T4作戦
T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な安楽死」(虐殺)政策である。
1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を略して[1]第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。
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社会ダーウィニズムに基づく優生学思想は、ドイツでは第一次世界大戦以前からすでに広く認知されており、1910年代には「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念が生まれていた[5]。1920年には、法学博士で元ライプチヒ大学学長のカール・ビンディングと医学博士・フライブルク大学教授で精神科医のアルフレート・ホッヘにより、重度精神障害者などの安楽死を提唱した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が出版されている。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン自由州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出されている[6]。
ナチ党の権力掌握後、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に基づいて、遺伝病や精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった[3]。1933年7月14日には「遺伝病根絶法[# 2]」が制定され、断種が法制化された[7]。
1938年から1939年にかけて、重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。この訴えを審議した総統官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[8]。この訴えは後に「私は告発する」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった[8]。
「T4」による安楽死政策
T4作戦の必要性をヒトラーに認識させたのは、アルベルト・ボルマンとその上司だったフィリップ・ボウラーの2人だったと言って過言ではない[9]。ボルマンはヒトラーの副官で、同じくヒトラーの副官だったマルティン・ボルマンの弟である[9]。アルベルトは、ヒトラーに送られてくるファンレター・投書・陳情書を扱っていたため世論の動向に詳しく、ヒトラーに対して一定の影響力を持っていた[9]。
1939年9月1日、ヒトラーは日付の記されていない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死[# 3]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[# 4]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[8][10]。ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している[11]。命令書に書かれている9月1日の日付は後からさかのぼって書かれたものだと考えられている[12]。なぜ日にちをさかのぼらねばならなかったのかその理由は現在もわかっていない[12]。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった[13]。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが[14]、いずれもヒトラーによって拒否された[15]。
こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や安楽死施設で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった[# 5]。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒも法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省に事態の調査を求めていた[16]。法務大臣フランツ・ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった[16]。ギュルトナーは首相官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った[16]。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった[17]。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した[17]。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された[17]。結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった[7]。
T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(秘匿名「公益患者輸送会社」、ドイツ語略称ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた[1]。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[18]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[2]。
処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[19]。T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ハイデとパウル・ニッチェらは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した[1][20]。「処分者」は、郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバスに乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。
専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設、ブランデンブルク安楽死施設、ベレンブルク安楽死施設 、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設 、ハダマー安楽死施設の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[7]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[18]。
移送された者はガス室に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーやサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[# 6]、飢餓による殺害も含まれている[19]。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。
安楽死政策への反発
この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強い反対があった[21]。またミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレンは1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し[22]、連合国にも知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も行っている[23]。一部のナチ党幹部はガーレンを死刑にするよう求めたが、ミュンスター市民への影響を考慮したヨーゼフ・ゲッベルスは慎重論を主張し、ヒトラーもそれに応じた[24]。しかし連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[25]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。
「T4」中止後の安楽死政策
T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日[26]にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した[25]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[26]、実際にはハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。それ以外の精神病患者の収容施設では医師・看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[27]。また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[27]。
1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデンを任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された[28][29]。
また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象となった[30]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種とされた人々(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[31]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[31]。
これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[32]。1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[33]。
乳幼児の安楽死
障害のある子どもたちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子どもを対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[34]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった[2]。
14f13作戦
強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[# 7]」を排除する「14f13作戦」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった[35]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心であった[35]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[36]。
犠牲者数
これらの政策により、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1,000人、乳幼児が5,000人から8,000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となった。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている[37]。占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた[38]。
戦後
終戦後、関係者はニュルンベルク継続裁判の医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年に自殺した。
2010年、ドイツの精神医学会は、障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪した。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 澤田 2005, p. 159.
- ^ a b c 木畑 1989, p. 279.
- ^ a b 木畑 1989, p. 250.
- ^ 泉彪之助 2003, p. 280.
- ^ 木畑 1989, p. 248.
- ^ 木畑 1989, p. 249.
- ^ a b c 木畑 1989, p. 278.
- ^ a b c 木畑 1989, p. 246.
- ^ a b c 芝健介『ヒトラー―虚像の独裁者』岩波書店〈岩波新書〉、2021年9月17日、306頁。ISBN 978-4-00-431895-8。
- ^ 宮野 1968, pp. 128-129.
