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小川眞由美

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おがわ まゆみ
小川 眞由美
小川 眞由美
本名 小川 真由美(兼旧芸名)
生年月日 (1939-12-11) 1939年12月11日(84歳)
出生地 大日本帝国の旗 大日本帝国東京府東京市足立区
(現:日本の旗 日本東京都足立区
職業 女優
ジャンル 舞台
映画
テレビドラマ
活動期間 1961年 - 現在
配偶者 細川俊之1970年 - 1973年
著名な家族 長女(MAH)
 
受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演女優賞
1979年復讐するは我にあり
その他の賞
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小川 眞由美(おがわ まゆみ、1939年昭和14年)12月11日 - )は、日本女優。旧芸名及び本名は小川 真由美

来歴・人物

東京府東京市足立区(現:東京都足立区)出身。

和洋女子短大国文科卒。父親・丹真は戦前、田村秋子らが創立した劇団新東京に属した俳優。5歳よりバレエ、日本舞踊を習う。学生時代は永井荷風を愛読し、荷風の日記のとおり一日を過ごしてみたこともあったと語っている。また高校時代は足繁く歌舞伎に通い、三代目市川壽海の大ファンだった。

1961年昭和36年)、田村の推薦で文学座付属研究所を受験し合格、第一期研究生として入所する。同期に草野大悟岸田森寺田農樹木希林らがいる。

1962年昭和37年)、文学座研究生として『光明皇后』で初舞台。

1963年昭和38年)、『母』(新藤兼人監督)で映画初出演、武智鉄二と裸のラブシーンを演じ話題になった。同年のテレビドラマ『孤独の賭け』が話題となる。

1964年昭和39年)、東映の『悪女』(渡辺祐介監督)で本格的に主演を飾る。この頃のイメージは強烈だったようで、“悪女スター”というレッテルを貼られることになる。

1965年昭和40年)、文学座座員に昇格し、後に杉村春子の後継者と目されるまでに至る。

1967年昭和42年)、同じ文学座の俳優だった細川俊之と結婚し、のちに一女をもうける。彼女は長じてMAHの名前で音楽活動を続けており、一時期は小川主演のドラマに女優として出演することもあった[1]

1971年昭和46年)に退座。劇団のありかたに疑問を持ったのが原因というが、かつてインタビューにて「女優に向かないと思った」と思い退団したと語ったことがある。その後オファーがいろいろあり、興味のある役に出会えたことで復帰を決めたと語っていた。

1970年代には女ねずみ小僧シリーズを始めとしてTV時代劇に多く主演し人気を集める。

1973年昭和48年)離婚。その後、近藤正臣ら数名の俳優との噂が報じられる。1981年昭和56年)6月に文学座で同期だった橋爪功と舞台『ドリスとジョージ』で共演、これがきっかけで急速に結びつき9月に婚約発表。そのときの心境を「週刊平凡」81年10月15日号で「具体的には何も決まっていない。結婚はしてもいいがいつするかも……実験婚約です(笑)」(小川)「年のせいか臆病になって……婚約という状態が一番いい(中略)場合によっては婚約を破棄するかもしれない」(橋爪)と語っていた。大人の愛の形と世間をにぎわせたが、結局は結婚に至らぬまま1985年昭和60年)に婚約解消。

近年は女優として目立った活動はなかったが、真言宗尼僧として得度していたことが判明した[2]。ただし本人は女優業を辞めたつもりではないとのことである。

現在は、下ヨシ子管長を務める肥後修験総本山六水院吉祥寺教場長を務める[3]

