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島津珍彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島津珍彦
島津珍彦(明治2年(1869年)撮影)
島津斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真。左が珍彦の妻・典子、中央と右は相次いで珍彦の兄・忠義の妻となった暐子と寧子

島津 珍彦(しまづ うずひこ、天保15年10月22日1844年12月1日) - 明治43年(1910年6月16日[1])は、幕末薩摩藩士明治期の日本政治家華族侍従貴族院議員位階勲等爵位従三位勲三等男爵

生涯

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島津久光の四男として薩摩国に生まれる。母は正室の千百子。最後の薩摩藩主・島津茂久(忠義)の同母弟にあたる。名()は紀寛→忠鑑→珍彦、通称は敬四郎→又次郎→周防→常陸→備後と変遷した。名の珍彦は記紀神話に登場する神・椎根津彦の別名である。

父の久光が島津宗家(薩摩藩主家)へ復帰したことに伴い、大隅重富を領有し、重富島津家を相続、忠鑑(ただあき)と名乗った。のち珍彦に改名した。元治元年(1864年)の禁門の変をはじめとして、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い及び箱館戦争に従軍した。のちに照国神社宮司鹿児島県立中学造士館館長を歴任(中学造士館#鹿児島県立中学造士館の項も参照)。

1890年(明治23年)9月29日貴族院多額納税者議員に任じられ[2]1897年(明治30年)7月10日貴族院男爵議員に選出された[3][4]1910年(明治43年)、糖尿病で没す。

栄典

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家族・親族

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妻は、伯父の薩摩藩主島津斉彬の四女・典子(のりこ)。2男3女がある[1]

  1. 長女:明子(1869年 - 1958年) - 島津久寛に嫁ぎ、離縁となったのち島津雄五郎(珍彦の弟・島津忠欽の長男)に再嫁した。子に島津忠夫、大谷文子。長男・忠夫は早世した父に代わって祖父・忠欽の男爵位を継ぎ、玉里島津家分家の2代当主となり、妻に日置島津家15代当主・島津繁麿の妹・せつを迎えた[17]。娘・文子は大谷瑩韶(伯爵大谷光瑩庶子)の妻となった[17]
  2. 長男:壮之助(そうのすけ、1871年 - 1925年) - 重富家の家督と男爵位を継ぐ。壮之助の最初の妻・鶴は島津雄五郎の妹である。子に長男・島津忠彦、次男・加藤久幹ら。
  3. 次女:治子(1878年 - 1970年) - 男爵島津長丸宮之城島津家当主)の妻となり、昭和初期に皇后宮女官長を務めた。
    なお、島津久寛・雄五郎・長丸はいずれも珍彦の甥、鶴は姪にあたり、久光から3代続けてのいとこ婚である。
  4. 次男:久雄(大村純久、1885年 - 1917年) - 男爵大村武純(元大村藩主・大村純顕の三男、また伯爵大村純英の実父)の養子。
  5. 三女:孝子(1888年 - 1975年) - 三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太に嫁いだ。そのため、島津家三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係で結ばれている。

脚注

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  1. ^ a b 平成新修旧華族家系大成』上、p.739
  2. ^ 『官報』第2179号、明治23年10月2日。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73頁。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、8頁。
  5. ^ 『官報』第1700号「授爵叙任及辞令」1889年3月4日。
  6. ^ 『官報』第1702号「叙任及辞令」1889年3月6日。
  7. ^ 『官報』第2641号「彙報 - 褒賞」1892年4月21日。
  8. ^ 『官報』第3166号「彙報 - 褒賞」1894年1月20日。
  9. ^ 『官報』第3600号「叙任及辞令」1895年7月1日。
  10. ^ 『官報』第3843号・号外「辞令」1896年4月24日。
  11. ^ 『官報』第3988号「叙任及辞令」1896年10月12日。
  12. ^ 『官報』第4948号「彙報 - 褒賞」1899年12月27日。
  13. ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
  14. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  15. ^ 『官報』第8309号「彙報 - 褒賞」1911年3月7日。
  16. ^ 『官報』第8095号「叙任及辞令」1910年6月17日。
  17. ^ a b 島津忠夫『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
(重富)島津家初代
1889年 - 1910年
次代
島津壮之助