都並敏史
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名前 | ||||||
カタカナ | ツナミ サトシ | |||||
ラテン文字 | TSUNAMI Satoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1961年8月14日(62歳) | |||||
出身地 | 東京都世田谷区 | |||||
身長 | 173cm | |||||
体重 | 65kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
利き足 | 両足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1980-1992 1992-1995 1996-1997途 1997途-1998 |
読売クラブ ヴェルディ川崎 アビスパ福岡 ベルマーレ平塚 |
201(5) 29(0) 21(0) 11(0) | ||||
代表歴2 | ||||||
1980-1995 | 日本 | 78 (2) | ||||
監督歴 | ||||||
2005 2007 2008 |
ヴェルディユース ベガルタ仙台 セレッソ大阪 横浜FC | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月14日現在。 2. 2007年12月14日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
都並 敏史(つなみ さとし、1961年8月14日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(左サイドバック)。1980年代から90年代初頭を代表する名プレーヤー。彼を題材にしたノンフィクション作品(関連書籍参照)から、「狂気の左サイドバック」と呼ばれる。少年時代からの愛称は「びんじ」。東京都世田谷区出身。都立深沢高校卒。兄はトランペッター/音楽評論家で元ビブラストーンの都並清史。
略歴
選手時代
少年期、サッカーに魅せられ、自宅の部屋をサッカー関連で埋め尽くす。全日本に対し”狂”に近い強い憧れを持ち、サッカーに邁進。読売クラブの下部組織でサッカーを学び、高校在学時に契約内容もロクに読まないまま「サッカーで金が貰える」と喜び勇んで月6万円で読売クラブの専属選手として契約。Jリーグ設立に伴いヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)と改称した1990年代中盤まで一貫してプレーを続けた生え抜き選手であり。また、トップデビューして間もない19歳で日本代表に選出されて以来、10数年間に渡って代表の主力メンバーとしても活躍した。読売クラブ時代からチームメートだったラモス瑠偉からは「お前、読売に要らないよ」「邪魔だから早く全日本に行けよ」[1]「高校生の頃より下手になってるよ」と詰られ毎日泣きそうになりながらクラブへ通勤していた。
1993年のW杯アメリカ大会・アジア最終予選に挑む日本代表メンバーにも選出されたものの、都並自身はJリーグの試合中に負傷した左足の具合が思わしくなく、プレーできる状態ではなかったが、当時の代表監督ハンス・オフトは、ムードメーカーとしての力量を買い、最終予選(いわゆる・ドーハの悲劇)メンバーに都並を選出した。しかしながら、左サイドの都並の穴は最後まで埋まらず日本代表は、惜しくもW杯出場権を逃した。日本代表のキャリアを終えることになるのは1995年のダイナスティカップ・対韓国戦である。都並自身、何度も対戦を繰り広げた韓国代表に対する思い入れは深く、対韓国戦が実質的な代表引退試合になったことについて満足の意を示している。残り数分でアメリカW杯出場を逃したドーハ組に帯同、足首に麻酔の注射タコが出来る程に状態が悪い中チームに帯同していた。万が一欠員が出てピッチに出た途端プレーが出来なくなる綱渡りであったが、当時はとにかく全日本への思い入れだけでリスクなど全く考慮に無く「あの時は、狂っていたのかも知れない」と後に回想している。
その後の都並は1996年にアビスパ福岡、1997年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に移籍し、1998年限りで現役を引退。現役中は自分のプレースタイルに絶対的な自信を持っていたが対ガンバ大阪戦で、タックルを受けてありえない吹っ飛ばされ方をした都並が顔を上げるとそこにはユース上がりの稲本潤一の姿があった。「これからはこんな奴が、どんどんJに入ってくる」と限界を自覚、引退を決意する。
指導者時代
引退後はサッカー解説者、ヴェルディの下部組織巡回コーチ、ユース監督を歴任。2004年にS級指導者資格取得。
2005年、J2のベガルタ仙台監督に就任。初めてJリーグクラブのトップチームの監督を務める。前半は一時11位(12チーム中)にまで後退するなど、大きく出遅れる。後半戦に入ると勝ち星を重ねて行き上位陣を猛追するも、リーグで最終戦で引き分け、4位に終わり、入れ替え戦に出場を果たすことが出来なかった。後半戦の猛追が評価され、周囲からは続投の声も挙がったが、シーズン終了後に解任され、1年でチームを去った。
