イエス (バンド)
イエス (Yes) は、イギリス出身のプログレッシヴ・ロックバンド。
1969年にデビュー作「イエス・ファースト・アルバム - Yes」を発表、その年のブライテストホープとなり注目された。代表作は「こわれもの - Fragile (1971年)」,「危機 - Close to the Edge (1972年)」、ポップ作品として成功した「ロンリー・ハート - 90125(1983年)」などが挙げられる。
黎明期
ジョン・アンダーソンがウォリアーズというバンド(米のバンドであるThe Warriorsとは別のバンド)から脱退し、メイベル・グリアーズ・トイショップ - Mabel Greer's Toyshopというバンドを結成したばかりのクリス・スクワイア/クライヴ・ベイリーと合流したのが1967年の12月である[1]。 ちなみに、ウォリアーズには後にキング・クリムゾンにドラマーとして加入するイアン・ウォーレスも在籍していた。
「閃光」に付属しているイエス人脈図によると、1968年1月から6月までは、アンダーソンはメイベル・グリアーズ・トイショップの一員として活動しており、6月からメンバー・チェンジの上、イエスというバンド名になったとされている[2]。(ただし、この人脈図の信頼性は低いとされている)
ビル・ブラッフォードによると、クリス・スクワイアが率いていたメイベル・グリアーズ・トイショップにジョン・アンダーソンが加わり、元・メイベル・グリアーズ・トイショップのギタリストだったピーター・バンクスを呼び戻して、バンクスの案でバンド名を改名した結果が「イエス」となったとのことである。イエスと名乗った時点でのメンバーは、ジョン・アンダーソン(ボーカル)、クリス・スクワイア(ベース)、ピーター・バンクス(ギター)、ボブ・ハガー(ドラム)で、その後、トニー・ケイ(キーボード)が加わり、ハガーに代わってビル・ブラッフォード(ドラム)が加わっている[3]。
同年8月にはプロを目指すバンドの登竜門として認知されていたマーキー・クラブ (Marquee Club)に毎週水曜日の夜に出演する様になる。9月にはイギリス・ツアーをキャンセルしたスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンの代役としてイギリスの各クラブに出演して好評をはくし、11月26日に行われたクリームのフェアウェル・コンサートでは前座を担当した。この頃からメロディー・メーカー (Melody Maker) を初め各音楽マスコミでの露出も多くなり、翌1969年2月にはアメリカのアトランティック・レコードと契約した。なお、アメリカのアトランティック・レコードと直接契約を交わした最初のイギリスのバンドがイエスである。
創設期
- クリス・スクワイア (ベース)
- ジョン・アンダーソン (ボーカル)
- ビル・ブラッフォード (ドラム)
- ピーター・バンクス (ギター)
- トニー・ケイ (キーボード)
「イエス・ファースト・アルバム - Yes(1969年)」と「時間と言葉 - Time and a Word(1970年)」を制作した時期を指す。両者は映画音楽のフレーズを引用したり、カヴァー曲でインストゥルメンタル・パートを拡大して即興を取り入れたりするなどの実験的要素を導入しているが、いわゆるプログレと言われるような音では無く、結成当初に目指していた(または影響を受けた)ビートルズ、ザ・フー、バーズ、クリーム、ヴァニラ・ファッジなどのアート・ロックやサイケデリック・ロックとして分類される[4]。
「時間と言葉」ではオーケストラと共演してシンフォニック・ロックを実現しているが、当時ムーディー・ブルースやナイス、或いはディープ・パープルといったバンドが同様の企画を実行しており、一種の流行として捉えられている。[5]。
ライヴ活動も次第に拡大/充実していった。1969年4月にはジャニス・ジョプリンの前座を務めたのを初め様々なコンサートのサポートやロック・フェスティバルの出演を続け、8月にはヨーロッパ各地でプロモーション・ツアーが行われた。1970年の2月にはロンドンでナイスとのジョイント・コンサートが開催されたが、2回分の公演のチケットが即日完売となり、追加/再追加公演が行われた記録が残されている。3月には初の単独コンサートがロンドンで開催された。
成長期
- クリス・スクワイア
- ジョン・アンダーソン
- ビル・ブラッフォード
- トニー・ケイ
- スティーブ・ハウ (ギター) --- 新加入
「サード・アルバム - The Yes Album(1971年)」の発売の時期を指す。ピーター・バンクスが脱退し、スティーヴ・ハウが加わった。
ロック・ギターを演奏形態の主軸とするピーター・バンクスに対して、スティーヴ・ハウは多種多様なジャンルのギター演奏が可能であるため、結果としてイエスの表現領域は拡大したといわれている。
「サード・アルバム 」は、前2作での緩やかな変化とは明らかに違う急速な進歩が一聴して分かる。全てがオリジナル曲、10分近い大作、組曲形式。変拍子や対位法も盛り込まれ、プログレッシヴと呼ばれる要素が詰まっている。しかし決して難解ではなく、ポップでダイナミック、そして分かりやすいと言われている。
また、前作「時間と言葉」でエンジニアとして関わり、後々までイエスのスタジオ・ワークおよびステージの音響でも重要な働きをすることになるエディ・オフォードが、バンドとの共同プロデューサーとして参加したのも、変化をもたらした大きな要素の一つと考えられる。
1970年7月から、このメンバー編成によるコンサートが開始され、ヨーロッパ各地を含む数々のライヴを務めた。翌1971年3月からは全16回という初の本格的なイギリス・ツアーが開催された。さらに6月頃には初めてアメリカでコンサート・ツアーを行っている[6]。
1971年7月31日のライヴ演奏を最後にトニー・ケイが脱退し、このメンバー編成は終結した。
