで受け入れられたのち、種々の事情により本拠を恒久的にパドヴァへ移した。

初期に教授された科目は法学神学であったが、カリキュラムは急速に拡大し、1399年までには組織が二分化した。すなわち、ローマ法教会法を扱う法学部と、天文学弁証法哲学文法・医学・修辞学を教授する教養学部である。さらに、1373年にはウルバヌス5世により神学部が設置された。

ボ宮殿イタリア語版。1493年以来のパドヴァ大学の歴史的本部
ジローラモ・マルティネンゴの学位記(1582年)

学生団は出身地域に応じて「ネイション (大学)英語版」と呼ばれる集団に分けられ、これらはさらに二群に大別された。

  1. チスモンターネス:イタリア出身の学生
  2. ウルトラモンターネス:アルプス以北からの学生

15世紀から18世紀にかけて、同大学は研究で高い名声を博し、とりわけ医学・天文学・哲学・法学の領域で際立っていた。当時、国際的に最も名高い医学の学府であった[7]。この時期、大学はラテン語のモットー「パドヴァの自由は万人に普遍的である」を採用した。他方で同大学の歴史はしばしば多難であり、1237–1261年、1509–1517年、1848–1850年には教育活動が停止している。

植物園

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パドヴァ大学植物園は1545年に同大学により設立され、世界最古級の植物園として知られる。なお「最古の大学付属植物園」の称号は、メディチ家ピサに1544年に創設したものとの間で論争がある。植物園(春夏の訪問が推奨される)に加え、同大学は物理学史博物館を含む9つの博物館を運営している。

医学教育

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同大学には1595年創設の、ヨーロッパで最古の現存する解剖劇場 (パドヴァ大学)英語版がある。

医学教育はおよそ1250年頃に開始され、疾患同定治療において主導的役割を果たし、とりわけ解剖人体の内部機構に専門性を有した[8]。1595年以来、パドヴァの著名な解剖劇場は公開解剖の場として多くの芸術家・科学者を惹きつけてきた。解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスは外科学・解剖学講座を担当し、1543年に『ファブリカ』を刊行して解剖への大きな関心を呼び起こし、ヨーロッパ各地で解剖劇場設立を促した。

著名な女性

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1678年6月25日、ヴェネツィア貴族で数学者のエレナ・コルナロ・ピスコピアが、女性として初めて哲学博士の学位を授与された。

19世紀から現代まで

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トゥーリオ・レヴィ=チヴィタ。テンソル解析学に貢献した。

1873年、同大学はイタリア王国の大学の一つとなり、以後、学術研究・科学研究への貢献において国内有数の威信を保ってきた。数学分野だけでも、グレゴリオ・リッチ=クルバストロジュゼッペ・ヴェロネーゼフランチェスコ・セヴェリトゥーリオ・レヴィ=チヴィタといった教授陣を擁した。

19世紀末から20世紀前半にかけて、16世紀に進んだ集権化の流れは反転した。科学研究所は分散した実質的キャンパスとして整備され、都市中心部の別の場所に人文学・哲学部の新棟(ジオ・ポンティ設計のパラッツォ・デル・リヴィアーノ)が建設された。さらに、アジアーゴ高原にアジアーゴ天文台英語版が建てられ、旧ボ宮殿イタリア語版は全面修復(1938–1945年)された。イタリア・ファシズム期の政治介入やイタリアの人種法英語版などは大学の発展に悪影響を及ぼし、第二次世界大戦による破壊や、その数十年後の1968–1969年の学生運動も打撃となった。とはいえ、「あらゆる学科の学府」としての活動は途絶えることなく継続され、20世紀後半にはとりわけ科学技術分野での国際的な一流機関との交流により、学勢は大きく回復した。

近年、同大学は施設の過密化に対処するため、ヴェネト州全域への再配置を進めている。1990年にはヴィチェンツァに経営工学研究所が設置され、その後ブレッサノーネで夏季講座が再開、1995年にはレニャーロ農学獣医学センターが開設された。再配置の拠点はこのほか、ロヴィーゴトレヴィーゾフェルトレカステルフランコ・ヴェネトコネリアーノキオッジャ、アジアーゴに及ぶ。

また、近年の法律の変更によりイタリアの大学の自律性拡大への道が開かれ、1995年にパドヴァ大学はより大きな独立性を付与する新たな学則を採択した。

無数の会議・学会の刊行物が示すとおり、現代のパドヴァ大学は、欧州および世界レベルで学術・科学研究に重要な役割を果たしている。創設の精神に忠実に、今後も世界の主要研究大学との協力と交流を一層密にする方向を志向している。

大学の構成

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教育組織は、専門的研究及び教育を行うFacultyと、総合領域研究及び教育を行うDepartmentからなる。また、大学本部に相当するセンター、図書館、そして教育プログラムに相当するコース制からなる。コース制は、学位取得を目的とする、1st、2nd、3rdサイクルからなる。さらに、社会人教育に相当するOut of Mainstream educationからなる。

17世紀頃の学長と副学長の正装

評価

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2024年CWTSライデン大学ランキングでは、世界第100位だった。2024年USニューズ&ワールド・レポートランキングでは世界第130位だった。2026年QS世界大学ランキングでは世界第233位だった。歴史ある名門大学として、世界ランキングの潮流には乗らず、基本的にはイタリア語による授業を行っている。

著名な関係者

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脚注

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  1. History (英語). Università di Padova. 2020年6月8日閲覧。
  2. Università di Padova (英語). Top Universities. 2023年10月28日閲覧。
  3. The University of Padua”. www.princeton.edu. 2023年10月28日閲覧。
  4. University of Padua (英語). Times Higher Education (THE) (2021年11月13日). 2023年10月28日閲覧。
  5. List of Members | Coimbra”. www.coimbra-group.eu. 2023年10月28日閲覧。
  6. USTAT. Esplora i dati”. USTAT. 2023年8月10日閲覧。
  7. Calic, Marie-Janine (2019). The Great Cauldron: A History of Southeastern Europe. Harvard University Press. p. 134. ISBN 9780674983922
  8. Jerome J. Bylebyl, "The School of Padua: humanistic medicine in the 16th century," in Charles Webster, ed., Health, Medicine and Mortality in the Sixteenth Century (1979) ch10

外部リンク

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