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{{Otheruses|1955年9月に[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ統治時代の沖縄]](現:[[沖縄県]][[中頭郡]][[嘉手納町]])で発生した幼女殺害事件|1970年2月に[[富山県]][[富山市]]で発生した幼女殺害事件|由美子ちゃん誘拐殺人事件}}
{{ページ番号|date=2015年9月}}
{{Infobox 事件・事故
'''嘉手納幼女強姦殺人事件'''(かでな ようじょごうかんさつじんじけん)とは、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|沖縄がアメリカの占領下にあった]][[1955年]]([[昭和]]30年)9月に嘉手納村(当時)で発生した[[強姦]]殺人事件。
|名称= 由美子ちゃん事件
|正式名称=
|画像= {{Infobox mapframe|frame-width=300|zoom=12|type=point}}
|脚注= 遺体発見現場のおおよその位置<ref group="注" name="事件現場"/>。「[[嘉手納ロータリー]]」から南西方向約1,500&nbsp;[[メートル|m]]離れた海岸近くの採石場跡(当時は原野)だった{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}。<!--2021年時点では海岸の埋め立てや都市開発などにより、現場周辺は大きく様変わりしている。-->
|場所= {{RYU1952}}:[[沖縄本島]]・嘉手納村(嘉手納海岸{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}})<br/>現:{{JPN}}・[[沖縄県]][[中頭郡]][[嘉手納町]]兼久<ref group="注" name="事件現場"/>
|緯度度=26 |緯度分=21 |緯度秒=14.3
|経度度=127 |経度分=44 |経度秒=42.4
|標的= 幼女
|日付= [[1955年]]([[昭和]]30年)[[9月3日]]{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}
|時間= 22時ごろ(被害者の死亡推定時刻){{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}
|開始時刻=
|終了時刻=
|時間帯= [[UTC+9]]
|概要= [[アメリカ軍]][[嘉手納飛行場|嘉手納基地]]所属の米兵([[軍曹]])が、6歳の少女を強姦して殺害し、遺体を嘉手納基地付近の海岸に遺棄した{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}。
|懸賞金=
|原因=
|手段= 胸郭部圧迫(殺害方法){{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}
|攻撃側人数= 1人
|凶器=
|武器=
|兵器=
|死亡= 1人
|負傷=
|行方不明=
|被害者= '''永山 由美子'''{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}(事件当時6歳:[[石川市]]在住の幼稚園児){{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}
|損害=
|犯人= '''アイザック・ジャクソン・ハート'''<ref group="注" name="ハート"/>{{Sfn|Serrano|2019|p=94}}<ref name="LA 1977-01-22"/>(事件当時31歳:嘉手納基地所属の軍曹){{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}
|容疑=
|動機=
|関与=
|防御=
|対処=
|謝罪=
* ハート本人 - なし([[無罪]]を主張)
* 米軍側 - [[琉球政府]]に対し、遺憾の意を示す{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=672}}
|補償=
|賠償=
|刑事訴訟= [[軍法会議]]で[[アメリカ合衆国における死刑|死刑]][[判決]]を言い渡されたが、[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]裁決により[[拘禁刑|重労働刑]]45年に減刑<ref name="琉球新報2021-09-03"/>
|少年審判=
|海難審判=
|民事訴訟=
|影響= 事件後、沖縄で事件への抗議や、[[人権#日本国憲法|基本的人権の尊重]]、[[沖縄返還|日本復帰]]などを訴える動きが高まった{{Sfn|宜野湾市史|2006|p=423}}。
|遺族会=
|被害者の会=
|管轄= [[琉球警察]]・{{仮リンク|アメリカ陸軍犯罪捜査司令部|en|United States Army Criminal Investigation Command}} (CID) {{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}
}}
'''由美子ちゃん事件'''(ゆみこちゃんじけん)とは、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|沖縄がアメリカの占領下にあった]][[1955年]]([[昭和]]30年)[[9月3日]]、[[沖縄本島]]の嘉手納村(現:[[沖縄県]][[中頭郡]][[嘉手納町]]兼久<ref group="注" name="事件現場"/>)で発生した[[強姦]]殺人事件{{Sfn|井上史|2018|p=108}}。[[石川市]](現:[[うるま市]])に住んでいた当時6歳の幼女('''永山 由美子''')が、[[アメリカ軍]][[嘉手納飛行場|嘉手納基地]]所属の[[軍曹]]{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}'''アイザック・ジャクソン・ハート'''{{Efn2|name="ハート"|'''アイザック・J・ハート'''{{Sfn|井上史|2018|p=108}}、'''アイザック・ハート'''とも表記される<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>。}}(''Isaac Jackson Hurt''{{Sfn|Serrano|2019|p=94}}<ref name="LA 1977-01-22"/>、事件当時31歳)によって暴行・殺害された事件である{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}。沖縄の戦後史に残る凶悪事件とされる<ref>『沖縄タイムス』2021年9月23日朝刊第1版第一社会面27頁「【ジョン・ミッチェル特約通信員】解説 仮釈放 不透明な処理 今も続く軍人関係の特権」(沖縄タイムス社)</ref>。


ハートは[[殺人罪|殺人]]・強姦・少女[[誘拐]]の罪に問われ<ref name="沖縄タイムス1955-09-10"/>、[[軍法会議]](1955年12月)と、[[:w:United States Court of Appeals for the Armed Forces|本国の軍事上訴裁判所]](1958年10月)で、それぞれ[[アメリカ合衆国における死刑|死刑]][[判決]]を宣告された<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>。しかし、ハートとその家族は、「沖縄人の[[反米]]感情の犠牲になった」などと主張して減刑を求めた<ref name="琉球新報2021-09-03"/><ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>。
事件当時の[[沖縄県|沖縄]]では[[アメリカ軍]]による土地の[[強制執行|強制接収]]と[[基地]]建設が本格化しており、アメリカ軍人による犯行が明らかとなったこの事件は沖縄での[[反米]]感情を高めた。また、この事件は沖縄におけるアメリカ軍による犯罪の代表例のひとつとして、現在の[[沖縄県|沖縄県民]]にも広く知られている。


[[1960年]](昭和35年)、ハートは[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]の裁決により、[[拘禁刑|重労働刑]]45年に減刑された<ref name="琉球新報2021-09-03"/>。この時は、[[仮釈放]]を認めないことが減刑の条件だったが、後にそれも覆され<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>、ハートは[[1971年]](昭和46年)、[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]米大統領の裁決によって仮釈放された<ref name="LA 1977-01-22"/>。ハートは[[1984年]](昭和59年)8月6日、[[オハイオ州]]の[[アメリカ合衆国退役軍人省|退役軍人省]]の病院で死去している(60歳没)<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>。
==事件の概要==
1955年(昭和30年)9月4日、嘉手納村(現在の[[嘉手納町]])の原野において、幼女の遺体が発見された。現場はアメリカ軍の通信基地に近く、発見者は[[アメリカ軍]]の軍人であった。遺体は強姦されており、また、下腹部から肛門にかけては刃物によって切り裂かれていた。


== 概要 ==
その後、死亡していたのは[[石川市]](現在の[[うるま市]])に住んでいた6歳の幼稚園児であったことが判明した。また、遺体には茶褐色の毛髪が付着していたことから[[外国人犯罪|外国人による犯行]]が疑われ、アメリカ軍の捜査機関と[[琉球警察]]による合同捜査が行われることとなった。
事件当時、沖縄では米軍による軍用地の[[強制執行|強制接収]]が行われ、それに抗議する沖縄住民たちによる{{Sfn|宜野湾市史|2006|pp=422-423}}「[[島ぐるみ闘争]]」が高まっていた{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}。そのため、事件への激しい抗議運動が起こり、沖縄各地で抗議集会が開かれた<ref>{{Cite web|url=http://heiwa.yomitan.jp/3/2674.html|title=1.由美子ちゃん事件(1955/石川市) -少女暴行殺害-|accessdate=2021-08-26|publisher=[[読谷村]]|website=[https://heiwa.yomitan.jp/ 読谷バーチャル平和資料館]|quote=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160804113905/http://heiwa.yomitan.jp/3/2674.html|archivedate=2016-08-04}}</ref>。


本事件は、沖縄で米軍人・軍属の犯罪が大きく取り上げられ、米軍当局に抗議の矛先が向けられた最初の事件とされる{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}。同年の沖縄の代表的な事件として言及される<ref>{{Cite book|和書|title=営繕のあゆみ 40周年記念誌|publisher=沖縄県土木建築部建築課|date=1987-03|page=28|url=https://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/shisetsu/kikaku/documents/1-3.pdf#page=6|format=PDF|quote=※由美子ちゃん事件発生 (1955.9.3) |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826130949/https://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/shisetsu/kikaku/documents/1-3.pdf#page=6|archivedate=2021-08-26}} - [https://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/shisetsu/kikaku/ayumi-2.html 営繕のあゆみ(2000年(平成12年)以前)]</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/doboku/shisetsu/kikaku/documents/s20-s47.pdf#page=12|title=『営繕のあゆみ 40周年記念誌』 > 第I部 〔終戦から復帰まで〕昭和20年〜昭和47年|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄県|date=1987-03|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826130121/https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/doboku/shisetsu/kikaku/documents/s20-s47.pdf#page=12|archivedate=2021-08-26}} - [https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/doboku/shisetsu/kikaku/kansei.html 工事実績一覧]</ref>だけでなく、[[21世紀]]に入ってからも、沖縄における米軍の犯罪の代表例の1つとして言及されることが多い<ref>{{Cite web|url=http://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/GoZentai/20040404000000?OpenDocument=&Click=|title=平成16年(2004年) 第4回 沖縄県議会(定例会) 第4号|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄県議会|author=狩俣信子|date=2004-09-29|quote=1955年の由美子ちゃん事件|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826125136/http://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/GoZentai/20040404000000?OpenDocument=&Click=|archivedate=2021-08-26}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www2.pref.okinawa.jp/oki/gikairep1.nsf/481e05e7edaca1db49256f540004c033/79099b94aeb2c8744925745e002fdebb|title=平成20年(2008年) 第1回 沖縄県議会(定例会) 第7号|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄県議会|author=比嘉京子|date=2008-02-26|quote=由美子ちゃん事件で大変震憾させて衝撃を与えた事件でありました。|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826135306/http://www2.pref.okinawa.jp/oki/gikairep1.nsf/481e05e7edaca1db49256f540004c033/79099b94aeb2c8744925745e002fdebb|archivedate=2021-08-26}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/gikai/documents/h27dai1kai-2.pdf#page=114|title=平成27年3月3日(第6号)平成27年 第1回 沖縄県議会(定例会)会議録|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄県議会|author=狩俣信子|date=2015-03-03|format=PDF|quote=1955年9月に起こった6歳の由美子ちゃん事件|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826125614/https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/gikai/documents/h27dai1kai-2.pdf#page=114|archivedate=2021-08-26}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/gikai/documents/h28dai3kai-1.pdf#page=107|title=平成28年 第3回 沖縄県議会(定例会)会議録|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄県議会|author=[[翁長雄志]]([[沖縄県知事]])|date=2016-07-06|format=PDF|page=104|quote=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826132024/https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/gikai/documents/h28dai3kai-1.pdf#page=107|archivedate=2021-08-26}}</ref><ref>{{Cite news|title=社説<nowiki>[無言の意思表示]</nowiki>沖縄の怒り、見誤るな|newspaper=[[沖縄タイムス]]|date=2016-05-23|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/31654|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826133529/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/31654|archivedate=2021年8月26日}}</ref><ref>{{Cite news|title=「抗議」と「祈り」を対立軸にしているのは誰か。|newspaper=沖縄タイムス|date=2016-06-17|author=KEN子(けんこ)|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/49992|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210512152131/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/49992|archivedate=2021年5月12日}}</ref><ref>{{Cite news|title=社説[アメリカ世の27年] 軍政下の記憶の継承を|newspaper=沖縄タイムス|date=2021-05-16|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/754380|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826133403/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/754380|archivedate=2021年8月26日}}</ref><ref>{{Cite news|title=戦後史、コザに凝縮 古堅さん 民主主義、街づくり語る|newspaper=[[琉球新報]]|date=2015-04-23|url=https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-242160.html|accessdate=2021-08-26|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826125132/https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-242160.html|archivedate=2021年8月26日}}</ref><ref>{{Cite news|title=「県民ぐるみで闘いを」 故亀次郎さんの言葉訴え|newspaper=琉球新報|date=2016-05-22|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-283684.html|accessdate=2021-08-26|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217110447/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-283684.html|archivedate=2020年12月17日}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.town.shitara.lg.jp/index.cfm/14,4032,c,html/4032/20180903-150254.pdf#page=13|title=平成30年第2回設楽町議会定例会(第2日)会議録|accessdate=2021-08-26|publisher=[[設楽町]]議会|author=田中邦利(設楽町議会議員)|date=2018-06-19|format=PDF|quote=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826132025/https://www.town.shitara.lg.jp/index.cfm/14,4032,c,html/4032/20180903-150254.pdf#page=13|archivedate=2021-08-26}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000515120010710019.htm|title=第151回国会 外務委員会 第19号|accessdate=2021-08-26|publisher=[[衆議院]]|author=[[桑原豊]]|date=2001-07-10|quote=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826134435/https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000515120010710019.htm|archivedate=2021-08-26}}</ref>。この場合、[[1995年]]([[平成]]7年)に発生した[[沖縄米兵少女暴行事件]]や、[[2016年]](平成28年)に発生した[[沖縄うるま市強姦殺人事件]]も、本事件と同様の形で言及される場合がある<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/gikai/documents/h28dai2kai.pdf#page=15|title=平成28年 第2回 沖縄県議会(臨時会)会議録|accessdate=2021-08-26|publisher=沖縄県議会|author=嘉陽宗儀|date=2016-05-26|format=PDF|page=13|quote=1955年、米兵が6歳の少女を何度も暴行、殺害し基地内のごみ捨て場に捨てた「由美子ちゃん事件」|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826124603/https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/gikai/documents/h28dai2kai.pdf#page=15|archivedate=2021-08-26}}</ref>。なお、アメリカ側が限定的ながら、[[琉球警察]]の共同捜査権や、沖縄住民の軍法会議傍聴権を、占領史上初めて認めた事件でもある{{Sfn|井上史|2018|p=108}}。
殺害された幼女は[[エイサー]]見物していたところを[[白人]]男性に連れ去られたとの目撃情報があり、アメリカ軍は慎重な捜査の後に容疑者の[[軍曹]]を[[逮捕]]{{when|date=2011年12月}}、同年9月9日に公表した。


