三井本館

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三井本館
Mitsui Main Building.jpg
Mitsui Main Building 02.jpg
南側より。奥に見えるのは日本橋三井タワー(上)
正面(下)
情報
用途 事務所・銀行・美術館
設計者 トローブリッジ・アンド・リヴィングストン英語版社(米国)
構造設計者 ワイスコッフ・アンド・ピックワース社
施工 ジェームズ・スチュワート社
構造形式 鉄骨鉄筋コンクリート構造
敷地面積 5,610 m²
建築面積 4,559 m²
延床面積 31,660 m²
階数 地下2階、地上7階
着工 1926年(大正15年)6月24日
竣工 1929年(昭和4年)3月23日
所在地 東京都中央区日本橋室町二丁目1番1号
座標 北緯35度41分10.8秒 東経139度46分22.0秒 / 北緯35.686333度 東経139.772778度 / 35.686333; 139.772778座標: 北緯35度41分10.8秒 東経139度46分22.0秒 / 北緯35.686333度 東経139.772778度 / 35.686333; 139.772778
文化財 重要文化財(建造物)
指定・登録等日 1998年(平成10年)12月25日
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列柱

三井本館(みついほんかん)は東京都中央区日本橋室町に所在する三井不動産が保有するオフィスビルである。越後屋の跡地に三井財閥の本拠として建てられた。また、團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場でもある。

概要[編集]

横河民輔が設計を手掛け、1902年(明治35年)に竣工した旧三井本館は関東大震災で建物は地震による被害は皆無だったが、屋根や窓廻りからの類焼で建物内部が大きな被害を受けた[1]。このため、三井合名は仮本社にて新社屋建設構想に入り、社長の三井八郎右衛門高棟は、「震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」と命じ、それを受け理事長の團琢磨は「壮麗(grandeur)」「品位(dignity)」「簡素(simplicity)」の三つの具体的デザインポリシーを掲げ、これらの思想を具現化するために、米国のトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所を設計、ジェームズ・スチュワート社を施工に選定し工事に着手。1929年(昭和4年)3月23日に竣工、6月15日に開館した。総事業費は2,131万円(当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコスト)だった[1]

アメリカン・ボザール」と呼ばれる新古典主義様式の建物は、外壁は花崗岩茨城県産稲田石)で仕上げられ、道路に面する主要なファサードは、特徴的なコリント式オーダーが乗る列柱を整然と並べ、水平コーニスと三井主要各社の業務内容を表現したレリーフが配され、さらに上階のセットバックで重圧感の軽減が図られた[1]。関東大震災の教訓からその2倍の地震にも耐えることができるように作られ、これは現行の耐震改善促進法の基準の2倍以上にあたる。エアシューターや全館完全空調が導入されたほか[2]、米国製地下大金庫の最大厚さ90センチメートルの扉は搬入に際し重量の大きさ(約50トン)から[3]日本橋が損傷する恐れがあるために通過が認められず、川に浮かべ船で運ばれた。近年、川から陸揚げを行っている写真が発見された。

三井本館はその名の通り三井財閥の本拠として開館し、三井合名会社本社、三井銀行本店、三井物産本社、三井鉱山本店など財閥の中核企業がこぞって本社を構えた[3]

昭和金融恐慌の際に三井はドルを買い占めたことを批判され、理事長の團は財閥に対する非難の矢面に立たされ、1932年(昭和7年)3月5日、本館入り口で、血盟団の菱沼五郎から狙撃され、絶命した。

終戦を経て1947年(昭和22年)まで4・5階の一部は、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収された。

リニューアル[編集]