飛躍期
- クリス・スクワイア
- ジョン・アンダーソン
- ビル・ブラッフォード
- スティーヴ・ハウ
- リック・ウェイクマン (キーボード) --- 新加入
リック・ウェイクマンが加わった「こわれもの - Fragile(1971年)」、続く「危機 - Close to the Edge(1972年)」が、イエスの最初のピークと言われている。
結成当初にアンダーソンとスクワイアが唱えていた「強力なボーカルとインストゥルメンタルの融合」で、未完の部分だった演奏面の強化は、2回のメンバー・チェンジによって遂行された。ハウはジャズ、クラシック、カントリーなど多彩なスタイルを器用にこなす独特のギター・プレイと優れた作曲能力を提供し、リック・ウェイクマンは西洋古典音楽のアカデミックな音楽教育に根ざした理論と数多のセッションで培った確かな技術、最新のテクノロジー、それに派手なプレイと振る舞いでエンターテインメント性をバンドにもたらした。
また、トニー・ケイが出来なかった(或いは拒否した)リック・ウェイクマンによる「マルチ・キーボード」という方法論は、イエスの音楽表現に明確な変化をもたらした。オーケストラ演奏のように、曲が進行するに連れて使用する楽器が次々に切り替わっていき、ひとつの曲の中で曲想が次々に変化することによって、長い曲でも聴き手が飽きないように工夫することが容易になり、「危機」の様な20分近い楽曲が実現した。
「こわれもの」はいくつかの優れたアンサンブルとメンバーのソロ小品で構成され、メンバー個々の多彩な音楽性と、それが融合した時の状況を確認できる。バンド演奏はより複雑な技法が導入され、アート・ワークに初めてロジャー・ディーンが起用された作品でもある。
「危機」は全3曲というトータル・コンセプト・アルバムで、曲作りの主導権はアンダーソン / ハウだが、他のメンバーも全員、作詞 / 曲 / アレンジに関与している。また、エディ・オフォードのテープ編集技術も多大な貢献をしている。
1971年9月にはリック・ウェイクマン加入後初のライブが開催され、同月には2回目のイギリスツアー、11月には2回目のアメリカ・ツアーが催された。このツアーが終了する前に3回目のアメリカ・ツアーが決定しているが、1972年2月 - 3月、その3回目のツアーが催行された時点で「サード・アルバム」と「こわれもの」がアメリカでゴールド・ディスクを獲得している。
だが、このツアーを終えた時点で、ビル・ブラッフォードは脱退し、キング・クリムゾンに移籍した。そのため、ジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドなどのセッションで活躍していたアラン・ホワイトが加入する。7月から始まった4回目のアメリカ・ツアーからアラン・ホワイトが加わり、翌1973年にリリースされた3枚組ライヴ盤「イエスソングス - Yessongs」では、ドラムスのほとんどをアラン・ホワイトが担当したテイクで構成された。ただし、ドラム・ソロが含まれた「パーペチュアル・チェンジ」や、同じリズム・セクションであるクリス・スクワイアのソロが含まれた「遥かなる思い出〜ザ・フィッシュ」は、ビル・ブラッフォードのドラムスによる演奏が使用されている。
熟成期
- クリス・スクワイア
- ジョン・アンダーソン
- スティーヴ・ハウ
- リック・ウェイクマン
- アラン・ホワイト (ドラム) --- 新加入
「海洋地形学の物語 - Tales from Topographic Oceans(1973年)」をリリースした時期。
「海洋地形学の物語」は、1973年の初来日公演中に読んでいたヒンドゥー教僧侶の著書からインスパイアされたアンダーソンが、そのアイデアに賛同したハウと創り上げた叙情詩である。大作指向はエスカレートし、2枚組で全4曲という構成となった。
この作品のコンセプトや出来そのものに不満を感じたウェイクマンは、他メンバーとのライフ・スタイルの違いからくるストレスや、自身のソロ活動の成功もあって、バンドを脱退してしまう。
転換期
- クリス・スクワイア
- ジョン・アンダーソン
- スティーヴ・ハウ
- アラン・ホワイト
- パトリック・モラーツ (キーボード) --- 新加入
「リレイヤー - Relayer(1974年)」は、「戦争と平和」(トルストイの著書とは無関係)という現実的なテーマを採り、アルバム構成も「危機」のスタイルに戻して、非常にテンションの高い演奏を繰り広げている。
新たに加わったスイス人キーボーディスト、パトリック・モラーツは、ジャズ、フュージョン、ラテン音楽の要素を多く持ち込み、ウェイクマン在籍時とはかなり趣の異なる音楽性を導き出した。
この時期は1976年まで続く精力的な公演、メンバー全員のソロ・アルバム発表、最初期の音楽性を知らしめるベスト・アルバム「イエスタデイズ - Yesterdays(1975年)」発表と、かなり多岐にわたる活動を見せている。
なお、モラーツの参加前、映画音楽家としても大成するギリシャ人のヴァンゲリスがウェイクマンの後任候補として挙っていたが、英国のアーティスト・ユニオン(音楽家組合)の問題(当時、外国人の英国への参入を極度に制限していた)などで実現しなかった。この時の接触はアンダーソンとのコラボレート「ジョン・アンド・ヴァンゲリス」として、後に実を結ぶこととなる。
変革期
- クリス・スクワイア
- ジョン・アンダーソン
- スティーヴ・ハウ
- アラン・ホワイト
- リック・ウェイクマン --- 復帰
パンクやニュー・ウェイヴが台頭した1970年代後半は、それまで主流を占めていたバンドには厳しい時代となった。イエスも例外ではなく、変化への意欲、試行錯誤が見て取れるのが1977年以降の活動である。ジャケット・アートを幻想絵画のロジャー・ディーンから、シュールなフォトコラージュのヒプノシスへ切り替えたところにも、彼らの意志が現れている。プロデュースもエディ・オフォードの手を放れ、バンド自身のみで行うようになった。
