日本橋 (東京都中央区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本橋 (東京都)から転送)
Jump to navigation Jump to search
日本 > 東京都 > 中央区 > 日本橋
第19代日本橋
1911年明治44年)4月3日開橋。花崗岩製の橋である。
東海道五十三次之内 日本橋」
歌川広重筆。明六ツ[1]に日本橋を渡る大名行列と、その手前には魚河岸で仕入れた魚を売りに行く行商の魚屋の姿などが描かれている。現在の築地市場の前身である魚河岸は、かつて日本橋のたもとにあった。

日本橋(にほんばし)は、東京都中央区日本橋川に架かる、またはこの橋にちなむ東京都中央区の町丁、および同区北部の広域地名である。

日本橋 (橋梁)[編集]

現行の日本橋全景、1911年完成時

日本橋は、東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋である。現在の橋梁は1911年に完成し、国の重要文化財である。また、日本道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。

現在の橋は19代目[要出典]または20代目[2]にあたるとされる。1903年(明治36年)の市区改正計画により、幅6間以上の橋梁は鉄橋もしくは石橋を架設することに定められたため、木造だった以前の橋(明治5年築)に替わり、大都市東京にふさわしい新たな橋として1908年(明治41年)に着工、1911年(明治44年)に完成した[3][4]。石造二連アーチ橋で橋の長さ49メートル (m)、幅27 m、設計は米本晋一。橋柱の銘板にある「日本橋」の揮毛は徳川慶喜のもの。

路面電車(後の東京都電車)を通すことが決まっていた路面はわずかにアーチを描き、橋脚と橋台は山口県産の名石、側面は真壁石、アーチ部分と道路の表面は稲田石で、内部は、最も荷重のかかる両端がコンクリートで、さほど荷重のかからない中央部分が煉瓦[2]。推定寿命1000年程度[2]

装飾顧問は妻木頼黄、装飾制作は東京美術学校、青銅像の原型製作は渡辺長男があたり、西洋的な基本デザインに、麒麟獅子の青銅像や一里塚を表す榎木を取り入れた柱模様など、日本的なモチーフを加えた和洋折衷の装飾になっている[3]。麒麟像には日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから翼が付けられ、奈良県手向山八幡宮狛犬やヨーロッパのライオン像などを参考にした獅子像は東京市の紋章を手にしている[3]

年表[編集]

木曾街道 続ノ壱 日本橋 雪之曙」
渓斎英泉
関東大震災直後の日本橋
1933年(昭和8年)の日本橋
1946年(昭和21年)の日本橋

今後の予定[編集]

国土交通省は、日本橋上空を覆う首都高の地下移設に向け、具体策の検討に入ることを決めた[8][9]。事業費は数千億円かかる見込みで、2020年東京オリンピックパラリンピック後の着工を目指している[10]

道路元標[編集]

戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていた。その場所は概して市役所県庁などとされていたが、首都たる東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標とした。道路元標の起源は、1604年(慶長9年)に徳川幕府が日本橋を五街道の起点と定め、全国の里程(りてい)の起点としたことによる[11]。明治以降も、1973年(明治6年)に、日本橋は諸街道の起点と定められ、橋の中央をもって国内諸街道の元標とされた[11]。1911年(明治44年)に現在の日本橋に架け替えられたときに、橋の中央に「東京市道路元標」が設置され、1972年(昭和47年)の道路改修が行われた際に、「東京市道路元標」が日本橋の北西側の袂(たもと)に移設され、その撤去跡に「日本国道路元標」が埋め込まれた[12]

現行の道路法では道路元標に関する規定はないが、50センチ四方のブロンズ製の日本国道路元標は、現在も橋の中央帯に埋め込まれている[12]。その裏側には当時の内閣総理大臣、佐藤栄作の名前が刻まれている。橋の北西側にある東京市道路元標の近くにレプリカが展示されており、そばに各都市への里程標が刻まれた黒御影石も設置されている[12]

現在、日本橋を始点としている一般国道は、以下の7本である。

橋の中央部が上記7本の国道の起点であり、国道1・15・20号が橋の南方向へ、国道4・6・14・17号が北方向へ伸びている。日本橋近辺ではそれぞれ重複しているので、地図や標識では上位路線である国道1・4号の2本だけが案内されている[12]。うち、国道6・14号以外の5路線が江戸時代の五街道を引き継いでいる(区間は完全一致するものではない)。

日本橋からの距離(国道)の項も参照」

江戸時代も古くから道路の始点であった日本橋の周辺には、早くから商店が軒を連ねていた。現在も、三越や高島屋などの百貨店が存在する。

文化財としての日本橋[編集]

