なごり雪 (映画)
| なごり雪 | |
|---|---|
| 監督 | 大林宣彦 |
| 脚本 |
南柱根 大林宣彦 |
| 原案 | 伊勢正三「なごり雪」 |
| 製作 |
大林恭子 工藤秀明 山本洋 |
| 出演者 | 三浦友和 |
| 音楽 |
學草太郎 山下康介 |
| 主題歌 | 伊勢正三「なごり雪」 |
| 撮影 | 加藤雄大 |
| 編集 |
大林宣彦 内田純子 |
| 製作会社 |
PSC TOSエンタープライズ 大映[1] |
| 配給 |
大映 (現・KADOKAWA) |
| 公開 |
|
| 上映時間 | 111分 |
| 製作国 |
|
| 言語 | 日本語 |
『なごり雪』(なごりゆき)は、2002年9月28日に公開された大林宣彦監督による日本映画[2][3][4][5][6]。津久見市出身の伊勢正三作詞・作曲の楽曲「なごり雪」をモチーフとする[7][8]。映画の原案も伊勢正三による[注 1]。
概要
[編集]大林宣彦監督により大分三部作として構想された中の第一作だが、第3作は製作されず[9]、大分二部作の第一作となった[9]。
臼杵の古い街並みが残る二王座でのうすき竹宵や、臼杵磨崖仏での石仏火祭りなど、臼杵各地で撮影が行われたほか、大分市や旧・宇目町(現・佐伯市)でもロケが行われている[2]。
映画会社大映が手がけた最後の制作・配給作品となった(2002年10月に角川書店へ新旧分離方式で事業譲渡し、角川大映映画(現・KADOKAWA)に承継)。
ストーリー
[編集]2001年の初秋、東京でサラリーマン生活を送る50才の梶村祐作は妻に捨てられた。妻の”さと子“に戻る意志は無く、子供も親戚も、親しい友人も居ない孤独な我が身に絶望する祐作。そんな祐作の元に故郷から一本の電話が入った。それは、幼馴染の雪子が交通事故で意識不明の重体だという知らせだった。翌日の朝、祐作は28年ぶりに故郷へ向かった。
高校時代まで、祐作は大分県の臼杵市という静かな田舎町で暮らしていた。母一人子一人の境遇だったが、親友の健一郎や、祐作を慕う女子中学生の雪子らと兄弟姉妹のように暮らす祐作。だが、東京の大学に合格した祐作は上京し、家業を継いだ健一郎と一人娘の雪子は田舎に残った。
大学のサークル活動を優先して、長期休暇でも故郷に戻らなくなる祐作。やっと帰省した時、祐作は学友の美しい"さと子"を同伴していた。それでも健気に「来年の春には綺麗になる」と、祐作に訴える高校生の雪子。だが、その頃の祐作にとって、雪子は妹のような存在だった。
その年の冬に、祐作の母が急死した。葬儀の席で当然のように祐作の隣りに座る"さと子“。雪子を案じた健一郎が雪子の家に忍び込むと、雪子は自室のベッドの脇でカミソリを手にしていた。慌ててカミソリを取り上げた拍子に、掌に深い傷を負う健一郎。
病院で28年ぶりに昏睡状態の雪子と面会する現在の祐作。雪子は健一郎の妻となり、夫婦の間には娘の夏帆も生まれていた。祐作の母の葬儀の晩に雪子がカミソリを持っていた事について、夫婦となっても詮索はしなかったと話す健一郎。あの晩、雪子は「違う!」と叫んでいた事を思い出す祐作。雪子は本当に自殺を図ったのか?