「究極 - Going for the One(1977年)」は、イエスのスタイルでもタイトでストレートなロックは出来ると証明するかのような部分、本来のイエスらしさを良い形で凝縮した部分がバランスよく配置されている。アンダーソンがイエスの最高傑作と言う「悟りの境地 (Awaken)」、トップ10ヒットとなった「不思議なお話を (Wonderous Stories)」などが収録されている。
当初は「リレイヤー」のラインナップで、モラーツの故郷スイスで始められたアルバム制作のリハーサルだが、音楽性の相違や諸々の問題が表面化してモラーツが脱退、旧友のウェイクマンがセッション・マンとして招かれた。ただの助っ人とは思えない演奏を披露したウェイクマンは、結局正式メンバーとして復帰し、レコーディングもそのままスイスで遂行された。教会のパイプ・オルガンのウェイクマンと、スタジオのメンバー達とを電話回線で同期してレコーディングをするという試みも行われた。
「トーマト - Tormato(1978年)」は、楽曲のコンパクト化をより推し進め、歌詞のテーマも身近で手軽なものを多く取り上げた作品となった。しかし、前回はうまくいったセルフ・プロデュースが今回は裏目に出て、アレンジやミキシングでメンバー同士が相当に揉めたとも言われる。
1978年はイエス結成10周年でもあり、回転する円形ステージのライヴもこの頃に開始されている。
衰退期
- クリス・スクワイア
- スティーヴ・ハウ
- アラン・ホワイト
- トレヴァー・ホーン(ボーカル)--- 新加入
- ジェフ・ダウンズ(キーボード)--- 新加入
ツアー終了後にパリで始めた新作のリハーサルが結果を残せぬまま頓挫してしまい、バンドの結束はかつてないほど弱まってしまった。結果として中心人物のアンダーソンとウェイクマンが脱退し、ボーカルとキーボードを失ったイエスは、同じマネージメントに所属していたエレクトロ・ポップ・デュオ、バグルスをまるごと吸収することで体制を整え、活動を再開した。この時のバグルスは、デビュー作「ラジオ・スターの悲劇 - The Age of Plastic(1979年)」を大ヒットさせて間もない頃であった。
新たな時代を生き抜くために、ニュー・ウェイヴそのものを呑み込んで完成させたアルバム「ドラマ - Drama(1980年)」だったが、発表当時から長年の間、イエスの象徴と言えるアンダーソンや人気者であるウェイクマンの不在が大きなダメージとなって、あまり見向きはされていなかった[要出典]。
アメリカでは好評を博した新ラインナップでのツアーも、ヨーロッパに戻ってくると、上記と同じ理由で評価も観客動員も良い結果を残せなかったと伝えられている[要出典]。こうして、このメンバー編成でのツアーを終えたイエスは活動を停止した。
停滞期(解散時)
1980年から1983年にかけての、具体的な活動が無かった時期を指す。なお、便宜上は「解散」という言葉を使っているが、アラン・ホワイトはそれを否定しており、メンバーが集まらなかったので活動を停止していただけ、と主張している。
ハウによると、スクワイアとホワイトの二人はジミー・ペイジとセッションを始め(XYZ = ex Yes Zeppelin : 元イエスと元レッド・ツェッペリンの意)、ホーンはそのバンドをプロデュースしたいと言って二人に同行し、最終的にイエスに残ったのは彼とダウンズだけだったのだという。ハウはイエスの再編も考えたが、当時のマネージャー、ブライアン・レーンの助言もあってイエスを諦め、新バンド、エイジア結成へシフトしたとされる。スクワイア、ホワイトの見方はこれとは全く逆で、ハウは自分達を置いてエイジアに行ってしまった、という意味あいの発言をしている。[7]
なお、アンダーソン脱退時のバグルス吸収、エイジアの結成、トレヴァー・ラビンの紹介など、この時期のイエスの動向を大きく左右したのはブライアン・レーンであった。
なお、最後のメンバー達の解散後の動きは、以下の様なものである。
トレヴァー・ホーンはバグルスの2作目「モダン・レコーディングの冒険 - Adventures in Modern Recording(1981年)」に着手した。この作品にはクリス・スクワイアがサウンド・エフェクトなるクレジットで1曲にゲスト参加している(実際にはイエスのライヴでの歓声を録音したテープを使用したのみで、スクワイア自身も自分の名前がクレジットされている事実をしばらく知らなかった)。また「ドラマ」に提供した「レンズの中へ」を、バグルス版にリ・アレンジした「アイ・アム・ア・カメラ」も収録されている。[8]
クリス・スクワイア / アラン・ホワイトは、2人の名義でクリスマス・ソングのシングル盤「ラン・ウィズ・ザ・フォックス(1981年)」をリリースしている。スクワイアがリード・ヴォーカルを担当している同曲はピート・シンフィールドとの共作である。
新プロジェクトをいち早く商業的に成功させていたのはスティーヴ・ハウとジェフ・ダウンズのエイジアである。ジョン・ウェットン(元キング・クリムゾン、U.K.他)、カール・パーマー(元エマーソン・レイク・アンド・パーマー)という陣容でブライアン・レーンのマネージメントの元に結成され、デビュー作『詠時感〜時へのロマン』(1982年)が、かつてのイエスの成功を遥かに上回る「全米8週連続1位、全世界で1500万枚」を売り上げる空前のヒットとなった。
再結成
- クリス・スクワイア
- アラン・ホワイト
- トレヴァー・ラビン (ギター、ボーカル、キーボード) --- 新加入
- トニー・ケイ --- 復帰
- ジョン・アンダーソン --- 復帰
ジミー・ペイジとのXYZが暗礁に乗り上げたスクワイアとホワイトは、「シネマ」と仮称された新しいバンドを結成するためのメンバーとして、南アフリカ出身のマルチ・プレイヤー、トレヴァー・ラビンと合流した。ここに至るまでに、ラビンはデモ・テープを様々なレコード会社に送りつけており、一時エイジアに参加する可能性もあったという。
