「宮本慎也」の版間の差分

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{{by|2007年}}は手薄な野手のリーダーとしても期待され、これまでの出塁・進塁役から、ランナーを返す役割を期待される事も多くなった。その重圧にも負けず3割5本塁打の活躍。しかしこの年の巨人の優勝決定試合では巨人の一打サヨナラのチャンスにおいて[[清水崇行]]のゴロをとった後に一塁へ悪送球をしてしまい、優勝を決定させるサヨナラタイムリーエラーという大失態を犯してしまった。シーズンオフには再び日本代表のキャプテンに指名され、チーム首脳陣と選手をつなぐ重要な役割を果たした。[[星野仙一]]監督からは「成績に関係なく代表に選ぶつもりだった」と絶大な信頼を寄せられており、またナインからも監督の次に胴上げされている。契約更改では球団社長にスコアラーの増強や二軍室内練習場の早期設置などチーム強化を直訴しており、[[古田敦也]]、[[石井一久]]らの退団後名実共にチームを代表する選手となりつつある。
{{by|2007年}}は手薄な野手のリーダーとしても期待され、これまでの出塁・進塁役から、ランナーを返す役割を期待される事も多くなった。その重圧にも負けず3割5本塁打の活躍。しかしこの年の巨人の優勝決定試合では巨人の一打サヨナラのチャンスにおいて[[清水崇行]]のゴロをとった後に一塁へ悪送球をしてしまい、優勝を決定させるサヨナラタイムリーエラーという大失態を犯してしまった。シーズンオフには再び日本代表のキャプテンに指名され、チーム首脳陣と選手をつなぐ重要な役割を果たした。[[星野仙一]]監督からは「成績に関係なく代表に選ぶつもりだった」と絶大な信頼を寄せられており、またナインからも監督の次に胴上げされている。契約更改では球団社長にスコアラーの増強や二軍室内練習場の早期設置などチーム強化を直訴しており、[[古田敦也]]、[[石井一久]]らの退団後名実共にチームを代表する選手となりつつある。


{{by|2008年}}の[[北京オリンピック野球日本代表]]では、前回アテネに引き続きキャプテンとしてチームを牽引し金メダル獲得を目指したが4位に終わり「キャプテンとして責任を感じる」と涙で敗戦の弁を語り、今回限りでの代表引退を臭わせる発言をした。シーズンオフの契約更改で39歳の2010年のシーズンまで年俸2億2000万円をベースに、各年最大8000万円の出来高で合意した(金額は推定)。また将来の監督候補のため来シーズンからコーチ兼任で指導者としての第一歩を踏み始めることになった。ちなみに幅広く経験を積むために打撃や守備、走塁などの担当部門に分けず全てを指導していくこととなった。<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081125/bbl0811251656003-n1.htm ヤクルト・宮本 コーチ兼任で2年契約 - MSN産経ニュース]</ref>また、2年続けてきた[[選手会長]]を[[新井貴浩]]に引き継いだ。
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== 詳細情報 ==
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*2008年度シーズン終了時
*2008年度シーズン終了時
*各年度の'''太字'''はリーグ最高、<span style="color:red">'''赤字'''</span>は歴代最高
*各年度の'''太字'''はリーグ最高、<span style="color:#ED1A3D">'''赤字'''</span>は歴代最高


=== 年度別守備成績 ===
=== 年度別守備成績 ===

2009年9月23日 (水) 08:22時点における版

宮本 慎也
東京ヤクルトスワローズ #6
北京五輪での宮本慎也(2008年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府吹田市
生年月日 (1970-11-05) 1970年11月5日(53歳)
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1994年 ドラフト2位
初出場 1995年4月11日
年俸 2億2,000万円
※2009年からの2年契約中
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 東京ヤクルトスワローズ(2009 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年2008年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

宮本 慎也(みやもと しんや、1970年11月5日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手内野手)。元 日本プロ野球選手会会長

プレースタイル

自分の守備範囲のボールは必ず捕る堅実な守備でゴールデングラブ賞を遊撃手部門で6回獲得している名手。「ファインプレーがいかにも守備でのファインプレーだったとなると、たとえアウトが取れたとしても、投手には打たれてしまった気分が残るから、難しい打球でも簡単に取っているように見えることが守備の能力として必要だ」という哲学を持つ。そのため打球に飛びつくことは少なく、限界まで走って送球の負担を減らす。

