金野潤 (柔道)

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獲得メダル
日本の旗 日本
男子 柔道
アジア大会
1994 広島 95kg超級
アジア選手権
1991 大阪 無差別級
1993 マカオ 無差別級
1997 マニラ 95kg超級

金野 潤(こんの じゅん、1967年3月20日 - )は、日本柔道家(五段)

選手として全日本選手権アジア大会での優勝経験を持ち、現在は日本大学柔道部監督および文理学部准教授を務める。

経歴[編集]

学生時代[編集]

埼玉県川口市出身[1]。芝中学校にて柔道を始める。入学当初の入部第1希望は水泳部だったが、すでに水泳部が定員で空きが無かったため、第2希望の柔道部に回されたとの事[2]。しかし中学時代の金野は芽が出ず、周囲の部員がスムーズに昇級・昇段する中、金野は昇級審査に2回、昇段審査に3回落ちたほか、先輩部員からも柔道部特有のかわいがり(いわゆるシゴキ)を受けたそうである[2]

日本大学第一高等学校入学後も柔道部に入部。地道な努力の結果、一気に才能が開花し、3年次の東京都大会個人戦を制した[2]。本人曰く、“柔道をやっていて良かったと思えた最初の経験”との事。

高校卒業後は日本大学に進学すると、1986年全日本ジュニア全日本学生体重別選手権で準優勝し、一躍その名を知られた。一方で、この頃から一年年下の小川直也(明治大学)が台頭し、以降、金野の最大のライバルとして永く立ちはだかる事となる。 実際に大学2年までは小川に勝ち続けていた金野だが、小川が補欠として参加した1987年世界選手権で優勝するなど勢いを付けると、金野にとって小川は非常に大きな壁となっていった[注釈 1]

2度の全日本選手権制覇[編集]

大学卒業後は、綜合警備保障へ。1989年太平洋選手権1994年アジア大会など国際大会で優勝するも、前述の通り小川が最大の壁となって世界選手権やオリンピックへの出場は叶わなかった[注釈 2]。 国内最高峰の柔道大会といえる全日本選手権においても、1990年3位、1991年準優勝、1993年準優勝と安定した成績を残し、同大会で連覇を続ける小川を追う最有力候補とされた。 またこの頃は柔道修行の一環としてサンボも経験し、1993年9月に開催された第19回全日本サンボ選手権大会(100kg超級)では見事優勝を果たしている。

1994年の全日本選手権では、準決勝で小川を破った吉田秀彦との決勝戦で、自身より遥かに軽量の吉田に対して金野は蟹挟を仕掛け、これにより吉田は膝を負傷した。金野はさらにケンカ四つの立ち姿勢から腕挫腋固をかけて吉田の肘関節を負傷(これにより釣手を痛めた吉田はこの試合で得意技の内股が殆ど出なくなった)させ、更に2発目、3発目の蟹挟を掛けるなどした[注釈 3]。この試合中に気迫溢れる両者が睨み合いとなり武道館内を騒然とさせたシーンは、全日本選手権史の名勝負として多くの人々の記憶に残る。結果は旗判定により、金野が悲願の初優勝を飾った。

なお、後日雑誌のインタビューにて金野は、「あの時の吉田君は凄かった。パワーも重量級と互角で、技のキレも抜群。内股を受けた時には背中に寒気が走った。」「あの時は館内の99%が吉田君の応援で、(自分の)優勝を喜んでくれたのは日大関係者だけだった。」と述懐している[2]。また、試合後には全国の柔道ファンから抗議の手紙も多く届いたようだ[2]

1997年大会では、絶対王者・小川の引退後という事もあり、大会パンフレットでも『柔道、新時代』と名打つなど篠原信一真喜志慶治ら若手の活躍が注目された。しかし、1988年より10年連続10回目の出場を迎えた30歳の金野が中村佳央三谷浩一郎増地克之ら強豪を下し、決勝戦では天理大学学生の村元辰寛を破って自身2度目の優勝を果たした。大会後の雑誌インタビューで「旧石器時代に引き戻してしまいました」と金野。なお同大会で30歳代での優勝は、1974年佐藤宣践以来、実に23年振りの快挙であった。

結局、全日本選手権には、引退までに当時最多となる12度の出場を数えた[注釈 4]

引退後[編集]

引退後は柔道修行のため米国へ留学。帰国後は2003年より母校・日本大学柔道部のコーチに就任し、現在は男子柔道部監督として、同じく日大OBで総監督の高木長之助らと共に後進の指導に当たっている[3]。また、父親が岩手県陸前高田市の出身であった関係で同市のふるさと大使を務めており、東日本大震災後に陸前高田市内で開催した柔道教室では「陸前高田の柔道の灯をともし続けて欲しい」とエールを送った[1]

主な成績[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ ただし、この両者の対戦は1993年の全日本選手権決勝で小川が足車で一本勝ちした試合を除いては、際どい接戦になる事が殆どで、1990年体重別選手権準決勝、1995年講道館杯決勝、1996年全日本選手権準々決勝などは金野の勝ちになっても必ずしもおかしくないほど微妙な内容の試合であった。また1995年の体重別準決勝では、牽制しあうあまり両者反則負けにもなっている。
  2. ^ 結局、引退までオリンピック・世界選手権への出場は無かった。世界選手権が制定された1956年以降に全日本選手権を獲得した人物で、オリンピックか世界選手権へ出場経験が無いのは、竹内善徳と金野の2人のみである。
  3. ^ 蟹挟については、1991年の同大会準々決勝でも金野による蟹挟で正木嘉美が骨折している。1980年の全日本体重別選手権において山下泰裕遠藤純男の蟹挟で骨折して以来、技の制限について永く議論されてきたが、1994年のルール改正で禁止技となった。
  4. ^ 2011年現在は、増地克之の13度出場が最多。

出典[編集]

  1. ^ a b “【陸前高田】柔らの道一直線 日大・金野監督が指導”. 岩手日報 -被災地ニュース- (岩手日報社). (2011年11月28日). http://www.iwate-np.co.jp/hisaichi/h201111/h1111281.html 
  2. ^ a b c d e “CLOSE-UP 金野潤”. 近代柔道(1997年7月号) (ベースボールマガジン社). (1997年7月20日) 
  3. ^ “決定版!柔道技名まるわかりBOOK -実演者紹介 金野潤-”. 近代柔道 (ベースボールマガジン社). (2008年1月10日) 

外部リンク[編集]