===沖縄住民反応===
== 事件経緯 ==
=== 加害者 ===
アメリカ軍人による犯行が判明すると、[[立法院 (琉球)|琉球立法院]](後の[[沖縄県議会]])は、「鬼畜にも劣る残虐な行為」との抗議決議を行い、アメリカ軍に容疑者への厳罰を処すように求める声明を発表した。
本事件の加害者である'''アイザック・ジャクソン・ハート''' ( [[:wikidata:Q36775532|''Isaac Jackson Hurt'']]{{Sfn|Serrano|2019|p=94}} ) は、[[1924年]]2月18日<ref name="Ancestry"/><ref name="grave"/><ref name="Department of Veterans Affairs"/><ref name="沖縄タイムス2021-09-23">『[[沖縄タイムス]]』2021年9月23日朝刊第1版総合面1頁「【[[ジョン・ミッチェル (ジャーナリスト)|ジョン・ミッチェル]]特約通信員】55年嘉手納幼女暴行殺害 死刑の米兵 22年で仮釈放 嘆願書に「政治の犠牲」 政府 墓石提供」(沖縄タイムス社)
* ウェブ版(紙面と同一の内容) - {{Cite news|title=死刑の米兵22年で仮釈放されていた 沖縄の幼女殺害 「政治の犠牲」と主張 米政府は墓石を提供|newspaper=沖縄タイムス|date=2021-09-23|author=ジョン・ミッチェル特約通信員|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/835298|accessdate=2021-09-23|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210923152443/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/835298|archivedate=2021年9月23日}}</ref>、[[アメリカ合衆国]][[ケンタッキー州]]の[[ペリー郡 (ケンタッキー州)|ペリー郡]]タイポ([[:w:Typo, Kentucky|Typo]])で出生した[[白人]]男性である<ref name="Ancestry">{{Cite web|url=https://www.ancestry.com/family-tree/person/tree/26819558/person/26129140864/facts|title=Isaac Jackson Hurt - Facts|accessdate=2021-09-22|publisher=[[:w:Ancestry.com|Ancestry]]|year=|website=Ancestry.com|language=en}}</ref>。[[1940年]]時点で、16歳だったハートは両親(父は当時67歳、母は57歳){{Efn2|ハートの父親である ''Robert Lee Hurt'' (1875年9月20日生まれ)は1964年2月28日、ケンタッキー州ペリー郡で死去({{没年齢|1875|9|20|1964|2|28}})<ref>{{Cite web|url=https://www.ancestry.com/family-tree/person/tree/26819558/person/26129140861/facts|title=Robert Lee Hurt - Facts|accessdate=2021-09-22|publisher=Ancestry|year=|website=Ancestry.com|language=en}}</ref>。彼の妻(ハートの母親)である ''Nannie Belle Hensley'' (1882年6月24日生まれ)も、1975年8月20日に同地で死去している({{没年齢|1882|6|24|1975|8|20}})<ref>{{Cite web|url=https://www.ancestry.com/family-tree/person/tree/26819558/person/12365504031/facts|title=Nannie Belle Hensley - Facts|accessdate=2021-09-22|publisher=Ancestry|year=|website=Ancestry.com|language=en}}</ref>。}}や姉(19歳){{Efn2|ハートの姉である ''Helen Marie Hurt'' (1920年6月19日生まれ)は、1946年8月17日にケンタッキー州ペリー郡で死去している({{没年齢|1920|6|19|1946|8|17}})<ref>{{Cite web|url=https://www.ancestry.com/family-tree/person/tree/26819558/person/26129140863/facts|title=Helen Marie Hensley - Facts|accessdate=2021-09-22|publisher=Ancestry|year=|website=Ancestry.com|language=en}}</ref>。}}とともに、ケンタッキー州ペリー郡に在住していた<ref>{{Cite web|url=https://www.ancestry.com/1940-census/usa/Kentucky/Isaac-Jackson-Hurt_1tn9q4|title=Isaac Jackson Hurt in the 1940 Census|accessdate=2021-09-22|publisher=[[:w:Ancestry.com|Ancestry]]|year=1940|website=Ancestry.com|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210921041344/https://www.ancestry.com/1940-census/usa/Kentucky/Isaac-Jackson-Hurt_1tn9q4|archivedate=2021-09-21}}</ref>。性的暴行未遂と暴行の罪を犯して11か月間収監されたことがあるが、その事実を隠して[[アメリカ海軍|海軍]]に入隊<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>。海軍1等水兵として[[第二次世界大戦]]に従軍した<ref name="沖縄タイムス2021-09-26"/>。


終戦後、[[1950年]]8月5日にアメリカ軍<ref name="Department of Veterans Affairs"/>([[アメリカ陸軍|陸軍]])<ref name="沖縄タイムス2021-09-26"/>に入隊したが、1953年7月22日に除隊<ref name="Department of Veterans Affairs"/>。同年10月8日に再入隊し<ref name="Department of Veterans Affairs"/>、事件当時は軍曹として、嘉手納基地第22[[高射砲]]大隊に所属していたが{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}、1960年8月23日に再び除隊されている<ref name="Department of Veterans Affairs">{{Cite book|title=U.S., Department of Veterans Affairs BIRLS Death File, 1850-2010|publisher=Ancestry.com Operations, Inc.|year=2011|page=1|author=Ancestry.com|url=https://www.ancestry.com/discoveryui-content/view/10935607:2441?ssrc=pt&tid=26819558&pid=26129140864|accessdate=2021-09-23|location=Provo, UT, USA}}</ref>。
また、逮捕発表翌日の同年9月10日には、沖縄・[[具志川村]]の農家宅に米兵が押し入って小学2年生の少女を[[拉致]]、強姦するという事件も発生した。


=== 事件発生 ===
これら連続する事件を受けて、沖縄では全沖縄組織「子供を守る会」が結成され、同年9月16日に石川市で開催された住民大会では、公正な[[裁判]]を求める声明を発表した<ref>「子供を守る会は、[[1995年]]([[平成]]7年)に発生した[[沖縄米兵少女暴行事件|少女暴行事件]]や、[[2008年]](平成20年)の米兵強姦容疑事件においても、中心となって抗議活動を行っている</ref>。
本事件の被害者である永山由美子(当時6歳:以下「被害者」)は事件当時、石川市三区二班の幼稚園児だった{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}。1955年9月3日、被害者は[[エイサー]]見物に行くということで家を出たが、映画の終わる22時過ぎになっても帰らなかった<ref name="沖縄タイムス1955-09-05"/>。同夜は土曜日で、石川市内はエイサーがあり、アメリカ人を含む見物人が多数詰めかけていた<ref name="沖縄タイムス1955-09-05"/>。一方、ハートは事件発生直前(9月3日夕方)、日頃から訪れていた[[金武町|金武村]]屋嘉区のカフェに来店していたが<ref name="沖縄タイムス1955-09-07夕刊"/>、当時の服装はランニングシャツと<ref name="沖縄タイムス1955-09-08"/>、カーキ色のズボンだった<ref name="沖縄タイムス1955-09-10夕刊"/>。当初、ハートが事件当夜に着用していたズボンは事件直前、金武のカフェを訪れた際と同一のものである薄青色のズボンとされていたが<ref name="沖縄タイムス1955-09-08"/>、後に捜査の結果、ハートはカーキ色のズボンを着用していたことを自供し、そのズボンも押収されたと報じられている<ref name="沖縄タイムス1955-09-10夕刊">『沖縄タイムス』1955年9月10日夕刊3頁「ハート軍曹犯行否認 ライカム情報部長と一問一答 軍法裁判で公開する 証拠物の鑑定 現地軍刑務所調査室で」(沖縄タイムス社)</ref>。そのカフェの女給や女中によれば、ハートは事件翌日(9月4日)に再び来店し、そのズボンの洗濯を依頼していた<ref name="沖縄タイムス1955-09-07夕刊"/>。


被害者の家族は徹夜で、友人宅や金武方面まで捜索したが<ref name="沖縄タイムス1955-09-05"/>、被害者は翌日(9月4日)8時15分ごろ、遺体で発見された<ref name="沖縄タイムス1955-09-04"/>。遺体はナイフで腹部を切り開かれ、[[南シナ海]]近くの海岸の採石場のゴミ捨て場に捨てられていた{{Sfn|Serrano|2019|p=94}}。遺体発見現場は、旧嘉手納村兼久の通称「屋良地浜原」の海岸線道路から約30&nbsp;[[メートル|m]]東方に位置する採石場跡(当時は原野)で{{Efn2|name="事件現場"|事件当時の『[[沖縄タイムス]]』は、事件現場を「嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野」と報じている<ref name="沖縄タイムス1955-09-04"/>。}}{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}、嘉手納基地の[[第313爆撃団]]本部の無線送信機付近(被害者宅から約7&nbsp;[[キロメートル|km]]離れた地点)である<ref name="Chicago 1955-09-05">{{Cite news|title=FIND GIRL, 6, RAPED, SLAIN ON OKINAWA|newspaper=[[シカゴ・トリビューン|Chicago Tribune]]|date=1955-09-05|url=https://www.newspapers.com/image/371560087/?terms=%22Kadena%22%20%22Yumiko%22&match=1|accessdate=2021-09-24|agency=[[AP通信|AP]] ([[那覇市|Naha]], Okinawa)|publisher=[[トリビューン・パブリッシング|Tribune Publishing Company]]|publication-place=[[シカゴ|Chicago]], [[イリノイ州|Illinois]]|page=70|language=en}}</ref>。遺体には乱暴された形跡が認められたほか、着用していた[[シュミーズ|シミーズ]]が左手のところまで垂れ下がり、左手に草2、3本が強く握りしめられているなど、抵抗した痕跡も確認された<ref name="沖縄タイムス1955-09-04">『[[沖縄タイムス]]』1955年9月4日夕刊3頁「【[[コザ市|コザ]]支局】嘉手納で少女を殺害 六つの子 無惨な暴行の跡」(沖縄タイムス社)</ref>。一方、発見現場に荒らされた形跡がないことや、遺体の頭部に砂が付着していたことから、被害者は遺体発見現場とは別の場所で暴行・殺害され、発見現場まで運ばれた可能性が推測された<ref name="沖縄タイムス1955-09-04"/>。
==裁判==
アメリカ軍の[[軍法会議]]は1955年(昭和30年)12月6日、軍曹に[[死刑]]判決を言い渡した。その後、アメリカ本国で行われた第二審では[[無期懲役]]に減刑され、最終的には[[懲役]]45年が確定した。


第一発見者は米軍人で、通報を受けた[[琉球警察]][[コザ市|胡差]]地区警察署{{Efn2|胡差地区警察署は、現在の[[沖縄警察署]]([[沖縄県警察]])に当たる。なお、現在の嘉手納町の管轄警察署は[[嘉手納警察署]]である。}}は司法係全員を緊急収集し、[[嘉手納警察署|嘉手納警部派出所]]の全員とともに現場に派遣{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}。その後、同署および警察本部[[刑事課]]長ら警察幹部、検事、医師、米軍の捜査機関である{{仮リンク|アメリカ陸軍犯罪捜査司令部|en|United States Army Criminal Investigation Command}} (CID) により、実況見分・証拠品の捜索が行われた{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}。[[牧港]]米軍病院における[[司法解剖]]の結果、死亡推定時刻は9月3日22時ごろ、死因は胸郭部圧迫による窒息死と判明した{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}。また、遺体下腹部には茶褐色の毛髪が付着していたため、[[外国人犯罪|土地勘のある外国人による犯行]]が疑われた{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=670}}。
== 脚注 ==
<references />