スタメンとなる機会を得たのちは打撃力の進歩も著しく、2000年シーズンには初の打率3割を達成している。入団当初はバントはあまり得意ではなく、バントを失敗した際に顔面に打球を受けたこともあるが、その後技術を上げ2001年にはシーズン犠打数の日本記録を更新している。

経歴

小学校時代に生まれて初めてプロ野球関係者から野球を教わり、そのとき宮本にコーチをしていたのが阪神タイガースでかつて牛若丸と呼ばれたかの名遊撃手・吉田義男である。宮本が遊撃手にこだわるようになったのは吉田との当時の出会いが大きく影響しており、本人は今でも吉田から教わった遊撃手としての心得をしっかり守っているという。更に、ヤクルト入団後は同じく名遊撃手の大橋穣守備コーチと出会っている。

PL学園時代は第69回全国高等学校野球選手権大会に出場し優勝。立浪和義片岡篤史らの1学年下にあたり、片岡とは大学でも同じ同志社大学野球部に在籍して、1年先輩と後輩の間柄で互いに活躍した。1994年のドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。

1997年、プロ野球選手の脱税事件に関わり、刑事告発を受ける。その後、執行猶予付きの有罪判決が下った。(詳細はプロ野球脱税事件を参照のこと)1998年は開幕から出場停止処分受け、球団は開幕前日に代役として日本ハムファイターズから城石憲之を獲得した(交換要員は捕手の野口寿浩)。

2001年には2番打者として67犠打でシーズン最多犠打の日本記録を打ち立てるなど、ヤクルトの日本一に貢献。2004年アテネオリンピック野球日本代表では、予選より長嶋茂雄代表監督よりキャプテンの指名を受け、予選では普段守らない二塁手のポジションを危なげなくこなした。予選の前のミーティングで「これは一生懸命やって負けたから仕方ないという戦いじゃない。絶対勝つんだ」とナインを鼓舞。地元開催に加え今回からメンバー全員がプロで構成され、アマチュア選手の夢を奪っていることにもなるので、負ければアマチュア球界にも顔が向けられないからと語っている。ちなみに予選突破を決めた後のシャンパンファイトでは「負けなくてよかったね」とも言っている。オリンピックでは遊撃手としての守備、走塁もさることながらチームトップの打率5割と大活躍し、長嶋ジャパンを牽引した。

2005年は1番打者に指名されるも、執拗な内角攻めと故意かとも思われる死球禍により、調子を崩してしまった。結局この年はプロ入り後最多の12死球を受けたが、その内の8個がマークのきつかった6月の半ばまでに記録されている(この年は青木宣親が台頭したため途中で2番に回り、マークは薄れた)。同年、日本プロ野球選手会古田敦也前会長が監督に就任したため、その後を受けて会長を務めている。

2006年WBC代表にも井口資仁の代表辞退後に追加選出された。出場要請は大好きなパチンコをしている最中だったという。精神的支柱となった。この時の背番号は多村仁と重複のため10番を付けた。準決勝の韓国戦では代打として結果を残し、その後の守備では本職ではない三塁手として出場した(守備機会は無し)。決勝のキューバ戦ではその試合で2度エラーをした川崎宗則に代わり、9回に本職である遊撃手として出場した。ただし宮本への交代は前の攻撃の回で川崎がホームへ生還した際、右ひじを痛めたためでありエラーが原因で交代したわけではない。

2006年は開幕から好調だったものの怪我での2度の離脱により73試合出場にとどまる。5年契約での3年目を終え、前年までの成績に加え、長嶋ジャパンの主将やWBC代表を務めた「世界一査定」も評価されて提示額は500万円増だったが、「納得したいと思って」と自ら減額を申し出る。その上で、差額の1500万円を、二軍が使用する戸田球場の傷みの目立つフェンスの改修費用に充てるように球団に要望し、了承された。

2007年は手薄な野手のリーダーとしても期待され、これまでの出塁・進塁役から、ランナーを返す役割を期待される事も多くなった。その重圧にも負けず3割5本塁打の活躍。しかしこの年の巨人の優勝決定試合では巨人の一打サヨナラのチャンスにおいて清水崇行のゴロをとった後に一塁へ悪送球をしてしまい、優勝を決定させるサヨナラタイムリーエラーという大失態を犯してしまった。シーズンオフには再び日本代表のキャプテンに指名され、チーム首脳陣と選手をつなぐ重要な役割を果たした。星野仙一監督からは「成績に関係なく代表に選ぶつもりだった」と絶大な信頼を寄せられており、またナインからも監督の次に胴上げされている。契約更改では球団社長にスコアラーの増強や二軍室内練習場の早期設置などチーム強化を直訴しており、古田敦也石井一久らの退団後名実共にチームを代表する選手となりつつある。

