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スリム・ボルグッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スリム・ボルグッド
ボルグッド(1994年)
基本情報
フルネーム カール・エドワード・トミー・ボルグッド
国籍  スウェーデン
出身地  スウェーデンカルマル県 ボリホルム英語版
生年月日 (1946-11-25) 1946年11月25日
没年月日 (2023-02-23) 2023年2月23日(76歳没)
F1での経歴
活動時期 1981-1982
所属チーム '81 ATS
'82 ティレル
出走回数 15 (10スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 1
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1981年サンマリノGP
最終戦 1982年アメリカ西GP
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カール・エドワード・トミー・"スリム"・ボルグッドKarl Edward Tommy "Slim" Borgudd, 1946年11月25日 - 2023年2月23日[1])は、スウェーデン出身のミュージシャン、元レーシングドライバーである。1981年から2シーズン、F1世界選手権に参戦した。

経歴

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ボルグッドは、カルマル県ボリホルムに生まれた。

ボルグッドの初期のキャリアはミュージシャンとしてのもので、主にジャズ・ロック・バンドでドラマーを務めた。著名なバンドでは、メイド・イン・スウェーデン(Made In Sweden)、ソーラー・プレクサス(Solar Plexus)に参加した。また、ABBAの初期の数曲でドラムを担当した。ビョルン・ウルヴァースとは、ABBA以前にもフーテナニー・シンガーズ(Hootenanny Singers)でともに活動した。

ボルグッドは1960年代中盤にロータスフォーミュラ・フォードでレース活動を開始した。ボルグッドのレース活動が本格的になるのは1972年のことで、このシーズンはクラブイベントのスポーツカーレースで5勝を挙げた。ボルグッドは1972年から1975年までスウェーデンツーリングカー選手権に参戦し、ヒルマン・インプボルボ・122をドライブした。1972年は同選手権で2位となった。ボルグッドは並行して参戦した同年のスカンジナビアン・フォーミュラ・フォードでも2位となり、翌1973年には同選手権でタイトルを獲得した。

1976年、ボルグッドはF3にステップアップしたが、1977年までは散発的な参戦にとどまった。1978年にボルグッドは自らのチームを立ち上げ、スウェーデンの国内シリーズとヨーロッパシリーズにトヨタ・2TGエンジン搭載のラルトでフル参戦を果たした。ボルグッドは1979年にスウェーデンシリーズのチャンピオンを獲得し、ヨーロッパシリーズでは選手権3位を獲得した。1980年、F2へのステップアップに失敗したボルグッドはモナコグランプリ前座のF3レースに参戦した。このレースでは3位まで順位を上げるも、ボディワークが緩み、ボルグッドはボディを片手で押さえながらレースをフィニッシュした。

1981年オランダグランプリにて(後方はエリセオ・サラザール

1981年、34歳のボルグッドはついにF1デビューを果たした。サンマリノGPでドイツのATSから参戦したボルグッドのマシンには、ABBAのロゴがサイドポッドに貼られていた(ロゴのみでスポンサー料は無かった)。しかしこれは優良なスポンサーであり、他の出資者の魅力となった。ボルグッドは予選落ちを続けたが、1981年イギリスグランプリでは上位のリタイヤにも助けられ6位・1ポイントを獲得した。以後も奮戦を続けたが、それ以上のポイントを獲得することはできなかった。

1982年、ボルグッドはケン・ティレルと契約し、ミケーレ・アルボレートのチームメイトになった。しかし、第3戦で自身が持ち込んだスポンサーマネーが底をつくと、チームはF2チャンピオンであるブライアン・ヘントンの起用を決め、ボルグッドはシートを失った。

1983年から1985年まで、ボルグッドは散発的にレース活動を行い、1985年にはマカオグランプリに参戦した。1987年にはル・マン24時間レースに参戦し、1989年にはイギリスツーリングカー選手権ウィルハイア24時間レースフォード・シエラをドライブして勝利を挙げた。

ボルグッドは1986年からトラックレースで名をなした。同年のヨーロッパ・トラックレーシング選手権英語版のディビジョン2クラスでシリーズチャンピオンを獲得し、翌1987年にはディビジョン3クラスのチャンピオンを獲得した。1992年にはクラスが改められた同シリーズで、クラスBの3位となった。

1993年、マツダワークス・チームと契約してフルタイムのレーシングドライバーとして復帰。クセドス6をドライブして英国ツーリングカー選手権(BTCC)に参戦したが、好成績を残すことはできなかった。翌1994年も同じマシンでノルディック・ツーリングカー選手権スウェーデン語版に参戦し、ここではチャンピオンを獲得した。マツダは翌1995年にBTCCへ復帰する計画を立てたが、その計画は頓挫した。

1994年、ボルグッドはトラックレーシング選手権の第一線に戻り、シーズンを通じてタイトルを争ったが、イギリス人のスティーブ・パリッシュ英語版(元WGP500レーサー)に敗れた。1995年は、パリッシュとマークス・エストライヒ英語版に大差をつけてタイトルを獲得した。1996年と1997年の選手権では5位と4位に留まると、他のドライバーを優遇しているとメルセデス・ベンツを非難し現役からの引退を発表した。以後、ボルグッドはアマチュアレベルのレースに散発的に参戦した。

レース戦績

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ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権

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チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1976年 Rotel Racing Viking TH1A トヨタ・2T-G ZAN
26
MAN
Ret
AVU
DNQ
PER MNZ CET KAS NC 0
テキサコレーシング・デンマーク ヴァンディーメン・VG376 NÜR
9
KNU
14
VLL
1977年 スリム・ボルグッド ラルト・RT1 LEC NÜR ZAN ZOL ÖST IMO PER MNZ CET
DNQ
KNU
Ret
KAS
DNQ
DON
17
JAR
7
VLL NC 0
1978年 ストライクアップ・レーシング G ZAN
7
NÜR
27
ÖST
17
ZOL
DNQ
IMO
Ret
NÜR
8
DIJ
9
MNZ PER MAG KNU
3
KAR
5
DON
7
KAS
16
JAR
DNS
VLL
11
13位 6
1979年 ストライクテン・レーシング G VLL
Ret
ÖST
4
ZOL
6
MAG
4
DON
12
ZAN
4
PER MNZ KNU
8
KIN
3
JAR
DNS
KAS
2
3位 23

F1

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所属チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1981年 ATS D4 フォードDFV V8 M USW BRA ARG SMR
13
MON
DNPQ
20位 1
HGS1 M

A

BEL
DNQ
ESP
DNQ
FRA
DNQ
GBR
6
GER
Ret
AUT
Ret
NED
10
ITA
Ret
CAN
Ret
CPL
DNQ
1982年 ティレル 011 フォードDFV V8 G RSA
16
BRA
7
USW
10
SMR BEL MON DET CAN NED GBR FRA GER AUT SUI ITA CPL NC
(20位)
0
  • 1981年は第8戦よりエイヴォン製タイヤに変更。

(key)

国際F3000選手権

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1985年 ロジャー・カウマンレーシング アロウズ・A6 コスワース DFV SIL THR
DNQ
EST NÜR
C
VLL
10
PAU SPA
Ret
DIJ PER ÖST ZAN DON
Ret
NC 0

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1987年 スウェーデンの旗 CEE スポーツ レーシング スウェーデンの旗 トリッゲ・グレンヴァル
イギリスの旗 アンドリュー・ラットクリフ
タイガ・GC286 C2 - DNQ DNQ

脚注

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参照

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タイトル
先代
アンデルス・オロフソン
スウェーデンF3チャンピオン
1979
次代
トルビョルン・カールソン