大林宣彦
おおばやし のぶひこ 大林 宣彦 | |
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生年月日 | 1938年1月9日(86歳) |
出生地 | 日本・広島県尾道市 |
国籍 | 日本 |
血液型 | B型 |
ジャンル | 映画監督 |
主な作品 | |
映画 |
大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日 - )は、日本の映画監督。撮影所システムで育った「映画監督」ではないとの理由から[1]、本人は「映画作家」と称している。広島県尾道市東土堂町生まれ[2][3]。尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報研究科教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。
妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸(ちぐみ)は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加している。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。
自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"と言われる。
来歴
父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる[2][4]。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。
1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、母方の実家、尾道の山の手で幼年期を過ごす[5]。2歳でブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳でフィルムに絵を刻んでアニメーションを作った(このとき作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作された)[4]。15歳のときに、小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。
1955年、上京して慶應義塾大学医学部を受けるも、受験を途中で放棄して「医者になるつもりはありません」「ぼく映画を作るよ」と父に告げ、浪人生活を経て、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学。在学中から8mmで作品を発表。自主製作映画の先駆者として、早くから名前を知られた。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の三人しか日本にいなかったという[6][7]。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり、映画が上映される前に3~5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた[6]。1960年に大学を中退。1963年に初の16mm作品『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。『尾道』、『中山道』、『食べた人』、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ[8][9]。
1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画[6]。このイベントで上映された『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』をたまたま観ていた電通のプロデューサーに誘われ、1960年代からは草創期のテレビコマーシャル(CM)にCMディレクターとして本格的に関わる[4][5][10]。当時まだまだCMは"おトイレタイム"といわれ、電通のプロデューサーと傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人だったという。まだ広告はアートでなかった時代で、電通と大林でスポンサーのところに行くと出入りの写真屋さんの扱いで、こんなことでは未来がないと考えた電通らが、CMに演出家をつけてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える、と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった[5]。テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどんでき自由に撮らせてもらえた。大林にとってCMはスポンサーつきの個人映画、映像実験室ともいえ、非常に楽しいものだったという[4]。
大林の手がけたCMは、日本で初めてハリウッドスターを起用し、あまりのヒットに社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム[11]」、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカ・フォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スターなどの起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった[5]。チャールズ・ブロンソンのマンダム起用の経緯は、当時の丹頂の社長が、若き大林に仕事を任せるにあたり、大林夫婦を食事に招待したおり、ごく自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け、「この人物ならわが社の広告を任せていい」と決心したといわれ、トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうして売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドのエージェントの反対を押し切り、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させたといわれる[12]。また、高沢順子の「お魚になったわたし」、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・ワンサカ娘」、「カルピス」など[5][13]、10年間で製作したテレビCMは2000本を越え[6][14]、国際CM賞も受賞、テレビCMを新しい映像表現として確立したとされる[10]。当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMをやるのにその商品を使って茶髪になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている[6]。また、自身も九州電力のCMに出演したことがある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。
