引揚者

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引揚証明書

引揚者(ひきあげしゃ)とは、第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)の敗戦によって、台湾朝鮮半島南洋諸島などの外地や、日本から多数の入植者を送っていた満州(法律上は外国)、また内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った南樺太などに移住(居住)していた日本人で、日本軍敗北降伏)に伴って日本本土に引き揚げすなわち帰国した海外在住日本人を指す[1]。「引揚者」の呼称は非戦闘員に対して用いられ、外地・外国に出征し、その後帰還した日本軍の軍人は「復員兵」「復員者」と呼ばれた。

敗戦時には軍人民間人計660万人以上が海外に在住し、引揚げした日本人は1946年末までに500万人にのぼったが、残留日本人の数や実態については現在も不明である[2]

米軍占領下地域

大竹引揚援護局

GHQ/SCAPダグラス・マッカーサー総司令官は人道的立場から引き揚げを早期に終了させるつもりでおり、GHQ指令で厚生省引揚援護庁を設置し、行政事務を行った。1945年11月24日、厚生省は佐世保、博多、鹿児島、唐津、仙崎、宇品、舞鶴、田辺、名古屋、浦賀、函館の11カ所に地方引揚援護局を設置するよう告示した[2]東南アジア台湾、中国、朝鮮半島南部(北緯38度線以南)などからの引き揚げは、ソ連軍占領下地域の満州・朝鮮北部(北緯38度線以北)などと比較するとスムーズであり、1946年には9割以上達成された。また在外父兄救出学生同盟は朝鮮に渡航し、金日成に直訴した。

1948年には引揚者団体全国連合会が発足した。引揚者や復員者の就労のために戦後開拓事業がなされた。

持込制限

GHQは外地からの内地への資産持ち込みによるインフレーションを懸念し、引揚者が持ち込んだ通貨証券類の多くを税関などで預託させる持込制限措置を行った。税関は1953年より預託品の返還を行っているが、50年以上経った現在でも持ち主が現れない現金、証券類が保管されている。

沖縄

アメリカ軍の軍政下に置かれた沖縄への正式な引き揚げ事業は本土よりも後れて1946年に開始されたが、それ以前に民間船による密航で自力帰国した者が多い。1945年(昭和20年)11月1日、台湾疎開から沖縄行きの引き揚げ船が遭難して約100人が死亡する栄丸遭難事件が発生した。

ソ連軍占領下地域

1945年昭和20年)8月9日から樺太満州朝鮮半島へのソ連侵攻がはじまり、1945年8月15日ポツダム宣言受諾により日本軍が武装解除した終戦の日以後もソ連軍は進攻を続けた。

樺太

樺太侵攻においては8月22日樺太からの引揚船小笠原丸第二号新興丸、泰東丸などを国籍不明の潜水艦が攻撃し沈没、1700名以上が死亡した三船殉難事件が発生した。国籍不明の潜水艦はのちにソ連軍のL-19であることが発覚した。なおソ連軍の潜水艦L-19も原因不明だが沈没している。

満州、朝鮮北部

祖国(内地)を目前に斃れた引揚者の葬儀

1945年8月12日、日本人開拓団がソ連軍と満州国反乱兵によって襲撃された麻山事件、8月13日には武装した暴徒に日本人避難民が襲撃される小山克事件が、翌8月14日には葛根廟事件が、東満省では牡丹江事件が発生した。8月27日にはソ連兵によって連日集団強姦されていた日満パルプ製造敦化工場の女性社員が集団自決する敦化事件が発生した。

満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満州からの引揚は、ソ連から中華民国の占領下になってから行われた。満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も多数いる。

朝鮮半島の北緯38度線以北にいた日本人は、引揚事業の費用負担をソ連のどの省が負うのか責任の先送りの間に栄養不良や病気で約3万人以上が死亡した。また、20万人が自力で北緯38度線を越えて日本へ帰国した。

ソ連兵は規律が緩く、占領地で強姦・殺傷・略奪行為を繰り返したため、戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。朝鮮人も朝鮮半島でソ連兵と同様の行為をおこなったと言われており[3]、強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人となっている[4]。夫の前でソ連兵にレイプされ、青酸カリで自殺した婦人もいた[5]興南の日本人収容所ではソ連兵が「マダム、ダワイ!(女を出せ)」とわめき、女性を発見すると暴行した[5]。日本人女性は暴行されないように短髪にしたり男装や顔に墨を塗った[5]