- ^ (宮野 1968, pp. 128-129)
- ^ a b 梅原秀元「「安楽死」という名の大量虐殺―その始まりと展開」『「価値を否定された人々」ナチス・ドイツの強制断種と「安楽死」』新評論、2021年10月10日、122頁。ISBN 978-4-7948-1192-9。
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- ^ a b c 佐野 1998, p. 21.
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- ^ a b 木畑 1989, p. 280.
- ^ a b 木畑 1989, p. 259.
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- ^ 宮野 1968, pp. 129-130.
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- ^ 佐野 1998, p. 6.
- ^ 泉彪之助 2003, p. 283.
- ^ a b 宮野 1968, p. 130.
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- ^ 木畑 1989, pp. 258-259.
- ^ 木畑 1989, p. 266.
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- ^ 木畑 1989, p. 273.
- ^ 澤田 2005, p. 161.
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- ^ 木畑 1989, p. 254.
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参考文献
- 宮野彬「ナチスドイツの安楽死思想 : ヒトラーの安楽死計画」『法学論集』第4巻、鹿児島大学、1968年、119-151頁、NAID 40003476739。
- 澤田愛子「ナチT4作戦における看護師 : その役割分析と共犯のメンタリティーに焦点を当てて」『人間学紀要』第35巻、上智大学、2005年、155-178頁、NAID 40003476739。
- 佐野誠「ナチス「安楽死」計画への道程:法史的・思想史的一考察」『浜松医科大学紀要. 一般教育』第12巻、浜松医科大学、1998年、1-34頁、NAID 110000494920。
- 佐野誠「ナチス「安楽死計画」への一法律家の抵抗:ロタール・クライシヒの場合」『浜松医科大学紀要. 一般教育』第13巻、浜松医科大学、1999年、13-42頁、NAID 110000494925。
- 木畑和子「第2次世界大戦下のドイツにおける「安楽死」問題」『1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』井上茂子、木畑和子、芝健介、矢野久、永岑三千輝著、同文舘出版、1989年。ISBN 978-4495853914。
- 泉彪之助「精神疾患患者・遺伝性疾患患者に対するナチスの「安楽死」作戦とミュンスター司教フォン・ガーレン」『日本医史学雑誌』49(2)、日本医史学会、2003年6月20日、277-319頁、NAID 10011152509。
関連文献
- フランツ・ルツィウス『灰色のバスがやってきた - ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置』山下公子訳、草思社、1991年。ISBN 4-7942-0445-0。
- 小俣和一郎『ナチスもう一つの大罪 - 「安楽死」とドイツ精神医学』人文書院、1995年。ISBN 4-409-51037-1。
- ヒュー・グレゴリー・ギャラファー『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』長瀬修訳、現代書館、1996年。ISBN 4-7684-6687-7。
- 小俣和一郎『精神医学とナチズム - 裁かれるユング、ハイデガー』講談社、1997年。ISBN 4-06-149363-9。
- カール=ビンディング/アルフレート=ホッヘ、森下直貴/佐野誠訳著『「生きるに値しない命」とは誰のことか - ナチス安楽死思想の原典を読む』窓社、2001年。ISBN 978-4896250367。
- ジョルジュ・ベンスサン『ショアーの歴史 - ユダヤ民族排斥の計画と実行』吉田恒雄訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2013年。ISBN 978-4-560-50982-1。
関連項目
- ナチスの優生学
- ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死
- 非倫理的な人体実験
- 精神医学
- 精神科医
- 生きるに値しない命
- 障害者 - 障害者差別禁止法 - 障害者虐待防止法
- AB行動
- タンネンベルク作戦
- 安楽死
- 医者裁判
- ホロコースト
- 相模原障害者施設殺傷事件
- オーランド銃乱射事件
- カブラの冬 - 第一次世界大戦においてドイツで発生した食糧不足。T4作戦に匹敵する数の社会的弱者が、戦争中に「餓死」している。
外部リンク
- 安楽死プログラム United States Holocaust Memorial Museum(日本語)
- 障害者の殺害 United States Holocaust Memorial Museum(日本語)
- Website with photo of Philipp Bouhler and facsimile of Hitler’s letter to Bouhler and Brandt authorising the T4 program
- The complete text of Robert Lifton's The Nazi Doctors online
- List of Action T-4 personnel
- 障害者と戦争 ナチスから迫害された障害者たち(1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか(NHK EテレハートネットTV「シリーズ戦後70年」)