琉球警察とCIDによる共同捜査の結果、被害者は白人に拉致されたという目撃証言が得られた{{Sfn|沖縄県警察史|2002|pp=670-671}}。この有力な証言を寄せたのは、石川市3区9班に住んでいた当時9歳の男児で、その証言内容は、「3日19時30分ごろ、[[東恩納]]{{Efn2|現:うるま市石川東恩納。}}方面からボロボロのハイヤーが来て郵便局前に停車した。車内からアメリカ人が出てきて、郵便局の横にしゃがんでいた女の子をいきなり脇に抱きかかえ、もがくのを無理やり車に押し込み、急バックして東恩納方面に走り去った」というもので<ref name="沖縄タイムス1955-09-05"/>、そのアメリカ人は、ランニングシャツを着用していたというものだった<ref name="沖縄タイムス1955-09-08">『沖縄タイムス』1955年9月8日朝刊3頁「由美子ちゃん殺し大詰め 新事実ぞくぞく挙がる 情婦宅に血痕のタオル」(沖縄タイムス社)</ref>。この時、男児は車から4、5メートル離れた場所におり、「ハイヤーが停車した際、その窓に掴まったが、アメリカ人に脅され、引き下がった直後に目の前で被害者がいきなり拉致された」とも証言し、さらに捜査陣からハイヤーのカタログを見せられると、目撃したハイヤーの車種や色についても具体的に「1946年型の車で、車体は薄緑色、エンジンカバーは薄桃色だった」と証言した<ref name="沖縄タイムス1955-09-06">『沖縄タイムス』1955年9月6日朝刊3頁「【コザ支局】由美子ちゃん殺し 乗用車追及に主力 目撃の少年にカタログ見せ 捜査陣 傍証固めに躍起」(沖縄タイムス社)</ref>。
==参考文献==
{{参照方法|date=2011年12月}}
*沖縄県警察史編さん委員会編『沖縄県警察史 第3巻(昭和後編)』2002年


また、彼とは別の目撃者も、「被害者は拉致される前、郵便局前で遊んでいた」と証言した<ref name="沖縄タイムス1955-09-05">『沖縄タイムス』1955年9月5日朝刊3頁「【コザ支局】由美子ちゃん殺し 軍民合同捜査 “車に押こむのを見た” ランニングシヤツの米人か?」(沖縄タイムス社)</ref>。さらに調べを進めた結果、「3日21時ごろ、{{ウィキ座標|26|21|54.8|N|127|46|12.6|E||嘉手納村千貫田区}}で、[[沖縄県道16号沖縄嘉手納線|16号道路]]を知花から嘉手納方面に向かって疾走していたアメリカ人のハイヤーから、子供の泣き声のような声が聞こえていた」という住民の証言が得られた{{Efn2|その住民は「交通事故か、病人の子供を乗せて病院へ連れて行くのではないかと思った」と証言していた<ref name="沖縄タイムス1955-09-06夕刊"/>。}}ことなどから、犯人は被害者を石川市内で拉致し、{{ウィキ座標|26|24|40.1|N|127|49|38.0|E||東恩納三叉路}}{{Efn2|現在の{{ウィキ座標|26|24|40.2|N|127|49|39.1|E||うるま市石川東恩納66-2}}付近<ref>{{Cite web|url=https://www.city.uruma.lg.jp/userfiles/U023/files/R2_animal_hospital.pdf|title=協力動物病院一覧表|accessdate=2021-10-04|publisher=[[うるま市]]|date=2020|format=PDF|quote=うるま市石川東恩納66-2 (東恩納三叉路近く)|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211004151931/https://www.city.uruma.lg.jp/userfiles/U023/files/R2_animal_hospital.pdf|archivedate=2021-10-04}}</ref>。}}から{{ウィキ座標|26|23|31.4|N|127|49|56.6|E||栄野比}}に出て、[[キャンプ・ヘーグ|マリン隊]]のあった{{ウィキ座標|26|22|15.9|N|127|49|13.1|E||登川}}を通過し、{{ウィキ座標|26|21|38.4|N|127|48|47.7|E||知花十字路}}から右折して嘉手納へ向かい、遺体発見現場(嘉手納海岸)に出たという経路が推定された<ref name="沖縄タイムス1955-09-06夕刊">『沖縄タイムス』1955年9月6日夕刊3頁「つぎつぎ目撃者七人 車中に子供の泣声 死体現場近くでもすれ違った」(沖縄タイムス社)</ref>。その経路を自動車で、30[[マイル毎時|マイル/時]](=48.2803&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]])以上の速さで移動した場合、1時間未満で海岸に達するとされた<ref name="沖縄タイムス1955-09-06夕刊"/>。
{{DEFAULTSORT:かてなようしよこうかんさつしんしけん}}


CIDは事件発覚から3日後の9月6日<ref name="沖縄タイムス1955-09-07">『沖縄タイムス』1955年9月7日朝刊3頁「【コザ支局】由美子ちゃん殺し 容疑者の米人挙る 嘉手納通信隊の兵隊 車内に血痕残る? “この車だ”目撃者の証言」(沖縄タイムス社)</ref>、目撃者情報などからハートを[[被疑者]]として割り出し、逮捕した{{Efn2|[[国際通信社 (アメリカ合衆国)|国際通信社 (INS) ]]は、は、「ハートは、米国と地方自治体による徹底的な尋問の後、9月7日に逮捕された」と報じている<ref name="The Gazette"/>。}}{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}。また同日、CIDは犯行に用いられた1948年型のシボレー(車体番号4070号)を押収した上で、[[石川警察署 (沖縄県)|石川警察署]]で、先述の男児を始めとした目撃者7、8人(事件当夜、遺体遺棄現場付近に停車していたハイヤーを目撃していた[[特別警備隊 (海上自衛隊)|特警隊]]員)に確認を取らせ、全員から「この車だった」「よく似ている」などの証言を得た<ref name="沖縄タイムス1955-09-07"/>。さらに、遺体発見現場から約500&nbsp;m南方に位置していた軍ゴルフ場脇の溝で、被害者の着用していたパンツを、その近くの砂浜で筒掛け下駄をそれぞれ発見した<ref name="沖縄タイムス1955-09-07"/>。

ハートは憲兵に逮捕される前、約20のビールを飲み、売春婦とパーティーをしていた{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}。また、逮捕された際には捜査官に対し、「自分は少女の殺害についての新聞を読んだ」「自分が犯人じゃないかと思う」と冗談を言っていたが{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}、犯行は否認したため、捜査機関は逮捕後、綿密な裏付け捜査を行った{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}。ハートの車の後部座席には、血痕が付着していたほか<ref name="沖縄タイムス1955-09-07夕刊">『沖縄タイムス』1955年9月7日夕刊3頁「由美子ちゃん殺し 傍証固め次ぎ次ぎ進展 屋嘉でズボン洗う 容疑の米兵は高射砲隊」(沖縄タイムス社)</ref>、車内からは血まみれのタオル、ズボン、下着、ボタン{{Efn2|被害者の着用していた服のボタンや、事件当時ハートが着用していたズボン<ref name="沖縄タイムス1955-09-07夕刊"/>。}}が発見され、それらは鑑定のために日本に送られた<ref>{{Cite news|title=Okinawa Sergeant Held in Girl's Death|newspaper=[[:w:Oakland Tribune|Oakland Tribune]]|date=1955-09-08|url=https://www.newspapers.com/image/295968686/?terms=%22Kadena%22%20%22Yumiko%22&match=1|accessdate=2021-09-24|agency=AP (Naha, Okinawa)|publisher=Sharon Ryan|publication-place=[[オークランド (カリフォルニア州)|Oakland]], [[カリフォルニア州|California]]|page=4|language=en}}</ref>。

=== 沖縄住民の反応 ===
事件当時、沖縄で発生した外国人事件はどのように処理されているのか、沖縄の人々には知らされずにいた{{Sfn|沖縄時事出版社|1964|p=162}}。米軍統治下の沖縄では、米軍人・軍属の刑事裁判は軍法会議で行われていたが、軍法会議は軍全体の規律を維持するため、違反した兵士を処罰することを目的にしていることから、たとえ沖縄人が被害者となった事件でも、沖縄人はほとんど裁判に参加したり、裁判を傍聴したりすることはできず{{Efn2|被害者や遺族が特別に傍聴を認められても、日本語通訳はなかった<ref name="琉球新報2021-09-03 二社"/>。}}、その結果を知らされることも稀だった<ref name="琉球新報2021-09-03 二社"/>。軍法会議は、本事件とは別に発生した米兵による拉致・強姦事件や殺人事件(いずれも被害者は沖縄の一般市民)では、性犯罪が正当に起訴されず、軽い罪で裁かれていたり、弁護人が[[性犯罪#「第二の被害」|被害者を貶める主張]]で[[量刑]]の軽減を狙っていたことも後年になって判明している{{Efn2|1949年8月に[[安里|安里村]](現:那覇市)で、ホテル兼住宅にいた19歳の女性が米兵3人によって拉致され、ビーチで性的暴行を加えられる事件が発生したが、軍の上官は被害者側の拉致と性的暴行の訴えや、それを裏付ける客観的証拠を無視し、加害米兵らの「道を歩いていた女性らに[[売春]]を求めたら応じた」という証言を基に、[[ソドミー]]の罪で起訴したが、後にCIDの捜査により、米兵らが違法にホテルに侵入し、被害者女性を拉致して強姦したことが認定された<ref name="琉球新報2021-09-03 二社"/>。また、1969年2月に[[コザ市]](現:沖縄市)で、22歳の女性が二等兵により、バスタオルで絞殺された事件では、被告人(二等兵)の弁護人が「被害者はオールド・コザ(沖縄市照屋の歓楽街)の売春婦で、評判が疑わしい。被告人はまだ社会の一員として更生が可能だ」と主張し、最終的に被告人には50年の禁錮・重労働刑が宣告されている<ref name="琉球新報2021-09-03 二社"/>。}}<ref name="琉球新報2021-09-03 二社">『琉球新報』2021年9月3日朝刊第1版第二社会面26頁「米統治下の犯罪記録 性暴力 微罪に曲解 被害者中傷、減刑も 軍法会議 規律維持が目的」「軍法会議 司令官に起訴権 減免、猶予も一手に」(琉球新報社)</ref>。

そのような背景から、本事件以前にも、沖縄の人々は外国人による傷害事件が[[治外法権]]的に取り扱われている印象を強く抱いていたが、幼女が米兵に拉致されて殺害された本事件をきっかけに、人々の間に「沖縄人に関係する外人事件の裁判は、いっさい公開せよ」という世論が起こった{{Sfn|沖縄時事出版社|1964|p=161}}。[[琉球政府]]は米軍当局に対し、軍規粛正と取締強化を求め、米軍当局も遺憾の意を表明した{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=672}}。また、[[立法院 (琉球)|琉球立法院]](後の[[沖縄県議会]])は、本事件を「鬼畜にも劣る残虐な行為」と非難した<ref>『沖縄タイムス』2021年9月23日朝刊第1版第一社会面27頁「立法院「鬼畜にも劣る行為」 草握りしめた手 幼女に抵抗の跡」(沖縄タイムス社)</ref>。

本事件の6日後<ref name="琉球新報2021-09-03"/>(9月10日夜)には、前原警察署{{Efn2|後の具志川警察署、現:[[うるま警察署]]。}}管内の中頭郡[[具志川市|具志川村]](現:うるま市)明道5班で、小学校2年生の女児(当時9歳)が就寝中に、雨戸をこじ開けで侵入してきた米兵の男によって[[拉致]]・強姦され、重傷を負う事件が発生<ref name="沖縄タイムス1955-09-11">『沖縄タイムス』1955年9月11日夕刊3頁「【コザ支局】また米兵の幼女暴行 雨戸こじあけ侵入 寝床からラ致されて重態 被害者は小校二年生 具志川・明道」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="沖縄タイムス1955-09-11"/>。犯人は、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の[[黒人]]兵レイモンド・エルトン・パーカー(''Raymond Elton Parker''、当時21歳:上等兵)で<ref name="Nashiville"/>、[[美里村 (沖縄県)|美里村]][[キャンプ・ヘーグ|登川在マリン隊]](第12海兵隊第2大隊)に所属していた{{Efn2|美里村登川は、現:[[沖縄市]]登川。}}<ref name="沖縄タイムス1955-09-11"/>。この事件も本事件とともに、沖縄の新聞で大きく取り上げられた<ref name="Nashiville">{{Cite news|title=Memphis Marine Gets Life Term In Rape of Okinawan,7|newspaper=[[:w:Nashville Banner|Nashville Banner]]|date=1955-11-07|url=https://www.newspapers.com/image/603191819/?terms=%22Raymond%20Elton%20Parker%22|accessdate=2021-09-22|publisher=Irby C. Simpkins, Jr.|publication-place=[[ナッシュビル|Nashville]], [[テネシー州|Tennessee]]|page=1|language=en}}</ref>。この2つの事件は、沖縄の人々に強い衝撃を与え{{Sfn|いれいたかし|1982|p=83}}、「祖国復帰闘争」に重大な影響を与えた{{Sfn|いれいたかし|1982|p=82}}。当時、アメリカの「外国人に対する損害賠償法」が沖縄にも適用されていたことから、沖縄側は同法に基づき、損害賠償を要求したが、同法は「米国軍人・軍属が'''公務中に'''、沖縄人の生命・身体に損害を与えた場合に補償する」と規定されていたため、補償も有耶無耶にされた{{Sfn|いれいたかし|1982|pp=83-84}}。このように、相次ぐ米兵の犯罪に対し、沖縄の人々の怒りが高まり、同年10月には「人権擁護全沖縄住民大会」が開催された{{Sfn|いれいたかし|1982|p=84}}。また、翌[[1956年]](昭和31年)には、米軍による土地接収に対する島ぐるみ闘争で、[[琉球大学]]学生会が歴史的な決起を行い、特に女子学生が闘争の先頭に立った{{Sfn|いれいたかし|1982|p=84}}。