現在の日本橋(第19代)は1999年(平成11年)5月13日国の重要文化財(建造物)に指定されている。しかし首都高速道路(具体的には都心環状線江戸橋出入口呉服橋出入口の間)に覆われてしまっている現状から、都市景観の在り方を含めた多くの議論を抱える。[16]2006年(平成18年)には奥田碩日本経団連会長らによる有識者会議である「日本橋川に空を取り戻す会(日本橋みち会議)」が、首都高速道路を地下に移設(江戸橋ジャンクションから竹橋ジャンクションまで[17])して周辺を親水公園などに造り変えるという再開発構想をまとめた。小泉純一郎首相(当時)もこの構想を後押しする発言をしているが、試算5000億円といった莫大な費用が見込まれることもあり、石原慎太郎東京都知事(当時)は反対し、「日本橋の方を移転させるべし」と発言している[18]

交通[編集]

隣の橋〈日本橋川〉
(上流)西河岸橋 ― 日本橋江戸橋(下流)

日本橋からの距離(国道)[編集]

(右の「表示」をクリック)

ギャラリー(日本橋)[編集]

日本橋地域[編集]

日本橋は、東京都中央区北部の広域地名で、旧日本橋区全域を指す。日本銀行本店や東京証券取引所の立地する日本を代表する金融街であり、また老舗の百貨店を含む商業施設も多く、他にも問屋街や多くの製薬会社が連なる地域である。

歴史[編集]

近代以前[編集]

現在の日本橋を中心とした地域は、古くは武蔵国豊嶋郡に相当し、その中の江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だったという。江戸は鎌倉時代江戸氏の支配から太田道灌、さらに後北条氏を経て徳川家康が幕府を開くが、早くに町地として開発されたのがこの日本橋周辺の地域であった。さらに上でも触れたように日本橋が架けられ交通の要所として定められてからは、現:三越の前身である越後屋をはじめとする大店が集まり、また付近には金座銀座が置かれるなど、江戸を代表する場所として殷賑を極めた。

近代以降[編集]

明治元年(1868年)、江戸府内は東京府となったが、日本橋の辺りは維新の混乱により一時寂れた。しかしガス灯鉄道馬車が敷設されるなどほどなく息を吹き返し、江戸の昔に変わらぬ繁栄を見せるようになった。1878年(明治11年)、この年施行された郡区町村編制法により、日本橋を中心とした周辺の地域は日本橋区となり、1889年(明治22年)には東京市に属した。1896年(明治29年)には本両替町にあった金座の跡に日本銀行が建てられた。また大店の越後屋や白木屋百貨店として生まれ変わり、1908年(明治41年)には越後屋こと三越が洋館の店舗を落成させるなど次第に洋風建築も増え、近代的な町並みへと変わっていった。

1923年(大正12年)、関東大震災により日本橋区は甚大な被害を受ける。しかしその後定められた土地区画整理事業によって河川や道路の改修、拡幅が行われ、昭和通り浜町公園ができた。古くから日本橋のたもとにあった魚河岸も築地へと移転した[19]第二次大戦において、日本橋区は1945年(昭和20年)の空襲によりふたたび区内の大半を消失する被害を蒙る。終戦後、東京都の主導により日本橋区は南に接する京橋区(現在の中央区のおよそ南半分)と合併することになった。日本橋区会(現在の区議会に相当)では他区との合併に難色を示す議員が多く、統合後も日本橋の名前だけは残したいとの意向から、京橋区との合併決議に町名に日本橋を冠することとする項目が盛り込まれ、中央区発足時に旧・日本橋区内のすべての町名に日本橋が冠称された[20]。現在中央区のおよそ北半分の地区に見られる数多くの「日本橋○○町」という町名は、中央区発足時の町名変更の名残りである。なお、京橋区側の町名はそのままとなった。

その後、戦災復興期の区画整理により日本橋呉服橋は八重洲一丁目に、1970年(昭和45年)以降の住居表示実施に伴う町名の統合により、日本橋芳町や日本橋北堀町などが隣接する既存の町名に変更され、日本橋を冠する町名の一部は消滅した。また、日本橋や東日本橋(旧:日本橋両国など)といった新しい町名が住居表示実施に伴い誕生した。1973年(昭和48年)、住居表示の実施により、「日本橋通」(一丁目 - 三丁目)と「日本橋江戸橋」(一丁目 - 三丁目)の2町を合併し現在の日本橋となった。

日本橋の魚市場(魚河岸)

