光厳天皇

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光厳天皇
光厳法皇像(常照皇寺所蔵)

元号 元弘
正慶
時代 鎌倉時代南北朝時代
先代 後醍醐天皇
次代 光明天皇

誕生 1313年8月1日正和2年7月9日
一条邸
崩御 1364年8月5日貞治3年/正平19年/7月7日
常照皇寺
陵所 山国陵
追号 光厳院
(光厳天皇)
量仁
別称 正慶天子
持明院殿
勝光智(法名)
光智(法名)
小倉法皇
無範和尚
父親 後伏見天皇
母親 西園寺寧子
子女 光子内親王
興仁親王(崇光天皇
弥仁親王(後光厳天皇
義仁親王
尊朝入道親王
皇居 京都御所
二条富小路殿
親署 光厳天皇の親署
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光厳天皇(こうごんてんのう、1313年8月1日正和2年7月9日〉- 1364年8月5日貞治3年7月7日〉)は、日本北朝初代天皇(在位:1331年10月22日元弘元年9月20日〉- 1333年7月7日正慶2年5月25日〉)。量仁(かずひと)。

後醍醐天皇に廃位されたが、復権ののち北朝を開いた。光明天皇の在位中は院政を敷き、治世下で勅撰集である『風雅和歌集』を自ら編纂した。土御門東洞院殿(後の京都御所)を皇居に治定した人物として知られる。

なお、在位期間は南北朝時代より前であるが[注 1]、明治時代以降歴代天皇から除外され、便宜的に北朝初代天皇とされている。ただし、最も信頼しうる皇室系図とされる『本朝皇胤紹運録』よる歴代数では[1]第96代天皇とされる[2]

生涯

持明院統正嫡として

花園法皇像

後伏見上皇と正妃(女御)西園寺寧子の第一子(後伏見天皇の第三皇子)として正和2年7月9日に誕生。8月17日に親王宣下され「量仁」と命名される[3]。記録にある限り、文保3年から正中2年(1319年-1325年)まで(7歳から13歳頃)親族と持明院殿にて同居し周到な帝王教育が施された[4]。後伏見上皇から琵琶、永福門院から和歌、花園上皇から学問を学び、花園からの教育は「誡太子書」を授かるなど特に注目される。

両統迭立

光厳天皇(量仁親王)が生まれた時代には、鎌倉幕府の裁定で持明院統大覚寺統から交互に天皇を立てていた(両統迭立)。正安3年(1301年)1月、量仁の父の後伏見天皇は大覚寺統の後二条天皇に譲位したが、時に13歳の後伏見にまだ子はなく、皇太子に立ったのは後伏見の弟で5歳の富仁親王(花園天皇)であった。7年後の徳治3年(1308年)8月、後二条が24歳で急死し、花園が即位する。この時点でも後伏見の嫡男の量仁は生まれておらず、また大覚寺統嫡系の邦良親王(後二条皇子)も未だ9歳で病弱でもあった。そこで、後二条の弟で21歳の尊治親王(後醍醐天皇)が中継ぎ的に立太子することとなった。

それから10年後の文保2年(1318年)2月、花園は後醍醐に譲位し、皇太子には19歳に達した邦良が立った。後伏見・花園の父の伏見法皇は前年に崩じていたが、後二条・後醍醐の父の後宇多法皇は健在で大覚寺統の力は強く、この時6歳の量仁親王はようやく邦良の次の皇太子に立てられることとされた。ところが皇太子邦良は8年後の嘉暦元年(1326年)3月に病死し、幕府の裁定で7月24日に量仁が皇太子に立った。わが子の立太子を望む後醍醐は、裁定の無効を主張して譲位しようとしなかった。

即位

光厳天皇の大嘗祭を描いたもの

元弘元年(1331年)8月、倒幕の企てが発覚した後醍醐は、南山城笠置山に立て籠もる(元弘の乱)。9月18日、幕府の使者が関東申次西園寺公宗に皇太子量仁親王の践祚を申し入れ、9月20日、後鳥羽院を先例とし、後伏見上皇の詔によって、19歳の光厳天皇が土御門東洞院殿にて践祚した。父の後伏見上皇は院政を開始し、皇太子には病死した大覚寺統邦良親王の皇子の木寺宮康仁親王が立てられる。

後醍醐天皇は鎌倉幕府によって廃され、捕らえられたのち、10月6日に光厳天皇へ剣璽を渡した[注 2]。なお、この際朝廷は、文治の例に基づき四条隆蔭・三条実継・冷泉定親の3人に剣璽の検知をさせていた。すると、宝剣の石突が落ち神璽の触穢や筥の縅緒が切れるなどの神器の破損が判明したが「(神器が少し破損している以外)其の体相違無く、更に破損無し」との回答を得る[6][7]。 10月8日、西園寺公宗が後醍醐の本人確認を行った。その際後醍醐は西園寺公宗に一連のことは「天魔の所為」であるから寛大な措置で許してくれるよう幕府への取り次ぎを訴えた。このことについて花園は「歎息すべきことなり」と所感を記す[3][8]

