黒船来航

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嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航
ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明)

黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府江戸湾浦賀神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。

背景

マシュー・ペリー

アメリカのアジア市場への進出

産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジア中国大陸への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。

その後アメリカは1833年シャムマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。

捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保

産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油ランプの灯火として、主にマッコウクジラ鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で捕鯨を盛んに行なっていた。日本近海ではジャパン・グラウンドと呼ばれる伊豆諸島・小笠原諸島付近、カムチャツカ・グラウンドと呼ばれるカムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国東海岸を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行うのが普通であった[1]。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。

加えて難破船の問題もあった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務の一つであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。

米墨戦争の影響

アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - 1848年米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。これによりアメリカは太平洋国家となり、将来的な太平洋航路の開拓が必然となった。その理論的航路として、西海岸から北上し、アリューシャン列島千島列島沿いに南下、津軽海峡経由で日本海に出て上海に到着する、大圏コースがあった[† 1][2]

このため、津軽海峡に面した箱館に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は予算獲得のためにも東インド艦隊を増強する必要が生じた[3]

ペリー来航以前

アメリカ関係のみ記述してもこれだけの前史がある。

[† 2]

オーリックに対する日本開国指令と解任

このような状況の中、1851年5月29日(嘉永4年4月30日)大統領フィルモアは、日本開国と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使としてその任務[6]を与え、1851年6月8日に蒸気フリゲートサスケハナ」は東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、代将マシュー・カルブレース・ペリーにその任が与えられた。[† 3][7]

嘉永6年の来航

ペリーは、海軍長官ケネディから1852年11月13日(嘉永5年10月3日)付けで訓令を受けている。その主な内容は、対日使命遂行のため広範な自由裁量権の行使、日本沿岸及び隣接大陸や諸島の探検もし、行く先々の諸国や諸地方の社会・政治・商業状況、特に商業の新しい対象について、できうる限りの情報を収集することなどである[8]

ペリーの計画

ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた[9]。そこで彼は、以下のように述べている。

  • 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
  • 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
  • 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
  • オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。

日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「ミシシッピ」のみであった。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「ポーハタン」が加わることとなった[10]

オランダによる来航の予告

老中首座、阿部正弘

1852年7月21日嘉永5年6月5日)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウス長崎奉行に「別段風説書」(幕末出島未公開文書[11]として保存される[12])を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。

加えて、クルティウスはオランダ領東インド総督・バン・トゥイストの1852年6月25日付けの書簡を提出した。そこには、アメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。

老中首座阿部正弘は、夏ごろには溜間詰の譜代大名にこれを回覧した[13]海岸防禦御用掛(海防掛)にも意見を聞いたが、通商条約は結ぶべきではないとの回答を得た。また、長崎奉行もオランダ人は信用できないとしたため[14](以前にオランダ風説書でイギリスの香港総督バウリングの渡航が予告されたがそれはなく、すべての情報が正しいわけではなかった)[15]、幕府の対応は三浦半島の防備を強化するために川越藩彦根藩の兵を増やした程度であった。加えて、幕府内でもこの情報は奉行レベルまでの上層部に留めおかれ、来航が予想される浦賀の与力等には伝えられていなかった[16]。他方、外様の島津斉彬には年末までに口頭でこの情報が伝えられようであり[17]、斉彬は翌年のアメリカ海軍東インド艦隊の琉球渡航以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。

なお、アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じ、通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。しかしこの書簡(1852年7月2日付け)は、クルティウスが日本に向けジャワを出発した後にバン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリーが来航した1853年嘉永6年)提出の別段風説書では、ペリー派遣の目的は通商関係を結ぶことが目的の平和的なものであると述べている。

出航

ミシシッピ号

1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使を乗せた蒸気フリゲートミシシッピ号」は、単艦でノーフォークを出港し、一路アジアへと向かった。ペリーはタカ派の大統領フィルモアホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていた。

ミシシッピは大西洋を渡って

を経て、上海5月4日に到着した。この間、各港で石炭補給を行った。香港でプリマス(帆走スループ)およびサプライ(帆走補給艦)と合流、上海で蒸気フリゲートサスケハナと合流した。このとき、すでに大統領は民主党ピアースに代わっていて、彼の下でドッピン海軍長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。