2008年北京オリンピック野球日本代表では、前回アテネに引き続きキャプテンとしてチームを牽引し金メダル獲得を目指したが4位に終わり「キャプテンとして責任を感じる」と涙で敗戦の弁を語り、今回限りでの代表引退を臭わせる発言をした。シーズンオフの契約更改で39歳の2010年のシーズンまで年俸2億2000万円をベースに、各年最大8000万円の出来高で合意した(金額は推定)。また将来の監督候補のため来シーズンからコーチ兼任で指導者としての第一歩を踏み始めることになった。ちなみに幅広く経験を積むために打撃や守備、走塁などの担当部門に分けず全てを指導していくこととなった。[1]また、2年続けてきた選手会長を新井貴浩に引き継いだ。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 ヤクルト 67 57 50 13 11 2 0 0 13 4 3 1 1 0 6 0 0 9 0 .220 .304 .260 .564
1996 68 270 238 27 65 8 2 1 80 13 6 0 8 1 19 1 4 39 3 .273 .336 .336 .672
1997 115 432 387 44 109 15 3 1 133 33 16 5 6 3 31 10 5 37 11 .282 .340 .344 .684
1998 114 402 368 28 95 10 1 1 110 25 5 3 6 1 24 4 3 51 4 .258 .308 .299 .607
1999 131 572 501 60 124 14 1 1 143 24 11 4 45 0 23 1 3 40 6 .248 .285 .285 .570
2000 136 536 476 39 143 24 4 3 184 55 13 5 19 5 31 10 5 49 7 .300 .346 .387 .733
2001 125 578 477 74 129 15 0 1 147 17 11 6 67 1 27 0 6 57 8 .270 .317 .308 .625
2002 114 519 464 53 135 21 1 5 173 25 6 2 40 0 9 0 4 64 5 .291 .310 .373 .683
2003 140 643 543 78 154 20 1 7 197 44 11 3 50 5 38 1 7 78 10 .284 .336 .363 .698
2004 90 390 346 52 104 12 1 11 151 26 6 1 18 0 18 0 8 69 6 .301 .349 .436 .786
2005 135 608 547 71 145 19 2 7 189 47 5 2 22 1 26 1 12 88 10 .265 .312 .346 .658
2006 73 290 270 29 82 11 1 2 101 34 3 1 5 1 8 0 6 29 10 .304 .337 .374 .711
2007 131 514 464 42 139 18 3 5 178 39 3 1 23 0 22 4 5 55 16 .300 .338 .384 .722
2008 116 482 422 47 130 11 0 3 150 32 3 3 27 2 26 0 5 52 10 .308 .354 .355 .709
通算:14年 1555 6293 5553 657 1565 200 20 48 1949 418 102 37 337 20 308 32 73 717 106 .282 .327 .351 .678
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤字は歴代最高

年度別守備成績



遊撃 二塁 三塁




































1995 10 5 10 0 2 1.000 56 43 50 2 13 .979
1996 65 116 180 11 33 .964 5 10 11 0 5 1.000
1997 115 185 356 4 64 .993
1998 114 197 357 6 69 .989
1999 131 215 409 9 76 .986
2000 136 240 378 4 76 .994
2001 125 198 425 9 87 .986
2002 114 162 342 7 53 .986
2003 140 188 460 8 80 .988
2004 90 120 278 3 52 .993
2005 135 211 447 3 85 .991
2006 72 83 208 8 28 .973
2007 129 160 354 5 53 .990
2008 58 72 174 2 30 .992 56 45 98 2 5 .986
通算 1434 2152 4378 79 788 .988 61 53 61 2 18 .983 56 45 98 2 5 .986

背番号

  • 6 (1995年 - )

タイトル・表彰

個人記録

オールスター・国際大会

脚注

関連項目

外部リンク

先代
古田敦也1998年 - 2005年
日本プロ野球選手会会長
2006年 - 2008年
次代
新井貴浩2009年 - )