篠原信一
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2015年9月13日、阪神競馬場にて | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Shinichi Shinohara | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
原語表記 | しのはら しんいち | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | 青森県東津軽郡平内町[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1973年1月23日(51歳)[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 190cm[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 135kg[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
階級 | 男子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
段位 | 6段[2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
JudoInside.comの詳細情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2015年2月23日現在 |
篠原 信一(しのはら しんいち、1973年1月23日 - [1])は、日本の柔道家(六段[2])。
青森県東津軽郡平内町生まれ[1]、兵庫県神戸市長田区出身[2][3]。身長190cm[1]、体重135kg[1]。血液型はB型[2]。
芸能事務所「エースアラウンド」所属(業務提携)[2]。得意技は大外刈り[2]。
人物
父は建築業をしていた。10歳年下の妹がいる[4]。
中学入学と同時に新設された柔道部に入部して(本人曰く「無理矢理入れられた」とのこと)柔道を始め[4]、育英高等学校を経て天理大学体育学部へ進学[5]。
大学生の時に才能が開花し、外国人に負けない体格と技術、パワーによって多くの大会を制覇した[5]。
天理大学卒業後は旭化成に入社し、シドニーオリンピック100kg超級にて銀メダルを獲得する(後述する誤審問題を参考)。2001年から天理大学体育学部専任講師 兼 同大学柔道部監督[4]、2003年に現役を引退した。2004年に同准教授に昇格[4]。2008年から2012年まで柔道日本男子代表監督を歴任。2013年3月末で天理大学を退職[6]。
野村忠宏は天理大学の後輩であり、先輩・後輩の枠を越えて仲が良い[7]。
私生活では1995年11月に天理大学の1学年上の女性と結婚[4]。旭化成に所属していた時の結婚であり、最初は宮崎県延岡市内で生活していたが、試合で勝てず結果を出せなくなってくると、大学時代の恩師・正木嘉美から「天理で練習しろ」と言われ、妻を延岡に残して、天理大学寮の寮監として天理に移る。一年後には妻も天理へ来て再び同居生活を始めた[4]。4人の子(3男1女)の父親でもある[4]。3人の息子は柔道をやっているが、篠原が息子達に対して指導することはなく、「顧問の先生や、道場の先生から教わりなさい」と篠原は言っている[4]。
娘に注意したいことがある時は、娘に嫌われたくない思いがあるためか、妻を介して間接的に注意させているという[8]。
自宅の換気扇の下でタバコを吸いながらコーヒーを飲んでいる時が、リラックスできる時間だと語っている[8]。
来歴
高校まで
雲雀丘中学1年の時に体格の良さを買われて柔道を始めた。しかし、遊びたい盛りでもあり、毎日辞めることばかり考えていて、実際に練習もしょっちゅうサボっていた。それでも中学3年の時に神戸市の大会で3位になった[4]。「中学を卒業したら働いて、車でも買って遊ぼう」と考えていたものの、これがきっかけで育英高校柔道部監督の有井克己に誘われ[4]、県内の強豪校である育英高校に進むこととなった[9][10]。
高校時代は柔道部を辞めたいと思いながらも、監督の有井克己が怖くて辞めることができなかった。実際、よく殴られたりもしたという。そんななかにあって、2年の高校選手権の個人戦では初戦で敗れたものの、団体戦では5位となった。3年の時にはインターハイ重量級に出場するが、決勝トーナメント2回戦で大阪工大付属高の吉野賢治に技ありで敗れた[9][10]。