なお、途中マカオにてサミュエル・ウィリアムズを漢文通訳として、上海でアントン・ポートマンをオランダ語通訳として雇用し、日本への航海途中にフィルモア大統領親書の漢文版およびオランダ語版を作成している。

琉球来航

サスケハナ号

上海サスケハナに旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日琉球王国薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊した。ペリーは首里城への訪問を打診したが、琉球王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。

琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。

しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していた(多くの国が来客に対して使う手法である)。友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、琉球王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。

この当時の記録は琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。

小笠原探検

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座にイギリスから抗議を受け、ロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し[要出典]水野忠徳を派遣して八丈島住民などを積極的に移住させることで、イギリスやロシア、アメリカなどの当時の列強諸国に領有権を認めさせることになる。

ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に大統領からの親書を手に3隻を率いて日本へ出航した。

浦賀来航

サラトガ号
合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)
左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の4隻からなっていた。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたのだが[18]、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられる。

浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになった。このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している[† 4]

7月9日(嘉永6年6月4日)幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。続いて7月10日(嘉永6年6月5日)浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ねた。ピュカナン・アダムス両艦長およびコンティーと会見した。が対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけた。

ペリーは、香山と会見が行われた日(7月10日(嘉永6年6月5日))、艦隊所属の各艦から一隻ずつの武装した短艇を派遣して、浦賀湾内を測量させた。この測量は幕府側に威圧を加えるという効果をもたらした。浦賀奉行は、当然ながら抗議した。その回答は、鎖国体制下の不平等な国際関係を排除するという考えであり、日本に対して不平等な国際関係を強いようとする考えが含まれていた[19]。翌7月11日(嘉永6年6月6日)早朝から測量艇隊は湾内深くに侵入した。その護衛にミシシッピ号が付いていた。その行動の裏には、ペリーの「強力な軍艦で江戸に接近する態度を示せば、日本政府(幕府)の目を覚まさせ、米国にとってより都合の良い返答を与えるであろう」との期待があった。この行動に幕府は大きな衝撃を受け、7月12日(嘉永6年6月7日)「姑く耐認し枉げて其意に任せ、速やかに退帆せしめ後事をなさん」との見地から国書を受領し、返事は長崎オランダ商館長を通じて伝達するよう、浦賀奉行井戸弘道に訓令し、交渉に当たらせた[20]

この時第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座阿部正弘は、7月11日(嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄井戸弘道がペリーと会見した。

ペリーは彼等に開国を促す大統領フィルモアの親書[† 5][21]、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は「将軍が病気であって決定できない」として、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げた。ここでは文書の受け渡しのみで何ら外交上の交渉は行われなかった。日本側の全権である浦賀奉行の戸田と井戸の二人は一言も発しなかった。 日本側は、会見終了して2、3日したら退去するものと考えていたが、ペリーは7月15日(嘉永6年6月10日)ミシシッピー号に移乗し浦賀より20マイル北上して江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み、将軍に充分な威嚇を示してから小柴沖に引き返した。

艦隊は7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流してイギリスの植民地である香港へ帰った。 ペリーは本国政府訓令の精神を貫徹することに成功した[22]

嘉永6年来航の艦艇の概要は以下の通りである。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗組員 機関出力 備砲
サスケハナ
Susquehanna
蒸気外輪フリゲート 1850年 積載量2450トン(bmトン
排水量3824英トン
300 420NHP
795IHP
150ポンドパロット砲x2
9インチダルグレン砲x12
12ポンド砲x1
ミシシッピ
Mississippi
蒸気外輪フリゲート 1841年 積載量1692トン(bmトン)
排水量3220英トン
260 434NHP
650IHP
10インチペクサン砲x8
8インチペクサン砲x2
サラトガ
Saratoga
帆走スループ 1843年 積載量882トン(bmトン) 260 8インチ砲x4
32ポンド砲x18
プリマス
Plymouth
帆走スループ 1844年 積載量989トン(bmトン) 260 8インチ砲x8
32ポンド砲x18