神田の青物市場と並ぶ東京の代表的な市場。日本橋の東、江戸橋までの日本橋川北岸にあった。明治30年代(1897 - 1906)、市場周辺の問屋数は約500戸。衛生、交通などの面から移転問題が繰り返し起きた。関東大震災で全焼し築地に移転した。魚、蝦などの絵あり。「日時3月2日午後6時開會 會塲 明治座(傍聽無料)魚河岸非移轉演説會 入塲券辯士(イロハ順)磯部四郎君 脇坂甚兵衛君 田口卯吉君 高本益太郎君 角田眞平君 丸山名政君 島田三郎君」と書かれた演説会の入場券が書き写されている。

— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「日本橋の魚市場(魚河岸)」より抜粋[21]
「日本橋」を冠する現町名
「日本橋」を冠さない現町名

観光[編集]

江戸三大祭り
日本橋の地域内に氏子を持つ、社格が高い3つの神社の例大祭で、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」と表した。日本橋北詰大半を範囲とする神田神社神田祭、日本橋南詰全域を範囲とする日枝神社山王祭、日本橋北詰東部を範囲とする富岡八幡宮深川祭と共に規模の大きい祭りでにぎわいを見せている。
三井村
現在日本橋には三越や三井不動産を始めとする三井グループの本社が建ち並び、丸の内の三菱村と並ぶ三井村と言われている[23][24]。2005年には重要文化財である三井本館の隣に大型複合再開発ビル、日本初のマンダリン・オリエンタル東京も入居する日本橋三井タワー(三井新館)が開業した。
時の鐘跡
江戸時代、市中に時を告げるため鐘を撞いた所の旧跡で、本石町三丁目(現:日本橋室町四丁目)にあった。当時は江戸の9か所に時の鐘が設けられたが、本石町にあったこの時の鐘は一番初めに置かれたものといわれる。時の鐘は明治6年(1873年)まで用いられた。日本橋小伝馬町の十思公園には、安永8年(1779年)に造られた本石町の鐘が移されて残り、都の文化財に指定されている。
箱根駅伝
1999年以降、箱根駅伝の第10区はコースを日本橋経由へ変更している。これは日本橋周辺の商工会からの要請であると同時に、東海道の始点である日本橋を通るということが箱根駅伝のクライマックスを飾るに相応しいと判断されたからである。
日本橋美人
日本橋を活性化する目的で2005年10月1日より発足した、「日本橋美人プロジェクト」にて外見の美しさだけを求めず内面の美しさも求めた女性を定義する語として誕生。提唱者は日本橋OLクラブ部会長の山田晃子。

創作物[編集]

日本橋もしくは同町を題材とした創作作品

絵画
小説
民謡

ギャラリー[編集]

日本橋 (町名)[編集]

日本橋
—  町丁  —
日本橋の位置(東京23区内)
日本橋
日本橋
日本橋の位置
座標: 北緯35度40分55.75秒 東経139度46分25.79秒 / 北緯35.6821528度 東経139.7738306度 / 35.6821528; 139.7738306
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Chuo, Tokyo.svg 中央区
地域 日本橋地域
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[26]
 - 計 323人
等時帯 日本標準時 (UTC+9)
郵便番号 103-0027[27]
市外局番 03[28]
ナンバープレート 品川

日本橋は、東京都中央区日本橋地域の町名で、北は日本橋川、南は都道408号に接する。現行行政地名は日本橋一丁目から日本橋三丁目。郵便番号は103-0027[27]

歴史[編集]

旧町名

地理[編集]

中央区日本橋地域の南部に位置し、日本橋南詰の町として古今賑わいを見せている。

河川

世帯数と人口[編集]

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[26]

丁目 世帯数 人口
日本橋一丁目 47世帯 69人
日本橋二丁目 52世帯 71人
日本橋三丁目 113世帯 183人
212世帯 323人

小・中学校の学区[編集]

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[29]

丁目 番地 小学校 中学校
日本橋一丁目 全域 中央区立城東小学校 中央区立日本橋中学校
日本橋二丁目 全域
日本橋三丁目 全域

施設[編集]

企業

観光[編集]

名所史跡

交通[編集]

鉄道
バス
道路
首都高速道路・出入口

名称のローマ字表記[編集]

架橋の英字案内および中央区の正式な訓令式ローマ字表記としては 『Nihonbashi』 が使用されている(これと同様な訓令式の使用例は千代田区三番町四番町が挙げられる)。日本橋地域の地名の中には、1つの地名の中に訓令式とヘボン式のスタイルが混ざっている表記の町名が存在する(例:Nihonbashi-odemmacho)。

