かまど

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かまど
かまどでインジェラを焼く。エチオピアにて。

かまど)は、穀物や食料品などを加熱調理する際にを囲うための調理設備。

概要[編集]

グアテマラのかまど。3つの石で土鍋を支える
ロシアの伝統的なペチカ

調理などで煮炊きをする場合、古くは囲いの無い直火に鍋などを加熱する方式によって食品の加熱調理が行われていたが、周辺に熱が放射などの形で逃げる他、煤煙が漂う・火がで揺らぐなど効率が悪いため、セメントで作られるかまどが発明された。

これらでは)や家畜の乾燥させたといった直接的なバイオマス燃料や、などのバイオマス加工燃料が固形の燃料として用いられる。また地域によっては石炭が利用される場合もある。

このかまどの発達により、調理者は裸火による直接的な放射熱に晒されなくてすみ、より高温の炎で調理することが出来るため調理時間の短縮にも繋がり、また調理方法も様々なバリエーションを生むようになり、今日ある調理方法のほとんどは、このかまどによってその原型が確立された。

更に言えば、かまどの発達は文明の発達に大きく寄与したとも考えられる。調理の一極化や専門化を生み、かまどを中心に人が集中するようになり、従来の炉が調理に手間が掛かっていたために食が賄える人の数はそれほど多くなかったのに対し、かまどでは高温での連続集中調理で多くの人の食事が賄え、これにより人口の集中が発生、そこに文明が育まれた。

かまどは調理専門に火を焚く設備であるため、暖房や照明としての火が必要ない、温暖な地域で使用される場合が多い。しかし、かまどから吐き出される煙の熱気を利用した合理的な暖房システムが、寒冷なアジア北部とヨーロッパ北部に存在する。朝鮮オンドル中国北部の(カン)は、かまどの排気を床下に通して部屋を暖める床暖房である。原理はどちらもそれぞれ同じだが、日本と同じく「履物を脱いで部屋に上がる」朝鮮では部屋全体を暖め、室内でも履物を脱がない中国では寝床のみ暖めるところに違いがある。部屋の中では焚口、つまり台所に近い場所が暖かいため、「上座」とされる。暖房が必要ない夏季は、オンドルに繋がらない夏専用のかまどを使用する。 ロシアペチカは、かまどや暖炉の排気を石やレンガで築いた煙道に通す蓄熱式暖房である。ペチカの上に寝床を設ける事もある。幕末、カムチャッカ半島に抑留された高田屋嘉兵衛は、ペチカで暖房された部屋の快適さを「襦袢のみで過ごせる」と証言している。現在、北海道でも、石油ストーブと組み合わせたペチカが一部で使用されている。

西洋、東洋で長い間利用され、かまどの火はよく神聖化された。

日本では釜で沸かした湯で邪気を払う「湯立神事」のため、かまどを設ける場合もある。愛知県の奥三河地方や長野県の伊那地方には鎌倉時代より伝統的な祭り「花祭」が伝承されている。祭りの際はかまどを築いて湯を沸かし、クライマックスでに扮した踊り手が舞う中、湯が振り撒かれ、邪気を払う。神事以外でも、神社やお堂などの公共の場に祭事の炊き出しや暖を取ることを目的としたかまどが併設されていることがある

次第に文明が発達していく中で、調理用の熱源としてガスコンロのような他の燃料による簡便な調理用の炉が利用されるようになると、次第にその役目を終えて姿を消していった。

東洋のかまど[編集]

かまどの構造は調理側と焚口側が一致する類型(日本や朝鮮半島のほか、中国のブイ族・ウイグル族リー族の住居など)、調理側と焚口側が直交に分離している類型(中国のサニ族の住居など)、調理側と焚口側が平行二面に分離している類型(中国の華南地域の住居など)などがある[1]

中国[編集]

新石器時代には調理用火器として住宅内に設けられた炉である竈が出現した[2]。地面に作り付けのかまどを地竈といい竈台と竈坑がある[2]。竈台は床面から5cmほど高い位置に水平面を設けた炉で、などの脚付きの調理器に適した設備である[2]。一方、竈坑は床面から15cmから20cmほど掘り下げて縁の部分を少し高くした炉で、釜など脚の付かない調理器具に適しており、かまどの起源となった設備である[2]

また壁面に設けた壁竈もあり、龍山文化でみられるこれらの設備の併設は採暖用の炉竈と炊事用の厨竈の機能分化とみられている[3]

