「臨済義玄」の版間の差分

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'''臨済 義玄'''(臨濟 義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-[[867年]])は、[[中国]][[唐]]の[[禅僧]]で、[[臨済宗]]の開祖。[[曹州]][[南華県]]([[山東省]][[カ沢市|菏沢市]])出身で俗姓は[[邢氏]]。
'''臨済 義玄'''(臨濟 義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-[[867年]])は、[[中国]][[唐]]の[[禅僧]]で、[[臨済宗]]の開祖。[[曹州]][[南華県]]([[山東省]][[カ沢市|菏沢市]])出身で俗姓は[[邢氏]]。

彼の言行は弟子の[[三聖慧然]]によって『'''[[臨済録]]'''』としてまとめられており、「語録の王」と称された。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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二十歳の時に[[出家]]し、義玄と名乗る。当初は熱心に仏教学者の講義に出席して [[戒律]]や[[経論]]を学ぶも満ち足りず、これら[[経典]]の勉強を「済世の医方」(世渡りの道具)に過ぎないものと知るに至り、[[禅宗]]へ転向して[[黄檗希運]]に師事、いわゆる'''[[黄檗希運#黄檗三打|黄檗三打]]'''の機縁で[[大悟]]した。
二十歳の時に[[出家]]し、義玄と名乗る。当初は熱心に仏教学者の講義に出席して [[戒律]]や[[経論]]を学ぶも満ち足りず、これら[[経典]]の勉強を「済世の医方」(世渡りの道具)に過ぎないものと知るに至り、[[禅宗]]へ転向して[[黄檗希運]]に師事、いわゆる'''[[黄檗希運#黄檗三打|黄檗三打]]'''の機縁で[[大悟]]した。


=== 黄檗三打 ===
その後、[[河北省]]の有力軍閥である成徳府[[節度使]]{{仮リンク|王紹懿|zh|王紹懿|en|Wang Shaoyi}}(禅録では王常侍)の帰依を受け、[[正定県|真定府]]の[[臨済寺 (河北省)|臨済院]]に住み、[[興化存奨]]を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に[[臨済宗]]と呼ばれるようになった。
臨済は大悟する以前、ひたすら[[坐禅]]の修行に励む日々を送っていた。三年ほど経ったある日、首座の和尚(一番上の弟子)に「黄檗老師に参禅して教えを受けたことがあるか」と尋ねられた。

臨済は「何をたずねたらよいかわかりませんので、参禅したこともありません」と答えると、首座和尚は「どうして老師のところに行って、『仏法の限界はどういうものか?』とたずねないのか」といい、臨済はいわれるままに黄檗のところに参禅したのだが、その質問も終らぬうちに黄檗の三十棒を喰らってしまった。

首座が「どうだった」とたずねたので、臨済が今の出来事をありのまま報告すると、首座は「もう一度、同じ質問をして来い」という。このようにして、三度、老師に参禅して三度とも痛棒を喰らった臨済は、もはや自分に禅を探究する資格はなきものと絶望し、黄檗山を下ることを決意。臨済が別れの挨拶にやってくると、黄檗老師は「他所へ行ってはならぬ。ぜひとも高安の灘に住んで居られる大愚和尚を訪ねるがよかろう」と指示された。

臨済は言われるがまま大愚のもとを訪ね、「いったい私に落ち度があったのでしょうか」と問いた。すると大愚は「黄檗は、まるで老婆が孫でも可愛がるようじゃないか。お前のためにくたくたになるまで計らってくれているのに、その上わしのところまでやってきて、落ち度があったかどうかなどと聞くとは何ごとだ」といった。臨済はこの大愚の一言で大悟したのである。

大悟した臨済は大愚に向かって「なんだ、黄檗の仏法といってもこんなわかりきったことなのか」とうそぶいた。すぐに大愚は臨済を引っつかんで「この寝小便たれ小僧め!たった今、落ち度があったのでしょうか、などと泣きごとを言ったくせに、こんどは黄檗の仏法は端的だなどと言う。いったい何が分かったのだ。さあ言ってみろ!さあ言ってみろ!」と問いた。

すると臨済は大愚の脇腹を三発ばかり拳で殴り、本物だと分かった大愚は掴んだ手を突き放し臨済に言った、「そなたの師は黄檗和尚だ。わしの知ったことではない。帰れ!帰れ!」。