ペリー退去後の幕府の動向

ペリー退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)に将軍家慶が死去した。将軍後継者の家定(嘉永6年11月23日に第13代将軍に就任)は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。

7月1日、阿部は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を求めたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった外様大名は喜んだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。

軍備増強

さらに阿部はアメリカ側と戦闘状態になった時に備えて、江戸湾警備を増強すべく8月26日(嘉永6年7月23日)に江川太郎左衛門等に砲撃用の台場造営を命じた。江川は、富津-観音崎本牧-木更津羽田沖、品川沖の4線の防御ラインを提案していたが、予算・工期の関係からまず品川沖に11箇所の台場が造営されることとなった[23]

12月14日(嘉永6年11月14日)には建造途中の1~3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任ぜられた[24]。また、大船建造の禁も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を10月21日(嘉永6年9月19日)に浦賀造船所で起工した。オランダへの艦船発注も、ペリーが去ってからわずか一週間後の7月24日(嘉永6年6月19日)には決まっている[25]。12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し土佐藩の藩校の教授となっていたジョン万次郎を旗本格として登用し、アメリカの事情等を述べさせた。

嘉永7年(1854年)の来航

ポーハタン号

1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。

2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の6隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。3月4日(嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)、3月19日(嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着して計9隻の当時としては大規模な艦隊が江戸湾に集結し、江戸は大きな動揺を受けた。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。

突然の大艦隊の来航に幕府は驚いたものの、前回の来航の時同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取ることはなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対しフランス料理を振舞って歓迎した。日本人はを喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、十手孫の手ナイフフォークに見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を懐紙に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いた、という(本膳料理には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法である)。

その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った[26]。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開だから」、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品あたりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。

約1か月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し日本側から歓待を受け、その後林復斎を中心に交渉が開始され全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた(直後の4月25日吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触している)。その後、5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めるが、権限がないとして拒絶される[27]。箱館から戻った後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。

ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に64歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局イギリスフランスロシアが日本と関係を強めた上に、清に対する影響力を拡大してしまった。

昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていたアメリカ国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。1854年7月に琉球からペリー艦隊に送られた梵鐘はアナポリス海軍兵学校に飾られ、同学校フットボール優勝祝賀会で鳴らされていたが、1987年、沖縄に返還されている[28][29]。この鐘は正式名称を「旧大安禅寺鐘」、通称「護国寺の鐘」といい、1456年製造という[28]

嘉永7年来航の艦艇の概要は以下の通り。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗組員 機関出力 備砲
ポーハタン
Pawhatan
蒸気外輪フリゲート 1852年 積載量2415トン(bmトン
排水量3765英トン
289 420NHP
795IHP
11インチダールグレン砲x1
9インチダールグレン砲x10
12ポンド砲x5
サスケハナ
Susquehanna
蒸気外輪フリゲート 1850年 積載量2450トン(bmトン)
排水量3824英トン
300 420NHP
795IHP
150ポンドパロット砲x2
9インチダルグレン砲x12
12ポンド砲x1
ミシシッピ
Mississippi
蒸気外輪フリゲート 1841年 積載量1692トン(bmトン)
排水量3220英トン
260 434NHP
650IHP
10インチペクサン砲x8
8インチペクサン砲x2
サラトガ
Saratoga
帆走スループ 1843年 積載量882トン(bmトン) 260 8インチ砲x4
32ポンド砲x18
マセドニアン
Macedonian
帆走スループ 1852年改造 積載量1341トン(bmトン) 489(改造前) 8インチ砲x6
32ポンド砲x16
バンダリア
Vandalia
帆走スループ 1848年改造 積載量770トン(bmトン) 150 8インチ砲x4
32ポンド砲x16
サウサンプトン
Southampton
帆走補給艦 1845年 積載量567トン(bmトン) 不明 42ポンド砲x2
レキシントン
Lexington
帆走補給艦 1843年改造 積載量691トン(bmトン) 190(改造前) 32ポンド砲x6
サプライ
Supply
帆走補給艦 1846年購入 積載量547トン(bmトン) 60 24ポンド砲x4