さらに新石器時代には地竈や壁竈のほか、持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[4]

日本[編集]

伝統的な日本のかまど。煙突が無いため、焚口は排煙を兼ねる。

日本全国で呼称はさまざまである。関西では「へっつい」と呼ばれることが多いが、京都では「おくどさん」という名称が使われていた。

日本では20世紀末ごろには、日常生活では利用されなくなっており、地方農村でも埃をかぶるに任せられている。それでも1950年代頃までは使われていたため、の炊き方などにこのかまどによる調理方法が口伝などの形で残されており、これらは現代の炊飯器でも「美味しいご飯の炊き方」として再現されている。例えば2008年にパナソニックから発売された製品では、その20年前(1988年)から試し炊きだけで3トンもの米を消費しながら改良を続け、製品名に『竈』を含めた「プレミアム炊飯器」をリリースしている[5]

個人所有数は減少しているものの、バーベキュー場やキャンプ場には調理器具や食材とセットで気軽に利用できるよう設置されていることが多い。また和風飲食店では、日本式のかまどを再現して煮炊きに利用しているところもある。

災害発生時の避難施設に指定されている学校公園などの公共施設等においては電気・ガス等のライフラインの停止状態で多数の避難者に食事を提供する必要がある。そこで、かまどの有用性が高く、敷地内に新しくかまどを設置する活動もある[6]

他にも屋外での催し物等で仮設・移動式の物が使用されている。

構造[編集]

かまどは簡単な材料で作ることができ、使用耐久も長く、修理も比較的簡単なため、広く普及した。

構造としては単純なものでも火を被う囲いと、その上部には鍋や釜といった調理器具を置くための台が一体化している。また屋内に設置されているものでは屋内に煙が充満しないよう、室外に煙突が設けられる。温度の高い煙は煙突から外へ、放射熱は調理器具の底を熱する形態が一般的である。

側面には燃料を投入し燃え滓(など)を掻き出すための口が設けられており、ここは燃料を投入したり、火の加減を調節するために利用される。この口は地面と同じ高さになっている物も多く、主に土間に設置されていた日本のかまどでは、かまどのすぐ下が土の露出した地面となっていた。

やや高度化すると、燃料を投じる口に金属製の蓋が設けられたり、燃え滓の排出口が戸外に設けられるなどしたものもみられる。日本のかまども社会の高度化に伴って多様化し、七輪のような移動の簡便な焜炉が発展する以前より、長く広く利用されていた。

歴史[編集]

北海道釧路市北斗遺跡擦文時代竪穴建物復元模型内部(史跡北斗遺跡展示館展示)。奥壁中央に造り付けカマドがある。
江戸後期の商家の銅壷付へっつい。煙突は設けられていない。(深川江戸資料館

煮炊きを行う調理施設として、もっとも単純な形のは、地面に直接薪を置いて火を炊いたり(地床炉)、火の周囲を石で囲ったりしたもので(石囲炉)、現代のキャンプでの飯盒による調理などでも知られる。日本列島では、既に旧石器時代にそのような炉が出現していたと見られ、当時の遺構にその痕跡が見られる。

旧石器時代から縄文時代弥生時代古墳時代前期(4世紀)までは日本列島にはカマド[7]が存在せず、屋内外の地床炉が用いられるケースが多かった[8]。弥生時代後期から古墳時代前期には、炉の上におかれた脚部のついた台付甕が用いられた。

その後、古墳時代前期末の4世紀末~5世紀初頭に須恵器の焼成技術である窖窯(あながま)など、朝鮮半島から渡来人によって新しい技術や文物が日本列島にもたらされるが、カマドもこの頃に伝来したと推定されている[9]

この時代に朝鮮半島からの伝播をうかがわせる遺物として、「竈形土器」と呼ばれる土師質の「移動式カマド」が遺跡から出土している。これらは平安時代905年(延喜5年)に編纂が始まった『延喜式』で「韓竈(からかま、からかまど)」と記されている祭祀用カマドにあたると考えられている[10]。20センチメートル未満の小型竈(ミニチュア)と、20センチメートル以上の大型竈に分類でき、20センチメートル未満の小型竈は、古墳時代には渡来人系の被葬者の葬祭儀礼に使われ、奈良・平安時代には都城での祓いなどの祭礼に使用されたと考えられている。20センチメートル以上の大型竈は実用品であろうが、大阪府吹田市の五反島遺跡(ごたんじまいせき)で出土したものは、概してススなどの付着が顕著ではない[10]