2006年、J2に降格した古巣・東京ヴェルディ1969のコーチに就任。ラモス瑠偉新監督とともにチームのJ1復帰を目指したがチーム7位とに終わり、J1復帰を果たせなかった。ラモス瑠偉は翌年も監督を続投されたが、都並は1年でコーチを解任された。
2007年は、J2に降格したセレッソ大阪の監督に就任。監督としては2度目、コーチを含めると3度目となるJ1昇格への挑戦だったが、開幕3連敗を喫するなど成績は振るわず、第2クールに入ったばかりの5月に西村昭宏GM、藤川孝幸コーチとともに、自身初のシーズン途中での解任となった。
2008年からは横浜FCの監督に就任。過去3年続けて1年以内に監督やコーチを解任されたことから、3年契約で中長期的にチーム作りに取り組むことを要望し、クラブ側もこれを了承した。しかし、シーズン中盤以降10位前後に停滞。また試合の内容も、個人の能力に頼り、チームとしてほとんど機能していない厳しいものだった[要出典]。結果、この内容の拙さもあり「チーム作りが順調に進んでいない」と判断され、3年を待たずに1年で解任された[2]。
2009年からはスカパー!などでJリーグ中継の解説を務め、ヴェルディサッカースクールコーチとして小学年代の指導にあたっている。
エピソード
- 学生時代、周囲が恋愛で学生生活を謳歌している中、都並は全ての時間をサッカーに集中するために当時交際していた女性に別れ話を切り出して説得し破局となる。後にその元彼女を見かけるも交際時とは一転して不良と化していた。都並は「俺がサッカーを優先したばかりに彼女は不良の道に進んでしまったのではないか」と自責の念に駆られる。
- 初選出の代表合宿で当時古河電工サッカー部に所属していた後のサッカー・日本代表監督岡田武史と同部屋になり、初めて掛けられた言葉が「ビール買って来い」だった。
- 代表選手でありながら代表選出初期はアシックスの一番安いスパイク「ボンバー」を愛用していた。
- ゼロックス・スーパーサッカーで対戦したディエゴ・マラドーナやフランツ・ベッケンバウアーに敬意を表すも「カニバサミタックル」で応酬し顰蹙を買ったことがある。
- Jリーグ史上初めて、イエローカードを出された選手である。
- オーバーラップが特徴の左サイドバックであったが、走力はゴールキーパーにも劣る鈍足で有名だった。
- サッカー界では珍しい両足利きである。元は右利きだったが、左サイドというポジションを与えられたことから、武器を得るために左足の練習に取り組み、両足を全く遜色なく扱えるまでに至った。
- 現役時代、ニッポン放送でラジオ番組「独占!!Jリーグエキスプレス」「都並君と藤川君のイエローカードなんて怖くない!!」のパーソナリティを務めたことがある。
- 当時から自動車雑誌に載る程のカーマニアで、Jリーグ開幕当初から発売された選手名鑑の愛車欄では常に当時、所有していたベンツとポルシェが表記されていた。長距離のドライブが趣味で、C大阪の監督を解任された際は、大阪から東京までを一往復して悔しい気分を発散したという。
- C大阪監督時代、最初に「都並解任」を報じたスポーツ紙を見て、現場の編成権を持つ西村GMに「この記事は本当か」と確認。「解任は考えていない」と言われ安心していたが、数日後にその西村と揃って解任が伝えられた。2人の解任は、社長を中心としたクラブ経営陣の判断だった。その後、サポーターは都並監督の解任に対し、抗議する者も少なくなかったが、後任のレヴィー・クルピが好成績をおさめると(ただし、初期は連敗続きであった)この騒動も収まっていった。
- 息子もサッカー選手であり、長男・智也は浦安SC(千葉県1部)、次男・優太は関西大学サッカー部所属。優太はユース年代の日本代表にも選ばれている。
- DJのジョン・カビラ、ミュージカル俳優の川平慈英(川平は、かつて読売ユースに所属していた経緯がある)兄弟とは親密で、川平のテレビ東京『ASAYAN』におけるナレーションでの決まり文句「いいんです!」は、都並とカビラのやり取りを川平が拝借したものである。
所属クラブ
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1980 | 読売 | JSL1部 | 12 | 2 | |||||||
1981 | 読売 | JSL1部 | 18 | 1 | |||||||
1982 | 読売 | JSL1部 | 17 | 0 | |||||||
1983 | 読売 | JSL1部 | 18 | 0 | |||||||
1984 | 読売 | JSL1部 | 18 | 0 | |||||||
1985 | 読売 | 2 | JSL1部 | 21 | 0 | ||||||
1986-87 | 読売 | JSL1部 | 19 | 0 | |||||||
1987-88 | 読売 | JSL1部 | 10 | 0 | |||||||
1988-89 | 読売 | JSL1部 | 20 | 0 | |||||||
1989-90 | 読売 | 6 | JSL1部 | 10 | 0 | 4 | 0 | ||||