また、1953年(昭和28年)12月に結成されていた「沖縄子どもを守る会」{{Efn2|「沖縄子どもを守る会」は、[[朝鮮戦争]]の勃発によって米軍基地が拡大され、基地環境の悪影響が子どもにおよんでいたことを受け、沖縄教職員会・PTA連合会・婦人連合会・沖縄県青年団協議会(沖青協)・校長協会によって結成された{{Sfn|沖縄大百科事典(上巻)|1983|pp=516-517}}。同会は基地環境問題への対処をはじめ、[[不良行為少年|不良]]化防止、[[交通事故|交通禍]]対策など、子供たちの健全育成を目標に活動していたが、事務所を設置していた少年会館(後の[[那覇市]][[久茂地]]公民館)が利用者減で運営困難となったことから、1979年(昭和54年)5月に解散した{{Sfn|沖縄大百科事典(上巻)|1983|p=517}}、}}は{{Sfn|沖縄大百科事典(上巻)|1983|p=517}}、「外人事件の処分が不透明になっている普段の空気が、外人事件の激増を助長する原因を生んだ」として{{Sfn|沖縄時事出版社|1964|p=162}}、緊急理事会を開いて事件対策を話し合い{{Sfn|沖縄時事出版社|1964|p=161}}、本事件に関して抗議大会を開くなど、米軍人・軍属の犯罪に対する抗議活動を率先して展開した{{Sfn|沖縄大百科事典(上巻)|1983|p=517}}。「子どもを守る会」は、同年9月16日に被害者の地元である石川市の[[うるま市立城前小学校|城前小学校]]で開催された住民大会で、本事件と具志川村の事件を「何れも米国軍人によって行われた言語に絶する鬼畜の行為」と位置づけ、同種事件は[[人種]]・[[国籍]]関係なく、一切の酌量の余地なく死刑によって処罰すること、治外法権を撤廃して沖縄人に対する外国人の部隊外での犯罪は民裁判(沖縄の裁判所)で処罰すること、沖縄側の法務官を[[公判]]に立ち会わせた上で、裁判を録音して全住民に放送聴取させることなどを求めた<ref>『沖縄タイムス』1955年9月17日朝刊3頁「【コザ支局】“裁判を録音放送せよ” 石川の住民大会で聲明 会場に一千余の市民」(沖縄タイムス社)</ref>。次いで、[[沖縄教職員会]]は同月17日、[[真和志]]沖縄劇場で「由美子ちゃん事件教員大会」を開き、緊急動議として「教員が世話係となり、人権協会(仮称)を設立する」「早急に全住民大会を開く」の2つを採択した上で、各地区代表が「(本事件は)敗戦国民への蔑視だ」「我々は[[本土復帰|統治形態を変えて祖国に帰る]]べきだ」「沖縄人は虫ケラでないことをこの際示せ」などといった意見を陳述した<ref>『沖縄タイムス』1955年9月18日朝刊3頁「教員大會 満場に憤り爆発 “人権協會つくろう” 涙できく幼女暴行」(沖縄タイムス社)</ref>。地元の弁護士会は、軍規粛正を望むとともに、住民代表の新聞記者に外国人犯罪の裁判を取材させるよう申し入れた{{Sfn|沖縄時事出版社|1964|p=162}}。

なお、本土復帰後の[[1995年]]([[平成]]7年)[[9月4日]]には、[[沖縄米兵少女暴行事件|沖縄本島北部で米兵による少女暴行事件]]が発生している{{Sfn|沖縄タイムス社|1996|p=19}}。同事件は、沖縄の本土復帰後類を見ない米兵による犯罪として、県民の怒りが爆発し、抗議運動が広がった{{Sfn|沖縄タイムス社|1996|p=20}}。[[沖縄県知事]]側は[[外務省]]に対し、[[日米地位協定]]第17条「身柄の引き渡し」の見直しを求めた{{Sfn|沖縄タイムス社|1996|p=22}}。同月13日に開かれた[[沖縄県議会]]の軍特別委員会で、本事件の被害者が在住していた石川市の出身である比嘉勝秀議員([[自由民主党 (日本)|自民党]])は、「同事件(少女暴行事件)のことを聞いて、復帰よりかなり前に地元で起きた由美子ちゃん事件と、[[コザ暴動]]を連想した」と発言した{{Sfn|沖縄タイムス社|1996|p=23}}。

[[高里鈴代]](「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表)は、[[沖縄うるま市強姦殺人事件]](2016年発生)の加害者である米軍属が、日本の法制度で性犯罪が[[親告罪]]になっており、被害者による通報率も低いことを知った上で、弁護士を通じて『[[星条旗新聞]]』に「逮捕されることについては全く心配していなかった」というコメントを出したことや、本事件の加害者であるハートの家族が[[#大統領令により減刑|沖縄の「反米感情」を根拠に減刑を訴えた(後述)]]ことに言及した上で、性犯罪を犯した米軍人から「暴行しても訴えられる可能性は低い」という主張が何度も出ていることや、人間の尊厳を貶める犯罪への抵抗を「反米感情」としてくくることは、事件当時から現在まで、アメリカ国家によってリクルートされた公務員である兵士たちの間で、沖縄女性への差別意識が蔓延していることの証左であるという趣旨の指摘をしている<ref>『琉球新報』2021年9月3日朝刊第1版第二社会面26頁「米統治下の犯罪記録 性暴力 微罪に曲解 被害者中傷、減刑も 軍法会議 規律維持が目的」「軍法会議 司令官に起訴権 減免、猶予も一手に」(琉球新報社)</ref>。

== 軍法会議 ==
沖縄の世論や抗議の高まりを受け、米軍当局は「厳重に処罰する」と発表{{Sfn|沖縄大百科事典(下巻)|1983|p=784}}。捜査機関による裏付け捜査の結果、ハートは「容疑濃厚」とされ{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}、アメリカ陸軍によって9月9日に[[起訴]]された<ref>{{Cite news|title=GI HELD IN ISLAND SLAYING, Victim on Okinawa Was a 6-Year-Old Girl.|newspaper=[[:w:The Kansas City Star|The Kansas City Star]]|date=1955-09-09|url=https://www.newspapers.com/image/657760233/?terms=%22Isaac%22%20%22Hurt%22%20%22Kadena%22%20%22Yumiko%22&match=1|accessdate=2021-09-24|agency=AP (Naha, Okinawa)|publisher=Tony Berg|publication-place=[[カンザスシティ (ミズーリ州)|Kansas City]], [[ミズーリ州|Missouri]]|page=27|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|title=Lothair GI Accused Of Slaying Okinawan|newspaper=[[:w:The Courier-Journal|The Courier-Journal]]|date=1955-09-10|url=https://www.newspapers.com/image/107792107/?terms=%22Isaac%22%20%22Hurt%22%20%22Kadena%22%20%22Yumiko%22&match=1|accessdate=2021-09-24|agency=AP (Naha, Okinawa)|publisher=|publication-place=[[ルイビル (ケンタッキー州)|Louisville]], [[ケンタッキー州|Kentucky]]|page=13|language=en}}</ref>。起訴の事実は、同日20時に[[ライカム]]司令部によって公式発表されたが{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=671}}、その罪名は、[[殺人罪|殺人]]・[[強姦罪|強姦]]・少女誘拐の3つである<ref name="沖縄タイムス1955-09-10">『沖縄タイムス』1955年9月10日朝刊3頁「【コザ支局】容疑者の米兵起訴 由美子ちゃん殺し軍が發表 三つの罪で裁判準備 傍証いよいよ固まる “翌朝、死体現場へ行った”」(沖縄タイムス社)</ref>。

しかし、先述の別の強姦事件で起訴されたパーカーが犯行を認めた一方、ハートは犯行を否認した<ref name="沖縄タイムス1955-11-21">『沖縄タイムス』1955年11月21日朝刊3頁「きょうハート公判 由美子ちゃん事件裁かる 否認続ける被告 証拠中心に激しい論争?」(沖縄タイムス社)</ref>。結果、パーカーは同年11月7日に[[終身刑]]を宣告された<ref name="Honolulu 1955-12-06"/>一方、ハートの裁判はパーカーより遅れた。[[検事]]はベンジャミン・M・ウォール (''Benjamin M. Wall'') <ref name="星条旗新聞1955-11-22">{{Cite news|title=Hurt Pleads Innocent a Okinawa Bureau it.|newspaper=[[星条旗新聞|Pacific Stars And Stripes Newspaper]]|date=1955-11-22|url=https://newspaperarchive.com/pacific-stars-and-stripes-nov-22-1955-p-12/|accessdate=2021-10-07|publisher=[[:w:Defense Media Activity|Defense Media Activity]]|language=en}}</ref>中尉、検事補はチャールズ・MM・シェパード (''Charles M. A Shepherd'') <ref name="星条旗新聞1955-11-22"/>中尉、[[弁護人]]はジュリアン・B・キャリック (''Julian B. Carrick'') <ref name="星条旗新聞1955-11-22"/>大尉、弁護士補はミルトン・E・ブリナー (''Milton E. Brener'') <ref name="星条旗新聞1955-11-22"/>中尉がそれぞれ担当した<ref name="沖縄タイムス1955-11-21"/>。[[陪審員]]長は、ジョン・M・ライディック (''John M. Lydick'') <ref name="星条旗新聞1955-11-22"/>大佐が担当した<ref name="沖縄タイムス1955-12-06"/>。

同年11月21日から<ref>{{Cite news|title=Soldier To Die For Rape-Slaying Of Okinawa Girl|newspaper=[[:w:Kingsport Times-News|Kingsport Times]]|date=1955-12-06|url=https://www.newspapers.com/image/591662790/?terms=%22Isaac%22%20%22Hurt%22%20%22Kadena%22%20%22Yumiko%22&match=1|accessdate=2021-09-24|agency=[[国際通信社 (アメリカ合衆国)|INS]] (Naha, Okinawa)|publisher=Sandusky Newspapers, Inc.|publication-place=[[キングスポート (テネシー州)|Kingsport]], [[テネシー州|Tennessee]]|page=1|language=en}}</ref>、[[キャンプ・フォスター|キャンプ瑞慶覧]]で[[軍法会議|一般軍事法廷]]が開かれ<ref name="琉球新報2021-09-03"/>、審理の回数は11回におよんだ{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=672}}。第1回軍事[[公判]]は、ライカム第1号法廷で21日9時から開かれたが、午前中は陪審員13人への適格審査を行っただけで休廷となり、午後は非公開審理となった<ref>『沖縄タイムス』1955年11月21日夕刊3頁「ハート公判開く まず陪審員の資格審査 平然と聞入る被告 午後は非公開で審理」(沖縄タイムス社)</ref>。

ハートは犯行を自白しておらず、彼と被害者が一緒にいたとする目撃証言もなければ、事件当夜の彼の所在も説明されていなかった{{Sfn|Serrano|2019|p=98}}。また、証拠とされた日本の教授が、ハートの乗っていた車(緑と白の[[フォード・モーター|フォード]])のドアハンドルとシートカバーに付着していた毛髪を鑑定したところ、被害者と一致したり、ハートの殺害と結びついたりしたものはなく、教授は「髪の毛は被害者のものである可能性がある」ということまでしか証言できなかった{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}。ハートは裁判を通して無実を主張したが、証言台に立つことは拒否した<ref name="The Gazette"/>。一方、検察は軍法会議で、9歳の少年による「顔ははっきりと(ハートとは)断言できないが、(事件現場の)採石場の近くで、ハートに似た[[GI (軍隊)|GI]]の男を目撃した」という証言を最も重要な証拠とした{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}。また、日本人のウェイトレスは、ハートのズボンに付着していた血痕について証言した{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}。ハートは死刑囚監房でも、毛髪の遺留品について執着していた{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}。

1955年12月5日14時から、検事が有罪[[論告]]を、弁護人が[[無罪]]を主張する最終弁論をそれぞれ行った<ref name="沖縄タイムス1955-12-06">『沖縄タイムス』1955年12月6日朝刊3頁「陪審は有罪と判定 由美子ちゃん事件きょう判決 死刑か終身刑か 証拠をめぐり論争」(沖縄タイムス社)</ref>。その後、陪審員による合議に移り<ref name="沖縄タイムス1955-12-06"/>、10人で構成された軍法会議は、59分間におよぶ審議を行った<ref name="Honolulu 1955-12-06"/>。そして、陪審員長のライディック大佐は、ハートに対し、陪審員3分の2以上の同意により<ref name="沖縄タイムス1955-12-06"/>、すべての罪状で有罪である<ref name="Honolulu 1955-12-06"/>、とする旨の評決文を朗読した<ref name="沖縄タイムス1955-12-06"/>。

