山内義雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。松茸 (会話 | 投稿記録) による 2015年11月5日 (木) 12:32個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

1948年

山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1973年12月17日)は、フランス文学者。長く早稲田大学ほかの教職を務め、また、多くの訳業を遺した。日本芸術院会員。

生涯

1894年(明治27年)、父通義、母テウの次男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区市谷田町に生まれた。父は初代の陸軍砲工学校長を務めた陸軍大佐であった。暁星小学校・同中学校を経て、1911年(17歳)、東京外国語学校仏語科に進んだ。中学時代、永井荷風上田敏の訳詩によりヴェルレーヌボードレールを知り、原書を輸入して読み、また、作歌・詩作も試みた。

1915年(大正4年)(21歳)、東京外国語学校を卒業し、家庭の事情で、希望の京都帝国大学文学部でなく、[要出典]法学部に入って、急逝までの1年余、文学部上田敏教授の講義を聴き、直接の薫陶も受けた。1918年経済学部に移ったが、1921年、ポール・クローデル大使が来日することを知って東京帝国大学仏文科専科に転じ、また、東京外国語学校講師を務めた。1922年、東京帝国大学を退学し、1923年、東京外国語学校講師を辞した。

26歳上のクローデルとは紹介されて相知り、フランス語の才能を認められて、1927年初めの離日まで繁く行動を共にし、舞踊劇『女と影』(1922年、帝国劇場)、詞華集『百扇帖』(1927年、新潮社)など、大使の滞日作品の出版、上演に尽力した。「完全なフランス語を話す青年」と評されたと言う。

1922年(大正11年)28歳、刊行されたロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々 第1部 灰色のノート』の翻訳をただちに始めた。1923年、アンドレ・ジッド狭き門の完訳を初めて上梓した。日本にジッド・ブームを引き起こした名訳と言われる。

1924年(30歳)、アテネ・フランセ教授となった。 鎌倉市長谷に移転した。1927年、吉江喬松教授に招かれ、早稲田大学の教職に就いた。1928年、鎌倉市笛田へ移った。

1932年(昭和2年)38歳、『女人芸術』誌の同人、小池みどりと結婚し、のちに2女2男を得た。1935年、東京市牛込区(現在の東京都新宿区新小川町同潤会江戸川アパートへ移った。

1938年(44歳)、『チボー家の人々 第一部 灰色のノート』を白水社より出版した。以後1940年の『第7部 父の死』まで刊行し、広く読まれたが、戦争の激化により中断を余儀なくされた。

1941年、レジオン・ドヌール、シュヴァリエ勲章を贈られた。1945年8月1日の空襲で、八王子市郊外に疎開してあった蔵書を焼かれた。1946年、アテネ・フランセを辞した。

1950年(56歳)、『チボー家の人々 第7部 1914年夏』を出版し、それにより日本芸術院賞を受けた。翌々年『第8部 エピローグ』の刊行を終えた。続いて、ジュール・ロマンの『善意の人々』の完訳を宿願としたが、その一部『ヴェルダン』の上梓のみに終わった。

1958年(64歳)、白百合短期大学講師を兼ねた。1964年(70歳)、早稲田大学教授を定年退職し、翌年、白百合短期大学教授となった。1966年、日本芸術院第2部の会員に選ばれた。1968年、カトリック教会の洗礼を受けた。

1971年(77歳)、初めてフランスへ旅した。

1973年(昭和48年)(79歳)、肺がんにより没し、八王子の上川霊園に葬られた。

文業

おもな著作

  • 『ブウルジェ』:「岩波講座世界文学8 - 2 近代作家論(1933)」の中
  • 『現代文学の諸傾向』:岩波講座世界文学11 - 4(1933)
  • 『遠くにありて』:毎日新聞社(1975)(没後) → 講談社文芸文庫(1995) ISBN 9784061963115

おもな訳業

初版の年代順に列記する。多く改版・編集されているが、それらのうちの最新版を、各列の「 / 」の後ろに記す。

出典

外部リンク