10月13日、光厳天皇は二条富小路殿に遷幸した[9]。なお、土御門東洞院殿は光厳天皇践祚の場であり、在位の大半を過ごすのは、この二条富小路殿である。 10月25日、再び幕府の使者が上洛。後醍醐らの処分について「聖断たるべき(後醍醐天皇以下の処分は後伏見上皇のご判断によるべき)」旨を後伏見上皇に申し入れるが、後伏見は「関東の計らひたるべき(幕府が決定するべき)」旨を伝え[10]、後醍醐は翌年隠岐に流された。

元弘2年3月22日、即位礼を挙行する。5月には皇室伝来の琵琶である玄象・牧馬を弾き、密かに広義門院が聴きに来たという[11][12]。元弘2年を正慶元年に改元し、正慶元年11月13日に大嘗祭を挙行。後伏見と花園は同車して見物し、花園は同日の日記にて、「天下の大慶、一流の安堵なり。大慶何事かこれに如かんや」と慶びの念を記している[13][14]

廃位

正慶2年/元弘3年(1333年)5月7日、後醍醐の綸旨に応じた足利高氏(尊氏)の軍が、京都六波羅探題を襲撃。 六波羅探題に避難していた光厳天皇・後伏見上皇(治天の君)・花園上皇・康仁親王(春宮)らは、北条仲時北条時益に伴われ東国へと逃避行を開始[注 3]。しかし道中で野伏に襲われ時益は討死にし、近江国番場宿滋賀県米原市)でも佐々木道誉が差し向けたとも言われる野伏[注 4]に進路を阻まれる。 『太平記』によれば、道中光厳自身も流れ矢を受け左肘を負傷したとされる。
5月9日、ついに仲時ら武士432人が、光厳天皇らの御前で自決。この際、光厳らは「御肝心も御身にそはずただ呆れてぞ御座ありける」と、ただ呆然と見守ることしかなかったという[17][18]
光厳天皇は両上皇とともに捕らえられて、三種の神器や累代の御物を没収された。そして、5月17日、伯耆国船上山に移徙していた後醍醐天皇の詔勅によって、光厳天皇在位中の元号、補任、立太子、院号宣下などが取り消されてしまう[19][20]。深津の言葉を借りれば、光厳天皇は、天皇としての政治的行為のすべてを「無かったこと」にされ、「光厳天皇」の存在そのものを全否定されたのであった[19]。5月25日、後醍醐天皇の詔によって、光厳天皇は退位した[21]
その後、5月28日に帰京し、持明院殿に遷御。帰京より1カ月程した6月26日、持明院統の治天であった後伏見上皇が失意のあまり出家し、光厳に文書を出して出家を勧めた。しかし、光厳は「思ひよらぬ」と堅く断ったという[22][23]


12月頃より、帰京後の光厳天皇ら持明院統の皇族に対して、後醍醐天皇は融和策を採っていたとされる[24]。これに先立つ6月7日、後醍醐天皇の綸旨によって持明院統の全所領が安堵され[25]、12月10日には、光厳は後醍醐天皇によって「皇太子(光厳)は、謙譲の精神が道理に合い、恵沢も広く及んで立派であるから、皇太子の位を退いた。よって、先例は無いが崇敬の念を示すため、特別に太上天皇号を贈る」と尊号が贈られた[注 5]

復権

伊勢神宮に奉納するため自ら書写した般若心経。

建武新政の失敗はわずかな間に明らかとなっていった。混迷が拡大する中、建武2年(1335年)8月に西園寺公宗による後醍醐打倒の計画が発覚するが、『小槻匡遠記』には公宗が「太上天皇」を奉じて乱を企てたという記述がある[27]佐藤進一などの研究者は後伏見院ではないかとしているが、家永遵嗣など、光厳院を指したものであるとする研究者も存在している[28][29]。8月2日、西園寺公宗(光厳の従兄弟にあたる)が誅殺され[30]、11月22日に花園上皇が出家した[31]
建武3年(1336年)2月、光厳上皇は、新田義貞に敗れて九州に落ち延びていた足利尊氏に新田義貞追討の院宣を与えた。同時期納められた宸筆の写経の奥所には次のようにある。

延元元年三月二十五日、八幡大菩薩に奉納せんがため、之を書写す。願わくは一巻書写の功徳を以って、三界流転の衆生を救はしめん。太上天皇量仁。(大意:石清水八幡宮に奉納するため、これを書写した。願わくば、一巻書写の功徳を以って、三界流転の〈過去・現在・未来における因果が連続して迷い続けている〉すべての人々を救い給え。太上天皇量仁)

この光厳上皇が奉納した般若心経の奥書に関して、飯倉は、光厳上皇が持明院統の皇位恢復と戦乱からの民衆救済を願ったものだとした[32]。深津は、光厳上皇は自身が「天子」であるとの思いをもってこれらを奉納したとした上で、光厳上皇が治天の君となることを強く決意し尊氏に院宣を与えたのは、権力欲とは程遠い、乱世を収束させなければならないという公的な思いによるものであるとした[33]