=== 死刑判決 ===
そして、事件発生から94日目となる12月6日の9時から、ライカム軍法廷で陪審員10人が出席の上、ウオフ裁判長係と検事2人、弁護人2人らの立ち会いで、[[判決]]公判が開かれた<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊">『沖縄タイムス』1955年12月6日夕刊3頁「ハートに死刑宣告 由美子ちゃん殺しに判決 法廷に溢れる傍聴人 ワシントンで最終確定」(沖縄タイムス社)</ref>。同日の公判には、石川市婦人会の代表など、傍聴人が多数詰めかけた<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>。同日はまず、陪審の評決に移る前に<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>、ハートの弁護側が寛大な刑を求める申立書や、ハートの故郷の人々の書いた「彼は模範的な少年で、正直で、法を順守している」とする手紙を提出した<ref name="The Gazette"/>。その上で、量刑については「判決は[[死刑]]か終身刑の2つに限られているが、終身刑は死ぬまで鉄格子の中に閉じ込められ、仕事も与えられず、家族との面会も許されない、過酷な刑罰だ」と説明した<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>。一方、検察官はハートが過去に[[デトロイト]]で強姦未遂事件と傷害事件を起こし、11か月にわたって服役したとする旨の宣誓供述書を提出し<ref>{{Cite news|title=Army Sergeant Sentenced To Die|newspaper=The Mount Pleasant News|date=1955-12-06|url=https://www.newspapers.com/image/30322285/?terms=%22Isaac%22%20%22Hurt%22%20%22Kadena%22%20%22Yumiko%22&match=1|accessdate=2021-09-24|agency=[[国際通信社 (アメリカ合衆国)|INS]] (Naha, Okinawa)|publisher=|publication-place=[[:w:Mount Pleasant, Iowa|Mount Pleasant, Iowa]]|page=4|language=en}}</ref>、「死刑を科すことは人間として忍びがたいことであるが、社会の秩序を保つことに必要なことである」という[[求刑|量刑に関する意見を述べた]]<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>。その後、裁判長は陪審員に対し、死刑は陪審全員の同意を必要とする旨の説示を行った<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>。

軍法会議における75分間の審議の結果<ref name="The Gazette">{{Cite news|title=GI Sentenced to Death in Slaying|newspaper=[[:w:The Gazette (Cedar Rapids, Iowa)|The Gazette]]|date=1955-12-07|url=https://www.newspapers.com/image/550012475/?terms=%22Hurt%22%20%22Yumiko%22%20%22death%22&match=1|accessdate=2021-09-22|publisher=Gazette Communications, Inc.|publication-place=[[シーダーラピッズ|Cedar Rapids]], [[アイオワ州|Iowa]]|page=37|language=en}}</ref>、11時40分、ライディック陪審員長はハートを死刑に処す旨の判決文を朗読した<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>。この死刑判決は、陪審員10人の全員一致による結論だった{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=672}}。同年11月7日には、パーカーが終身刑を言い渡されており、1か月足らずで2人の米兵が少女への強姦罪で有罪判決を宣告される事態となった<ref name="Honolulu 1955-12-06">{{Cite news|title=Sergeant to Hang For Rape-Murder|newspaper=[[ホノルル・アドバタイザー|The Honolulu Adbertiser]]|date=1955-12-06|url=https://www.newspapers.com/image/259390550/?terms=Yumiko%20Hurt&match=1|publisher=[[:w:Black Press|Black Press]]|publication-place=[[ホノルル|Honolulu]], [[ハワイ州|Hawaii]]|page=12|language=en}}</ref>。なお、ハートは軍法会議で死刑を宣告された後にアメリカに送還された{{Sfn|Miyume|2006|p=71}}。これは、軍事法廷にはボード・オブ・レビウ ''board of reviews'' ([[再審]]官)と、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]のミリタリー・コート・オブ・アピール([[:w:United States Court of Appeals for the Armed Forces|軍事上訴裁判所]])といった2つの再審機関があり、最終判決にはそれを経る必要があるためである<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>。ハートは軍事上訴裁判所へ上訴し<ref name="琉球新報2021-09-03">『[[琉球新報]]』2021年9月3日朝刊一面1頁「55年由美子ちゃん事件 「米軍曹減刑は権限逸脱」 軍法務部 大統領採決に抗議 イリノイ大院生・高内氏 米兵犯罪の記録入手」(琉球新報社)</ref>、判決はハートの身柄とともに同裁判所へ送られたが<ref name="沖縄タイムス1955-12-06夕刊"/>、上訴は1958年(昭和33年)10月7日に棄却され<ref>{{Cite web|url=https://cite.case.law/cma/9/735/|title=United States v. Hurt, 9 C.M.A. 735, 27 C.M.R. 3, 9 U.S.C.M.A. 735 (1958)|accessdate=2021-09-23|publisher=The President and Fellows of [[ハーバード大学|Harvard University]]|author=United States Court of Military Appeals|date=1958-10-07|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210923151946/https://cite.case.law/cma/9/735/|archivedate=2021-09-23}}</ref>、ハートは再び死刑を宣告されることとなった<ref name="琉球新報2021-09-03"/>。

[[沖縄県警察]] (2002) は「被告人が米軍人で白人ということもあり、裁判の行方が注目されたが、死刑判決があったことで、軍裁判は軍事的偏見がなく公正であるとの好印象を住民に与えた。<!--原文ママ-->」と述べている{{Sfn|沖縄県警察史|2002|p=672}}。一方、同時期に終身刑を宣告されたパーカーは、[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]出身の黒人兵だが<ref>{{Cite news|title=Marine Given Life Imprisonment For Raping Of 7-Year-old Okinawan|newspaper=[[:w:Pacific Daily News|Guam Daily News]]|date=1955-11-09|url=https://www.newspapers.com/image/608650169/?terms=%22Raymond%20Parker%22%20%22Okinawa%22%20%22black%22&match=1|accessdate=2021-09-22|publisher=Rindraty Limtiaco|publication-place=[[アガニャ・ハイツ|Agana Heights]], [[グアム|Guam]]|language=1}}</ref>、後に白人のハートが減刑された一方、黒人のパーカーは減刑されなかったことから、後年に大統領令による減刑に抗議した軍法務局の文書を[[アメリカ国立公文書記録管理局]]から入手した大学院生の高内悠貴([[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]]歴史学部博士課程)は、「[[アメリカ合衆国の人種差別#アフリカ系住民に対する差別|黒人に対する差別]]が現れている」と指摘している<ref name="琉球新報2021-09-03"/>。また、本事件を調査し、2019年に米軍の死刑制度に関する著書『午前0時の呼び出し』[''Summoned at Midnight'' {{Harv|Serrano|2019}} ]を発表したリチャード・セラーノ<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/> (''Richard A. Serrano'') は、「当時([[20世紀]]半ば)、アメリカの司法システムでは被害者と加害者の人種が処分を左右する重要な要素で、米軍は黒人の死刑囚に対してのみ、死刑を執行していた。ハートは白人だったことから、大統領や有力議員らの介入を受け、死刑執行を免れた。もしハートが黒人だったり、被害者が白人だったりした場合、ハートは処刑されていた可能性が高い」と指摘している<ref>{{Cite news|title=死刑を減刑された米兵は「肌の色で命拾いした」と米記者 人種差別と指摘 沖縄で幼女を殺害|newspaper=沖縄タイムス|date=2021-10-07|author=ジョン・ミッチェル特約通信員|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/843018|accessdate=2021-10-07|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211007144956/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/843018|archivedate=2021年10月7日}}</ref>。

一方、軍法会議が始まる前、ハートの弁護人を務めたジュリアン・B・キャリック (''Julian B. Carrick'') 陸軍大尉は、「ハートをケンタッキー州(の裁判所)に戻して裁判を開くべきだ。沖縄人の敵対的な態度が、公正な裁判を妨げている」と主張した{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}。また、後にハートを上訴した[[レブンワース (カンザス州)|レブンワース]]の弁護士、ホーマー・デイビス (''Homer Davis'')は、「ハートは(沖縄の軍法会議ではなく)[[那覇地方裁判所|沖縄の裁判所]]か、アメリカ本国の軍事法廷に移されるべきだった」と述べている{{Sfn|Serrano|2019|p=96}}。

== 大統領令により減刑 ==
死刑判決を受けた後、ハートの再審請求は却下されたが、彼の家族や退役軍人会は、彼の出身地であるケンタッキー州選出の[[アメリカ合衆国上院|上院議員]]・[[アメリカ合衆国下院|下院議員]]に働きかけ、「ハートは沖縄人の[[反米]]感情の犠牲になった」などと主張し、ホワイトハウスに減刑を陳情した<ref name="琉球新報2021-09-03"/>。ケンタッキー州や、隣接する[[テキサス州]]の上院議員が、連邦政府にハートの減刑を求めた<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>。

まず、ケンタッキー州の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]員で、第二次世界大戦の退役軍人である[[:w:Carl D. Perkins|カール・D・パーキンス]]が、ホワイトハウスにハートの減刑を陳情した{{Sfn|Serrano|2019|p=97}}。その後、同州上院議員の[[:w:Thruston Ballard Morton|スラストン・B・モートン]]([[共和党 (アメリカ)|共和党]])が、ケンタッキー州の[[:w:Veterans of Foreign Wars|VFW]]が発した「有罪判決は状況証拠に基づいており、ハートの有罪に関していくつかの疑いがある」という警告の決議を、個人的にアイゼンハワー政権へ転送した{{Sfn|Serrano|2019|p=97}}。また、同州の共和党員かつ上院議員である[[ジョン・シャーマン・クーパー]]や、多数党院内総務の[[リンドン・ジョンソン]]{{Sfn|Serrano|2019|p=97}}(後の[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]])<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>、テキサス州民主党の上院議員[[ラルフ・ヤーボロー]]らも支援に加わり、ハートの減刑を求める大規模な運動が起きた{{Sfn|Serrano|2019|pp=97-98}}。

[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領は1960年(昭和35年)6月1日付で、ハートについて、死刑から[[仮釈放]]なしの[[拘禁刑|重労働刑]]45年に減刑する大統領裁決を出した<ref name="琉球新報2021-09-03"/>。これに対し、軍法務部は同月10日付で、[[ホワイトハウス]]に対し「[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]上、大統領裁決で認められているのは、[[アメリカ合衆国における死刑|死刑]]執行の承認もしくは延期、[[恩赦]]のみで、減刑は権限を逸脱している{{Efn2|当時、大統領の裁決による減刑を認める[[法解釈|憲法解釈]]はなかったが、この裁決後の1974年には、それを大統領権限として認める憲法解釈を示した判決が出されている<ref name="琉球新報2021-09-03"/>。}}。このような過ちが永続化しないための措置を求める」とする抗議文書を出したが、減刑判断は覆らなかった<ref name="琉球新報2021-09-03"/>。ハート本人は、[[カンザス州]]の刑務所から、上院や[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]政権の[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]に対し、「自分は、アメリカ軍による占領の終了を求める(沖縄の)反体制政治勢力をなだめるために犠牲になったと信じる」などと主張し、仮釈放か判決の取り消しを求める嘆願書を送った{{Sfn|Serrano|2019|p=99}}。