ただし、地下鉄の駅名やJRの案内表示など、一部ではヘボン式ローマ字での表記 Nihombashi が使用されている。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ あけ-むつ。夜明け頃のことで不定時法に基づく名称。
  2. ^ a b c 奇跡の地球物語 日本橋〜世界に誇る名橋の真実〜. テレビ朝日ネットワーク. テレビ朝日. 2011年3月20日放送.
  3. ^ a b c 日本橋の麒麟像東京都公文書館
  4. ^ a b c d 日本橋架橋百周年竹内誠(東京都江戸東京博物館館長)、まち日本橋第6号、2011年04月
  5. ^ 日本橋の焼失が記録されているのは明暦3年(1657年)、天和2年(1682年)、元禄11年(1698年)、正徳元年(1711年)、享保元年(1716年)、安永元年(1772年)、文化3年(1806年)、文政12年(1829年)、弘化3年(1846年)、安政5年(1858年)である。そのうち正徳元年(1711年)と安政5年(1858年)が半焼で、残りの8回は全焼であった。 - 西山松之助「火災都市江戸の実体」『江戸町人の研究 第5巻』同編、吉川弘文館1978年、57頁
  6. ^ 日本橋川・日本橋”. 日本橋川・亀島川・隅田川の徒歩と舟の旅. 2011年1月14日閲覧。
  7. ^ [けいざいフラッシュ:日本橋を洗って再生]毎日jp 2010年10月25日
  8. ^ “日本橋周辺のまちづくりと連携し、首都高速道路の地下化に向けて取り組みます。” (プレスリリース), 国土交通省道路局, (2017年7月21日), http://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000863.html 2017年7月22日閲覧。 
  9. ^ “日本橋周辺のまちづくりと連携し、首都高速道路の地下化に向けて取り組みます。” (プレスリリース), 東京都都市整備局, (2017年7月21日), http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2017/07/21/05.html 2017年7月22日閲覧。 
  10. ^ “日本橋の真上を走る首都高が地下に 費用は数千億円(17/07/21)”. ANNニュースYouTube ([[オールニッポン・ニュースネットワーク|]]). (2017年7月21日). https://www.youtube.com/watch?v=gShEbB8W1nw 2017年7月21日閲覧。 
  11. ^ a b ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 47.
  12. ^ a b c d ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 48.
  13. ^ 東海道は国道1号途中の京都府京都市終点。
  14. ^ 水戸街道は国道6号途中の茨城県水戸市終点。
  15. ^ 中山道は国道17号途中の群馬県高崎市から国道18号へ切替。
  16. ^ 2005年(平成17年)12月に「美しい景観を創る会」(代表:伊藤滋早稲田大学教授〉)によって「悪い景観百景」の第1弾七十選の一つにも選定された。この一方、「日本橋よりも、日本の高度な土木技術史の象徴となった首都高速道路の方が歴史的価値が高い」との五十嵐太郎東北大学助教授)からの反論がある[2006年(平成18年)11月20日付 読売新聞]。
  17. ^ http://www.mlit.go.jp/road/ir/kihon/15/s1.pdf
  18. ^ 日本橋の首都高を地下に 首相は具体化検討を指示”. 47NEWS (2006年9月15日). 2011年9月24日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年10月17日閲覧。
  19. ^ 斗鬼正一「橋から見た都市」『情報と社会 』(18)、江戸川大学、2008年、11頁。
  20. ^ 昭和22年東京都告示第149号。これと同様の町名変更には神田地区などがある。
  21. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「日本橋の魚市場(魚河岸)」国立国会図書館蔵書、2018年2月10日閲覧
  22. ^ 関東大震災の復興計画/震災復興再開発事業により、日本橋区内の全域で土地区画整理事業が実施された。これに伴い1928年(昭和3年)12月以降、大規模な町名地番整理も行われた。
  23. ^ 東京の三井村
  24. ^ “三井村”に野村不動産が殴りこみ!日本橋再開発で火花
  25. ^ 歌川広重・渓斎英泉の木曽海道六拾九次 - 江戸時代の旅について Archived 2011年10月19日, at the Wayback Machine.
  26. ^ a b 町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2017年12月5日). 2017年12月31日閲覧。
  27. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月31日閲覧。
  28. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
  29. ^ 区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2017年12月31日閲覧。
  30. ^ 千代田区神田東紺屋町より拠点移動(移動前は東京支社だった。)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度41分01秒 東経139度46分28秒 / 北緯35.683734度 東経139.774362度 / 35.683734; 139.774362