上記の「移動式カマド(竈形土器)」のほか、5世紀以降、集落遺跡の竪穴建物内の北側や東側の壁面に「造り付けカマド」が設けられるようになる。その構造は、建物の壁際に粘土をトンネル状に盛り上げて焚口とし、粘土の天井部に開けた穴に煮沸具である土師器を据え、その中にを嵌め込むように置くというものである[9]。カマドの焚口の両脇の「ソデ」と呼ばれる部分には、石や、伏せた土師器の甕、瓦などが芯材として用いられ、カマド中央部に置かれた甕をささえるための支脚にも粘土製のものや細長い石、伏せた須恵器の坏などが用いられることもあった[11]

古墳時代中期(5世紀)における竪穴建物への造り付けカマドの導入は、それまでのを用いた調理より熱効率がよく、当時の調理様式に「台所革命」とも評される劇的な変化を与えたと見られ、日本列島の広範囲に爆発的に普及した[12][13]

5世紀半ば段階では、早々にカマド付き竪穴建物を取り入れて成立した神奈川県横浜市都筑区矢崎山遺跡集落などの例もあるものの、集落遺跡におけるカマド普及率はなお全国で10%、関東地方で4%程度だったが、次の古墳時代後期(6世紀)段階には全国で72.4%、関東地方で90%超の普及率となった[12]。他の調理用具にも変化をあたえ、それまで丸胴だった土師器甕はカマドに据えやすくするために長胴化し、蒸し器のが普及し、それまで高坏が主流だった盛付け用の食器も丸底の坏(手持ち食器)が主流となっていった[12]

また、この時代にかまど神信仰も普及し、カマド構築材(粘土)内に祭祀具である「石製模造品」を封入した例や、竪穴建物を解体する際に「カマド鎮め」を行った形跡が発見されている[14]

古墳時代後期から平安時代には全国的に普及したカマドには、屋外へ煙を排出するための煙道が発達していた。しかし庶民の住居が竪穴建物から掘立柱建物に移行するにしたがい、煙道が失われた。カマドは焚き口と鍋釜をしかける穴のみが設けられた構造となり、薪の燃焼で生じた煙は焚口から屋内に排出され、屋根裏を通って屋根に設けられた「煙出し」の穴から屋外に吐き出されるようになった。

高温多湿な気候の日本において家屋を腐朽やシロアリから守るには、カマドから屋内に煙を吐き出させ、屋根材や家屋を「燻製」にして防腐効果を狙う必要があったためである。瓦葺きの家屋でも、カマドやへっついには、あえて煙突は設けられていなかった。煙突が日本のカマドに復活したのは、西洋文明が大規模に渡来した明治以降になってからだった。

調理用の常設の炉が世界各地に、その土地の気候・風土を反映した様々な形態をもって、古くから存在している。南西日本では、調理はほぼカマドを用いて行われていた。沖縄地方では、カマドはその祖形である「三つの石を並べた形」からそれほど発達することはなかった。三つの石を並べた上に「シンメーナービー」と呼ばれる中華鍋に似た形の大鍋を載せ、朝に主婦が火を焚きつけて大量のンム(サツマイモ)を蒸しあげる。蒸したンムに小魚の塩辛味噌汁を沿えて食事とした。三つの石の間を泥で塗りこめて塞いだ「ヤマト式」と呼ばれる竈が普及したのは、明治以降だった。近畿地方の旧家には大小の竈を4・5個連ねた複合カマド「おくどさん」が見受けられる。そのうちで小さなかまどは日常の炊事に用い、端にすえられた大型カマドは、ハレの炊事にのみ使用する。

一方、東日本ではカマドが一度は普及しながらも、囲炉裏が再度卓越し、カマドの使用はすたれてしまったところが多かった。緯度が高いために冬が長く、夜が長い東日本、北日本では、暖房用、照明用として家の中央の囲炉裏で常時火が焚かれている。それと別にカマドを設けて調理に使うよりも、炉の火で炊事を行ったほうが燃料の浪費が抑えられるためである。岩手県の山村では、炊事はすべて囲炉裏で行い、飯も釜ではなく鍋で炊く。カマドは「とな」と呼ばれる、の飼料を煮る目的にのみ使用される。北海道では、7世紀ごろの擦文時代に一度はカマドが普及したものの、次第に廃れた。後のアイヌ民族の民家チセには、大きな囲炉裏のみでかまどが存在しない。調理はスワッ(自在鉤)で吊られた鍋で行う。行事や野営などで野外で炊事する際も、石で鍋を支えようとはせず、三脚から鍋を吊る。