1977年1月19日(水曜日)付で、フォード大統領は、カンザス州レブンワースの[[連邦刑務所局|連邦刑務所]]に収監されていたハート(当時52歳)を含め、軍属時代に殺人を犯して死刑判決を受けた男性6人の仮釈放を許可する決定を出した{{Efn2|同月21日(金曜日)に[[アメリカ合衆国司法省|司法省]]がこの措置を処理した<ref name="LA 1977-01-22"/>。}}<ref name="LA 1977-01-22"/>。この[[恩赦]]措置は、{{仮リンク|エドワード・レヴィ|en|Edward H. Levi}}司法長官の勧告によって行われたものである{{Efn2|連邦刑務所の規則では、犯罪の種類に関係なく、受刑者は10年の刑に服した後、仮釈放の聴聞会を開かなければならない。司法省の[[:w:Office of the Pardon Attorney|恩赦長官 (Pardon Attorney) ]]であるローレンス・M・トレイラー (''Lawrence M. Traylor'') は、ハートを含む6人について「連邦仮釈放委員会に対し、彼らの釈放を説得すべきだ」と強調していた<ref name="LA 1977-01-22"/>。[[スポークスパーソン|スポークスマン]]は『[[ロサンゼルス・タイムズ]]』の記者 ''Ronald J. Ostrow'' の質問に対し、「仮釈放の対象となった囚人6人は模範囚だった。模範囚でなければ、減刑を推奨しなかった」とコメントしている<ref name="LA 1977-01-22"/>。}}<ref name="LA 1977-01-22">{{Cite news|title=Ford Opens Door for Parole of Six Once Sentenced to Die for Killings in Military|newspaper=[[ロサンゼルス・タイムズ|The Los Angeles Times]]|date=1977-01-22|author=Ronald J. Ostrow|url=https://www.newspapers.com/image/383576400/?terms=%22isaac%20jackson%20hurt%22&match=1|accessdate=2021-09-22|publisher=[[:w:Patrick Soon-Shiong|黄馨祥]]|publication-place=Los Angeles, California|page=16|language=en}}</ref>。ハートは刑務所を出所すると、同年11月まで、[[シンシナティ]]の[[グッドウィル・インダストリーズ|グッドウィル・センター]] (Goodwill Center) で職業訓練を開始し、後に夜警として働くようになった{{Sfn|Serrano|2019|p=99}}。ハートは1981年6月12日<ref name="Ancestry"/><ref>{{Cite book|title=Tennessee, Marriage Records, 1780-2002|publisher=Ancestry.com Operations Inc|year=2008|author=Ancestry.com|url=https://www.ancestry.com/discoveryui-content/view/19890:1169?ssrc=pt&tid=26819558&pid=26129140864|language=en|chapter=Tennessee State Marriages, 1780-2002|location=Lehi, UT, USA}}</ref>、キッチンヘルパー (Kitchen Helper) の女性 ''Lura B Nicely'' と結婚したが{{Sfn|Serrano|2019|p=99}}、1984年8月6日<ref name="Ancestry"/><ref name="grave"/>、[[オハイオ州]]の[[アメリカ合衆国退役軍人省|退役軍人省]]の病院で死去した<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>{{Sfn|Serrano|2019|p=94}}({{没年齢|1924|2|18|1984|8|6}}<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/><ref name="Ancestry"/>)。ハートの妻となった ''Lura'' は、彼を「法を順守し、善良で道徳的な市民」として溺愛し{{Sfn|Serrano|2019|p=94}}、結婚から1年後には、ハートに対する完全な大統領恩赦を求め、ワシントンに書類を郵送していたが、それに対する結論は、ハートが死去した時点でもまだ出ていなかった{{Sfn|Serrano|2019|p=99}}。ハートは死後、オハイオ州[[ハミルトン郡 (オハイオ州)|ハミルトン郡]]レディング(シンシナティ郊外)に埋葬され<ref name="grave">{{Cite book|title=U.S., Find A Grave Index, 1600s-Current|publisher=Ancestry.com Operations, Inc.|year=2012|author=Ancestry.com|language=en|url=https://www.ancestry.com/discoveryui-content/view/176320243:60525?ssrc=pt&tid=26819558&pid=26129140864|chapter=Find A Grave|location=Provo, UT, USA}}</ref>、アメリカ政府から従軍を讃えられる形で墓石を贈られた<ref name="沖縄タイムス2021-09-23"/>。退役軍人省によれば、[[不名誉除隊]]されたり、軍法会議で有罪判決を受けたことによって除隊されたりした人物や、死刑に値する重罪ないし特定の性犯罪を犯した人物は、墓石提供(退役軍人に対する恩典の1つ)を受けられなくなるが{{Efn2|ただし、[[アメリカ合衆国議会]]が重大な性犯罪者や、死刑を宣告された者を、退役軍人省管轄の[[アメリカ合衆国国立墓地|国立墓地]]や、同賞の予算で運営されている州および部族の退役軍人墓地に埋葬することを禁止する法案を成立させたのは、ハートの死から35年後となる2019年のことである<ref>{{Cite news|title=Prohibition of Interment or Memorialization of Persons Who Have Been Convicted of Federal or State Capital Crimes or Certain Sex Offenses|newspaper=[[連邦官報|Federal Register]]|date=2019-02-25|url=https://www.federalregister.gov/documents/2019/02/25/2019-03078/prohibition-of-interment-or-memorialization-of-persons-who-have-been-convicted-of-federal-or-state|accessdate=2021-10-12|publisher=[[アメリカ合衆国連邦政府|Federal government of the United States]]|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211012144434/https://www.federalregister.gov/documents/2019/02/25/2019-03078/prohibition-of-interment-or-memorialization-of-persons-who-have-been-convicted-of-federal-or-state|archivedate=2021-10-12}}</ref>。}}、ハートがどのような経緯で墓石を提供されたのかは不明で、退役軍人省は2021年9月25日、『[[沖縄タイムス]]』の取材に対し、その経緯について調査する旨を回答している<ref name="沖縄タイムス2021-09-26">『沖縄タイムス』2021年9月26日朝刊第1版第一社会面25頁「米政府 幼女暴行殺害の米兵 墓石提供 資料収集へ」(沖縄タイムス社)</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 脚注 ===
{{Reflist|25em}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=沖縄県祖国復帰運動史 民族分断十八年にわたる悲劇の記録|publisher=沖縄時事出版社(発行者:宜野座嗣合、印刷所:[[琉球新報|琉球新報社]])|date=1964-08-10|pages=161-162|ref={{SfnRef|沖縄時事出版社|1964}}|editor=編集者代表 喜屋武真栄|edition=初版発行|NCID=BN05883641|chapter=全県民の怒りを爆発させた「由美子ちゃん事件」|doi=10.11501/3449888|id={{NDLJP|3449888}}}}
* {{Cite book|和書|title=沖縄人にとっての戦後|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版部]]|date=1982-03-20|ref={{SfnRef|いれいたかし|1982}}|author=いれいたかし|edition=第1刷発行|series=[[朝日選書]]|isbn=978-4022593016|NCID=BN03705438|chapter=|issue=201|id={{国立国会図書館書誌ID|000001548871}}, {{NDLJP|9773938}}}}
* {{Cite book|和書|title=沖縄大百科事典|publisher=[[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]|date=1983-05-30|page=|ref={{SfnRef|沖縄大百科事典(上巻)|1983}}|author=福地昿昭|edition=初版発行|NCID=BN00422696|chapter=|volume=上巻|origdate=1983年4月30日:初版印刷|id={{国立国会図書館書誌ID|000001645489}}}} - 「あ」 - 「く」を収録。
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* {{Cite book|title=Myth, protest and struggle in Okinawa|publisher=[[ラウトレッジ|Routledge]]|date=2006-09-13|page=|pages=70-71|ref={{SfnRef|Miyume|2006}}|last=Tanji|author=Miyume Tanji|first=Miyume|series=Sheffield Centre for Japanese Studies/Routledge Series|isbn=978-0415546881|NCID=BA78591736|chapter=The unbearable lightness of Okinawan's rights―land acquisition and rape|id={{国立国会図書館書誌ID|000008335940}}}}
* {{Cite book|title=Summoned at Midnight: A Story of Race and the Last Military Executions at Fort Leavenworth|publisher=[[:w:Beacon Press|Beacon Press]]|date=2019-02-05|pages=94-99|ref={{SfnRef|Serrano|2019}}|author=Richard A. Serrano|edition=|language=en|isbn=978-0807060964|NCID=}}
* {{Cite journal|和書|journal=大原社会問題研究所雑誌|author=井上史|title=月例研究会(2018年7月31日)1950年代の沖縄および日本本土における米軍司法をめぐる議論――「由美子ちゃん事件」と「ジラード事件」にみる日米沖関係史|page=108|editor=編集長:藤原千沙|date=2018-12-01|url=https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/722_11.pdf|issue=722|publisher=(編集兼発行人)[[法政大学]]大原社会問題研究所|format=PDF|quote=|ISSN=0912-9421|ref={{SfnRef|井上史|2018}}}}

== 関連項目 ==
'''在沖米兵による日本人女性への強姦事件'''
* [[沖縄米兵少女暴行事件]] - [[1995年]]([[平成]]7年)[[9月4日]]に発生。[[日米地位協定]]の問題がクローズアップされるきっかけとなった。
* [[米海兵隊員14歳沖縄少女強姦事件]] - [[2008年]](平成20年)[[2月10日]]に発生。
* [[沖縄うるま市強姦殺人事件]] - [[2016年]](平成28年)[[4月28日]]に沖縄県[[うるま市]](被害者が在住していた石川市の後身)で発生。同事件を契機に、2017年(平成29年)には日米地位協定における「[[軍属#在日米軍の「軍属」|軍属]]」の範囲が明確化された。
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2021年10月26日 (火) 12:12時点における版

由美子ちゃん事件
地図
遺体発見現場のおおよその位置[注 1]。「嘉手納ロータリー」から南西方向約1,500 m離れた海岸近くの採石場跡(当時は原野)だった[1]
場所 アメリカ施政下の沖縄の旗 アメリカ施政下の沖縄沖縄本島・嘉手納村(嘉手納海岸[2]
現:日本の旗 日本沖縄県中頭郡嘉手納町兼久[注 1]
座標
北緯26度21分14.3秒 東経127度44分42.4秒 / 北緯26.353972度 東経127.745111度 / 26.353972; 127.745111座標: 北緯26度21分14.3秒 東経127度44分42.4秒 / 北緯26.353972度 東経127.745111度 / 26.353972; 127.745111
標的 幼女
日付 1955年昭和30年)9月3日[2]
22時ごろ(被害者の死亡推定時刻)[1] (UTC+9)
概要 アメリカ軍嘉手納基地所属の米兵(軍曹)が、6歳の少女を強姦して殺害し、遺体を嘉手納基地付近の海岸に遺棄した[3]
攻撃手段 胸郭部圧迫(殺害方法)[1]
攻撃側人数 1人
死亡者 1人
被害者 永山 由美子[2](事件当時6歳:石川市在住の幼稚園児)[3]
犯人 アイザック・ジャクソン・ハート[注 2][4][5](事件当時31歳:嘉手納基地所属の軍曹)[2]
謝罪
  • ハート本人 - なし(無罪を主張)
  • 米軍側 - 琉球政府に対し、遺憾の意を示す[6]
刑事訴訟 軍法会議死刑判決を言い渡されたが、米大統領裁決により重労働刑45年に減刑[7]
影響 事件後、沖縄で事件への抗議や、基本的人権の尊重日本復帰などを訴える動きが高まった[8]
管轄 琉球警察アメリカ陸軍犯罪捜査司令部 (CID) [3]
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由美子ちゃん事件(ゆみこちゃんじけん)とは、沖縄がアメリカの占領下にあった1955年昭和30年)9月3日沖縄本島の嘉手納村(現:沖縄県中頭郡嘉手納町兼久[注 1])で発生した強姦殺人事件[9]石川市(現:うるま市)に住んでいた当時6歳の幼女(永山 由美子)が、アメリカ軍嘉手納基地所属の軍曹[2]アイザック・ジャクソン・ハート[注 2]Isaac Jackson Hurt[4][5]、事件当時31歳)によって暴行・殺害された事件である[2]。沖縄の戦後史に残る凶悪事件とされる[11]

ハートは殺人・強姦・少女誘拐の罪に問われ[12]軍法会議(1955年12月)と、本国の軍事上訴裁判所(1958年10月)で、それぞれ死刑判決を宣告された[10]。しかし、ハートとその家族は、「沖縄人の反米感情の犠牲になった」などと主張して減刑を求めた[7][10]

1960年(昭和35年)、ハートはアイゼンハワー米大統領の裁決により、重労働刑45年に減刑された[7]。この時は、仮釈放を認めないことが減刑の条件だったが、後にそれも覆され[10]、ハートは1971年(昭和46年)、フォード米大統領の裁決によって仮釈放された[5]。ハートは1984年(昭和59年)8月6日、オハイオ州退役軍人省の病院で死去している(60歳没)[10]

概要

事件当時、沖縄では米軍による軍用地の強制接収が行われ、それに抗議する沖縄住民たちによる[13]島ぐるみ闘争」が高まっていた[2]。そのため、事件への激しい抗議運動が起こり、沖縄各地で抗議集会が開かれた[14]

本事件は、沖縄で米軍人・軍属の犯罪が大きく取り上げられ、米軍当局に抗議の矛先が向けられた最初の事件とされる[2]。同年の沖縄の代表的な事件として言及される[15][16]だけでなく、21世紀に入ってからも、沖縄における米軍の犯罪の代表例の1つとして言及されることが多い[17][18][19][20][21][22][23][24][25][26][27]。この場合、1995年平成7年)に発生した沖縄米兵少女暴行事件や、2016年(平成28年)に発生した沖縄うるま市強姦殺人事件も、本事件と同様の形で言及される場合がある[28]。なお、アメリカ側が限定的ながら、琉球警察の共同捜査権や、沖縄住民の軍法会議傍聴権を、占領史上初めて認めた事件でもある[9]

事件の経緯

加害者

本事件の加害者であるアイザック・ジャクソン・ハート ( Isaac Jackson Hurt[4] ) は、1924年2月18日[29][30][31][10]アメリカ合衆国ケンタッキー州ペリー郡タイポ(Typo)で出生した白人男性である[29]1940年時点で、16歳だったハートは両親(父は当時67歳、母は57歳)[注 3]や姉(19歳)[注 4]とともに、ケンタッキー州ペリー郡に在住していた[35]。性的暴行未遂と暴行の罪を犯して11か月間収監されたことがあるが、その事実を隠して海軍に入隊[10]。海軍1等水兵として第二次世界大戦に従軍した[36]

終戦後、1950年8月5日にアメリカ軍[31]陸軍[36]に入隊したが、1953年7月22日に除隊[31]。同年10月8日に再入隊し[31]、事件当時は軍曹として、嘉手納基地第22高射砲大隊に所属していたが[2]、1960年8月23日に再び除隊されている[31]

事件発生

本事件の被害者である永山由美子(当時6歳:以下「被害者」)は事件当時、石川市三区二班の幼稚園児だった[3]。1955年9月3日、被害者はエイサー見物に行くということで家を出たが、映画の終わる22時過ぎになっても帰らなかった[37]。同夜は土曜日で、石川市内はエイサーがあり、アメリカ人を含む見物人が多数詰めかけていた[37]。一方、ハートは事件発生直前(9月3日夕方)、日頃から訪れていた金武村屋嘉区のカフェに来店していたが[38]、当時の服装はランニングシャツと[39]、カーキ色のズボンだった[40]。当初、ハートが事件当夜に着用していたズボンは事件直前、金武のカフェを訪れた際と同一のものである薄青色のズボンとされていたが[39]、後に捜査の結果、ハートはカーキ色のズボンを着用していたことを自供し、そのズボンも押収されたと報じられている[40]。そのカフェの女給や女中によれば、ハートは事件翌日(9月4日)に再び来店し、そのズボンの洗濯を依頼していた[38]