そんな二人の前に若い娘の姿で現れる雪子。カミソリは、枕を裂いて中身の極小ビーズを取り出す為のものだった。滅多に雪の降らない臼杵で雪の様に白いビーズを撒くことは、雪子にとって幸運のおまじないだったのだ。そう語って若い雪子が消えた時、病院から、入院中の雪子が危篤との報が入った。
キャスト
[編集]- 梶村祐作 - 三浦友和
- 祐作・過去 - 細山田隆人
- 水田健一郎 - ベンガル
- 水田・過去 - 反田孝幸
- 雪子 - 須藤温子
- 菅井とし子 - 宝生舞
- 槙弘美 - 日高真弓
- 杉田良一 - 田中幸太朗
- 新谷由梨絵 - 斎藤梨沙
- 水田夏帆 - 長澤まさみ
- 弘美の父 - 小野恒芳
- 弘美の母 - 大谷孝子
- 弘美の弟 - 広瀬大亮
- テニス部員 - 山本佳奈
- テニス部員 - 山本梨香
- テニス部員 - 赤嶺徳幸
- テニス部員 - 荒瀬貴子
- 弘美の愛犬 - 峰岸マック
- 雪子・三歳 - 東明里
- 雪子・現在 - 安東衣世
- 看護婦 - 前田麻子
- 医師 - 小形雄二
- 水田の母 - 津島恵子(特別出演)
- 梶村道子 - 左時枝
スタッフ
[編集]ロケ地
[編集]製作
[編集]企画
[編集]1950年以降、毎年春に日本各地で開催される全国植樹祭は、式典に天皇・皇后も出席する、各地域にとっては威信のかかった重要行事であるが、2000年4月23日に開催予定の大分植樹祭は平松守彦大分県知事の意向で、例年の電通などの大手広告代理店を入れて実施するのではなく、地元の人々の力でやろうと考えた[4][10]。そこで指名された地元の実行委員の若者が[10]、どうしたらいいか分からず大林に相談してきた[4][7][10][11]。当初は行政の仕事でもあるし気乗りがしなかったが、大分側の熱意に打たれた大林はその後2年間、植樹祭の準備のため、頻繁に大分を訪れ、「会場を整地せず、何もするな」などとアドバイスした[10]。すると実行委員から「分かりました。私たちにはない発想でした。そうします」と即断したため、大林は驚き、普通は一度持ち帰って上と相談するはずだが、実行委員は「私のOKは平松さんのOKです」と言った[10]。それがあって大林は大分というところは少し他と違うという感想を持った[10]。結局、大林の演出で天皇・皇后の臨席のもと2時間半くらいの全部ミュージカルをやり[10]、植樹祭を成功させた[4][10][12]。その過程で、大分の各地域を回り、当地にはまだ高度成長により破壊されていない美しい「地域」があることを知った[11]。特に大林が注目したのが、海沿いの町、臼杵であった[4]。実は大林を口説きに来た若者の本当の目的も、大林に大分の、しかも臼杵で映画を撮ってほしいというものだった[4]。2001年に大林が夫婦旅行で臼杵市を訪ねた際[7]、後藤國利市長が、かつての市民運動の話をしてくれ「高度経済成長の真っただ中、セメント工場の誘致を市民が阻止した。私たちはふるさとを守った」と言った[4]。「これは自身のふるさとの尾道でやってきたことと同じだ」と感銘を受けた[4][7]。大林としては尾道でやりたかったことを大分は行政がやっていると認識し[10]、尾道と喧嘩をしてもしょうがないから21世紀最初の映画は臼杵で撮ろうと決めた[6][10]。大林は後藤市長から「映画なんて撮ってくれるな」「この町の穏やかさ、静かさを守りたい。そっとしておいてください。映画はやってくださるな」[4]「静かな街づくりを始めたのに、観光客にたくさん来られたら困る」[7]などと言われた[10]。誘致したいという話はあっても「撮らないで」と言われたのは大林も初めてで新鮮だった[7][10]。これに対し大林は「こういう町でこそ、映画をつくりたいんだ」と後藤を口説き、後藤も大林監督ならありのままの臼杵を描いてくれるだろうと共感し、映画の製作が決まった[7]。それで『なごり雪』からはじまり『22才の別れ』へと続く"大分映画"が生まれた[4]。
脚本
[編集]大分で映画を撮るというアイデアだけは生まれたが、「どんな映画を」ということは何もなかった[10]。大分では大林は余所者のため、いきなり映画を作る資格はないため[10]、この町をふるさととする人は、と考えたとき、大林の頭に浮かんだのが、大分出身のシンガーソングライター・伊勢正三だった[10]。そこで大林は、伊勢正三の二つの名曲、「なごり雪」と「22才の別れ」をモチーフに、自ら脚本を書き上げ、それぞれ2本の"大分映画"を撮った[4][10]。伊勢も大林から映画化の話を聞かされ、光栄に思ったという[6]。当時で約30年前の「なごり雪」と「22才の別れ」が、何故今なお生きているのかを検証しようというのも、映画を作る意欲になったという[13]。後藤市長から大林に連絡があり「町の人たちと話をしました。この町は変わらないことで町を守ってきましたが、町の人たちも落ちこぼれで何もない町だと、自信を失っています。だから町の人たちに自信を取り戻してほしいので、監督に映画を作っていただこうと思います。その代わりお約束します。映画が完成してもどんなに観光客が増えても、この町は決して変えません」などと言われた[10]。当初は、"大分映画"も三部作という約束があったとされる[4]。
キャスティング
[編集]撮影
[編集]山崎輝道(TOSエンタープライズ)プロデューサーは「今回は大映さん、大林恭子Pにお手伝いいただきゴールできたというのが実際の所じゃないかと思います。製作期間は10ヶ月くらい。2000名くらいの地元スタッフが携わっています」などと述べている[6]。撮影は2001年9月に臼杵で1カ月行われた[6]。「なごり雪」の歌詞をそのままセリフにするなど、大林らしい実験的要素もある[7]。