1923年(大正12年)には、ガスかまどが登場。従来から使用されてきた羽釜専用の変形的な一口ガスレンジ台であり、1970年代まで使用された[15]

神社境内の六連竈(岐阜)

世界に進出する改良型日本式かまど[編集]

日本の自主防災組織にみられる簡易型のかまど。
軽量で後始末も簡便で、炊き出しのほか地域の催し物でも利用されている。

日本ではその役割を終えたかまどではあるが、アフリカ東南アジアなどといった紛争や政治的混乱により社会整備が進んでいない国や、また古代さながらの原始的生活をしている民族もおり、これらの人々は戸外で裸火による調理をしている。しかしこれらの国における樹木などの燃料資源は限られ、難民などの形で一極集中が起きた際には、瞬く間に周囲の樹木が乱伐採され枯れ果てるなどの二次的な環境破壊も発生している。

このためそのような地域では、より効率の良い調理手段が求められてもおり、これに応じて現地に日本式のかまどの作り方を伝えるなどといった運動をしているという話も聞かれる。これらではの使用も含めて、森林保護に効果があると評されているという。なお難民など移動が多い場合には、七輪の利用といった運動も聞かれる。(→七輪

国際協力機構(JICA)に所属しケニア在住の日本人食物栄養学者である岸田袈裟は、1994年に西ケニア州のエンザロ村で、其処にある材料で現地の需要に則して改良した日本式のかまどを作り上げた。これが現地で「Enzaro Jiko エンザロ・ジコ」や 「Kamado Jiko カマド・ジコ」(Jikoはスワヒリ語で「かまど」の意)と呼ばれて、好評を呼んでいるという。彼女は現地家庭の台所事情の調査の傍らや地域援助の際にこのかまど作りを伝え、更にそのかまどの作り方は現地の人々の間で伝え合われている。

このかまどは日干しレンガか石で土台を作り粘土を塗り込み形を整えて作られる。特にお金をかける必要もなく、人の手だけで数時間で作ることが可能で、2週間ほど乾かせば使用できるようになる。裸火を使った従来の炉では1度に1つの料理しか作れなかったが、改良したかまどでは同時に3種類の調理が行えることから主婦達の労力削減になる。また、従来の炉と違ってかがむ必要もなく立ったままで調理ができることから、腰痛も減り、主婦達の健康改善にも役立つ。さらに、薪の消費量が従来の4分の1で済むため、薪を集める時間と労力も節約でき、同時に森林保護にもつながる。従来は生活廃水も流入するような川の水でも沸かして飲むのは難しく、子供達の7人に1人は5歳前に病気で死んでいたが、従来の4分の1の薪で同時に3種類の調理ができる効率の良いかまどの導入によって水の煮沸消毒が容易になり、衛生的な湯冷ましを飲めるようになってからは、子供の死亡率は135人中1人に激減した。エンザロ・ジコは今ではケニアのほかの州や隣国のウガンダにも広がっている。[16][17]

JICAによると、エンザロ・ジコ以外にも同機構の技術協力プロジェクトの派遣先にて日本式かまどを現地にある材料で使いながら伝える活動が行われていると言う。アフリカマリニジェールブルキナファソルワンダタンザニアのほか中南米メキシコ、また南米ではボリビアなどでもかまど作りが伝えられている。こちらはエンザロ・ジコのような石組みに土を塗る方式以外にも煉瓦を利用している地域もあるようで、従来からある煉瓦を流用した簡易炉をかまど風に組み直す活動も見られる。(例:ボリビア)

こういった活動は地域の健康を促進するだけではなく、同時に家事に束縛される主婦や燃料調達に追われる子供たちの労働時間が短縮され、これによって農作業に多くの時間をかけられるようになり、地域の農業生産力が向上したり、女性の地位向上、子供の学力向上にも好影響を与えている。

インド[編集]

インドなどではタンドールという伝統的なかまどがあり、日本の本格インド料理店などにいくと、このタンドールが実用に供されているところが見られる(→タンドリーチキンナン)。

西洋のかまど[編集]