大学まで
高校卒業後は就職する意志が強かったが、高校柔道部監督の有井の強い勧めで[4]、1991年には有井と大学時代に同期だった元世界チャンピオンの正木嘉美がいる天理大学へ進んで指導を受けることになった[9][10]。1年の新人体重別95kg超級では5位にとどまったものの、強化選手に選ばれた。強化合宿では世界チャンピオンであるJRAの小川直也の稽古相手を務めた[11]。
2年の優勝大会では3位となった。ジュニア体重別では決勝で大学の1年後輩である真喜志慶治に横四方固で敗れたものの、「荒削りで稚拙な面も多いが、技に秘めたパワーと、常に前に出るその姿勢は今後を楽しみにさせる逸材」と評価された[12]。
3年の時には正力杯の初戦で東海大学1年の上水研一朗に判定で敗れるも、無差別で争われる全日本学生選手権では決勝で近畿大学3年の武村雄太を大外刈で破り全国大会で初優勝を飾った。なお、この時には畳の上でサッカーの三浦和良のカズダンスを真似た篠ダンスなるものを披露したが、周囲の指導者から注意されて、それ以降は封印することになった。一方、今回の優勝をきっかけに世界を目指す気持ちが芽生えたともいう[9][10]。優勝大会でも決勝の近畿大学戦で勝利するなど、チームの5年ぶりの優勝に貢献した。正力国際では決勝でドイツのフランク・モラーに払巻込で敗れて2位にとどまった。フランス国際では決勝でエストニアのインドレク・ペルテルソンに崩上四方固で敗れた[9][10]。
4年の時には講道館杯決勝で日本道路公団の三谷浩一郎を有効で破って優勝した。正力杯では決勝で真喜志 を効果で破って優勝すると、全日本学生選手権の決勝でも前年に続いて武村を大外刈で下して学生2冠を達成した。優勝大会では決勝の近畿大学戦において警告で勝利するも、チームは2位に終わった。ワールドカップ国別団体戦では3位になった。嘉納杯では準決勝でモラーに1-2の判定で惜敗して3位だった。続く講道館杯では決勝で小川を3-0の判定で破り優勝した。フランス国際の決勝では世界チャンピオンである地元フランスのダビド・ドゥイエを内股の有効で破って優勝を飾った。翌週のオーストリア国際では準決勝でマルナカの増地克之に技ありで敗れて3位だった[10]。
社会人時代
1995年には大学を卒業して旭化成の所属となった。全日本選手権に初出場すると、準決勝で会社の2年先輩で86kg級の世界チャンピオンである中村佳央と対戦することになった。この試合では序盤、中村を崩袈裟固で抑えこむが11秒で逃した。終盤には中村の小外刈に内股で応じたところを中村が裏投げ風に切り替えして両者ほぼ同体で倒れこんだ。最初は中村の有効ポイントになるも、主審の川口孝夫によって篠原のポイントに訂正されて、結局篠原の勝利となった。この一戦は技を仕掛けた中村のポイントではないかとの声もあり、篠原自身も「あの試合は負けていたようなものだからラッキー」とコメントした。決勝では気持ちの整理が付かない状況で小川と対戦すると、支釣込足から腕挫腕固を極められて寝技に持ち込まれると、横四方固で一本負けして2位にとどまった[13]。選抜体重別では準決勝で増地に判定で敗れて3位に終わるものの、世界選手権代表に選出された。世界選手権では無差別に出場すると、準決勝でロシアのセルゲイ・コソロトフに開始30秒の大内刈で敗れるも、3位決定戦でベルギーのハリー・ファンバルネベルトを内股すかしで破って3位になった。その後、天理大学のハンドボール部員だった女性と結婚した。続くアジア選手権では95kg超級と無差別の2階級制覇を達成した[10]。
1996年のドイツ国際では初戦で敗れると、選抜体重別では準決勝で小川に注意で敗れて3位、全日本選手権でも3回戦で三谷に内股すかしで敗れるなどして結果を残せず、アトランタオリンピック代表にはなれなかった。その後、マルセイユ国際で優勝すると、嘉納杯では決勝で三谷を大外刈で破って優勝した[10]。
1997年のロシア国際では初めてカラー柔道着を着用して大会に出場するものの、2回戦で地元ロシアのタメルラン・トメノフに有効を3つも取られて敗れるが、敗者復活戦を勝ち上がって3位になった[14]。フランス国際では5試合オール一本勝ちして2年ぶり2度目の優勝を飾った。選抜体重別では決勝で警視庁の真喜志を効果で破って初優勝するも、全日本選手権では3回戦でJRAの賀持道明に判定で敗れたが、世界選手権代表に選出された。東アジア大会では優勝を飾った。世界選手権では3回戦でトメノフを大外刈で破るなどして決勝まで進むと、地元のドゥイエと対戦することになった。この試合では常に前に出て積極的に攻める姿勢を見せていたにもかかわらず、逆に指導ポイントを取られると、終盤には反則負けとなる不可解な敗戦を喫した。「試合に負けて勝負に勝った」とも評される一戦となった[15][10]。講道館杯の100kg超級決勝では、大学の2年先輩となる新日鉄広畑の養父直人を体落で破って優勝した[10]。