1988年の『フライング 飛翔』以降、映画界を離れ、長く臼杵に居住していた曽根中生監督が、病院へ胃の定期健診に通っていたら、ちょうど大林がその病院で本作の撮影をしていて[14]、挨拶はしたが、曽根は大林は同じ映画人でも、全く別の方向を目指している対極にいる人というイメージを持っていたため、大林が現役でなお精力的に映画を撮り続けていることに対して、あまり悔しくはなかったという[14]。
興行
[編集]2002年2月のゆうばり国際ファンタスティック映画祭に出品後[6]、大分で2002年4月に先行公開され大ヒット[6]。最初に上映された臼杵市では、市民数3万人の1/3を超える計1万2千人が鑑賞し、その後大分県内に拡大され、6日間で1万人突破の最短記録を達成[15]。公開から30日で5万人を超える動員を記録する大ヒットになった[6]。2002年9月28日より大映の配給で、有楽町スバル座他、全国ロードショーが行われた[6]。
影響
[編集]大林は本作をきっかけにその土地の歴史や伝統を題材にした「古里映画」作りを始めた[7]。大林は「街灯がなくて恥ずかしがっていた地方が、星がきれいに見えるというように変わってきた。かつては『負』だったものを文化として再評価する機運が出てきているように思えます。自分たちの地域に誇りが持てる。そんなことのお手伝いに映画が役立てられたら、と思っています」と話した[7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ “なごり雪”. 日本映画製作者連盟. 2026年4月2日閲覧。
- 1 2 臼杵にて撮影の 大林宣彦監督の映画たち (PDF) 臼杵市役所
- ↑ なごり雪 – ぴあ
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 沼尻正之「大林映画にとって「地域」とは何か? : 尾道三部作とそれ以後」『追手門学院大学文学部紀要;The Meaning of“Region”for Obayashi Nobuhiko’s Films :Onomichi Trilogy and His Later Films, Otemon Gakuin University』3月10日 第6巻、追手門学院大学地域創造学部、2021年、42–45頁、NAID 40022652332、2023年6月18日閲覧。
- ↑ 藤原善晴「子どもの感性育む坂道…臼杵(うすき)市(大分県) ほんとうは臼杵の町に映画をつくらされたのではないかと思っています。――――大林宣彦「ぼくの瀬戸内海案内」(2002年)」『読売新聞オンライン』読売新聞社、2024年6月23日。オリジナルの2024年6月23日時点におけるアーカイブ。2026年4月2日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 宮田晴夫 (2002年5月25日). “臼杵市民の1/3が観た!『なごり雪』大分県先行上映報告記者会見開催!”. シネマトピックスオンライン. 2026年4月2日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 福永聖二 (2014年11月9日). “よみほっと日曜版 名言巡礼 映画『なごり雪』2002年 どんどん変わっていくのもいいが、こうして変わらんのもいい 地方の『負』は文化になる”. 読売新聞日曜版. 読売新聞社. p. 1.
- ↑ なごり雪 – WOWOW
- 1 2 樋口尚文「Part3 大林宣彦の全映画作品ガイダンス 『なごり雪』 悲痛なる愛の記憶の途絶 文・真魚八重子」『フィルムメーカーズ20 大林宣彦』宮帯出版社、2019年、164–166頁。ISBN 978-4-8016-0207-6。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 「スペシャルインタビュー 大林宣彦 『文化の町であることをアイデンティティにしよう』 聞き手・構成 馬飼野元宏」『地方を殺すな! ファスト風土化から"まち"を守れ!』洋泉社〈洋泉社ムック〉、2007年、27-35頁。ISBN 9784862482013。
- 1 2 “大林宣彦さん、平田オリザさん対談 「なごり雪」語る 劇作家大会開幕”. 西日本新聞. 西日本新聞社. 2019年1月25日. 2020年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2023年6月18日閲覧.
- ↑ 新見 隆 (2018年1月25日). “人生、祭り、遊びがすべて”. OPAMブログ. 大分県立美術館. 2026年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年4月2日閲覧。
- ↑ 「大林宣彦の世界大林宣彦インタビュー」『映画秘宝』2007年8月号、洋泉社、31–32頁。
- 1 2 野村正昭「曽根中生、空白の20数年を語る」『キネマ旬報』2011年10月上旬号、キネマ旬報社、70頁。
- ↑ ベストライフ・オンライン(Internet Archive)
関連項目
[編集]- ヒット曲映画化作品
- 22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語 - 大分三部作の第二作