2月25日に院宣を得た足利尊氏は盛り返し、5月25日、後醍醐方を破って上洛した。27日、後醍醐天皇は比叡山に避難するにあたって光厳上皇・花園法皇・豊仁親王らにも同行を求めるも、光厳は離脱し足利尊氏と合流した。『太平記』や『皇年代略記』に光厳と足利尊氏合流の経緯が記されている。光厳らは護衛とともに比叡山へと向かうが、光厳は急病と称し法勝寺九重塔の前で輿を止めさせて時間を稼ぐ。そうする間に足利尊氏が攻め入り、光厳を置いて護衛が花園らを連れて先に行くと、光厳を探していた足利尊氏と運良く合流することができたという[34][35]

8月15日、後鳥羽・光厳の先例を用いて、光厳の院宣により弟の豊仁親王(光明天皇)が践祚。光厳は治天の君として院政を開始した[注 6]

一方、三種の神器を譲与し、光明天皇より太上天皇号を賜った後醍醐は、12月21日に京都を脱出して大和国吉野に拠り、皇位の恢復を宣言した[注 7]ここに大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)の天皇が並立する南北朝時代が始まった。

吉野に拠った後醍醐は、暦応2年8月(1339年)に崩じたが、それまでに後醍醐の主だった武将も相次いで戦死ししてしまう。南北朝の初期段階で、早くも北朝の優勢が決した観を見せる。

治世

ウィキペディア「京都御所」より引用
京都御所(土御門東洞院殿)

治天の君となった光厳は、暦応3年5月14日に暦応雑訴法を制定し[40][41]貞和2年12月21日に倹約を命じる制符を発給[42]。後嵯峨院以来の院政を継承して法整備を実行した[43]。また、土御門東洞院殿を皇居に治定した[44][45][46]。 また文化面では、貞和2年に花園法皇監修のもと風雅和歌集を親撰し(貞和5年8月頃完成か[47])、持明院統の正嫡が修めてきた琵琶の最秘曲である啄木を伝受[48]。 宗教面では、天龍寺安国寺利生塔を院宣によって建立[注 8][51][52] 室町幕府とも、足利直義との強固な信頼関係を築き、積極的に政務を行って北朝天皇家をよく取り仕切ったとされる[53]

光厳院政に関しては、王朝の訴訟制度の展開過程から見れば光厳院政はその頂点にあった、という見解がある[54]。また、貞和年間に見られた光厳院政と室町幕府とが協調して行っていた公武徳政(政道興行)は、当時頻発していた自然災害に対応したものとされている[42]

一方で、二人の天皇が並び立ち互いに相手を偽主と呼ばわる状況にて朝廷の権威のゆらぎは否めなかった。暦応3年(1340年)10月、光厳院の弟の亮性法親王門跡として入る妙法院の紅葉の枝を折って咎められた佐々木道誉が、妙法院を焼き討ちにして幕府から流罪に処せられ(もっとも配流地には赴いていない)、康永元年9月6日、光厳自身も土岐頼遠によって乗車中の牛車を射られ挙句放り出されるという狼藉行為を受けた[55][56]

正平一統と三上皇拉致

ウィキペディア「賀名生」より引用
光厳上皇が幽閉された賀名生

光厳院政が活況を呈していた間、ほとんど逼塞状態にあった南朝方だったが、幕府内の対立が観応の擾乱に発展すると息を吹き返す。

観応2年/正平6年(1351年)11月、将軍足利尊氏は優位に立つべく南朝の後村上天皇に帰順し、同月7日に崇光は天皇を廃され、北朝は突如消滅した(正平一統)。 もっとも、直仁親王はこの時点で皇太子を廃されておらず[57][58]、南朝は光厳上皇のすべての所領を保証していた[59]。 観応2年12月23日、光厳は三種の神器を引き渡した[注 9][60]。25日に北朝の神器が南朝に到着すると[61]、28日に南朝は偽物と断じたはずの北朝の神器に対し、「厳重殊勝」に内侍所御神楽を行ったという[62][63][64]。同日後村上天皇は崇光天皇に尊号を奉り[65]、すでに尊号を受けていた光明上皇にも南朝から改めて尊号が贈られ[注 10][67]、同日光明は落飾した[68]。南朝は洞院公賢に御物の引き渡しを要求し、壺切御剣などの累代の宝物や後醍醐から偽物と言われた神器も南朝側に接収された。しかし、光厳上皇は、牧馬(琵琶の名器)や昼御座御剣など一部の御物は紛失したとして引き渡しを拒否、後村上の要請にも他の累代の楽器も紛失または焼失し箏だけしか渡せないと突き返したという[69]