1998年の選抜体重別では大学の4年後輩となる村元辰寛を内股で破って優勝した。全日本選手権では東海大学2年の井上康生を合技で破って初優勝を飾った。ワールドカップ国別団体戦でも優勝した。アジア大会では左膝を負傷しながらも、決勝でイランのマフムード・ミランを内股すかしで破って優勝した[10]。
1999年の選抜体重別では決勝で明治大学1年の棟田康幸を効果で破って優勝した。天覧試合となった全日本選手権では、大会史上最年少の18歳で決勝まで勝ち上がってきた棟田を大外刈の技ありで破って2連覇を飾った[16]。世界選手権の100kg超級では決勝でペルテルソンと対戦すると、警告でリードされるも終盤に大外刈を決めて優勝した。無差別の決勝ではトルコのセリム・タタログルを内股で破った。今大会では総計11試合のうち10試合で一本勝ちする圧倒的強さで、山下泰裕、小川、ドゥイエに次ぐ史上4人目の世界選手権での2階級制覇を達成することになった[10]。
2000年の選抜体重別では会社の後輩でもある村元を技ありで破って優勝すると、全日本選手権では決勝で井上を警告で破って大会3連覇を飾り、シドニーオリンピック代表に選出された。シドニーオリンピックでは準決勝でトメノフと対戦すると、ポイントをリードされるも大外刈で逆転勝ちした。決勝ではドゥイエと対戦すると、1分半過ぎに篠原の内股すかしが決まったと思われたものの、逆にそれがドゥイエの有効ポイントと判断された。その後ドゥイエは注意を受けてポイントで並ぶものの、終盤にドゥイエが内股返で有効を取り返したために有効1つの差で篠原が敗れることになった。終了直後に監督の山下泰裕が篠原の内股すかしは篠原の一本であったとして抗議したものの、IJF試合審判規定にある「一度審判員が判定を下して畳から離れたらその判定を変えることはできない」という条項に抵触することもあって、結果として抗議が受け入れられることはなかった(詳しくは次項の「誤審問題」を参照のこと)[10]。
2001年の選抜体重別では会場でドゥイエが見つめる中、村元を技ありで破って大会5連覇を達成した。全日本選手権では決勝で井上に判定で敗れて4連覇はならなかった。世界選手権では準々決勝でロシアのアレクサンドル・ミハイリンに開始早々の隅返で敗れるが、敗者復活戦を勝ち上がって3位になった。さらに国体成年男子の部には奈良県代表として出場するも、準決勝で東京都代表の田村和也に内股すかしで敗れた[10]。
2002年には旭化成を退社すると、天理大学柔道部の監督に就任した[10]。
2003年には約1年半ぶりの試合となる全日本選手権に出場するが、準決勝で鈴木桂治に1-2の判定で惜敗して3位に終わり、その後現役引退を表明した[10]。
誤審問題
シドニー五輪100kg超級決勝で、フランスのダビド・ドゥイエと対戦した際に、ドゥイエが内股を仕掛けてきたのに対して篠原は内股すかしで返した。これに対して、主審はドゥイエの有効と判定。副審の一人は篠原の一本と判定したものの、もう一人の副審が主審の判定を支持したため、ドゥイエに有効が与えられた。選手団監督の山下泰裕は、審判委員から審判団の再協議を申し出られたにもかかわらず、フランス語の分からない山下はそれに気づかず試合の継続を許してしまった。その後、ドゥイエが注意を受けたことにより、篠原に有効が与えられ両者のポイントが並んだが、さらにその後、ドゥイエが再び技で有効を奪い、そのまま試合が終了。有効一つの差でドゥイエの優勢勝ちとなった。試合後、山下泰裕選手団監督及び日本選手一同が猛抗議したが、試合場から審判が離れた後は判定は覆らないという国際柔道連盟試合審判規定第19条によりドゥイエの優勝が確定した[17]。
この結果に対して、日本では、柔道関係者、マスコミともに誤審と断定して審判を批判した[18]。中には主審を務めたクレイグ・モナガンやニュージーランド柔道連盟(主審の出身国)に脅迫まがいの電子メールを送りつける者までいた。それでも篠原は「審判もドゥイエも悪くない。全て自分が弱いから負けたんです」とそれ以上言明せず、潔く引き下がった[19]。
なお篠原本人は、この試合の敗因は問題となった判定そのものではなく、その後に気持ちを切り替えて、残りの時間で逆転することができなかった自身の弱さであると主張している[4]。