疑問視される事例

特定の資料によってのみ伝えられるため、日本史の専門家から疑問視されている。

白旗伝説

ペリーは最初の浦賀来航の際に幕府に旗を2本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。この件に関して高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされる。「2本の旗のうちひとつは白旗であり、降伏の際に用いる旗である」と説明されていたという。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き偽書と判断されている。なお、香山栄左衛門と応接した際にサスケハナのフランクリン・ブキャナン艦長は「白旗」について言及しているが、「降伏勧告」については記録にはない。

砲撃戦

ペリーの『日本遠征記』によると、2度の来航で100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃っており、日本側史料には、事前に日本側にこれらが行われることが伝えられ、さらに市民にもお触れが出ていたにもかかわらず、これが大混乱を巻き起こしたことが記録されているが、いずれも空砲であり被害は無い。ところが、来航した「ポーハタン」以下7隻の内、蒸気船2隻と帆船3隻が安房国千葉県)洲崎を砲撃した、と日本側の古文書にある[要出典]

事件は1854年2月20日(嘉永7年1月23日)丑の下刻、洲崎を警護する備前岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船2隻は逃走したが、帆船3隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、3隻を「御取り上げ」(拿捕)した。しかし、この事件は2月27日(旧暦2月1日)の記録を最後に途絶えている。

この日の事件を受けて土佐藩では、1854年2月21日(嘉永7年1月24日)、土佐藩士明神善秀山内容堂より、安芸郡奉行を仰せ付けられ、異国船打払令に基づき、異国船打払い御用を仰せ付けられている[30]

脚注

注釈

  1. ^ 石井、p20-24。1848年5月4日の下院海軍委員キングの報告に、この航路(津軽海峡経由)のことが言及されており、さらに財務長官ウォーカーが同年12月に同様のことを述べている
  2. ^ 江戸東京博物館1999年 によると、日本に向けられたアメリカ傭船は次の通り。
    1. 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号
    2. 1798年、同上
    3. 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号
    4. 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号
    5. 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号
    6. 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号
    7. 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号
    8. 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
    9. 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
    10. 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号
    11. 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号
    12. 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号
    13. 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号
  3. ^ オーリックを日本に派遣することに際しては、三つの目的があった。一つは、中国との貿易に従事する米国汽船に、日本の石炭購入を許すこと。二つ目は、日本政府は、日本沿岸で難破した米国水兵や財産を保護する義務を負うべきこと。三つ目は、米国船が日本の港で積み荷を販売若しくは交換する権利を獲得すること。さらにオーリックは、日本皇帝(将軍)に当てた大統領の親書を預かっていた。
  4. ^ 同時代史料においては類似した句が見られるのみで、主に明治11年(1878年)の『武江年表』や大正3年(1914年)『江戸時代落書類聚』など、明治以降に出典が見られることから、後世に喧伝された歌である可能性が指摘され、近年では教科書から姿を消している。しかし平成22年(2010年)になり、黒船来航直後に詠まれたことを示す書簡(嘉永6年(1853年)6月30日付の山城屋左兵衛から色川三中への書簡、静嘉堂文庫所蔵)が見つかっている。上記のとおり、黒船4隻中、蒸気船は2艦のみである。
  5. ^ 大統領フィルモアから「日本皇帝」(将軍)にあてた親書には、ペリーを日本へ派遣した目的として、両国間における自由貿易を許すこと、難破船員を優遇しその財産を保護すること、船舶に石炭・食料及び水を供給する寄港地として、日本南岸における一港を指定すること、を上げている。そして貿易については、5年ないし10年間試験的に実施し、利益がないことが分かれば、旧法に復することもできると述べるなど、慎重な表現が為されていることが注目される