しかし、明くる正平7年(1352年)閏2月20日、京都に進軍してきた南朝と足利方が再び戦火を交える。そして21日、男山八幡宮にいた後村上の勅書で光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王は、保護と称した男山への御幸を勧められた[70]。22日朝、男山へと向かう。 同日、今後の運命を予感した光厳は、持明院統に伝わっていた文書類を洞院公賢などに預けた[71][72][73][74]。 その後男山にも戦火がせまると、同年3月3日撤退する南朝軍によって三上皇と直仁は河内国東条へと移された[75]。なお、この時に保護から拉致へと切り替えられたとする意見もあるが[76]、洞院公賢や光厳の行動からもわかるように当初から北朝皇族を拘禁するつもりであったとする見方が一般的である[77]。 同年5月18日、義詮は楠木氏に縁のある祖曇を遣わして光厳らの帰京を交渉させ、6月には佐々木道誉が勧修寺経顕と光厳らの帰京を画策するも、さらに南朝本拠地である大和国賀名生奈良県五條市)に拉致されてしまう結果となった[78]

出家と帰京

ウィキペディア「金剛寺」より引用
天野金剛寺。右下に光厳天皇の分骨所が見える。

かねてより夢窓疎石に帰依していた光厳院だったが、廃位の際は、近江国より帰京し程無くして出家した後伏見法皇の出家の勧めを堅く断り、正平一統の際も、光明上皇の出家を批難して、幽閉生活となっても出家しなかった[79]。しかし、京の北朝方が光厳らの帰京を諦め光厳抜きで後光厳践祚の運びとなると、観応3年年8月8日に賀名生で出家し、法名を勝光智とした[注 11](後に光智に改める)。 8月、京都では正親町公蔭・楊梅重兼・大炊御門氏忠が後を追って出家したという[82][83]。 同年の6月、光厳の妃で、崇光上皇・後光厳天皇の国母であった正親町三条秀子(陽禄門院)が所労によって病み、11月に父邸にて薨去。42歳であった。

三上皇と直仁は、文和3年/正平9年(1354年)3月22日に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とした。 文和4年/正平10年8月8日(1355年)には光明上皇のみ京都に返される。

10月20日、光厳は崇光に全ての琵琶の秘曲を伝授し終え[84][85]、11月6日に孤峰覚明より禅衣を受け禅の道に没入し、世俗を断った[86][87]寿子内親王も直ちに出家し、翌年4月13日に禅衣を受けた[86]。なお、同年10月に後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とし、同時期同所にて光厳とは別流派である播磨局流の琵琶を学んでいたという[88]

南朝の軟禁下にあること5年、延文2年/正平12年(1357年)2月になって光厳は崇光上皇・直仁親王と共に金剛寺より還京し、2月18日に光明法皇のいる深草金剛寿院に入り、崇光上皇は広義門院の伏見殿に入った。19日には、お祝いを申し入れるべく参上した近衛道嗣や洞院公賢に光厳は会おうとせず、参入を禁じたという[注 12][90][91][92]。 3月に入って秀子の父の正親町三条公秀を召し、29日に面会。正親町三条公秀は洞院公賢宛の書状にこの日のことを「悲喜の涙に溺るる」ばかりであったと記す[93][94]。ついで嵯峨小倉に隠棲[95][96]春屋妙葩らに師事した。

貞治元年/正平17年(1362年)9月、法隆寺に参詣。これに関連して、法皇が大和・紀伊へ行脚に出て、吉野で後村上との再会を果たしたという話が『太平記』・『大乗院日記目録[注 13]に見える。かつての敵味方の交歓を描くこの話は、軍記物語『太平記』を締め括る名場面として知られるが、そのまま史実とみることは出来ない。

晩年・崩御

常照皇寺境内にある光厳天皇陵

光厳や広義門院は異例の形で即位した後光厳天皇を花園や光明と同様庶流の天皇として、直仁の出家により改めて崇光を正嫡とし、持明院統の経済的中核であった長講堂領を崇光上皇に譲った[97]。 この時期、後光厳天皇と光厳法皇の仲は頗る悪化していた[98]。その即位の経緯以外にも、かえって正統を装う必要のある後光厳が周囲の強い勧めでしぶしぶ琵琶の習得を始めたのにもかかわらず早々に笙に切り替えたこと、二条良基の勧めで京極派を捨てて二条派歌風に切り替えたことが関係悪化の要因になったと見られる[99]。勧修寺経顕の諫言によって和解するも、光厳は後光厳天皇の勅撰和歌集で二条派歌風をとる『新千載和歌集』への入集を拒否した[100][101]

ただし、最晩年の貞治2年に長講堂領や法金剛院領の伝領について、崇光の栄仁親王が皇位継承する若しくは後光厳との両統迭立の場合は崇光の子孫が相続し、後光厳の子孫が皇位継承する場合は後光厳の子孫が相続するように定めている[102][103]

貞治2年頃、丹波国常照皇寺京都市右京区京北井戸町)に移り禅僧としての勤めに精進し、『碧巌録』を研究し、「猿、子を抱いて帰る青嶂の裏。鳥、花を啣て落つ碧巌の前」という禅語によって悟りに至った[104][105]

貞治3年7月7日(グレゴリオ暦1364年8月13日・ユリウス暦8月5日)、遺偈と遺誡を遺しこの地で崩御した。宝算52(満51)。遺偈は次の句である。

有為の報を謝し、無相の衣を披く。経行坐臥、千仏威儀なり。(この世の因果によってもたらされるすべてに感謝し、悟りに役立つ衣すなわち袈裟を身にまとうならば、日々の修行も行動も、すべての仏たちが行っていた儀に同じである[106]