この事件以後、国際柔道連盟では、誤審防止や判定の難しいケースに備えてビデオ判定を導入し、ルールの徹底と試合判定の明確化に力を入れるようになった。又、現在のジュリー制度のきっかけとなった試合でもある[20]。
なお、この二人の誤審問題はこれが初めてではない。この事件の3年前、ドゥイエの地元フランスで開催された世界柔道選手権大会の決勝でも二人は対戦しているが、明らかに不可解な判定でドゥイエが勝利している。この件に関しても日本側は抗議したが大きく問題視されることはなかった[21]。
引退後
天理大学准教授 兼 同大学柔道部監督として後進の指導の他、柔道国際大会での解説や関連番組へのゲスト出演を行った[4]。
2008年11月4日には、北京オリンピックで金メダル2個を獲得して五輪後に勇退した斉藤仁の後任として、柔道男子日本代表監督に就任した。篠原は現役引退後は代表監督就任まで日本代表コーチの経験がなく、異例の代表コーチ未経験での代表監督就任となった。天理時代からの愛弟子である穴井隆将や西山大希、森下純平、上川大樹などの新鋭を発掘し、マンツーマン指導により強豪選手へと育て上げた。2010年世界選手権ではその新鋭たちの活躍により日本男子の獲得メダル数は過去最大となった。だが、2012年ロンドンオリンピックでは日本男子史上初の金メダル0個という結果に終わった。篠原は「これは私の責任。特に選手に対して申し訳なく思う」とコメントし、進退について全日本柔道連盟に一任した。強化委員長の吉村和郎は続投に強い支持を表明し[22]、自身も続投に前向きの姿勢を示していたが[23]、10月に入ると続投を固辞する姿勢を見せるようになり、結果として辞任することになった[24]。
2013年3月末に天理大学を退職[25]。大学を辞めた理由は柔道界の不祥事とは関係がなく、元々柔道指導者は柄に合っていないと考えていたことや40歳になったことをきっかけに妻を代表取締役とする産業廃棄物処理会社で一般廃棄物、医療廃棄物、産業廃棄物及びリサイクル物処理業務関連の仕事に取り組むことになったため(役職は専務)[26]。
主な戦歴
- 95kg超級での戦績
- 1990年 - 高校選手権 団体戦 5位[4]
- 1993年 - 全日本学生選手権 優勝[4]
- 1993年 - 優勝大会 優勝[4]
- 1994年 - 講道館杯 3位[3]
- 1994年 - 嘉納杯(95kg超級)3位[3]
- 1995年 - フランス国際 優勝[3]
- 1995年 - 全日本選手権 2位[3]
- 1995年 - 全日本選抜体重別 3位[3]
- 1995年 - 世界選手権(無差別)3位[3]
- 1995年 - アジア選手権 95kg超級 優勝 無差別 優勝[3]
- 1996年 - 全日本選抜体重別 3位[3]
- 1996年 - 嘉納杯(95kg超級)優勝[3]
- 1997年 - フランス国際 優勝[3]
- 1997年 - 全日本選抜体重別 優勝[3]
- 100kg超級での戦績
- 1998年 - 全日本選抜体重別 優勝[3]
- 1998年 - 全日本選手権 優勝[3]
- 1999年 - 全日本選抜体重別 優勝[3]
- 1999年 - 全日本選手権 優勝[3]
- 1999年 - バーミンガム世界選手権(100kg超級・無差別)優勝[3]
- 2000年 - 全日本選抜体重別 優勝[3]
- 2000年 - 全日本選手権 優勝[3]
- 2000年 - シドニーオリンピック100キロ超級 準優勝[2]
- 2001年 - 全日本選抜体重別 優勝[3]
- 2001年 - 全日本選手権 2位[3]
- 2001年 - ミュンヘン世界選手権(100kg超級)3位[3]
- 2003年 - 全日本選手権 3位[3]
受賞
主な出演
テレビ番組
テレビドラマ
CM
- スパワールド世界の大温泉(2015年) - 夏季の広告イメージキャラクター[30]
- サントリー「プレミアムボス 微糖」(2015年)[31]
- ポッカサッポロフード&ビバレッジ「がぶ飲みしりーず」(2016年) [32]
脚注
- ^ a b c d e f g h Biography and Olympic Results - sports-reference.com、2016年1月8日閲覧
