吉田賢龍

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吉田賢龍
吉田賢龍

吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 1943年1月5日)は、日本教育者、元広島文理科大学学長。

略歴・人物[編集]

石川県生まれ。京都府立尋常中学第三高等中学を経て1897年東京帝国大学文学部哲学科を卒業。卒業後直ちに、東京真宗中学の主幹兼教授となり、1900年から3年間校長も務めた。その後、早稲田大学の講師を務め、1907年には千葉中学の校長になった。

1914年七高の事務取扱[1]を命ぜられ、1915年4月14日には館長(校長)に就任した。1927年広島文理科大学創立委員を委嘱されると、1929年広島高等師範学校校長を兼任のまま広島文理科大学初代学長に就任。翌1930年3月には、昭和天皇に3回にわたってご進講を行った。1934年6月文理科大学長を退任。その後修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)の校長を務める。1935年には広島文理科大学名誉教授。

1943年1月5日に死去。享年72。

同郷の泉鏡花とは親友であり、1903年に妻すずとの結婚の際には、結婚資金を工面するなど支援している[2]。また鏡花の代表作『高野聖』は、吉田賢龍の飛騨越えの体験談を元にしていると言われている[1]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 第七高等学校造士館 校歌集(吉田賢龍 館長)
  2. ^ 泉鏡花自筆年譜