1990-91 | 読売 | 6 | JSL1部 | 21 | 1 | 2 | 0 | ||||
1991-92 | 読売 | 6 | JSL1部 | 21 | 0 | 5 | 0 | ||||
1992 | V川崎 | - | J | - | 11 | 1 | |||||
1993 | V川崎 | - | J | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 |
1994 | V川崎 | - | J | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 10 | 1 |
1995 | V川崎 | - | J | 16 | 0 | - | 0 | 0 | 16 | 0 | |
1996 | 福岡 | - | J | 21 | 0 | 11 | 0 | 1 | 0 | 33 | 0 |
1997 | 福岡 | 5 | J | 0 | 0 | - | |||||
平塚 | 36 | J | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
1998 | 平塚 | 3 | J | 5 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 |
通算 | 日本 | J | 61 | 0 | 26 | 1 | |||||
日本 | JSL1部 | 205 | 5 | ||||||||
総通算 | 266 | 5 |
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 8試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 4試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 2試合0得点
- 1995年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 78試合 2得点(1980-1995)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1980 | 3 | 0 |
1981 | 7 | 0 |
1982 | 8 | 0 |
1983 | 10 | 0 |
1984 | 5 | 0 |
1985 | 7 | 0 |
1986 | 5 | 2 |
1987 | 10 | 0 |
1988 | 0 | 0 |
1989 | 0 | 0 |
1990 | 0 | 0 |
1991 | 0 | 0 |
1992 | 10 | 0 |
1993 | 10 | 0 |
1994 | 0 | 0 |
1995 | 3 | 0 |
通算 | 78 | 2 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
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1 | 1986年9月20日 | 大韓民国、大田 | ネパール | ○ 5-0 | 1986年アジア競技大会 |
2 | 1986年9月28日 | バングラデシュ | ○ 4-0 |
指導歴
- 1999年 ヴェルディ川崎 巡回コーチ
- 2001年 ヴェルディユース 監督
- 2001年 東京ヴェルディ1969 コーチ
- 2002年 ヴェルディユース 監督
- 2003年 ヴェルディ 普及育成コーチ
- 2004年 ヴェルディユース 監督
- 2005年 ベガルタ仙台 監督
- 2006年 東京ヴェルディ コーチ
- 2007年-同年5月 セレッソ大阪 監督
- 2008年 横浜FC 監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2005 | J2 | 仙台 | 4位 | 44 | 68 | 19 | 11 | 14 | - | 4回戦敗退 |
2007 | J2 | C大阪 | 9位 | 13 | 15 | 4 | 3 | 6 | - | - |
2008 | J2 | 横浜FC | 10位 | 42 | 50 | 11 | 17 | 14 | - | 4回戦敗退 |
J2通算 | - | 99 | - | 34 | 31 | 34 |
- 2007年は13試合で解任
個人タイトル
- 1998年 - 功労選手賞
関連書籍
- 『狂気の左サイドバック―日本代表チームに命をかけた男・都並敏史の物語』一志治夫著、小学館(1996/08/20) ISBN 4094600906
脚注
- ^ 当時サッカーファンの間では、読売クラブがサッカー全日本と試合をしたら勝てるのではとの推測が多勢だった。実際に1985年のキリンカップ・サッカーでは読売が日本代表に勝利している。
- ^ 都並自身は2009年のインタビューにおいて、競争させすぎてバランスが取れなかったことが横浜FC監督での失敗であったとコメントしている。[1]