- ^ a b c d e f g h i 篠原信一 - As around、2016年1月8日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w “著名な柔道家インタビュー 篠原信一氏 その1”. 全日本柔道連盟. 2016年1月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 週刊文春 2015年12月10日号 p.74 - 77「新・家の履歴書」
- ^ a b “タレント紹介 篠原信一”. ネッツ・コミュニケーションズ. 2016年1月9日閲覧。
- ^ “ブースタークラブ 名誉会員 篠原信一氏”. バンビシャス奈良 オフィシャルWEBサイト. 2016年1月9日閲覧。
- ^ “オリンピックメダリスト対談 篠原信一×野村忠宏”. 東建コーポレーション. 2016年1月9日閲覧。
- ^ a b “TVでた蔵「2015年2月2日放送 しゃべくり007」”. ワイヤーアクション (2015年2月2日). 2016年1月9日閲覧。
- ^ a b c d e 「ZOOM IN 素顔 篠原信一」近代柔道 ベースボールマガジン社、1994年3月号、62-63頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「篠原信一 引退特集」近代柔道 ベースボールマガジン社、2003年7月号、3-27頁
- ^ 「第9回国際試合柔道選手強化合宿」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年2月号、31頁
- ^ 「第24回全日本ジュニア柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年1月号、67頁
- ^ 「平成7年全日本柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1995年6月号、3-43頁
- ^ 「野村が圧倒的強さで金!」近代柔道 ベースボールマガジン社、1997年3月号、54頁
- ^ 「1997年世界柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1997年11月号、10頁
- ^ 「男女全日本選手権」近代柔道 ベースボールマガジン社、1999年6月号、3-19頁
- ^ 日刊スポーツ 2000年9月23日 1 - 3面 など各紙
- ^ 正論 2001年3月号 山下泰裕・松山政司対談 より
- ^ “シドニー五輪2000「(9/30)<柔道>篠原の決勝務めた主審に脅迫状」”. 日本経済新聞社. 2016年1月9日閲覧。
- ^ 『毎日新聞』2012年7月30日
- ^ 以上、『Number』2000年8月号より
- ^ 吉村強化委員長「おれの責任」進退伺提出へ サンケイスポーツ 2012年8月5日
- ^ 柔道の篠原監督続投の意向 女子の園田監督も続投へ スポーツニッポン 2012年9月9日
- ^ 康生新監督!金なし男柔道立て直す 日刊スポーツ 2012年11月1日
- ^ 篠原前男子代表監督氏 天理大退職へ スポーツニッポン 2013年3月30日
- ^ 「篠原前監督 40歳で産廃業界へ転身」FLASH 光文社、2013年4月30日号、18-19頁
- ^ “矢口真里 篠原信一の壁ドンにびっくり「すごい迫力」”. スポニチ (2015年8月6日). 2015年8月6日閲覧。
- ^ “JOCスポーツ賞 年度賞・特別栄誉賞”. 日本オリンピック委員会. 2016年1月9日閲覧。
- ^ “満島ひかりが明智小五郎役、乱歩原作ドラマに菅田将暉ら”. CINRA.NET (2016年1月10日). 2016年1月24日閲覧。
- ^ “篠原信一、『進撃』大型巨人姿でCM出演”. ORICON (2015年6月25日). 2015年6月26日閲覧。
- ^ “宇宙人ジョーンズ&タモリさんが プレミアムな紅葉の京都を満喫! 新TV-CM「プレミアム京都」篇 9月29日(火)から全国オンエア開始”. CMジャパン (2015年9月28日). 2015年10月6日閲覧。
- ^ “篠原信一:ウェブ動画で高校生役 せりふ有りの演技にも挑戦”. MANTANWEB. (2016年3月15日) 2016年3月16日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 株式会社マイドス
- NIPPONごみゼロプロジェクト
- ミハリバン
- 篠原信一 - JudoInside.com のプロフィール(英語)
- 篠原信一 (@shinohara0123) - X(旧Twitter)