旧三井本館の管理室からスタートした三井不動産は、2003年(平成15年)4月に日本橋街づくり推進部を設置し、地域の各種団体や事業者と共同で地域活性化や再開発事業に取り組み方針を定め[4]、三井本館の所在する室町一構街区(約1.4Ha)においても再開発を行うこととした[5]。しかし、1998年(平成10年)に国の重要文化財に指定された三井本館を含めた同街区の建設物は容積率制度制定前に竣工した物が多く[6][7]、その後制定された基準と照らすと既存不適格となり、そのまま建て替えた場合に容積が小さくなるという問題が生じた[7]。これをクリアするために各方面と協議した結果、都が新たに重要文化財特別型特定街区を創設し、本プロジェクトが第1号指定を受けることになった[7]。これによって、本来の特定街区における割増容積に加えて重要文化財である三井本館の床面積相当部分を割増容積として活用することが可能となり[7]、隣接して建てられた日本橋三井タワーは、500%の容積率割増が認められ、先進的な事務所機能と最高級レベルのホテル機能を両立した超高層複合ビルとなった[8]

この日本橋三井タワー建設と並行して、三井本館は「動態保存」「機能更新」「保存と開発の両立」をテーマとしたリニューアル工事が着手され[9]、外壁洗浄と石補修、ライトコート(トップコート更新)、エレベーター更新、空調や電気設備の更新が行われ[10]、一部フロアが美術館ホテルに転用され、2006年(平成18年)3月に竣工した[11]

施設構成[編集]

1階は、大きな吹き抜けを持つ銀行の営業場で[12]三井住友銀行日本橋支店・人形町支店・神田駅前支店、三井住友信託銀行日本橋営業部・東京中央支店があり、ドリス式の存在感のあるイタリア産の大理石仕上げの円柱を配し、桂頭、天井の要所に装飾が施されている[12]。リニューアルを機に4階には日本橋三井タワー上層部に進出したマンダリン・オリエンタル東京の美容室、貸会議室などのホテル関連施設が入り[12]、7階には三井家の所蔵品を展示している三井記念美術館が設けられ[3]、1階に日本橋三井タワーアトリウム経由で美術館専用入口が追加された[12]

ほかに三井不動産が本店を構えるが、本部部署は日本橋室町三井タワーに置く[13]

逸話[編集]

戦後、GHQにより三井財閥、三菱財閥住友財閥の各財閥は解体されそれぞれの商号を使うことも禁じられた。三井本社は解体を命じられ、三井物産も商号の変更を命じられた。

これら3つの財閥は協力してGHQと交渉を行い、最終的にそれぞれの商号を再び使うことが認められた。これを記念し、三井本館に三菱電機エレベーターが設置された。

サイン[編集]

三井住友銀行日本橋支店のサイン

景観や店舗のイメージ上の観点から三井住友銀行のサインは通常の濃緑と白の看板ではなく茶地に金色の文字で表記されている。

出典[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c BELCA news 2017, p. 36.
  2. ^ BELCA news 2017, p. 41.
  3. ^ a b c 「(Shot05)財閥奥の院「お宝」あり 三井本館が美術館に改装 東京・日本橋」『朝日新聞』夕刊 2005年11月4日
  4. ^ 三井不動産七十年史 2012, p. 560.
  5. ^ 三井不動産七十年史 2012, p. 561.
  6. ^ 国指定文化財等データベース:各棟情報詳細 2011年7月27日閲覧。
  7. ^ a b c d 三井不動産七十年史 2012, p. 562.
  8. ^ 近代建築 2006, p. 66.
  9. ^ BELCA news 2017, p. 40.
  10. ^ BELCA news 2017, p. 41 - 42.
  11. ^ BELCA news 2017, p. 42.
  12. ^ a b c d BELCA news 2017, p. 37.
  13. ^ “三井不動産「日本橋室町三井タワー」へオフィスを移転” (プレスリリース), 三井不動産株式会社, (2018年10月15日), https://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2018/1015_02/index.html 2020年12月28日閲覧。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 歴史主義建築
  • 三井住友銀行横浜支店 - 本館同様、トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所による設計。1931年に竣工し、現在も銀行店舗として使用されている。
  • 半沢直樹 - 2013年版・2020年版双方において、東京中央銀行本店ビルとして外観が使用。

外部リンク[編集]