さらにスクワイアはオリジナル・メンバーのケイをシネマに参加させたが、ケイは相変わらず新しいテクノロジーに関心が薄く、またラビンがキーボード類にも明るかったことや、プロデュースに回ったホーンがサンプラーなどの最新技術をふんだんに取り入れていたこともあって不満を抱き、一時は脱退してしまう(解雇とも言われている)。
スクワイア、ホワイト、ラビン、ケイの4人でのシネマとしてのデモ・テープが作成され、スクワイアがそれを偶然とパーティで同席したアンダーソンに聞かせたのをきっかけとして、アンダーソンがシネマに参加することになり、シネマがイエスに改名し、イエスの再結成となった。そして、ケイに代わってキーボードにチャールズ・オリンズ(スクワイアの当時の妻のバンド、エスクワイアのメンバー)をゲストに迎え、イエスは新作アルバム「ロンリー・ハート - 90125(1983年)」を完成させている。途中まで別のバンド「シネマ」の作品として制作されたため、ラビンがリード・ヴォーカルを取るパートも多い。
このアルバムからシングル・カットされた「Owner Of A Lonely Heart」はアメリカをはじめ多くの国で1位を獲得し、イエスは再結成によって最大の成功を手にした。ケイの脱退(解雇)によって、キーボード・プレイヤーが不在状態であったために、一時、エディー・ジョブソンが召集されている(シングル「ロンリー・ハート - Owner of a Lonely Heart」のプロモーション・ビデオでジョブソンの姿を確認できる)。しかし、マネージメント側が「これはあのイエスの再結成なのだ」という印象を与えるために、ケイをバンドに復帰させるに至り、これを嫌ったジョブソンは脱退をしている。ジョブソン曰く、「イエスにキーボード・プレイヤーは2人いらない」。この後に行なわれたワールド・ツアーでは、サポート・キーボードとして、ステージの袖で Casey Young というキーボード奏者が演奏を行なっていたが、バンドおよびマネージメント側はこれを公にはしていない。
ロンリー・ハートから3年強のブランクを経て、イエスは「ビッグ・ジェネレイター - Big Generator(1987年)」をリリースした。レコーディングは難航し、イタリアやアメリカなどのスタジオを転々としてようやく完成したアルバムであるが、制作途中でホーンはプロデュースを降り、ラビンがその後を担った。このアルバムはクオリティは決して低くないものの、セールスは振るわなかった。クリスはこの件に関して、ドキュメンタリービデオ『イエス・イヤーズ』の中で、「もう少し早く、良いタイミングで出すことが出来た」と発言している。
ちなみにこの時期にバンドが本拠地を置いていたのはロサンゼルスである。発表作品は2枚のみであり実質活動期間も長くはないが、イエスとしては珍しく5年もの間メンバー・チェンジが発生しなかった。
ABWH (イエス二分裂時代)
1988年、日本公演を含むビッグ・ジェネレイター・ツアーが終了した時点でジョン・アンダーソンは再びバンドを脱退する。そして彼はスティーヴ・ハウ、ビル・ブラッフォード、リック・ウェイクマンとともに「アンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウ(以下ABWH)」を結成するに至る。アンダーソンがこうした活動に出た裏には、トレヴァー・ラビンが主導するバンドに不満を抱いていたということがあるとされる。アンダーソンの新しい活動は「イエス」という名称を巡り、この後ついに訴訟沙汰にまでなっている。
紆余曲折を経て完成した「閃光 - Anderson Bruford Wakeman Howe(1989年)」は、大きな話題を呼んだ。ABWHはツアー・タイトルを「イエス・ミュージックの夜 - An Evening of Yes Music Plus」と銘打ち、'70年代のイエスの楽曲を数多く演奏した。
特にビル・ブラッフォードの参加は、様々な意味で歓迎された。彼が在籍していた時期のライブの演奏がほとんど残っておらず[9]、さらに彼がイエスを脱退したのは「危機」レコーディング直後だったため、彼のドラムで「危機」の曲目がライヴ演奏されたのはこれが初めてだった。更には、ブラッフォードがベーシストにトニー・レヴィンを連れてきたので[10]、結果として「キング・クリムゾンのリズム・セクションで聴けるイエス」となっている。
このトニー・レヴィンも含め、マット・クリフォード(key) 、ミルトン・マクドナルト(g) といったサポートメンバーがいた。それに加え、アンダーソンはヴァンゲリスと、ハウはジェフ・ダウンズ、マックス・ベーコンと(エイジア、GTR時代に)共作したマテリアルを持ち寄り新曲として仕上げている。
余談だが、ABWHのライヴ作品「イエス・ミュージックの夜」は、CD / 映像ともに、体調を崩したレヴィンの代役として、ビル・ブラッフォードのソロ時代の仲間であるジェフ・バーリンが参加した時のものが使われている。また、マット・クリフォードはライヴには参加せず(同時期にローリング・ストーンズのツアーに参加していたため)、代わりにジュリアン・コルベックがツアーに参加した。
一方、本家イエスの方はワールド・トレイドのビリー・シャーウッドを加えて新たな活動を模索していた。ただ、その成果は4枚組ボックス「イエス・イヤーズ - Yesyears(1991年)に収録された「ラヴ・コンクァーズ・オール - Love Conquers All」1曲のみで、シャーウッドは1997年の「オープン・ユア・アイズ - Open Your Eyes」で正式参加するまで、自身のバンドとイエスのサポートを並行させた。 ちなみに、この時期の本家イエスは、ファンの間では、それ以前の本来のイエスやABWHと区別するために、「西海岸イエス(YesWest)」または「90125イエス」と呼ばれている。ジョン・アンダーソンは当時のインタビューで「9012バンド」と呼んでいた。