1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた[8][15]。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない[16][17][8]。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される[18]。1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、先取りはしていたといえよう[19]。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した[10][9](この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た)。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる[20]。他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューというのは画期的であった。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった[9]。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって[5]、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時副社長(のち社長、会長)の松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる[6]。大林は「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のような事をやった。これが功を奏して名前も売れて話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなった[5]。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多かった[9]。『リング』、『呪怨』などのプロデューサー・一瀬隆重は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている[21]。大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMやコミックスの影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている[15]。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる[9]。
『HOUSE』が山口百恵主演の『泥だらけの純情』との併映でヒットしたため、ホリプロから打診を受け、二作目『ブラック・ジャック 瞳の中の訪問者』を監督[5]。本作でブルーリボン賞新人賞受賞。 この映画は興行的には失敗したが、続いて百恵、友和ものの第8作目『ふりむけば愛』(1978年)を監督。翌1979年、百・友映画11作目『天使を誘惑』をプロデュース。百・友映画が10作を終えたため、それまでの監督の方がゲストのような趣きを改め、作家よりの映画作りを発想し藤田敏八を監督に起用した[22]。映画の公開は、百・友の恋愛宣言の直後だった。
1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表[8]。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作"として多くの熱狂的な支持を集め、ロケ地巡りのファンを増やした[23][24]。これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆としても評価されている[25][24][26]。
また、大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行ってきたが、特に1970年代~1980年代に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される[27]。
近年は一時期ほど作品を発表しなくなった一方で、吉永小百合を主演に起用して大作を撮るなど、アイドル映画に留まらない活躍ぶりを見せている。
大林はストーリーをあくまで原作に忠実に撮影するタイプの監督であると言われ、原作との差異で監督と原作者の軋轢が起こるケースも少なくないなかで、赤川次郎は自らの作品が映画化された際に原作に忠実であったので驚いたと発言している。また女優を脱がす名人とも言われ、原田貴和子、子ども時代の宮崎あおいなどを演出している。
独特の語り口でも知られ、近年は講演活動やコメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌インタビューなども多い。
2004年(平成16年)春の褒章に於いて紫綬褒章を受章しており、そして2009年(平成21年)秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという[28]。
主な監督作品
映画
- EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ(1967年3月8日公開)
01 HOUSE ハウス(1977年7月30日公開 東宝) - 兼製作
02 瞳の中の訪問者(1977年11月26日公開 ホリプロ/東宝) - 兼出演
07 時をかける少女(1983年7月16日公開 東映) - 兼脚本/編集
08 廃市(1984年1月2日公開 ATG) - 兼プロデューサー/企画/編集/作曲
09 少年ケニヤ(1984年3月10日公開) - 兼編集
10 天国にいちばん近い島(1984年12月15日公開 東映) - 兼潤色/編集
11 さびしんぼう(1985年4月13日公開 東宝) - 兼脚本/編集
12 姉妹坂(1985年12月21日公開 東宝)
13 彼のオートバイ、彼女の島(1986年4月26日公開 東宝) - 兼編集
14 四月の魚(1986年5月31日公開 ジョイパックフィルム) - 兼企画/脚本/編集
15 野ゆき山ゆき海べゆき(1986年10月4日公開 ATG) - 兼編集/音楽
16 漂流教室(1987年7月11日公開 東宝東和) - 兼潤色
17 日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群(1988年3月29日公開 アートリンクス) - 兼脚本/編集