被害者の家族は徹夜で、友人宅や金武方面まで捜索したが[37]、被害者は翌日(9月4日)8時15分ごろ、遺体で発見された[41]。遺体はナイフで腹部を切り開かれ、南シナ海近くの海岸の採石場のゴミ捨て場に捨てられていた[4]。遺体発見現場は、旧嘉手納村兼久の通称「屋良地浜原」の海岸線道路から約30 m東方に位置する採石場跡(当時は原野)で[注 1][3]、嘉手納基地の第313爆撃団本部の無線送信機付近(被害者宅から約7 km離れた地点)である[42]。遺体には乱暴された形跡が認められたほか、着用していたシミーズが左手のところまで垂れ下がり、左手に草2、3本が強く握りしめられているなど、抵抗した痕跡も確認された[41]。一方、発見現場に荒らされた形跡がないことや、遺体の頭部に砂が付着していたことから、被害者は遺体発見現場とは別の場所で暴行・殺害され、発見現場まで運ばれた可能性が推測された[41]

第一発見者は米軍人で、通報を受けた琉球警察胡差地区警察署[注 5]は司法係全員を緊急収集し、嘉手納警部派出所の全員とともに現場に派遣[3]。その後、同署および警察本部刑事課長ら警察幹部、検事、医師、米軍の捜査機関であるアメリカ陸軍犯罪捜査司令部 (CID) により、実況見分・証拠品の捜索が行われた[3]牧港米軍病院における司法解剖の結果、死亡推定時刻は9月3日22時ごろ、死因は胸郭部圧迫による窒息死と判明した[1]。また、遺体下腹部には茶褐色の毛髪が付着していたため、土地勘のある外国人による犯行が疑われた[3]

琉球警察とCIDによる共同捜査の結果、被害者は白人に拉致されたという目撃証言が得られた[43]。この有力な証言を寄せたのは、石川市3区9班に住んでいた当時9歳の男児で、その証言内容は、「3日19時30分ごろ、東恩納[注 6]方面からボロボロのハイヤーが来て郵便局前に停車した。車内からアメリカ人が出てきて、郵便局の横にしゃがんでいた女の子をいきなり脇に抱きかかえ、もがくのを無理やり車に押し込み、急バックして東恩納方面に走り去った」というもので[37]、そのアメリカ人は、ランニングシャツを着用していたというものだった[39]。この時、男児は車から4、5メートル離れた場所におり、「ハイヤーが停車した際、その窓に掴まったが、アメリカ人に脅され、引き下がった直後に目の前で被害者がいきなり拉致された」とも証言し、さらに捜査陣からハイヤーのカタログを見せられると、目撃したハイヤーの車種や色についても具体的に「1946年型の車で、車体は薄緑色、エンジンカバーは薄桃色だった」と証言した[44]

また、彼とは別の目撃者も、「被害者は拉致される前、郵便局前で遊んでいた」と証言した[37]。さらに調べを進めた結果、「3日21時ごろ、嘉手納村千貫田区で、16号道路を知花から嘉手納方面に向かって疾走していたアメリカ人のハイヤーから、子供の泣き声のような声が聞こえていた」という住民の証言が得られた[注 7]ことなどから、犯人は被害者を石川市内で拉致し、東恩納三叉路[注 8]から栄野比に出て、マリン隊のあった登川を通過し、知花十字路から右折して嘉手納へ向かい、遺体発見現場(嘉手納海岸)に出たという経路が推定された[45]。その経路を自動車で、30マイル/時(=48.2803 km/h)以上の速さで移動した場合、1時間未満で海岸に達するとされた[45]

CIDは事件発覚から3日後の9月6日[47]、目撃者情報などからハートを被疑者として割り出し、逮捕した[注 9][1]。また同日、CIDは犯行に用いられた1948年型のシボレー(車体番号4070号)を押収した上で、石川警察署で、先述の男児を始めとした目撃者7、8人(事件当夜、遺体遺棄現場付近に停車していたハイヤーを目撃していた特警隊員)に確認を取らせ、全員から「この車だった」「よく似ている」などの証言を得た[47]。さらに、遺体発見現場から約500 m南方に位置していた軍ゴルフ場脇の溝で、被害者の着用していたパンツを、その近くの砂浜で筒掛け下駄をそれぞれ発見した[47]

ハートは憲兵に逮捕される前、約20のビールを飲み、売春婦とパーティーをしていた[49]。また、逮捕された際には捜査官に対し、「自分は少女の殺害についての新聞を読んだ」「自分が犯人じゃないかと思う」と冗談を言っていたが[49]、犯行は否認したため、捜査機関は逮捕後、綿密な裏付け捜査を行った[1]。ハートの車の後部座席には、血痕が付着していたほか[38]、車内からは血まみれのタオル、ズボン、下着、ボタン[注 10]が発見され、それらは鑑定のために日本に送られた[50]

沖縄住民の反応

事件当時、沖縄で発生した外国人事件はどのように処理されているのか、沖縄の人々には知らされずにいた[51]。米軍統治下の沖縄では、米軍人・軍属の刑事裁判は軍法会議で行われていたが、軍法会議は軍全体の規律を維持するため、違反した兵士を処罰することを目的にしていることから、たとえ沖縄人が被害者となった事件でも、沖縄人はほとんど裁判に参加したり、裁判を傍聴したりすることはできず[注 11]、その結果を知らされることも稀だった[52]。軍法会議は、本事件とは別に発生した米兵による拉致・強姦事件や殺人事件(いずれも被害者は沖縄の一般市民)では、性犯罪が正当に起訴されず、軽い罪で裁かれていたり、弁護人が被害者を貶める主張量刑の軽減を狙っていたことも後年になって判明している[注 12][52]

そのような背景から、本事件以前にも、沖縄の人々は外国人による傷害事件が治外法権的に取り扱われている印象を強く抱いていたが、幼女が米兵に拉致されて殺害された本事件をきっかけに、人々の間に「沖縄人に関係する外人事件の裁判は、いっさい公開せよ」という世論が起こった[53]琉球政府は米軍当局に対し、軍規粛正と取締強化を求め、米軍当局も遺憾の意を表明した[6]。また、琉球立法院(後の沖縄県議会)は、本事件を「鬼畜にも劣る残虐な行為」と非難した[54]

本事件の6日後[7](9月10日夜)には、前原警察署[注 13]管内の中頭郡具志川村(現:うるま市)明道5班で、小学校2年生の女児(当時9歳)が就寝中に、雨戸をこじ開けで侵入してきた米兵の男によって拉致・強姦され、重傷を負う事件が発生[55][55]。犯人は、海兵隊黒人兵レイモンド・エルトン・パーカー(Raymond Elton Parker、当時21歳:上等兵)で[56]美里村登川在マリン隊(第12海兵隊第2大隊)に所属していた[注 14][55]。この事件も本事件とともに、沖縄の新聞で大きく取り上げられた[56]。この2つの事件は、沖縄の人々に強い衝撃を与え[57]、「祖国復帰闘争」に重大な影響を与えた[58]。当時、アメリカの「外国人に対する損害賠償法」が沖縄にも適用されていたことから、沖縄側は同法に基づき、損害賠償を要求したが、同法は「米国軍人・軍属が公務中に、沖縄人の生命・身体に損害を与えた場合に補償する」と規定されていたため、補償も有耶無耶にされた[59]。このように、相次ぐ米兵の犯罪に対し、沖縄の人々の怒りが高まり、同年10月には「人権擁護全沖縄住民大会」が開催された[60]。また、翌1956年(昭和31年)には、米軍による土地接収に対する島ぐるみ闘争で、琉球大学学生会が歴史的な決起を行い、特に女子学生が闘争の先頭に立った[60]

また、1953年(昭和28年)12月に結成されていた「沖縄子どもを守る会」[注 15][62]、「外人事件の処分が不透明になっている普段の空気が、外人事件の激増を助長する原因を生んだ」として[51]、緊急理事会を開いて事件対策を話し合い[53]、本事件に関して抗議大会を開くなど、米軍人・軍属の犯罪に対する抗議活動を率先して展開した[62]。「子どもを守る会」は、同年9月16日に被害者の地元である石川市の城前小学校で開催された住民大会で、本事件と具志川村の事件を「何れも米国軍人によって行われた言語に絶する鬼畜の行為」と位置づけ、同種事件は人種国籍関係なく、一切の酌量の余地なく死刑によって処罰すること、治外法権を撤廃して沖縄人に対する外国人の部隊外での犯罪は民裁判(沖縄の裁判所)で処罰すること、沖縄側の法務官を公判に立ち会わせた上で、裁判を録音して全住民に放送聴取させることなどを求めた[63]。次いで、沖縄教職員会は同月17日、真和志沖縄劇場で「由美子ちゃん事件教員大会」を開き、緊急動議として「教員が世話係となり、人権協会(仮称)を設立する」「早急に全住民大会を開く」の2つを採択した上で、各地区代表が「(本事件は)敗戦国民への蔑視だ」「我々は統治形態を変えて祖国に帰るべきだ」「沖縄人は虫ケラでないことをこの際示せ」などといった意見を陳述した[64]。地元の弁護士会は、軍規粛正を望むとともに、住民代表の新聞記者に外国人犯罪の裁判を取材させるよう申し入れた[51]

なお、本土復帰後の1995年平成7年)9月4日には、沖縄本島北部で米兵による少女暴行事件が発生している[65]。同事件は、沖縄の本土復帰後類を見ない米兵による犯罪として、県民の怒りが爆発し、抗議運動が広がった[66]沖縄県知事側は外務省に対し、日米地位協定第17条「身柄の引き渡し」の見直しを求めた[67]。同月13日に開かれた沖縄県議会の軍特別委員会で、本事件の被害者が在住していた石川市の出身である比嘉勝秀議員(自民党)は、「同事件(少女暴行事件)のことを聞いて、復帰よりかなり前に地元で起きた由美子ちゃん事件と、コザ暴動を連想した」と発言した[68]

高里鈴代(「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表)は、沖縄うるま市強姦殺人事件(2016年発生)の加害者である米軍属が、日本の法制度で性犯罪が親告罪になっており、被害者による通報率も低いことを知った上で、弁護士を通じて『星条旗新聞』に「逮捕されることについては全く心配していなかった」というコメントを出したことや、本事件の加害者であるハートの家族が沖縄の「反米感情」を根拠に減刑を訴えた(後述)ことに言及した上で、性犯罪を犯した米軍人から「暴行しても訴えられる可能性は低い」という主張が何度も出ていることや、人間の尊厳を貶める犯罪への抵抗を「反米感情」としてくくることは、事件当時から現在まで、アメリカ国家によってリクルートされた公務員である兵士たちの間で、沖縄女性への差別意識が蔓延していることの証左であるという趣旨の指摘をしている[69]

軍法会議

沖縄の世論や抗議の高まりを受け、米軍当局は「厳重に処罰する」と発表[2]。捜査機関による裏付け捜査の結果、ハートは「容疑濃厚」とされ[1]、アメリカ陸軍によって9月9日に起訴された[70][71]。起訴の事実は、同日20時にライカム司令部によって公式発表されたが[1]、その罪名は、殺人強姦・少女誘拐の3つである[12]

しかし、先述の別の強姦事件で起訴されたパーカーが犯行を認めた一方、ハートは犯行を否認した[72]。結果、パーカーは同年11月7日に終身刑を宣告された[73]一方、ハートの裁判はパーカーより遅れた。検事はベンジャミン・M・ウォール (Benjamin M. Wall) [74]中尉、検事補はチャールズ・MM・シェパード (Charles M. A Shepherd) [74]中尉、弁護人はジュリアン・B・キャリック (Julian B. Carrick) [74]大尉、弁護士補はミルトン・E・ブリナー (Milton E. Brener) [74]中尉がそれぞれ担当した[72]陪審員長は、ジョン・M・ライディック (John M. Lydick) [74]大佐が担当した[75]

同年11月21日から[76]キャンプ瑞慶覧一般軍事法廷が開かれ[7]、審理の回数は11回におよんだ[6]。第1回軍事公判は、ライカム第1号法廷で21日9時から開かれたが、午前中は陪審員13人への適格審査を行っただけで休廷となり、午後は非公開審理となった[77]

ハートは犯行を自白しておらず、彼と被害者が一緒にいたとする目撃証言もなければ、事件当夜の彼の所在も説明されていなかった[78]。また、証拠とされた日本の教授が、ハートの乗っていた車(緑と白のフォード)のドアハンドルとシートカバーに付着していた毛髪を鑑定したところ、被害者と一致したり、ハートの殺害と結びついたりしたものはなく、教授は「髪の毛は被害者のものである可能性がある」ということまでしか証言できなかった[49]。ハートは裁判を通して無実を主張したが、証言台に立つことは拒否した[48]。一方、検察は軍法会議で、9歳の少年による「顔ははっきりと(ハートとは)断言できないが、(事件現場の)採石場の近くで、ハートに似たGIの男を目撃した」という証言を最も重要な証拠とした[49]。また、日本人のウェイトレスは、ハートのズボンに付着していた血痕について証言した[49]。ハートは死刑囚監房でも、毛髪の遺留品について執着していた[49]

1955年12月5日14時から、検事が有罪論告を、弁護人が無罪を主張する最終弁論をそれぞれ行った[75]。その後、陪審員による合議に移り[75]、10人で構成された軍法会議は、59分間におよぶ審議を行った[73]。そして、陪審員長のライディック大佐は、ハートに対し、陪審員3分の2以上の同意により[75]、すべての罪状で有罪である[73]、とする旨の評決文を朗読した[75]