統合〜収束(イエス統一)
アルバム / シングルのヒットと、ツアーの好評を受けて、ABWHはセカンド・アルバム「ダイアログ - Dialogue(未発表)」のレコーディングに入った。しかし、楽曲の数が不足していたため、ジョン・アンダーソンはトレヴァー・ラビンに楽曲の提供を依頼。ラビンもこの依頼に応えて楽曲を提供することになった[11]。この流れでスクワイアがコーラスとしてABWHの曲に参加。結局、二つのバンドは合流してイエスとなる。そして、ほぼ録音が完了していたABWHの「ダイアログ」にスクワイアとラビンらのイエスの新作4曲を加えて再編集して、アルバム「結晶 - Union(1991年)」が発表された。このアルバムは、正式メンバー8名+トニーレヴィン、ビリー・シャーウッドら多数のサポート・メンバーによって制作されたものである。
このアルバムに伴うツアーはジュール・ベルヌの小説「80日間世界一周」をモチーフにして「Round the World in 80 Days」と名づけられ、8人の正式メンバーで敢行され、世界各地で大いに盛り上がった。なお、ツアーの最終地である日本での来日公演直前にビル・ブラッフォード脱退という報道がなされ、宣伝写真から彼の姿が消えたこともあったが、アンダーソンが「あと2週間くらい付き合えよ」と説得し、8人でツアーを終えた。
ツアーが終了するとブラッフォードとハウが脱退する。その結果、9012バンドとウェイクマンという6人編成となり、次作に向けてミーティングを行うものの、ウェイクマンが自身のソロ活動との両立が難しいと判断して脱退してしまう。その結果、イエスの編成は90125バンドの5人のメンバーに戻り、アルバム「トーク - (1994年)」を制作・発表している。このアルバムのツアーを最後に、ラビンはイエスを脱退。映画音楽の世界に転身する。また、トニー・ケイも脱退し、音楽活動から引退して側面からイエスをサポートしていくと表明した。(この時点からしばらくの間、ケイは音楽活動から引退することになるが、後に Circa、YOSO のメンバーとして復帰している)
世紀末の混迷期
「トーク」のメンバー構成(アンダーソン、スクワイア、ケイ、ホワイト、ラビン)からラビンとケイが脱退し、ハウとウェイクマンが復帰する。イエスのオフィーシャル・サイト YesWorld は「YesKnow」のタイトルで、アンダーソン、スクワイア、ホワイト、ハウ、ウェイクマンでのイエスの復活を発表し、1996年3月にカリフォルニア州のサン・ルイス・オビスポの劇場にて、このラインナップで復活ライブ(3度の公演)を行なった。
そのようにして発表されたアルバム「キーズ・トゥ・アセンション(1996年)」、「キーズ・トゥ・アセンション2(1997年)」は、サン・ルイス・オビスポでのライヴとスタジオ録音の新曲を混在させたプロジェクトであった。アルバム発表の後にはツアーが予定されていたが、マネージメントの変更を検討していたためスケジュールがなかなか決まらず、ウェイクマンがスケジュールを知ったのは、既に彼自身のソロ・ライブ・ツアーのスケジュールがブッキングされた後であった。こうしたトラブルからウェイクマンは4度目の脱退をした。1997年5月にはウェイクマン脱退が正式に発表され、予定されていたツアーはキャンセルとなった。
後任のキーボード・プレイヤーを探していたイエスは、ジョン・アンダーソンが連れてきたロシア出身のイゴール・コロシェフをツアー用のメンバーとして加入させる。また、1997年10月から組まれていたツアーに合わせ、クリス・スクワイアのソロ・プロジェクト「クリス・スクワイア・エクスペリメント」の曲が、急遽、イエスとしての作品に昇格してアルバムを制作する事となり、正式メンバーとなったビリー・シャーウッドが最終ミックスダウンを行った「オープン・ユア・アイズ(1997年)」を完成させた。
1999年、バンドは名プロデューサーとして知られたブルース・フェアバーンを迎えてアルバム「ラダー(1999年)」を発表する。このアルバムではコロシェフは正式メンバーに昇格している。その後ビリー・シャーウッドが自分の活動に専念するため脱退。イゴール・コロシェフの脱退については、ツアー中に二名の女性警備員へ暴行事件(実際にはキスを迫ったり、首筋を噛んだりといったセクハラ的行為)を起こしたことによる解雇であると噂されているが、真相は不明である(ジョン・アンダーソンによると、解雇ではなく、契約期間が満期終了で契約更改なしというのが実状だったようである)。
21世紀のイエス
キーボード不在を逆に好機と捉えたイエスは、以前から暖めていた企画であるオーケストラとの競演を柱とした作品「マグニフィケイション(2001年)」を発表する。更には欧米でオーケストラとの共演ライヴを実現した。ライヴではキーボードにトム・ブリズリンが参加している。
マグニフィケイション・ツアーを終えたイエスは、ウェイクマンの復帰(4回目)を発表した(真偽は不明だが一説によると、曲作りには参加しないツアーのみの契約であるといわれている)。その後イエスは、2002年のクラシック・ツアー、2003年のフルサークル・ツアー、2004年の35周年記念ツアーと大規模なツアーを行ったものの、スタジオ・レコーディングの新作を出していない。
2005年「今年はツアーをやりたくない」というアンダーソンの意向を受けて、イエスはグループとしての活動を停止し、メンバーはソロ活動に入った。また、リック・ウェイクマンが、公式に次のイエスの活動には参加しないことを表明した。