また、中国共産党軍朝鮮人民義勇軍は在留日本人に強制徴兵や強制労働を課したため、それに対する蜂起とその後の虐殺などで1946年2月3日通化事件のような事件が起きた。引揚列車に乗車後、乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された婦女子もいた[6]

シベリア抑留

ソ連占領地からの引き揚げの遅れは、ソ連が日本人捕虜をシベリア開発に利用しようとしていたこと、満州地区が国共内戦で政情不安定だったということ、などが影響したと見られている。関東軍の軍人とともに民間人の一部もシベリア抑留の対象となり、強制労働に従事させられた。

在満朝鮮人の引揚げ

1945年6月時点で在満朝鮮人人口は2,163,115人とされ、また実際には230万人いたともいわれる[7]。終戦後、在満朝鮮人は引き揚げを開始し、1946年まで714,842人が、1947年までには80万人以上が朝鮮へ帰還した[7]

終戦前に引揚げた朝鮮人もおり、その引揚げの理由について国民党の袁常恩は「ある韓僑(朝鮮人)は一貫して悪い行為をして国人(中国人)の報復を恐れ,ある韓僑は資産がかなりあって治安の未回復を心配し,ことに祖国の光復を憧憬」したためと述べている[7]

土匪による襲撃
満州土匪は1945年11月に国民党軍が同地へ進出して以降、1946年5月にソ連軍が撤収するまで「朝鮮人は日本鬼子の共犯」として虐殺を行った[7]
1945年8月22日、大連付近の村では日本人とともに朝鮮人も襲撃され、1945年11月には汪清県羅子溝でも朝鮮人が虐殺された[7]
国共内戦
国共内戦が再開すると1946年、長春を占領した中国共産党東北局および朝鮮人部隊(東北民主連軍吉遼軍区第一旅団第一団、兵力2000)と国民党軍が戦闘、中共軍は撤退すると、1946年5月23日に長春で朝鮮人兵士らが虐殺された[7]
1946年5月にソ連軍が撤収を開始すると、東安(現黒竜江省密山市)の郭興典土匪部隊5月14日、東鮮、東明、東興の朝鮮人村を殲滅させ、5月26日には東安城で「朝鮮人の種を無くす」といいながら数百人の朝鮮人が大量虐殺された[7]。北満州の牡丹江の朝鮮人村オハリムでは朝鮮人は「二等公民」として全滅させられた[7]5月28日には吉林省で国民党軍が「高麗人は皆共産党で八路軍」であるとして朝鮮人に強制労働を強いたり婦女暴行を行った[7]
1946年12月に中共軍の周保中は「延辺朝鮮民族問題」という演説で「中国人は三等国民だったから,解放当時,一般的に報復心理が存在した」と述べた[7]
残留朝鮮人
中国共産党は1946年から1948年にかけて在満朝鮮人を満州に定着させるために帰農運動を展開し、土地配分などを行い、残留した朝鮮人も多く、また朝鮮人日本兵として出征していた子の帰還を待つため残留した朝鮮人もいた[7]。1951年時点で中国朝鮮族は1,068,839人となった[7]
在満台湾人
また、満州国政府には多くの台湾人官吏として採用されていたため(新京市長は台湾人)彼らの台湾引き揚げも問題となったが、そのことは日本では殆ど語られていない。

中国国民党政権による送還

中国国民党は1946年5月から日本人送還を開始した。

1946年12月には米軍と国民党によって在満朝鮮人2483人が南朝鮮に帰還した[7]

中国からの引揚げは1953年3月23日に再開され、「興安丸」「高砂丸」が3,968人を乗せて舞鶴に入港した。

台湾からの引揚

終戦時における在台湾日本人は、軍人が16万6000人あまりを含めて48万8000人あまりであった。国民党政権の命により、「台湾官兵善後連絡部」が設けられ、安藤総督が部長、須田農商務局長が副部長にそれぞれ任命された。実際の業務は副部長があたった。