死刑判決

そして、事件発生から94日目となる12月6日の9時から、ライカム軍法廷で陪審員10人が出席の上、ウオフ裁判長係と検事2人、弁護人2人らの立ち会いで、判決公判が開かれた[79]。同日の公判には、石川市婦人会の代表など、傍聴人が多数詰めかけた[79]。同日はまず、陪審の評決に移る前に[79]、ハートの弁護側が寛大な刑を求める申立書や、ハートの故郷の人々の書いた「彼は模範的な少年で、正直で、法を順守している」とする手紙を提出した[48]。その上で、量刑については「判決は死刑か終身刑の2つに限られているが、終身刑は死ぬまで鉄格子の中に閉じ込められ、仕事も与えられず、家族との面会も許されない、過酷な刑罰だ」と説明した[79]。一方、検察官はハートが過去にデトロイトで強姦未遂事件と傷害事件を起こし、11か月にわたって服役したとする旨の宣誓供述書を提出し[80]、「死刑を科すことは人間として忍びがたいことであるが、社会の秩序を保つことに必要なことである」という量刑に関する意見を述べた[79]。その後、裁判長は陪審員に対し、死刑は陪審全員の同意を必要とする旨の説示を行った[79]

軍法会議における75分間の審議の結果[48]、11時40分、ライディック陪審員長はハートを死刑に処す旨の判決文を朗読した[79]。この死刑判決は、陪審員10人の全員一致による結論だった[6]。同年11月7日には、パーカーが終身刑を言い渡されており、1か月足らずで2人の米兵が少女への強姦罪で有罪判決を宣告される事態となった[73]。なお、ハートは軍法会議で死刑を宣告された後にアメリカに送還された[81]。これは、軍事法廷にはボード・オブ・レビウ board of reviews再審官)と、ワシントンのミリタリー・コート・オブ・アピール(軍事上訴裁判所)といった2つの再審機関があり、最終判決にはそれを経る必要があるためである[79]。ハートは軍事上訴裁判所へ上訴し[7]、判決はハートの身柄とともに同裁判所へ送られたが[79]、上訴は1958年(昭和33年)10月7日に棄却され[82]、ハートは再び死刑を宣告されることとなった[7]

沖縄県警察 (2002) は「被告人が米軍人で白人ということもあり、裁判の行方が注目されたが、死刑判決があったことで、軍裁判は軍事的偏見がなく公正であるとの好印象を住民に与えた。」と述べている[6]。一方、同時期に終身刑を宣告されたパーカーは、テネシー州メンフィス出身の黒人兵だが[83]、後に白人のハートが減刑された一方、黒人のパーカーは減刑されなかったことから、後年に大統領令による減刑に抗議した軍法務局の文書をアメリカ国立公文書記録管理局から入手した大学院生の高内悠貴(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校歴史学部博士課程)は、「黒人に対する差別が現れている」と指摘している[7]。また、本事件を調査し、2019年に米軍の死刑制度に関する著書『午前0時の呼び出し』[Summoned at Midnight (Serrano 2019) ]を発表したリチャード・セラーノ[10] (Richard A. Serrano) は、「当時(20世紀半ば)、アメリカの司法システムでは被害者と加害者の人種が処分を左右する重要な要素で、米軍は黒人の死刑囚に対してのみ、死刑を執行していた。ハートは白人だったことから、大統領や有力議員らの介入を受け、死刑執行を免れた。もしハートが黒人だったり、被害者が白人だったりした場合、ハートは処刑されていた可能性が高い」と指摘している[84]

一方、軍法会議が始まる前、ハートの弁護人を務めたジュリアン・B・キャリック (Julian B. Carrick) 陸軍大尉は、「ハートをケンタッキー州(の裁判所)に戻して裁判を開くべきだ。沖縄人の敵対的な態度が、公正な裁判を妨げている」と主張した[49]。また、後にハートを上訴したレブンワースの弁護士、ホーマー・デイビス (Homer Davis)は、「ハートは(沖縄の軍法会議ではなく)沖縄の裁判所か、アメリカ本国の軍事法廷に移されるべきだった」と述べている[49]

大統領令により減刑

死刑判決を受けた後、ハートの再審請求は却下されたが、彼の家族や退役軍人会は、彼の出身地であるケンタッキー州選出の上院議員下院議員に働きかけ、「ハートは沖縄人の反米感情の犠牲になった」などと主張し、ホワイトハウスに減刑を陳情した[7]。ケンタッキー州や、隣接するテキサス州の上院議員が、連邦政府にハートの減刑を求めた[10]

まず、ケンタッキー州の民主党員で、第二次世界大戦の退役軍人であるカール・D・パーキンスが、ホワイトハウスにハートの減刑を陳情した[85]。その後、同州上院議員のスラストン・B・モートン共和党)が、ケンタッキー州のVFWが発した「有罪判決は状況証拠に基づいており、ハートの有罪に関していくつかの疑いがある」という警告の決議を、個人的にアイゼンハワー政権へ転送した[85]。また、同州の共和党員かつ上院議員であるジョン・シャーマン・クーパーや、多数党院内総務のリンドン・ジョンソン[85](後の米大統領[10]、テキサス州民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローらも支援に加わり、ハートの減刑を求める大規模な運動が起きた[86]

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は1960年(昭和35年)6月1日付で、ハートについて、死刑から仮釈放なしの重労働刑45年に減刑する大統領裁決を出した[7]。これに対し、軍法務部は同月10日付で、ホワイトハウスに対し「憲法上、大統領裁決で認められているのは、死刑執行の承認もしくは延期、恩赦のみで、減刑は権限を逸脱している[注 16]。このような過ちが永続化しないための措置を求める」とする抗議文書を出したが、減刑判断は覆らなかった[7]。ハート本人は、カンザス州の刑務所から、上院やフォード政権の司法長官に対し、「自分は、アメリカ軍による占領の終了を求める(沖縄の)反体制政治勢力をなだめるために犠牲になったと信じる」などと主張し、仮釈放か判決の取り消しを求める嘆願書を送った[87]

1977年1月19日(水曜日)付で、フォード大統領は、カンザス州レブンワースの連邦刑務所に収監されていたハート(当時52歳)を含め、軍属時代に殺人を犯して死刑判決を受けた男性6人の仮釈放を許可する決定を出した[注 17][5]。この恩赦措置は、エドワード・レヴィ英語版司法長官の勧告によって行われたものである[注 18][5]。ハートは刑務所を出所すると、同年11月まで、シンシナティグッドウィル・センター (Goodwill Center) で職業訓練を開始し、後に夜警として働くようになった[87]。ハートは1981年6月12日[29][88]、キッチンヘルパー (Kitchen Helper) の女性 Lura B Nicely と結婚したが[87]、1984年8月6日[29][30]オハイオ州退役軍人省の病院で死去した[10][4](60歳没[10][29])。ハートの妻となった Lura は、彼を「法を順守し、善良で道徳的な市民」として溺愛し[4]、結婚から1年後には、ハートに対する完全な大統領恩赦を求め、ワシントンに書類を郵送していたが、それに対する結論は、ハートが死去した時点でもまだ出ていなかった[87]。ハートは死後、オハイオ州ハミルトン郡レディング(シンシナティ郊外)に埋葬され[30]、アメリカ政府から従軍を讃えられる形で墓石を贈られた[10]。退役軍人省によれば、不名誉除隊されたり、軍法会議で有罪判決を受けたことによって除隊されたりした人物や、死刑に値する重罪ないし特定の性犯罪を犯した人物は、墓石提供(退役軍人に対する恩典の1つ)を受けられなくなるが[注 19]、ハートがどのような経緯で墓石を提供されたのかは不明で、退役軍人省は2021年9月25日、『沖縄タイムス』の取材に対し、その経緯について調査する旨を回答している[36]

脚注

注釈

  1. ^ a b c d 事件当時の『沖縄タイムス』は、事件現場を「嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野」と報じている[41]
  2. ^ a b アイザック・J・ハート[9]アイザック・ハートとも表記される[10]
  3. ^ ハートの父親である Robert Lee Hurt (1875年9月20日生まれ)は1964年2月28日、ケンタッキー州ペリー郡で死去(88歳没)[32]。彼の妻(ハートの母親)である Nannie Belle Hensley (1882年6月24日生まれ)も、1975年8月20日に同地で死去している(93歳没)[33]
  4. ^ ハートの姉である Helen Marie Hurt (1920年6月19日生まれ)は、1946年8月17日にケンタッキー州ペリー郡で死去している(26歳没)[34]
  5. ^ 胡差地区警察署は、現在の沖縄警察署沖縄県警察)に当たる。なお、現在の嘉手納町の管轄警察署は嘉手納警察署である。
  6. ^ 現:うるま市石川東恩納。
  7. ^ その住民は「交通事故か、病人の子供を乗せて病院へ連れて行くのではないかと思った」と証言していた[45]
  8. ^ 現在のうるま市石川東恩納66-2付近[46]
  9. ^ 国際通信社 (INS) は、は、「ハートは、米国と地方自治体による徹底的な尋問の後、9月7日に逮捕された」と報じている[48]
  10. ^ 被害者の着用していた服のボタンや、事件当時ハートが着用していたズボン[38]
  11. ^ 被害者や遺族が特別に傍聴を認められても、日本語通訳はなかった[52]
  12. ^ 1949年8月に安里村(現:那覇市)で、ホテル兼住宅にいた19歳の女性が米兵3人によって拉致され、ビーチで性的暴行を加えられる事件が発生したが、軍の上官は被害者側の拉致と性的暴行の訴えや、それを裏付ける客観的証拠を無視し、加害米兵らの「道を歩いていた女性らに売春を求めたら応じた」という証言を基に、ソドミーの罪で起訴したが、後にCIDの捜査により、米兵らが違法にホテルに侵入し、被害者女性を拉致して強姦したことが認定された[52]。また、1969年2月にコザ市(現:沖縄市)で、22歳の女性が二等兵により、バスタオルで絞殺された事件では、被告人(二等兵)の弁護人が「被害者はオールド・コザ(沖縄市照屋の歓楽街)の売春婦で、評判が疑わしい。被告人はまだ社会の一員として更生が可能だ」と主張し、最終的に被告人には50年の禁錮・重労働刑が宣告されている[52]
  13. ^ 後の具志川警察署、現:うるま警察署
  14. ^ 美里村登川は、現:沖縄市登川。
  15. ^ 「沖縄子どもを守る会」は、朝鮮戦争の勃発によって米軍基地が拡大され、基地環境の悪影響が子どもにおよんでいたことを受け、沖縄教職員会・PTA連合会・婦人連合会・沖縄県青年団協議会(沖青協)・校長協会によって結成された[61]。同会は基地環境問題への対処をはじめ、不良化防止、交通禍対策など、子供たちの健全育成を目標に活動していたが、事務所を設置していた少年会館(後の那覇市久茂地公民館)が利用者減で運営困難となったことから、1979年(昭和54年)5月に解散した[62]
  16. ^ 当時、大統領の裁決による減刑を認める憲法解釈はなかったが、この裁決後の1974年には、それを大統領権限として認める憲法解釈を示した判決が出されている[7]
  17. ^ 同月21日(金曜日)に司法省がこの措置を処理した[5]
  18. ^ 連邦刑務所の規則では、犯罪の種類に関係なく、受刑者は10年の刑に服した後、仮釈放の聴聞会を開かなければならない。司法省の恩赦長官 (Pardon Attorney) であるローレンス・M・トレイラー (Lawrence M. Traylor) は、ハートを含む6人について「連邦仮釈放委員会に対し、彼らの釈放を説得すべきだ」と強調していた[5]スポークスマンは『ロサンゼルス・タイムズ』の記者 Ronald J. Ostrow の質問に対し、「仮釈放の対象となった囚人6人は模範囚だった。模範囚でなければ、減刑を推奨しなかった」とコメントしている[5]
  19. ^ ただし、アメリカ合衆国議会が重大な性犯罪者や、死刑を宣告された者を、退役軍人省管轄の国立墓地や、同賞の予算で運営されている州および部族の退役軍人墓地に埋葬することを禁止する法案を成立させたのは、ハートの死から35年後となる2019年のことである[89]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 沖縄県警察史 2002, p. 671.
  2. ^ a b c d e f g h i j 沖縄大百科事典(下巻) 1983, p. 784.
  3. ^ a b c d e f g h 沖縄県警察史 2002, p. 670.
  4. ^ a b c d e f Serrano 2019, p. 94.
  5. ^ a b c d e f g h Ronald J. Ostrow (1977年1月22日). “Ford Opens Door for Parole of Six Once Sentenced to Die for Killings in Military” (英語). The Los Angeles Times (Los Angeles, California: 黄馨祥): p. 16. https://www.newspapers.com/image/383576400/?terms=%22isaac%20jackson%20hurt%22&match=1 2021年9月22日閲覧。 
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  8. ^ 宜野湾市史 2006, p. 423.
  9. ^ a b c 井上史 2018, p. 108.
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  11. ^ 『沖縄タイムス』2021年9月23日朝刊第1版第一社会面27頁「【ジョン・ミッチェル特約通信員】解説 仮釈放 不透明な処理 今も続く軍人関係の特権」(沖縄タイムス社)
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参考文献

関連項目

在沖米兵による日本人女性への強姦事件