2008年、ジョン・アンダーソン、スティーヴ・ハウ、クリス・スクワイア、アラン・ホワイト、オリヴァー・ウェイクマン(リック・ウェイクマンの長男。心臓病を抱えたリック・ウェイクマンは医師の助言により参加せず、代わりに息子を推薦したとのことである)というラインナップでバンド結成40周年をふまえた世界ツアーを行うことが公式サイトにて発表された。だが、ジョン・アンダーソンの病気によりキャンセルとなった。
アンダーソンの回復を待たず、同年9月、カナダ人シンガーのベノワ・ディヴィッドをアンダーソンの代理として起用、11月から12月にかけて、北米で「イン・ザ・プレゼント・ツアー」を敢行。その後にアンダーソンは回復するものの、イエスへの復帰が認められず、イエスは2011年までベノワ・ディヴィッドとオリヴァー・ウェイクマンを加えたラインナップでライヴ活動を続けた。
その間、アンダーソンはソロ・ライヴで欧米を巡業し、2010年にはイギリスでリック・ウェイクマンとの共演の「プロジェクト360」としてのライヴも行ない、連名のアルバムも発表している。
2010年、ベノワ・ディヴィッドとオリヴァー・ウェイクマンを正式なメンバーとして次作のレコーディングを行なうことがアナウンスされた。プロデューサーにはトレヴァー・ホーンが参加すると発表された。
2011年、キーボードにジェフ・ダウンズ、プロデューサーにトレヴァー・ホーンを迎えて製作されたアルバム「フライ・フロム・ヒア」を発表。オリヴァー・ウェイクマンについては脱退なのか、解雇なのかアナウンスされていない。その後のツアーでのライヴ録音盤「イン・ザ・プレゼント〜ライヴ・フロム・リヨン」も発表されている。
2012年2月、オーストラリア・ツアーを前にベノワ・ディヴィッドが病気のため正式に脱退[12]。後任ボーカルとしてジョン・デイヴィソンが参加。
メンバー
年 | ボーカル | ギター | キーボード | ベース | ドラムス |
---|---|---|---|---|---|
1968–1970 | ジョン・アンダーソン | ピーター・バンクス | トニー・ケイ | クリス・スクワイア | ビル・ブラッフォード |
1970–1971 | スティーヴ・ハウ | ||||
1971–1972 | リック・ウェイクマン | ||||
1972–1974 | アラン・ホワイト | ||||
1974–1976 | パトリック・モラーツ | ||||
1976–1980 | リック・ウェイクマン | ||||
1980–1981 | トレヴァー・ホーン | ジェフリー・ダウンズ | |||
1981–1983 | 事実上の解散中 | ||||
1983–1989 | ジョン・アンダーソン | トレヴァー・ラビン | トニー・ケイ トレヴァー・ラビン (スタジオのみ) |
クリス・スクワイア | アラン・ホワイト |
1990–1992 | トレヴァー・ラビン スティーヴ・ハウ |
トニー・ケイ リック・ウェイクマン |
アラン・ホワイト ビル・ブラッフォード | ||
1993–1994 | トレヴァー・ラビン | トニー・ケイ トレヴァー・ラビン |
アラン・ホワイト | ||
1995–1997 | スティーヴ・ハウ | リック・ウェイクマン | |||
1997 | スティーヴ・ハウ ビリー・シャーウッド |
ビリー・シャーウッド (スタジオのみ) | |||
1997–2000 | イゴール・コロシェフ | ||||
2000 | スティーヴ・ハウ | ||||
2001–2002 | Tom Brislin (ツアーのみ) | ||||
2002–2004 | リック・ウェイクマン | ||||
2004–2008 | 活動停止 | ||||
2008–2010 | ベノワ・ディヴィッド | スティーヴ・ハウ | オリヴァー・ウェイクマン | クリス・スクワイア | アラン・ホワイト |
2011-2012 | ジェフリー・ダウンズ | ||||
2012-現在 | ジョン・デイヴィソン |
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
発表年 | タイトル (邦題) | タイトル (原題) | 最高順位(UK) | 最高順位(US) |
---|---|---|---|---|
1969年 | イエス・ファースト・アルバム | Yes | - | - |
1970年 | 時間と言葉 | Time And Word | 45 | - |
1971年 | イエス・サード・アルバム | The Yes Album | 7 | 40 |
1971年 | こわれもの | Fragile | 7 | 4 |
1972年 | 危機 | Close To The Edge | 4 | 3 |
1973年 | 海洋地形学の物語 | Tales From Topographic Oceans | 1 | 6 |
1974年 | リレイヤー | Relayer | 4 | 5 |
1977年 | 究極 | Going For The One | 1 | 8 |
1978年 | トーマト | Tormato | 8 | 10 |
1980年 | ドラマ | Drama | 2 | 18 |
1983年 | ロンリー・ハート | 90125 | 16 | 5 |
1987年 | ビッグ・ジェネレイター | Big Generator | 17 | 15 |
1991年 | 結晶 | Union | 7 | 15 |
1994年 | トーク | Talk | 20 | 33 |
1996年 | キーズ・トゥ・アセンション | Keys To Ascention | 48 | 99 |
1997年 | キーズ・トゥ・アセンション2 | Keys To Ascention 2 | 62 | - |
1997年 | オープン・ユア・アイズ | Open Your Eyes | - | 151 |
1999年 | ラダー | The Ladder | 36 | 99 |
2001年 | マグニフィケイション | Magnification | 71 | 186 |