臨済は再び黄檗のもとに戻って事の顛末を報告すると、黄檗は「何とかしてあいつに会って今度一発お見舞いしてやりたいものだ」といった。すると臨済は「やりたいものだもあるものか。今度といわず、今すぐ喰らえ!」と言うや否や黄檗の横面に思い切り平手打ちを喰らわした。

殴られた黄檗は大笑して「'''この[[きちがい|気狂い]]め!よくもわしに向かって虎のひげを撫でるようなことをしおったな!'''」と言った。臨済はすかさず「'''喝ーっ'''」と一喝した。この一喝に黄檗は心から満足し「侍者よ、この気狂いを禅堂に連れて行け」と言った。これが黄檗の[[印可]](悟りを証明すること)の言葉だった。

=== 大悟以降 ===
その後、臨済は[[河北省]]の有力軍閥である成徳府[[節度使]]{{仮リンク|王紹懿|zh|王紹懿|en|Wang Shaoyi}}(禅録では王常侍)の帰依を受け、[[正定県|真定府]]の[[臨済寺 (河北省)|臨済院]]に住み、[[興化存奨]]を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に[[臨済宗]]と呼ばれるようになった。


その宗風は[[馬祖道一]]に始まる[[洪州宗]]の禅風を究極まで推し進め、中国禅の頂点を極めた。その家風は「'''喝'''」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、[[徳山宣鑑|徳山]]の「'''棒'''」とならび称され、その激しさから「'''臨済将軍'''」とも喩えられた。
その宗風は[[馬祖道一]]に始まる[[洪州宗]]の禅風を究極まで推し進め、中国禅の頂点を極めた。その家風は「'''喝'''」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、[[徳山宣鑑|徳山]]の「'''棒'''」とならび称され、その激しさから「'''臨済将軍'''」とも喩えられた。


[[867年]][[4月10日]]、弟子の三聖慧然を枕辺に呼び「私が死んでも[[正法眼蔵]](仏の伝えた尊い教え)を滅ぼしてはならないぞ」と述べ、慧然は「どうして老師の正法眼蔵を滅ぼしたりなどできましょう」と応えた。すると臨済は「では今後、人がお前に尋ねたならどう応えるのか」と問うと、慧然は「喝ーっ」と一喝した。臨済は「わしの正法眼蔵が、この馬鹿坊主のところで滅びてしまうとは、いったい誰が知るであろうか」といい、そのまま[[遷化]]したとされている。
[[867年]][[1月10日]]、弟子の[[三聖慧然]]を枕辺に呼び「私が死んでも[[正法眼蔵]](仏の伝えた尊い教え)を滅ぼしてはならないぞ」と述べ、慧然は「どうして老師の正法眼蔵を滅ぼしたりなどできましょう」と応えた。すると臨済は「では今後、人がお前に尋ねたならどう応えるのか」と問うと、慧然は「喝ーっ」と一喝した。臨済は「'''わしの正法眼蔵が、この馬鹿坊主のところで滅びてしまうとは、いったい誰が知るであろうか'''」といい、そのまま端然として[[遷化]]したとされている。


== 語録 ==
== 語録 ==
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* [[臨済寺 (河北省)|臨済寺]]
* [[臨済寺 (河北省)|臨済寺]]
* [[会昌の廃仏]]
* [[会昌の廃仏]]
* [[普化]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2018年5月14日 (月) 18:07時点における版

臨済義玄
?-867年
日本人画家曾我蛇足によって14世紀に描かれた臨済義玄の肖像画
諡号 慧照禅師
尊称 臨済将軍
生地 曹州南華県(山東省菏沢市
宗派 臨済宗
寺院 真定府臨済院
黄檗希運
弟子 興化存奨
三聖慧然
著作臨済慧照禅師語録』(語録)
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臨済 義玄(臨濟 義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-867年)は、中国禅僧で、臨済宗の開祖。曹州南華県山東省菏沢市)出身で俗姓は邢氏

彼の言行は弟子の三聖慧然によって『臨済録』としてまとめられており、「語録の王」と称された。

生涯

中国河北省石家荘市正定県にある臨済寺仏塔。臨済義玄はここで臨済宗を開いた。
中国河北省正定県南城門内の臨濟義玄像

二十歳の時に出家し、義玄と名乗る。当初は熱心に仏教学者の講義に出席して 戒律経論を学ぶも満ち足りず、これら経典の勉強を「済世の医方」(世渡りの道具)に過ぎないものと知るに至り、禅宗へ転向して黄檗希運に師事、いわゆる黄檗三打の機縁で大悟した。

