ラディズラーオ1世 (ナポリ王)

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ラディズラーオ1世
Ladislao I
ナポリ王
Ladislao d'Angiò re di Napoli.jpg
在位 1386年 - 1389年1399年 - 1414年
出生 1376年2月11日
ナポリ
死去 1414年8月6日
ナポリ
配偶者 コスタンツァ・キアラモンテ
  マリー・ド・リュジニャン
  マリア・デンゲン
王家 アンジュー=シチリア家
王朝 ナポリ・アンジュー朝
父親 カルロ3世
母親 マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ
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ラディズラーオ1世(Ladislao I, 1376年2月11日 - 1414年8月6日)は、ナポリ王(在位:1386年 - 1389年1399年 - 1414年)。名目上はエルサレム王、シチリア王、プロヴァンス伯、ハンガリー王でもあった。アンジュー=シチリア家最後の男系男子である。

生涯[編集]

ラディズラーオはナポリカルロ3世マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ(アンジュー=シチリア家傍系出身でカルロ3世とは共に父方の従兄妹)の間に生まれた。1386年に母の摂政の下、9歳でナポリ王となった。

しかし権力基盤は不安定で、1389年に反対派貴族達によりナポリから追放され、ヴァロワ=アンジュー家からルイ2世・ダンジューが擁立され即位、1399年に王位を奪還するまでラディズラーオは王位を剥奪されたままだった。一方、ハンガリーでは国王ジギスムントと対立する貴族に擁立され、1401年1403年ローマ教皇ボニファティウス9世の指名でハンガリー王とされた。だが、ハンガリーでも基盤が脆弱なためすぐにジギスムントに蹴散らされ、実効支配はならなかった[1]

ナポリ・ハンガリー王位は不安定になっていたが、それは教皇領も同様で、教会大分裂ローマ教皇庁アヴィニョン教皇庁に分裂、ナポリ王位を巡る争いでローマがラディズラーオ、アヴィニョンがルイ2世を支持したため混乱に拍車をかけていた。野心家のラディズラーオも教会大分裂の最中に付け込み、1404年にローマ教皇インノケンティウス7世ローマ市民の紛争を調停したが、1408年にローマを占拠しラティウムウンブリアも占領。翌1409年トスカーナにも侵攻するものの、フィレンツェシエーナ連合軍に敗退、ピサ教会会議で選出された対立教皇アレクサンデル5世から破門を言い渡され、代わりに支持されたルイ2世がフィレンツェ・シエーナと手を組み、ローマ市民の蜂起もあり形勢不利となってナポリへ退去、散々な結果となった[2]

1413年、ローマ教皇グレゴリウス12世が不在のローマをまたしても占領、ローマへ入ろうとした対立教皇ヨハネス23世および後援者のジギスムントの通行を妨害したが、翌1414年に38歳でナポリで死去。子がなかったため、ナポリ王位は姉のジョヴァンナ2世が継承、ローマをマルティヌス5世に返還したが、後継者問題で右往左往してナポリを更なる混乱に引き込んだ[3]

家族[編集]

1390年、コスタンツァ・キアラモンテ(Costanza Chiaramonte)と結婚。1392年離婚。

1403年、キプロス王ジャック1世の娘マリー・ド・リュジニャンと結婚。

1406年、レッチェ女伯マリア・デンゲン(Maria d'Enghien)と結婚。

いずれの結婚でも子女を得ることはできなかった。

脚注[編集]

  1. ^ 北原、P213 - P214、瀬原、P220、P232、P236 - P237、P239。
  2. ^ スチュアート、P182 - P185、澤井、P86、北原、P223、瀬原、P242。
  3. ^ 澤井、P86 - P87、瀬原、P248 - P249、P412 - P413。

参考文献[編集]

先代:
カルロ3世
ナポリ王
1386年 - 1389年
次代:
ルイージ2世
先代:
ルイージ2世
ナポリ王
1399年 - 1414年
次代:
ジョヴァンナ2世