2011年 | フライ・フロム・ヒア | Fly from Here | 30 | 36 |
ライヴ・アルバム
発表年 | タイトル(邦題) | タイトル(原題) | 最高順位(UK) | 最高順位(US) |
---|---|---|---|---|
1973年 | イエスソングス | Yessongs | 7 | 12 |
1980年 | イエスショウズ | Yesshows | 22 | 43 |
1985年 | 9012ライブ | 9012 Live : The Solos | 44 | 81 |
1993年 | イエス・ミュージックの夜 | An Evening Of Yes Music Plus | - | - |
1997年 | BBCセッション1969-1970 サムシングズ・カミング | Yes BBC Sessions 1969-1970 Something's Coming | - | - |
2000年 | ハウス・オブ・イエス | House Of Yes | 36 | 99 |
2005年 | ライヴ・イヤーズ | The Word Is Live | - | - |
2011年 | ユニオン・ツアー1991 | Union Live | - | - |
2011年 | イン・ザ・プレゼント〜ライヴ・フロム・リヨン | In The Present - Live From Lyon | - | - |
コンピレーション
発表年 | タイトル(邦題) | タイトル(原題) | 最高順位(UK) | 最高順位(US) |
---|---|---|---|---|
1975年 | イエスタデイズ | Yesterdays | 27 | 17 |
1981年 | クラシック・イエス | Classic Yes | - | 142 |
1991年 | イエス・イヤーズ | Yesyears | - | - |
1992年 | イエス・ストーリー | Yesstory | - | - |
1993年 | ベリー・ベスト・オブ・イエス | The Very Best Of Yes | - | - |
2002年 | ヒストリー・ボックス | In A Word | - | - |
2003年 | アルティメット・イエス | The Ultimate Yes | 10 | 131 |
2004年 | (Re)Union | (Re)Union | - | - |
その他
- 1993 シンフォニック・イエス - Symphonic Music of Yes(Prd.アラン・パーソンズ/演奏.ロンドン・フィル、アンダーソン、ハウ、ブラッフォード)
- 1995 テイルズ・フロム・イエスタデイ - V.A./Tales from Yesterday(バンクス、ハウ、モラーツ、シャーウッド参加)
- 1998 イエス・フレンズ&レラティヴズ - Yes,Friends & Relatives
- 2001 イエス・フレンズ&レラティヴズ2 - Yes,Friends & Relatives Vol.2
- 2003 イエス・リミックス - Yes Remixes(リミックス/ザ・ヴァージ)
ビデオソフト
- ベスト・オブ・ミュージック・ラーデン・ライヴ (1969/1971年のテレビ出演ビデオ)
- イエスソングス (1972年のライブ)
- イエス/ライブ 1975 - (1975年のライブ・当初は1タイトル。その後Vol.1とVol.2に分割)
- ライブ・イン・フィラデルフィア (1979年のライブ)
- 9012ライブ (1984年9月のライブ)
- イエス・ミュージックの夜 (ABWH名義・1989年のライブ)
- イン・ザ・ビッグ・ドリーム (ABWH名義・インタビューとビデオ・クリップとライブ)
- イエスショウズ91 (1991年8月8日のライブ)
- イエスイヤーズ (1991年発売のドキュメントビデオ)
- 暦 (1991年発売のビデオ・クリップとインタビュー)
- キーズ・トゥ・アセンション Vol.1 / Vol.2 (1996年のライブ)
- ハウス・オブ・イエス (1999年10月のライブ)
- シンフォニック・ライブ (2001年11月のライブ)
- Yes Acoustic (2004年1月20日のライブ)
- イエススピーク (2004年発売の35周年記念ドキュメントビデオ)
- Live at Montreux 2003 (2003年7月14日のライヴ)
- Rock of the 70's (1970年9月にベルギーでテレビ放送された30分番組のビデオ・ソフト化)
- The Lost Broadcasts (1969年~1970年のドイツのテレビ番組「ビート・クラブ」出演時の映像とそのアウトテイク)
- Classic Artists (インタビューでイエスの歴史を振り返るドキュメンタリー)
ソフトの発売時期によって、テープ/LD/DVD等、収録メディアに差異がある。
関連アーティスト/バンド
- GTR (エイジアの後、スティーヴ・ハウが結成に参加)
- U.K. (ビル・ブラッフォードが結成に参加)
- ブラッフォード (ビル・ブラッフォードが結成)
- XYZ、シネマ(80'sイエスの前身)
- アンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウ (イエスの別動バンド)
- ヴァンゲリス(ジョン・アンダーソンが「天国と地獄」にゲスト参加)
- エイジア (スティーヴ・ハウとジェフ・ダウンズが結成に参加)
- キング・クリムゾン (ジョン・アンダーソンが「リザード」にゲスト参加/ビル・ブラッフォードが移籍)
- グラス・ハマー (ジョン・アンダーソンが2007年のアルバム「Culture Of Ascent」にゲスト参加。またリード・ボーカルのジョン・デイヴィソンが2012年よりイエスに参加)
