加藤健 (野球)
読売ジャイアンツ #40 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 新潟県北蒲原郡聖籠町 |
生年月日 | 1981年3月23日(43歳) |
身長 体重 |
186 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1998年 ドラフト3位 |
初出場 | 2000年9月27日 |
年俸 | 1,800万円(2012年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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加藤 健(かとう けん、1981年3月23日 - )は、新潟県北蒲原郡聖籠町出身の読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手(捕手)。愛称は「カトケン」。
経歴
1998年、新潟県立新発田農業高等学校在学時にドラフト会議で巨人から3位指名を受け入団。高校通算15本塁打。
2000年、9月27日にヤクルトスワローズ戦で一軍初出場。3試合に出場して3打数無安打だった。2002年は、2試合に出場して2打数無安打。2005年は、二軍で打率.289・5本塁打で、イースタン・リーグの捕手の中で最高の打撃成績を記録した。
2006年は、4年ぶりの一軍出場。6月11日の対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ一軍初安打。少ない試合数ながら打率.294を記録した。シーズン終了後はハワイで開催されたハワイ・ウィンターリーグに派遣された。
2007年は、阿部慎之助に次ぐ2番手捕手として開幕一軍入りを果たす。出場試合数こそ少なかったものの、9月21日の対横浜戦では、試合前練習で腰を痛めた阿部に代わりスタメンマスクをかぶり、寺原隼人からプロ初ホームランとなるスリーランホームランを放ち勝利に貢献、初のお立ち台も経験した。
2008年は、左肩を骨折して出遅れた。開幕から控え捕手として一軍入り。阿部の打率1割台の打撃不振もあり、シーズン途中で横浜ベイスターズから移籍してきた鶴岡一成に次ぐ第3捕手としてチームを支え前年にならぶ28試合、シーズン終盤に阿部が負傷した影響で日本シリーズでも5試合に出場と自己最多の出場機会を得る。ただし阿部が北京五輪に招集された際に負傷したことにより空席となったプレシーズンの正捕手は、捕手としての経験・パンチ力・出塁能力などすべてに勝る鶴岡に譲る事となった。この年のオフに上原浩治がメジャー移籍(当時はボルチモア・オリオールズ)、二岡智宏が日本ハムに移籍したことで巨人では、1998年のドラフト指名選手では唯一人となった。
2009年は、オープン戦での低迷(プレースタイルの項に後述)から7月3日にようやく一軍昇格。9月20日の登録抹消までに13打席で頭部死球を含む2死球を経験してしまうなど、2年連続して苦しい年となった。2010年は、一軍でマスクをかぶったのが1試合に終わるなど3番手捕手の位置からの飛躍はできなかった。秋季キャンプでは寺内崇幸が捕手も練習をしており、加藤は年齢的にも控え捕手として正念場を迎える。
2011年は、開幕前に阿部慎之助が右ふくらはぎの故障により戦線離脱した影響を受け開幕一軍に選ばれた。開幕マスクは鶴岡に譲るが、2戦目の対ヤクルト戦では4月13日にはスタメンマスクをかぶり内海哲也の7回途中無失点をリード面で貢献。4月15日の澤村拓一のデビュー戦でも捕手を務めた。
プレースタイル
阿部慎之助の控え捕手の一人。かつては実松一成、星孝典などと2番手捕手を争っていた。
2008年はベテラン高橋尚成が自ら加藤を希望し、幾度かバッテリーを組んだ。結果は地方の「箱庭球場」でホームランを浴びるなど散々な事もあったが、2番手捕手候補として期待され、出場機会は与えられているといえる。
「終盤のリリーフ捕手」という起用のされ方も多いため、鋭いフォークなどワンバウンドする変化球の捕球を磨いており、解説者の達川光男は「この捕手はそうとうキャッチング練習をしているんでしょうね。これなら投手は安心してフォークが投げられ、相手打者は怖いですよ」と評価した。
2009年のオープン戦では低めの球を投手に要求せず、またそれほど鋭くもないカーブなども全く捕球できず捕逸を連発し、二軍降格となった。前年の日本シリーズ第7戦の敗戦確定時の捕手だったため、一部インターネット上などからはショックからのイップスなどを心配されたが、7月3日の一軍登録後はその心配をよそに鋭い変化球を捕球しており杞憂に終わった。
ベンチからも試合中のデータ収集やリードの研究等を積極的に行い、「加藤ノート」を作っている。チーム内でのあだ名は「カトケン」である。
打席に入るときのBGMはジョン・レノンの『Power to the people』。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 本来はドラフト会議において読売ジャイアンツの隠し玉として紹介を控えていたが、スポーツ報知の判断ミスによって、ドラフト会議前日の紙上に「背筋力210kg、握力60kg以上の新潟のゴジラ」と紹介されてしまい、執筆した記者は幹部から大目玉を食らった(2007年9月22日、スポーツ報知紙面)。
- 2007年シーズンの開始前、打撃コーチ補佐を務めていた伊勢孝夫に指示を仰いだが、「冷やかしならするな。1年間続けるなら付き合う」と言われ、毎日早出特打練習を行ったのがプロ入り初本塁打に繋がったという。
- 2008年4月20日の対広島東洋カープ戦で途中出場した時、門倉健が投じたワンバウンドに近いフォークボールを全て受け止め、放送していたフジテレビの解説者に絶賛された。特に、後逸すれば相手に得点が入る場面で捕球を成功させ、最終的に試合は敗れたものの、リードしていた1点を守った。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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2000 | 巨人 | 3 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
2002 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2006 | 19 | 40 | 34 | 2 | 10 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2 | 0 | 1 | 9 | 1 | .294 | .342 | .294 | .636 | |
2007 | 28 | 25 | 21 | 2 | 4 | 0 | 0 | 1 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 4 | 3 | .190 | .240 | .333 | .573 | |
2008 | 28 | 38 | 36 | 2 | 7 | 1 | 0 | 1 | 11 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 9 | 1 | .194 | .216 | .306 | .522 | |
2009 | 12 | 13 | 10 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 3 | 0 | .200 | .385 | .300 | .685 | |
2010 | 4 | 3 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2011 | 21 | 39 | 33 | 1 | 5 | 1 | 0 | 1 | 9 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 3 | 0 | 10 | 3 | .152 | .263 | .273 | .536 | |
通算:8年 | 117 | 162 | 141 | 10 | 28 | 3 | 0 | 3 | 40 | 18 | 0 | 0 | 4 | 3 | 11 | 3 | 3 | 38 | 8 | .199 | .266 | .284 | .550 |
- 2011年度シーズン終了時
記録
- 初出場:2000年9月27日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、6回裏に捕手として出場
- 初打席:同上、8回表に五十嵐亮太の前に三振
- 初先発出場:2000年9月29日、対ヤクルトスワローズ27回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場
- 初安打:2006年6月11日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(千葉マリンスタジアム)、4回表に渡辺俊介から左前安打
- 初打点:2006年6月20日、対東北楽天ゴールデンイーグルス6回戦(東京ドーム)、2回裏に一場靖弘から中犠飛
- 初本塁打:2007年9月21日、対横浜ベイスターズ21回戦(東京ドーム)、7回裏に寺原隼人から左中間へ3ラン
背番号
- 56 (1999年 - 2008年)
- 40 (2009年 - )