18 異人たちとの夏(1988年9月15日 松竹)
19 北京的西瓜(1989年11月18日公開 松竹) - 兼編集
20 ふたり(1991年5月11日公開 松竹 原作:赤川次郎) - 兼編集
21 私の心はパパのもの(1992年6月13日公開 東北新社/ギャラクシーワン) - 兼編集
22 彼女が結婚しない理由(1992年6月13日公開 東北新社/ギャラクシーワン) - 兼編集
23 青春デンデケデケデケ(1992年10月31日公開 東映) - 兼編集
- 第16回日本アカデミー賞優秀監督賞
24 はるか、ノスタルジィ(1993年2月20日公開) - 兼脚本/編集
- 第17回日本アカデミー賞優秀編集賞
25 水の旅人 -侍KIDS-(1993年7月17日公開 東宝) - 兼編集
- 第17回日本アカデミー賞優秀編集賞
26 女ざかり(1994年6月18日公開 松竹 原作:丸谷才一) - 兼脚本/編集
28 三毛猫ホームズの推理<ディレクターズカット>(1998年2月14日公開 PSC、ザナドゥー) - 兼編集
29 SADA〜戯作・阿部定の生涯(1998年4月11日公開 松竹) - 兼撮影台本/編集/
- 第48回ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞
30 風の歌が聴きたい(1998年7月17日公開 ザナドゥー) - 兼脚本/編集
31 麗猫伝説 劇場版(1998年8月16日公開 PSC) - 兼編集/作曲
32 あの、夏の日 ~とんでろ じいちゃん~(1999年7月3日公開 東映) - 兼脚本
33 マヌケ先生(2000年9月30日公開 PSC) - 兼原作/脚本
34 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ(2000年9月30日公開 PSC)
36 なごり雪(2002年9月28日公開 大映) - 兼脚本/編集
37 理由(2004年12月18日公開 アスミック・エース) - 兼脚本
38 転校生 -さよなら あなた-(2007年6月23日公開 角川映画) - 兼脚本/潤色/編集/撮影台本
39 22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語(2007年 角川映画) - 兼脚本
40 その日のまえに(2008年11月1日公開 角川映画) - 兼撮影台本
41 この空の花 (2012年4月7日公開) - 兼原作/脚本/撮影台本/編集
テレビドラマ
- 人はそれをスキャンダルという 第1回(1979年11月21日放送 TBS)
- 可愛い悪魔(1982年8月10日放送 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』)
- 麗猫伝説(1983年8月30日放送 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』)
- 恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME(1983年9月23日放送 フジテレビ)
- 私の心はパパのもの(1988年11月30日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』)
- ふたり(1990年11月9日・16日放送 NHK『子どもパビリオン』)
- 彼女が結婚しない理由(1990年12月26日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』)
- はるか、ノスタルジィ(1992年10月25日放送 WOWOW)
- 三毛猫ホームズの推理(1996年9月放送 テレビ朝日)
- マヌケ先生(1998年1月24日 中国放送/TBS) - 原作・総監督
- 三毛猫ホームズの黄昏ホテル(1998年2月21日放送 テレビ朝日) - 兼脚本
- 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ(1999年11月7日放送 テレビ朝日『日曜洋画劇場』)
- 告別(2001年2月24日放送 BS-i) - 兼脚本
- 理由(2004年4月29日放送 WOWOW『ドラマW』)
- 理由(日テレヴァージョン)(2005年11月8日放送 日本テレビ『DRAMA COMPLEX』)
その他の主な作品
- すばらしい蒸気機関車(1970年10月10日公開 高林陽一監督) - 音楽
- 最後の蒸気機関車(1975年1月11日公開 高林陽一監督) - 音楽
- 本陣殺人事件(1975年9月27日公開 高林陽一監督) - 音楽
- 新・木枯し紋次郎(1977年10月5日~1978年3月29日放送 東京12チャンネル) - タイトル
- 親子ねずみの不思議な旅(1978年3月11日公開 フレッド・ウォルフ/チャールズ・スウェンソン監督、日本ヘラルド映画) - 歌詞
- 愛の嵐の中で(1978年4月29日公開 小谷承靖監督、東宝) - 出演
- ホワイト・ラブ(1979年8月4日公開 小谷承靖監督、東宝) - 出演
- MOMENT(1981年4月4日公開 手塚真監督) - 出演
- 俗物図鑑(1982年11月8日公開 内藤誠監督) - 出演
- アイコ十六歳(1983年12月17日公開 今関あきよし監督 日本ヘラルド) - 製作総指揮
- 乙女物語 お嬢様危機イッパツ!(1990年12月8日公開 内藤忠司監督 バンダイ) - 出演
- MAKING OF DREAMS 夢 黒澤明・大林宣彦映画的対話(1990年) - 演出・インタビュー聞き手
- 金なら返せん!(1994年12月9日放送) - 出演
- タイム・リープ(1997年6月7日公開 今関あきよし監督) - 監修
- セイキロスさんとわたし(2006年2月22日公開 糸曽賢志・亀渕裕監督) - プロデューサー
- 如水館中学校・高等学校校歌 - 作詩
尾道三部作
大林宣彦が、出身地尾道を舞台に撮影した映画の代表作として認知されている3つの映画作品のこと。後に、同じように尾道を舞台にした作品が同じく3つ作られたため、これを「新尾道三部作」と称すこともある。転校生や時をかける少女の頃はまだ尾道三部作と呼ばれておらず、続くさびしんぼうが撮られたことで、これらの3本が尾道三部作と言われるようになった。
音楽作品
- 坂上のイメージビデオ(いわゆるミュージッククリップ)。
- 坂上のデビュー曲でこの作品に収録された「レースのカーディガン」PV撮影において、尾道三部作で使用されたロケ地を随所に織り交ぜて撮影し、「大林宣彦ワンダーワールド作品」と銘打って発売された、ミュージック関連の映像としては当時異色の作品。坂上が一人三役を演じ、合成演出を施した幻想的でメランコリーな雰囲気だが、非常に美しい仕上がりの作品である。
テレビ版から劇場版
大林作品にはテレビで製作された作品を後に劇場版として公開する、または劇場公開に先行してテレビで放送する、というケースが多く見られる。
『理由』はWOWOWで放送、劇場公開の後、さらに日本テレビで「日テレヴァージョン」が放送された。