- ジョン・アンド・ヴァンゲリス(1979年以降のジョン・アンダーソン参加ユニット)
- スターキャッスル (オリヴァー・ウェイクマンが2007年の再結成時に参加)
- ストロウブス (リック・ウェイクマンの移籍元)
- デヴィッド・ボウイ (大学時代のリック・ウェイクマンがセッション参加)
- バグルス (トレヴァー・ホーンとジェフ・ダウンズの移籍元)
- バジャー - Badger (トニー・ケイが最初に脱退した直後に結成したバンド)
- プラスティック・オノ・バンド (セッション・マン時代のアラン・ホワイトがツアーに参加)
- フラッシュ (脱退後のピーター・バンクスが結成したバンド。トニー・ケイもゲスト参加)
- T・レックス (大学時代のリック・ウェイクマンがセッション参加)
- ムーディー・ブルース (脱退後のパトリック・モラーツが一時在籍)
- ラビット (トレヴァー・ラビンが地元の南アフリカで在籍)
- レフュジー (パトリック・モラーツの移籍元)
- ワールド・トレイド (ビリー・シャーウッドが元在籍)
- 喜多郎 (『十五少女漂流記』のサウンドトラックに、ジョン・アンダーソンがゲスト参加)
- サーカ(ビリー・シャーウッド、トニー・ケイ、アラン・ホワイトら、イエスとその周辺人物が結成)
- ミステリー - Mystery(ベノワ・ディヴィッドが在籍しているバンド。彼の地元カナダで活動している)
- Close to the Edge(ベノワ・ディヴィッドが参加していたイエスのコピーバンド[13]。)
- YOSO(ビリー・シャーウッド、トニー・ケイと[TOTO_(バンド)関係者によるバンド。バンド名は Yes + TOTO から)
- スーパートランプ(アルバム「トーク」に参加したロジャー・ホジソンが在籍していた)
参考書籍
- ティム・モーズ著「イエス・ストーリー 〜 形而上学の物語(原題:YesStories)」
- クリス・ウェルチ著「ザ・ストーリー・オブ・イエス (原題:Close to the Edge〜The Story of Yes)」
- 監修:片山 伸「イエス・ファイル」
- 「ストレンジ・デイズ」2005年8月号
- 黒田史朗著「イエス」(音楽之友社刊)
脚注
- ^ 黒田史朗著「イエス」より。以降、特に表記が無い限り、時期や場所の記述は参考書籍に列記された資料やアルバムのライナーノーツなどに基づいている。
- ^ ただし、この人脈図は、ビル・ブラッフォードの参加時期など、インタビューにおける本人のコメントと整合していない記述もあり、資料価値としての疑問を呈する意見もある。
- ^ ビル・ブラッフォードの公式サイトで彼自身が名言しており、「イエス」に改名した時点の4人が並んで寝そべっている写真も公開されている。
- ^ クリス・スクワイアとピーター・バンクスがファンだと公言していたザ・フーの影響が、分かりやすい形で音に現れている、という意見もある。更にビル・ブラッフォードを筆頭に、トニー・ケイ、バンクスが傾倒していたジャズの要素も少なくない。また、当時ジョン・アンダーソンが気に入っていたコーラス・グループのフィフス・ディメンション、スクワイアが少年時代に参加していた聖歌隊、そして2人が共にファンだったというサイモン&ガーファンクルという嗜好 / 経験で意見が合致した「強力なコーラス・ワーク」は、結成当初から現在に至るまで一貫してイエスのサウンドに取り入れられ、この時期、既にその片鱗が現われているといわれている。
- ^ イエスの場合は「バンド演奏とのバランスがあまり良くなく、成功とは言い難い」という見解もある。シンフォニック・サウンドの導入には困難が伴う事が判明し、それが後にシンフォニック・サウンドの構築を得意とするリック・ウェイクマンの加入に繋がったのではないか、という意見がある。また、このことによって各メンバーの音楽指向の違いが浮き彫りになり、この時点でのピーター・バンクスの脱退と、後のトニー・ケイの脱退が具現化したとされている
- ^ ただし、大部分が他のバンドの前座だったため、詳細は伝わっていない。
- ^ XYZのセッションがかなり具体的なものであったことは、当時の音楽マスコミも重ねて伝えており、ジョン・ボーナムを失ったばかりのレッド・ツェッペリンが、その活動を続けるため、キーボードもこなすベーシストのジョン・ポール・ジョーンズをキーボード専任にシフトし、開いたリズム・セクションを埋めるため、クリス・スクワイアとアラン・ホワイトを加入させる、という噂まで飛び出した。事実、そういう形のセッションも実験的に行われたと伝えられているが、結局はXYZもスクワイアとホワイトの移籍も実現せず、二人はシネマ (Cinema) の結成に向けて活動を開始する。また、XYZのスタジオでのリハーサルの録音テープ(4曲入り)が流出しており、その中からの2曲が後にイエスの曲として発表された作品の原曲となっている。
- ^ ホーンのソロ・プロジェクト色が強い作品だが、ジェフ・ダウンズもエイジアに参加するまでの短期間ながら、制作に携わっている。商業的成功は前作に全く及ばず、日本では当時リリースすらされなかった。ただし、以後プロデューサーとして名声を得るホーンが、ミュージシャン/アーティストとして活動した最後の作品という意味でも重要な1枚であるという意見がある。なお、アート・オブ・ノイズも彼のユニットとして見ることができる。
- ^ 当時はイエスソングスに収録されている3曲のみだった。
- ^ スタジオ作品にも全面参加している。
- ^ ちなみにこの経緯については、「ABWHは実際には曲作りに困っていたこともなく、アンダーソンが抱いていた「よりイエスらしい自分たちがイエスと名乗れないフラストレーション」のためにラビンに接触した、というのが実情」と見る向きもある。
- ^ [1]
- ^ 公式サイトによれば現在は参加していない模様