「ただ須らく山阿に就いて収痤すべし…其れ或いは力を省するに便なれば、則ち火葬また可なり」という遺誡に従って、常照寺裏山にて荼毘に付され埋葬された。

その後の文明3年2月5日(西暦1472)、後花園天皇が自身の遺勅によって、光厳天皇陵に合葬される[107]

人物

歌道

光厳は歌道にも優れ、後期京極派の重要な一員である。花園院の監督のもと親撰した『風雅和歌集』の歌風は『玉葉和歌集』をさらに沈潜閑寂の境地に進め[108]岩佐美代子は京極派和歌の全容がここに集大成されたと評す[109]。『光厳院御集』も伝存し、特に「燈」の連作六首は哲学性の深さが高く評価されている[110]

闘茶(茶道)の創始者の一人

中世には闘茶茶道の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、光厳天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる[111]。光厳天皇が元弘2年/正慶元年6月5日1332年6月28日)に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)が、闘茶であると確実に明言できる茶会の史料上の初見とされる(確実ではないものまで辿ると、この8年前に後醍醐天皇無礼講で同様の茶会を催している)[111]

直仁親王について

出生の真実

花園法皇の皇子である直仁親王は、光厳上皇の実子であるとされる。というのも、光厳は自ら執筆した置文(康永2年4月13日付、直仁親王の皇位継承と親王をもって持明院統正嫡とする旨が記されている[注 14])において、「件親王(編集者注:直仁親王のこと)人皆謂為法皇々子。不然、元是朕之胤子矣。去建武二年五月、未决胎内〈宣光門院〉之時、有春日大明神之告已降、偏依彼霊倦、所出生也。子細朕并母儀女院之外、他人所不識矣。(訳:直仁親王を皆花園法皇の皇子であるというが、実は違う。元は私の皇子である。去る建武2年5月、宣光門院が未だ懐妊していない時に春日大明神のお告げがあって、偏にその霊験によって直仁親王が誕生したのであった。詳細は私と宣光門院以外誰も知らないところである。)」と記したからである。

この記述について、古くは花園法皇に対する報恩として直仁親王を持明院統の正嫡とするために、設定された秘密であるという説があった[113]。しかし、「田中本帝系図」において直仁親王が光厳の第二皇子とされていること、この置文が天照大神などの神々を引いた真剣な誓言であること[注 15]を岩佐美代子が指摘し[114] 、現在は置文にある件の記述は真実であり、直仁親王は光厳の実子であるとされている。

宣光門院の立場

宣光門院(正親町実子)は花園の后であり、この場合光厳が恩師である花園の后を寝取ったことになる。しかし、懐妊時点で実子は女院宣下を受けておらず、花園の寵妃であるが正規の后妃ではない、すなわち花園のみならず光厳の寵をも受けて差し支えない女房待遇であった[114] 。岩佐は、光厳廃位によって逼塞していた持明院殿の生活において、六波羅攻防戦のなかただ一人花園に従っていた実子が失意の花園と光厳を慰めたと推測している[114]

同様の立場に、実子の姉である正親町守子がいる。守子は、伏見院後伏見院とから寵愛を受け、両上皇の皇子女を授かった。花園も心惹かれていたという[114]。また大覚寺統においても亀山院後宇多院とから寵愛を受けた五辻忠子が知られ、鎌倉時代後期の後宮においては同様の例がいくつも見られる[115]

直仁親王の立太子

先の置文や[116]、宮内庁書陵部所蔵の興仁親王(後の崇光天皇)に授けた置文にて[117]、直仁親王が皇位継承し[118]、持明院統の正嫡になることが定められ[119]、崇光天皇践祚と同時に直仁親王は皇太子となった[120]

しかし、直仁親王の立太子は、治天の君かつ持明院統正嫡である光厳上皇の第一皇子(崇光天皇)が践祚したあとに、わざわざ持明院統傍系である直仁親王(光厳の実子であるが、伏せられている)に皇位継承させようとしている点(かつて伏見院は後伏見院の子孫への皇位継承を厳命し、花園も遵守していた[121])で疑念が生じる。

直仁親王の皇位継承を計画した光厳の思惑については意見が別れている。主なものには、赤松や岩佐などの、花園に対する報恩であるという説(光厳は幼少期に花園から帝王教育を施されていた)[113][114] 、家永の、足利将軍家との縁戚関係を利用しようとした説(実子の兄の正親町公蔭は、足利尊氏正室の赤橋登子の姉妹である種子を妻に持つ)などがある[29]

なお、光厳は、興仁践祚および直仁立太子に先立って花園法皇の御所に御幸し、皇位継承の相談をしたが、深津はこの際に花園が直仁親王出生の真実を知った上で了承したとしている[122]