賞歴

エピソード

  • のめりこんだ役作りゆえのエピソードが豊富。映画『食卓のない家』では精神を病む母親を演じ、金魚を食べてしまうシーンを演じた。このとき本当に金魚を噛みくだき、共演の岩下志麻はそのとき側で見ていて「卒倒しそうになりました。小川さん偉いなーって」とコメントしている(出典:大河ドラマ『葵徳川三代』のムックより)。小川は続けて「金魚って小骨が多いのね(笑)」とコメント。このように人を喰った発言は、小川の真骨頂ともいえる。
  • 岩下志麻との共演は多い。1967年昭和42年)の篠田正浩監督作品『あかね雲』にはじまり『女の一生』(1967年昭和42年))『影の車』(1970年昭和45年))『鬼畜』(1978年昭和53年))『食卓のない家』(1985年昭和60年))。テレビでは、2000年平成12年)の大河ドラマ『葵徳川三代』で淀殿(小川)とお江(岩下)と姉妹を演じた。また江戸川乱歩原作の『黒蜥蜴』のように、同じ役を演じたこともある。小川は1979年昭和54年)の「土曜ワイド劇場」で『悪魔のような美女 江戸川乱歩の黒蜥蜴』で、岩下は1993年平成5年)の『美しき悪女の伝説 黒蜥蜴』で演じた。そして大河ドラマ独眼竜政宗』で岩下が演じたお東の方(保春院)を、小川は舞台「愛と修羅」で演じている。ドラマの脚本、舞台の演出はともにジェームス三木
  • 小川は舞台でも「黒蜥蜴」を演じている。1982年昭和57年)5月に京都・南座公演。演出は青年座の篠崎光正、明智小五郎中山仁。黒蜥蜴はこのとき初代の水谷八重子美輪明宏に続いて三代目だった。そのときの西日本新聞5月21日号には「三島さんの華麗なレトリックをちりばめたセリフを肉体化するのは大変なわざとパワーがいる。とてもつらい、難役です。舞台が終わってからも外へ出る気力もなく、いつまでも楽屋にいて、体ごとたゆたっているんです。きっと三島さんが天界から周波数を出して、私を管理しているんだわ(笑)」と語った。
  • 自宅でチャボを飼育していることで有名。このチャボが体調不良になったため「2年間女優業をセーブして看病した」と語っている(2006年平成18年)5月31日に出演した『徹子の部屋』ホームページに明記)。有精卵からヒナをかえし、一時は30羽以上飼育したこともあるという。
  • さらに、かつては「ゴンザレス・ビリー・ザ・サンキチ」というフクロウも飼っていた。また長年「ツネコ」という柴犬を飼っていたが亡くなり、今はミニチュアダックフンド・ジェニパーを飼っている。先述の「徹子の部屋」出演時に「ツネコがいなくなってから、一人暮らしなので何の音もしない生活になり、耐えられなくなって新しい犬を飼った」とコメント。学芸大学駅前のペットショップが御用達。
  • 高部知子によると共演したドラマ『積木くずし 〜親と子の200日戦争〜』で高部が初めて小川の楽屋に挨拶しに行ったところ小川が「ドラマの役柄上不良娘役のあなたが母親役の私のこと憎んでくれなきゃ困るの。だから、もう挨拶しにこなくていいから」と言った。それ以後撮影が終わるまで高部は一切小川に挨拶することがなかったと語っており、小川の女優としての懐の深さを見せたエピソードである[4]

主な出演

映画

テレビドラマ

第105話「世界殺人集団南国の決闘」(1971年)
第262話「また逢う日まで キイハンター」(1973年)

吹き替え

舞台

  • 光明皇后(1962年) - 初舞台・采女役
  • 調理場(1963年)
    この年に文学座が分裂。大量に脱退者が出たため、小川ら若手の登用が多くなるという幸運に恵まれる。
  • 三人姉妹(1964年) - ナターシャ役
  • おりき(1964年) - 初主演
文学座座員昇格(1965年)後

脚註

  1. ^ 2012年3月、母との確執をつづった『ポイズン・ママ―母・小川真由美との40年戦争』を出版した
  2. ^ 女優→尼僧 小川真由美2年前に得度していた スポーツニッポン 2010年3月20日閲覧
  3. ^ 六水院吉祥寺教場宗教法人肥後修験総本山六水院
  4. ^ 解禁!(秘)ストーリー 〜知られざる真実〜2011年3月1日放送より)

外部リンク