構造[編集]

窯で調理されるピザ

ヨーロッパ西アジア中東方面では、余熱を使う種類のかまども多い(→石窯)。こちらは火によって調理器具を加熱するのではなく、炉の中でいったん大量の薪などの燃料をくべて石造りの炉自身を加熱、炉が十分に過熱されたところでまだ熱い灰を左右に押しのけ、焼けた石のうえに鍋や金型などの調理器具に食材を載せ、炉内の熱で調理する。これは「薪オーブン」とも呼ばれ、パンパイを焼くのに適しており、また加熱中は一定以上に過熱されることがないことから放っておけ、また大量調理にも適している(むしろ少量調理には不便である)ため、特に農繁期の労働者に食事を提供するためにも利用され、鍋に入れた料理が冷めないよう保温に利用することもあった。イタリアピザも本式ではそのような薪オーブンで調理される。

歴史[編集]

古代ローマではかまどの女神(ウェスタ)もおり、かまどの火が消えないように管理する巫女ウェスタの処女)も存在した。沖縄では、「ヒヌカン」(火の神)のご神体は、かまどの基本形である3つの石である。

イギリスではベンジャミン・トンプソンが19世紀後半に炙り焼きによる味と栄養の損失と、「うまくすれば優に50人分以上の夕食が作れるほどの燃料を使って、やかんの湯をわかすことがよくある」と評したかまどの熱効率の悪さと、その燃料の木炭から出る有害ガスに対処しようと、彼の爵位をとって『ランフォードのかまど』(en)と呼ばれる窯を作成した。これはミュンヘンの貧民収容施設等に設置されたが、オーブンと直火による炙り焼き(ロースト)を厳格に区別する西洋においてはオーブンと見做され、炙り焼きを好むイギリス文化圏では受け入れられなかった[18]

蒸しかまど[編集]

蒸しかまどは、陶器の上蓋と下の器の中に釜と火をたく空間を包み構成したもので、陶器の中で火を燃やし、米を炊くなどの調理を行うものである。1930年(昭和5年)に福島県磐城郡平町の小鍛冶兼吉が特許を取得した[19]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 浅川滋男『住まいの民族建築学』1994年、138-139頁。 
  2. ^ a b c d 浅川滋男『住まいの民族建築学』1994年、139頁。 
  3. ^ 浅川滋男『住まいの民族建築学』1994年、139-140頁。 
  4. ^ 浅川滋男『住まいの民族建築学』1994年、140頁。 
  5. ^ そこが知りたい家電の新技術ナショナル「大火力竈釜」
  6. ^ 防災リーダーと地域の輪”. 防災科研. 2020年7月2日閲覧。
  7. ^ 考古学では、現在の竈と区別して、竈の機能を持つものという意味合いで、慣例的にカタカナ表記を用いる。
  8. ^ 埋蔵文化財センター. “ためになる?豆知識-古代のレンジ台「カマド」-”. 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団. 2022年4月24日閲覧。
  9. ^ a b 横浜市歴史博物館 2012, p. 5.
  10. ^ a b 吹田市文化財ニュース2005.3.31アーカイブされたコピー”. 2007年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月13日閲覧。
  11. ^ 葛飾区. “古代葛飾の人々の暮らし:遺跡からみた古代葛飾の人々の暮らし(カマドの断面図)”. 葛飾区. 2022年4月24日閲覧。
  12. ^ a b c 横浜市歴史博物館 2010, pp. 15–17.
  13. ^ 横浜市歴史博物館 2012, p. 9.
  14. ^ 横浜市歴史博物館 2012, pp. 5–8.
  15. ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p360 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
  16. ^ さくまゆみこ文・沢田としき絵 『エンザロ村のかまど』東京 福音館書店、2009年、ISBN 9784834024494 、14-31頁
  17. ^ ケニアの人たちと友だちになるために Archived 2009年6月24日, at the Wayback Machine. 日本児童図書出版協会
  18. ^ Wilson, Bee 著、真田真由子 訳『キッチンの歴史:料理道具が変えた人類の食文化』河出書房新社、2014年1月30日(原著2012年)、122-125頁。ISBN 9784309022604 
  19. ^ 「蒸しかまど」(昔の炊飯器のようなもの)は、「いわき」で発明されたと聞いた。本当なのか知りたい。 サイト:国立国会図書館 レファレンス事例詳細

参考文献[編集]

関連項目[編集]