評価

光厳天皇の生涯について岩佐は、「我が国歴代中、自らの地位に対して明白に責任を取る事を、身をもって実現した天皇は、光厳院一人であったと言っても過言ではない」と評した[123]。一方で深津は、光厳法皇の遺誡の「もし其れ山民村童等、聚砂の戯縁を結ばんと欲し、小塔を構ふること、尺寸に過ぎざれば、またこれを禁ずるに及ばず」という記述から、光厳は「民」を治める対象としてではなく、心を通わせ得る一人ひとりの人間として見ることのできる境地に至っていたのではないかとした上で、「貴種として生まれ、生涯にわたってその責任を果たそうと努めつつ、一人の人間としても見事に全うした人であった」と評した[124]

御製

平和への思い

 謹奉法楽 日吉山王 七社和哥
神のます おひえの山に 澄む月の 普き影に 我し漏れめや[125](大意:神のいらっしゃる日吉の山に澄んでいる月の、万物を照らすという光に、私だけ省かれてしまったのだろうか。いやそんなことはないだろう。)
太上天皇量仁、『光厳天皇御真筆和歌懐紙』1
国乱れ 民安からぬ 末の世も 神々ならば ただし治めよ[125](大意:国が乱れ、民が平穏に暮らせない末世であっても、神々であるならば正しく治めよ。)
太上天皇量仁、『光厳天皇御真筆和歌懐紙』2
神に祈る 我がねぎ事の いささかも 我が為ならば 神咎め給え[125](神に祈る私の願いに、少しでも私欲があるならば、神よ、どうか私を責め給え。)
太上天皇量仁、『光厳天皇御真筆和歌懐紙』4
神と我と 二はなしと 見る心 隔てしなくは 見そなはし給へ[125](大意:神と私とが、一心同体であると信じて祈る、私の心と神のとの間に隔たりが無いのならば、どうかその心をご覧になってください。)
太上天皇量仁、『光厳天皇御真筆和歌懐紙』6

これら4首を含む、宸筆の御製7首(『光厳天皇御真筆和歌懐紙』)の正確な詠歌年代は不明だが、その内容と執筆の気迫からして義貞追討の院宣発給と同時期のものと考えられる[125]。なお、原典にてひらがな等で記されていても、特段注意する点がない場合はおおよそ漢字に変換した。

民を思う歌

 雑歌の中に
照り曇り 寒き暑きも 時として 民に心の 休む間もなし[126](大意:照り続ければ日照りとなり、民が困る。寒い時暑い時も同様に、どのような天候であろうとも、民に対して、心の休まる暇はない。)
太上天皇、『風雅和歌集』雑下・1797
 冬
寒からし 民の藁屋を 思ふには 衾のうちの 我も恥づかし[127](大意:どんなに寒いことであろう、人民の藁葺の小屋の生活を思うにつけて、暖かい布団の中で安楽に過ごしている私の身が、いかにも恥ずかしいことだ。)
御製、『光厳院御集』冬・46

治世への覚悟

道ぞ苦しき…

舟もなく 筏も見えぬ 大川に 我渡り得ぬ 道ぞ苦しき[128](大意:頼るべき舟もなく、これに代わる筏すら見えない大川を前にして、自分がこれを渡らねばならぬ、しかし渡ることができない、その道の何と苦しいことよ。)
御製、『光厳院御集』雑・154

我が源の澄まぬなるべし

 雑心
世も曇り 人の心も濁れるは 我が源の 澄まぬなるべし[129](大意:世の中が曇り、人々の心も濁っているのは、私の心の源が澄んでいないからに違いない。)
女房(光厳の隠名)、『康永二年院六首歌合』161

石清水社よ

 百首歌に
祈る心 わたくしにては いはしみず 濁り行く世を 澄ませとぞ思ふ[130](大意:神に祈る私の心、私事は決して言いやしない、石清水よ。この濁りゆく世の中を、澄ませ給えと願うのだ。)
太上天皇、『風雅和歌集』神祇・2135

『風雅和歌集』に挿入した光厳上皇の御製で、最後のものにあたる。

治まらぬ世のための身

 百首歌の中に
をさまらぬ 世のための身ぞ うれはしき 身のための世は さもあらばあれ[131](大意:現実に直面する困難な治世のための自分自身がやるせない。自分自身の安楽のための世は、どうであっても構わない。)
太上天皇、『風雅和歌集』雑下・1807

夏井は、『風雅和歌集』雑歌下巻冒頭12首がそれぞれ2首ずつ計6組の、時代を超えた「疑似返歌」の構成であると指摘した。そして、この光厳院詠が「疑似返歌」する後醍醐院詠「をさまれる跡をぞしたふおしなべてたがむかしとは思ひわかねど」は自身の理想を追った点に主眼があるのに対して、光厳院詠は現実を直視しつつ、自身を二の次だということに主眼を置いているという[132]