黄檗三打

臨済は大悟する以前、ひたすら坐禅の修行に励む日々を送っていた。三年ほど経ったある日、首座の和尚(一番上の弟子)に「黄檗老師に参禅して教えを受けたことがあるか」と尋ねられた。

臨済は「何をたずねたらよいかわかりませんので、参禅したこともありません」と答えると、首座和尚は「どうして老師のところに行って、『仏法の限界はどういうものか?』とたずねないのか」といい、臨済はいわれるままに黄檗のところに参禅したのだが、その質問も終らぬうちに黄檗の三十棒を喰らってしまった。

首座が「どうだった」とたずねたので、臨済が今の出来事をありのまま報告すると、首座は「もう一度、同じ質問をして来い」という。このようにして、三度、老師に参禅して三度とも痛棒を喰らった臨済は、もはや自分に禅を探究する資格はなきものと絶望し、黄檗山を下ることを決意。臨済が別れの挨拶にやってくると、黄檗老師は「他所へ行ってはならぬ。ぜひとも高安の灘に住んで居られる大愚和尚を訪ねるがよかろう」と指示された。

臨済は言われるがまま大愚のもとを訪ね、「いったい私に落ち度があったのでしょうか」と問いた。すると大愚は「黄檗は、まるで老婆が孫でも可愛がるようじゃないか。お前のためにくたくたになるまで計らってくれているのに、その上わしのところまでやってきて、落ち度があったかどうかなどと聞くとは何ごとだ」といった。臨済はこの大愚の一言で大悟したのである。

大悟した臨済は大愚に向かって「なんだ、黄檗の仏法といってもこんなわかりきったことなのか」とうそぶいた。すぐに大愚は臨済を引っつかんで「この寝小便たれ小僧め!たった今、落ち度があったのでしょうか、などと泣きごとを言ったくせに、こんどは黄檗の仏法は端的だなどと言う。いったい何が分かったのだ。さあ言ってみろ!さあ言ってみろ!」と問いた。

すると臨済は大愚の脇腹を三発ばかり拳で殴り、本物だと分かった大愚は掴んだ手を突き放し臨済に言った、「そなたの師は黄檗和尚だ。わしの知ったことではない。帰れ!帰れ!」。

臨済は再び黄檗のもとに戻って事の顛末を報告すると、黄檗は「何とかしてあいつに会って今度一発お見舞いしてやりたいものだ」といった。すると臨済は「やりたいものだもあるものか。今度といわず、今すぐ喰らえ!」と言うや否や黄檗の横面に思い切り平手打ちを喰らわした。

殴られた黄檗は大笑して「この気狂いめ!よくもわしに向かって虎のひげを撫でるようなことをしおったな!」と言った。臨済はすかさず「喝ーっ」と一喝した。この一喝に黄檗は心から満足し「侍者よ、この気狂いを禅堂に連れて行け」と言った。これが黄檗の印可(悟りを証明すること)の言葉だった。

大悟以降

その後、臨済は河北省の有力軍閥である成徳府節度使王紹懿中国語版英語版(禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府臨済院に住み、興化存奨を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。

その宗風は馬祖道一に始まる洪州宗の禅風を究極まで推し進め、中国禅の頂点を極めた。その家風は「」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。

867年1月10日、弟子の三聖慧然を枕辺に呼び「私が死んでも正法眼蔵(仏の伝えた尊い教え)を滅ぼしてはならないぞ」と述べ、慧然は「どうして老師の正法眼蔵を滅ぼしたりなどできましょう」と応えた。すると臨済は「では今後、人がお前に尋ねたならどう応えるのか」と問うと、慧然は「喝ーっ」と一喝した。臨済は「わしの正法眼蔵が、この馬鹿坊主のところで滅びてしまうとは、いったい誰が知るであろうか」といい、そのまま端然として遷化したとされている。

語録

語録として『臨済録』が弟子の三聖慧然によってまとめられ、北宋代に印刷されて以降、広く流布し、「語録の王」と称されている。

  • 仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親類に逢うては親類を殺せ。始めて解脱を得ん。

伝記

関連項目

脚注

先代
黄檗希運
臨済宗
? - 867
次代
興化存奨