- 麗猫伝説 (1983年8月30日放送 日本テレビ)
- → 劇場公開 1998年8月16日
- 私の心はパパのもの (1988年11月30日放送 日本テレビ)
- → 劇場公開 1992年6月13日
- ふたり (1990年11月9日・16日放送 NHK)
- → 劇場公開 1991年5月11日
- 彼女が結婚しない理由 (1990年12月26日放送 日本テレビ)
- → 劇場公開 1992年6月13日
- はるか、ノスタルジィ (1992年10月25日放送 WOWOW )
- → 劇場公開 1993年2月20日
- 三毛猫ホームズの推理(1996年9月放送 テレビ朝日)
- → 劇場公開 1998年2月14日
- マヌケ先生( 1998年1月24日 中国放送/TBS)
- → 劇場公開 2000年9月30日
- 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ (1999年11月7日放送 テレビ朝日)
- → 劇場公開 2000年9月30日
- 告別 (2001年2月24日放送 BS-i )
- → 劇場公開 2001年7月14日
- 理由 (2004年4月29日放送 WOWOW)
- → 劇場公開 2004年12月18日
- → 「日テレヴァージョン」(2005年11月8日放送 日本テレビ)
関連項目
- 山中恒 - 映画の原作となった作品が多い。
- 石森史郎
- 小林聡美
- 尾美としのり - 旧尾道3部作をはじめ、14作品に出演。
- 原田知世
- 富田靖子
- ピンク・レディー - 1977年にコンサート演出を担当。その模様が挿入された『ピンク・レディーの活動大写真』にも出演。
- 石田ひかり
- 中嶋朋子
- 山口百恵
- 今関あきよし
- 峰岸徹 - 公私共に親交が深く、大林監督の作品には数多く出演した。
- 本多猪四郎 - 師匠、「異人たちの夏」にカメオ出演。
参考文献
- 『大特撮―日本特撮映画史―』(コロッサス 1979年)
- 『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社 1988年)
- 『新版 大林宣彦のa movie book 尾道』(たちばな出版 2001年)
- 『ぴあシネマクラブ 日本映画編』(ぴあ 2006年)
- 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』(日外アソシエーツ 2007年)
- 大林宣彦『大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本』(角川学芸出版 2008年)
- 田山力哉『新しい映画づくりの旗手たち』(ダヴィッド社 1980年)
外部リンク
- 大林監督のブログ
- 大林宣彦の映画 普遍的個人映画--A MOVIE
- インタビュー
- vol.28 映画監督 大林 宣彦 | 10Questions OKな人をもっと知りたい
- 尾道撮歩記
- この空の花 - 「長岡映画」製作委員会
- この空の花
脚注
- ^ 産経ニュース【秋の叙勲】旭日小綬章 映画作家・大林宣彦さん(71) 孤独でも誰か見ている 2009.11.3 09:55
- ^ a b 大林 宣彦の写真ブログ 雨撮晴記(うさつせいき)|2007年03月15日
- ^ 大林の最新の著作・『大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本』他、『日本映画・テレビ監督全集』『日本の映画人 ―日本映画の創造者たち―』等の人名録など、全ての映画関係の出版物には、大林は尾道生まれと記載されている。
- ^ a b c d 「宝島」1986年9月号(宝島社)P108-115
- ^ a b c d e f g h 田山力哉著『新しい映画づくりの旗手たち』(ダヴィッド社、1980年)、P198-213
- ^ a b c d e f 山田奨治編者『文化としてのテレビ・コマーシャル』(世界思想社、2007年)、P282-293
- ^ 映画芸術: 金子遊のこの人に聞きたいVol.13
飯村隆彦(映画作家) - ^ a b c d 『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社)P71-73
- ^ a b c d e キネマ旬報、2010年5月下旬号、P76-81
- ^ a b c 『映画100物語 日本映画篇 1921-1995』(読売新聞社、1995年)P184-185
- ^ 株式会社マンダム|社史 [1927~1999]
- ^ 馬場啓一『大人の男の作法』(PHP研究所、2006年)P104-106
- ^ 湯川れい子著『熱狂の仕掛け人』(小学館、2003年)P208
- ^ 毎日新聞 2010年10月24日8面
- ^ a b 橋口尚文『映画の復讐 CINEMA CAN WAIT』(フィルムアート社、1992年)P186-211
- ^ 『ぴあシネマクラブ 日本映画編』(ぴあ)P459
- ^ 『大特撮―日本特撮映画史―』(コロッサス)P150-151、P280-281
- ^ 『大特撮―日本特撮映画史―』P150-151、P280-281
- ^ 『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p185
- ^ 『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社)P71-72
- ^ 一瀬隆重『ハリウッドで勝て!』(新潮社、2006年)P30-32
- ^ キネマ旬報、1980年1月下旬号、P68-74
- ^ 大林 宣彦の写真ブログ 雨撮晴記(うさつせいき)|2007年6月14日
東京国立近代美術館フィルムセンター 平成20年度プログラム
ロケ地を訪ねるほど大好きだった映画やドラマ(1)
映画の街PRへフィルムコミッションを設立 - 会議所ニュース - ^ a b 映画「モノクロームの少女」スタッフ
- ^ 第3章 第5節 ケーススタディ1:「映画の街」尾道
- ^ 新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語
グッドニュース・ジャパン : 大林宣彦監督が名古屋の映画を撮る
フィルムコミッション - 長岡市議会議員 桑原望・オフィシャルサイト - ^ INTRO | 大林宣彦監督インタビュー:映画『その日のまえに』について
「少女がつくった時代 80年代、アイドル映画の極意」 金沢21世紀美術館
大林宣彦 映画女優としての山口百恵を語る - 城西大学
『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年
70年代アイドル映画大全 VOL.Ⅱ アイドル映画で春ラ!ラ!ラ
川島海荷 - Cut 編集部日記 | ブログ | RO69(アールオーロック)
中森明夫『アイドルにっぽん』(新潮社、2007年)P121-134 - ^ 産経新聞 2009年11月3日23面