ともしびの連作

 雑
さ夜ふくる 窓の燈つくづくと かげもしづけし 我もしづけし[133](大意:夜が次第に更けてくる、窓辺の燈よ。つくづくと眺める、その光も静かである。じっと見つめている、私も静かである。)
御製、『光厳院御集』雑・141
心とて よもにうつるよ 何ぞこれ ただ此のむかふ ともし火のかげ[129](大意:「心」といって、際限なくあれこれと移り変わるものよ、一体これは何なのだろう。心に映っているものはただ、このように向かい合っている、燈火の光だけではないか。)
御製、『光厳院御集』雑・142
むかひなす 心に物や あはれなる あはれにもあらじ 燈のかげ[129](大意:相対して思う、その心の働きによってしみじみとした物の哀れの感情が生まれるのであろうか。物そのものとしては哀れではあるまいものを、燈の光よ。)
御製、『光厳院御集』雑・143
ふくる夜の 燈のかげを おのづから 物のあはれに むかひなしぬる[134](大意:更けて行く夜の燈火の光を、なぜということもなくひとりでに、物あわれであるかのように、これと相対する心の働きゆえに思いなしたことよ。)
御製、『光厳院御集』雑・144
過ぎにし世 いまゆくさきと 思ひうつる 心よいづら ともし火の本[135](大意:過ぎ去った世、現在、そして将来と、思いが移り動いて行く、その心よ、一体どこにあるのか。ただこの一つの燈火のもとにあるのではないか。)
御製、『光厳院御集』雑・145
ともし火に 我もむかはず 燈も われにむかはず おのがまにまに[136](大意:燈火に、私は意識して対座はしていない。燈火もまた、私を意識して向かいあっているわけではない。唯自分自身のあり方として、それぞれに存在しているだけだ。)
御製、『光厳院御集』雑・146

なお、『光厳院御集』は古く「花園院御集」に若干の光厳院詠を誤り混じたものとされてきたが光厳院詠であることが解明された[137][注 16]

自然の歌

つばめ

 百首歌の中に
つばくらめ 簾のほかに あまた見えて 春日のどけみ 人影もせず[139](大意:燕たちがすだれの外にたくさん見える。春の日差しがのどかなので、人影もない。)
太上天皇、『風雅和歌集』春中・129

夏の歌

更くる夜の 庭の真砂は 月白し 木陰の軒に 水鶏くひな声して[140](大意:静かに更けて行く夜の、庭一面の砂には月が白々としている。木陰になった軒端には、水鶏の鳴く声が聞こえて。)
御製、『光厳院御集』夏・20
 郭公
なれもまた この夕暮を待ちけりな 初音うれしき 山ほととぎす[141](大意:お前もまた私と同じように、夏を迎えた今日の夕暮れを待っていたのだね。初めての鳴き声が本当に嬉しい、山時鳥よ。)
御製、『光厳院御集』夏・14

七夕

 百首歌中に
更けぬなり 星合の空に 月は入りて 秋風うごく 庭のともし火[142](大意:夜はすっかり更けてしまった。七夕の空に月が入って、秋風が動く、内裏の燈火よ。)
太上天皇、『風雅和歌集』秋上・471

嵐の音はせぬにしも

夜中よは寒み 嵐の音は せぬにしも かくてや雪の 降らんとすらん[143](大意:夜中、しんしんと寒く、嵐の音はしないで、異様な静寂が深まるにつけても、ああ、こうして雪は降り出そうとしているのだな、と思われる。)
御製、『光厳院御集』冬・47

寒き朝明け

 冬朝
起きて見ねど 霜深からし 人の声の 寒してふ聞くも 寒き朝明[144](大意:起きてみてはいないのだけど、霜が深いらしいよ、外で話している人の声の、「寒いなあ」と言っている、それを聞くだけでも寒い、この早朝の気配よ。)
御製、『光厳院御集』冬・62
 雪中獣
起き出ぬ 寝屋ながら聞く 犬の声の 雪に覚ゆる 雪の朝明け[145](大意:まだ起き出さない寝屋の中に居ながら聞く犬の声が、いかにも雪の中で鳴いていると聞こえる、雪の早朝よ。)
御製、『光厳院御集』冬・88

夜烏

霜のおく ねぐらの梢 寒からし そともの森に 夜がらすの鳴く[146](大意:霜の置く、ねぐらのある梢の上はきっとひどく寒いらしいよ。裏手の森で、夜烏が鳴いている。)
御製、『光厳院御集』冬・52


皇位継承の歌

持明院統の恢復

 河を
よどみしも また立ち返る 五十鈴川 流れの末は 神のまにまに[147](大意:傍系の後醍醐流に皇位継承されかけ、皇位継承は滞っていたが、また正統の持明院統に皇位が戻ってきたことだ。皇統の将来は、すべて天照大神の御意志のままだ。)
太上天皇、『風雅和歌集』神祇・2112
 神祇を
たのむまこと 二つなければ 石清水 一つ流れに 澄むかとぞ思ふ[130](大意:神に祈る私の心に、弐心が無いのであれば、宗廟たる石清水よ。ただ、その流れが一つになるように―皇統がまた持明院統のもと一つの流れに澄むように―と願うのだ。)
太上天皇、『風雅和歌集』神祇・2134