出典

  1. ^ 大崎晃 19世紀後半期アメリカ式捕鯨の衰退と産業革命 地学雑誌 119(4)615—631 2010
  2. ^ 函館日ロ交流歴史研究会「会報」No.9 1998.8.11。1807年にアメリカ商船エクリプス号が、広東・アラスカ交易を試み、広東からの帰りに長崎で水・薪を補給した後に日本海を北上し、津軽海峡を西から東に通過した先例がある
  3. ^ 加藤、p56-p58
  4. ^ Bauer, p. 57
  5. ^ ELLIOT GRIFFIS (1905年8月6日). “Edmund Roberts, Our First Envoy to Japan”. New York Timex. 2010年1月28日閲覧。
  6. ^ カリフォルニアから中国に至る汽船航路を早急に開設すること(石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版(1972年初版)30ページ)
  7. ^ 石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 30-31ページ
  8. ^ 石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 31-32ページ
  9. ^ Graham, Volume IV
  10. ^ 元綱、p38-40
  11. ^ フォス美弥子
  12. ^ 日本財団図書館 平成15年度 海事講演会 海・船セミナー2003 ?ペリー来航150周年記念?「黒船来航、その時日本は」
  13. ^ 加藤、p40
  14. ^ 岩下
  15. ^ 福地源一郎、p14-15
  16. ^ 加藤、p43。後に現場での対応に当たった中島三郎助香山栄左衛門は、情報伝達がなかったことを浦賀奉行に抗議している。
  17. ^ 加藤、p42
  18. ^ 横浜黒船研究会「神奈川県域のヒストリック・イベント(7)、第二章 横浜村の黒船騒動、一、異国船の接近に驚く住民」 草間俊郎
  19. ^ 石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 48ページ
  20. ^ 石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 49-50ページ
  21. ^ 石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 52ページ
  22. ^ 石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 58ページ
  23. ^ 淺川2009、p55-p61。品川沖は遠浅であるため大口径砲を搭載した大型艦は接近できず、小型艦に対抗できれば十分と考えられた。また、正面だけでなく、突破された場合のことも考慮して背面にも砲台が設けられた。
  24. ^ 淺川2009、p64
  25. ^ 翌嘉永7年9月21日(1854年11月11日)、実際に 蒸気軍艦2隻(咸臨丸及び朝陽丸)が発注されている
  26. ^ 大日本古文書』の幕末関係資料に「右御料理百川に被仰付之」とあり、安政元年頃のかわら版『武州横浜於応接所饗応之図』にも百川とあるが、「大日本古文書」には賀宮ノ下岩井屋富五郎が請け負ったとする資料も含まれている
  27. ^ 『函館市史』通説編第1巻”. 函館市. 2014年8月6日閲覧。
  28. ^ a b 沖縄県立博物館・美術館 通訳案内士研修資料” (PDF). 国土交通省. p. 149. 2014年6月7日閲覧。 “その後、1987年に沖縄へ戻りました”
  29. ^ #次席将校p.66
  30. ^ 『御侍中先祖書系圖牒』「明神善秀」項による。

参考文献

  • William Alexander Graham (Author), "The Papers of William Alexander Graham. Volume IV, 1851-1856." Raleigh: State Department of Archives and History, 1961. ASIN: B000LLC9GQ
  • K. Jack Bauer, "A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways", University of South Carolina Press (July 1, 1989), ISBN 978-0872496712
  • 松永市郎 『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』、光人社、1991年 ISBN 4-7698-0556-x
  • 元綱数道 『幕末の蒸気船物語』、成山堂書店、2004年 ISBN 978-4425302512
  • フォス美弥子編訳『幕末出島未公開文書 ドンケル・クルチウス覚え書』、新人物往来社、1992年、ISBN 440401905X
  • 松方冬子『オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」』、中央公論新社〈中公新書〉、2010年
  • 東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』1999年発行
  • 岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』、洋泉社(2006年)。ISBN 978-4862480286
  • 加藤祐三『幕末外交と開国』、ちくま新書(2004年)。ISBN 978-4480061539 
  • 石井孝『日本開国史』、吉川弘文館(2010年)。ISBN 978-4642063616。初版は1972年
  • 淺川道夫『お台場 品川台場の設計・構造・機能』、錦正社(2009年)。ISBN 978-4764603288
  • 淺川道夫『江戸湾海防史』、錦正社(2010年)。ISBN 978-4764603325
  • 福地源一郎『幕府衰亡論』、平凡社(1967年)。ISBN 978-4582800845
  • 函館日ロ交流史研究会『会報 No.9 1998.8.11』津軽海峡を封鎖した異国船

関連項目

外部リンク