引揚は軍人から始められ、これは1946年2月に完了した。一般人については、日本国内における食糧難をはじめとする混乱を恐れたこと、台湾の生活になじんでいること、台湾人からの報復もなかったことから、約20万人が台湾にとどまることを希望した。しかし、国民党政権は、インフレ等の社会問題の発生もあり、大量の日本人が台湾に残留することを望まなかった。一般人の引揚は1946年4月20日に完了した。

引揚者一人あたり現金1000円、途中の食糧、リュックサック2つ分の必需品の持ち出しのみ許された。

結局、台湾からの引揚者は46万人弱であった。国民党政権が必要だとして、2万2000人弱の技術者や教師が「抑留者」として一時台湾に残された[8]

引揚者が上陸した主な港

影響

引揚事業が一段落してからは在外財産補償問題がおこった。

中国残留日本人

また戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。

食文化

中華料理
引揚者達がもたらしたとされる食文化にはラーメン店・ラーメン屋台餃子屋(主に焼き餃子)がある。それまで中華料理屋といえば、本格的な高級中華料理店、しかも広東・四川・北京・上海のものが主流であり、中国東北部地方の料理はあまり知られていなかった。関東地方ではタンメンが定着、北海道空知地方では含多湯(ガタタン)が定着した(いずれも全国区化は果たしていない)。福岡県では朝鮮半島からの引揚者によって 辛子明太子が定着した(現在は全国区)。
ロシア料理
ピロシキボルシチなどロシア料理ももたらされた。なお、日本のピロシキに春雨が入っているのは中国東北部の影響。

引揚者だった著名人

ここでは五十音順に一部のみ示す。「関連する作品」節などで登場した人物は除外した。

記念館・資料館

関連する作品

体験記、小説
  • 流れる星は生きている」 - 藤原ていの1949年の自伝小説。藤原ていが3人の子供を抱えて、夫・新田次郎と離れ離れになりながらも日本に引き揚げるまでのいきさつを綴り、後に映画・テレビドラマにもなった。当時新田は満州の気象台の職員であり、引き揚げ後は気象庁に帰属。富士山レーダー設置に関わり、退職後妻の後を追い小説家に転身した。
  • 「卡子(チャーズ) 出口なき大地 1948年満州の夜と霧」 - 遠藤誉作。1984年、読売新聞社。
  • 竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記(ヨーコ物語)」- 日系米国人作家のヨーコ・カワシマ・ワトキンズによる体験記。1986年にアメリカで出版され、戦争の悲惨さを訴える資料としてアメリカでは優良図書に選ばれ、中学校用の教材として多くの学校で使用されてきたが、ボストン、ニューヨークでは韓国系アメリカ人の運動家らがこの本には韓国人が日本人を虐殺したりレイプする描写があり、「誤った歴史認識を持ってしまう可能性」があるとして抗議し、推薦図書から除外する運動を繰り広げた[9]。2005年に韓国でも『요코 이야기(ヨーコ物語)』として訳出されたが後に発売中止となった。日本語版は永らく出版されていなかったが2013年、ハート出版より出版された。
  • 武蔵正道『アジアの曙―死線を越えて 』(自由社、2000年)
小説
映画
音楽
映像

「湾生」はもともと日本語で、「台湾生まれ」という意味です。日本は1895年から1945年までの50年間、台湾を統治していましたが、その間に台湾で生まれた日本人を「湾生」と言います。 彼らは、敗戦後無一文で帰国を余儀なくされました。そして、日本でも苦しい生活を強いられ、故郷の台湾にも帰れず、大変な思いをした人が多いそうです。

この「湾生回家」は、そうした「湾生」たちに、故郷である台湾へ帰らせて、懐かしい人や風景に再会してもらおうというドキュメンタリー映画です。日本人なのに、「帰郷」とは台湾へ帰ることを指していることに注意しなければなりません。ただ、戦後70年経っているので、「湾生」もみんなお年寄りです。そもそも、既に鬼籍に入っている人が多いです。本人が生きていても、昔の知り合いは亡くなっていたりします。涙なくしては見られません。

脚注

  1. ^ 『岩波日本史辞典』1999
  2. ^ a b c 阿部安成加藤聖文引揚げという歴史の問い方(上)」『彦根論叢』第348号,2004年
  3. ^ 『正論』2005年11月号
  4. ^ 上坪隆『水子の譜』社会思想社現代教養文庫p.183「昭和21年6月10日付 二日市保養所報告書(報告対象期間=昭和21年3月25日~21年6月5日) "地域別と加害者" 不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝24ニシテ最多、 南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ鮮_人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ 」
  5. ^ a b c 戦後…博多港引き揚げ者らの体験読売新聞
  6. ^ 第008回国会 海外同胞引揚に関する特別委員会 第11号”. 衆議院. 国立国会図書館 (1950年10月31日). 2010年9月29日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 李海燕「第二次世界大戦における中国東北地区居住朝鮮人の引揚げの実態について」一橋研究, 27(2): 39-64,2002年
  8. ^ 伊藤潔著、中公新書『台湾‐四百年の歴史と展望』134ページ
  9. ^ 第2次大戦後を扱った日本の小説、米の推薦図書採択に韓人が反発中央日報2007年01月11日
  10. ^ NHKスペシャル 知られざる脱出劇~北朝鮮・引き揚げの真実~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス

参考文献・資料

  • 厚生省引揚援護院編『引揚援護の記録』1947年(クレス出版,2000年)
  • 満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』河出書房新社,1962年
  • 森田芳夫『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と 日本人の引揚』 巌南堂書店, 1964年
  • 丸山邦雄『なぜコロ島を開いたか―在満邦人の引揚げ秘録』 永田書房、1970年
  • 森田芳夫・長田かな子編 『朝鮮終戦の記録 資料編』
    • 第1巻 日本統治の終焉,巌南堂書店, 1979年
    • 第2巻 南朝鮮地域の引揚と日本人世話会の活動,巌南堂書店,1980年
    • 第3巻 北朝鮮地域日本人の引揚,巌南堂書店,1980年
  • 森川哲郎『満州の暴れ者(もん) 敵中突破五千キロ』(徳間書店、1972年)
  • 上坪隆『水子の譜 引揚孤児と犯された女たちの記録』現代史出版会、1979年(社会思想社現代教養文庫,1993年)
  • 若槻泰雄『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社,1995年
  • 木村英亮「ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録」横浜国立大学人文紀要 第一類, 哲学・社会科学 42, 19-39, 1996年
  • 半藤一利 『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文藝春秋, 1999年/文春文庫, 2002年)
  • 『海外引揚関係史料集成  国内編』全16巻,ゆまに書房,2001年
  • 『海外引揚関係史料集成  国外編・補遺編』全21巻,ゆまに書房,2002年
  • 李海燕「第二次世界大戦における中国東北地区居住朝鮮人の引揚げの実態について」一橋研究, 27(2): 39-64,2002年
  • 阿部安成加藤聖文引揚げという歴史の問い方(上)」『彦根論叢』第348号,2004年
  • 阿部安成加藤聖文引揚げという歴史の問い方(下)」『彦根論叢』第349号,2004年
  • 読売新聞「戦後…博多港引き揚げ者らの体験」2006年
    • <1>ソ連が来る 息潜めた」読売新聞2006年7月20日。
    • 「<2>医師らひそかに中絶手術」読売新聞2006年7月27日。
    • 「<3>麻酔なしの中絶手術」読売新聞2006年8月3日。
    • 「<4>日誌につづられた悲劇」読売新聞2006年8月10日。
    • 「<5>孤児収容所愛情の記憶」読売新聞2006年8月17日。
    • 「<6>孤児の女性が保母に」読売新聞2006年8月24日。
    • 「<7>子どもの心潤した食事と行事」読売新聞2006年8月31日。
  • 阿部安成、江竜美子「満州引揚スタディーズの試み」滋賀大学,2007年
  • 半藤一利監修『敗戦国ニッポンの記録 昭和20年~27年 米国国立公文書館所蔵写真集』アーカイブス出版,2007年
  • 加藤聖文『「大日本帝国」崩壊-東アジアの1945年』中公新書,2009年
  • 尹輝鐸『満州国:植民地的想像が生んだ複合民族国家(植民地的 想像이 잉태한 複合民族國家)』2013年

関連項目

外部リンク