肖像


古い光厳法皇像。

深津睦夫『光厳天皇―をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』


『深津睦夫『光厳天皇―をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』の口絵に掲載されたもの。

深津睦夫『光厳天皇―をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』


同書の表紙に掲載されたもの。

系譜

持明院統後伏見天皇の第三皇子。母は左大臣西園寺公衡の女で後伏見女御西園寺寧子(広義門院)。叔父の花園天皇猶子となる。

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
88 後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊親王
鎌倉将軍6)
 
持明院統
89 後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
90 亀山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟康親王
(鎌倉将軍7)
 
92 伏見天皇
 
 
 
 
 
久明親王
(鎌倉将軍8)
 
91 後宇多天皇
 
恒明親王
常盤井宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
93 後伏見天皇
 
95 花園天皇
 
守邦親王
(鎌倉将軍9)
 
94 後二条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王
 
 
 
 
 
邦良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康仁親王
木寺宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
97 後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇光天皇 北3
 
 
 
 
 
後光厳天皇 北4
 
 
 
 
98 長慶天皇
 
99 後亀山天皇
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)栄仁親王
(初代伏見宮)
 
 
 
 
 
後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
100 後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
101 称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


在位中の元号

元徳3年5月(1331年6月)に後醍醐天皇を中心とした倒幕計画が発覚すると、鎌倉幕府による厳しい追及が始まった。その最中の8月9日(9月11日)に後醍醐天皇は幕府への当てつけのように「元弘」への改元を強行したが、幕府は当然これを認めず「元徳」を使い続けた(『関城書』裏書)。そして後醍醐天皇が笠置山に脱出すると、幕府はこれを廃して9月20日には光厳天皇を新たに践祚させた。

元徳4年(1332年)に後醍醐廃帝は隠岐へ遠流となり、その間に光厳天皇は4月28日(5月23日)に「正慶」へ代始改元した。しかし正慶2年(1333年)に、後醍醐は隠岐を脱出。新田義貞が鎌倉を、足利尊氏が六波羅を攻めて幕府が滅ぶと、後醍醐は復辟して逆に光厳を廃位し、元徳3年8月9日以降の「元徳」と続く「正慶」を無効として、元号を「元弘」3年に戻すことを宣言した。

  • 元徳 - 3年9月20日(1331年10月22日)践祚、4年4月28日(1332年5月23日)即位により「正慶」に改元
  • 正慶 - 2年5月25日(1333年7月7日)廃位、元号を「元弘」3年に戻す

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区京北井戸町丸山の常照皇寺内にある山國陵(山国陵:やまくにのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

崩御翌日に常照皇寺の後山で火葬、そのまま陵とした。遺勅により、陵上に松柏が植えられたという。「常照寺後山陵」とも称されたが、幕末修陵の際に現陵号に改定した。なお、分骨所が大阪府河内長野市天野町の金剛寺、髪塔が京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町の金剛院にある。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

登場作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 南北朝時代は後醍醐天皇が吉野に南朝を開いたユリウス暦1337年1月23日を始期とする。ウィキペディア南北朝時代に詳しい。
  2. ^ 神鏡は賢所に残っていたことが『竹向きが記』や『花園院宸記』の記述よりわかる[5]
  3. ^ 増鏡によれば、最後まで供奉した者の中に、光厳の乳父である日野資名、後に光厳院を支える勧修寺経顕・四条隆蔭などがいたという[15]
  4. ^ 太平記』含め、佐々木道誉がこれに直接関与したとする同時代史料はないが、足利尊氏と佐々木道誉との間に密約があり、また近江国番場が佐々木道誉の所領だったと記す後世の佐々木氏関連史料から、佐々木道誉の関与を想定する森茂暁の意見がある[16]
  5. ^ 類似の例は、皇太子を退き「小一条院」の院号(准太上天皇)を受けた平安時代敦明親王であるが、光厳が宣下されたのは太上天皇号である。[26]
  6. ^ 光明天皇践祚前である延元元年6月3日、光厳上皇は三宝院賢俊を醍醐寺座主に任命し[36]、21日には高野山金剛峯寺に旧領を安堵し、天下安全の祈祷を命じるなどしており[37]、実質的に光厳院政が開始されたのは建武3年6月頃と見られる[38]
  7. ^ 神器は偽物で光明の即位も無効と主張したとも言われるが、北朝に南朝から公式に北朝の三種の神器が偽物であると宣示されたのは、実に正平6年12月(正平一統にて、北朝に神器が南朝に接収される際)のことである[39]
  8. ^ 足利尊氏・足利直義らの発願によるといわれるが、光厳上皇も最初から同意していたという[49][50]
  9. ^ 光厳上皇が一統を了承した理由について小川は、南朝の後村上天皇が帰洛した暁には、また大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)との両統迭立に戻るだろうと楽観視していたと推測している[58]
  10. ^ 一見温情のある処置のように見えるが、光明上皇は3年前にすでに譲位した崇光天皇より尊号を賜っており、もう一度南朝が尊号を贈ることで、北朝においてなされたことは一切認めないという宣言にほかならない[66]
  11. ^ 暦応5年4月8日、光厳上皇は西芳寺に御幸し夢窓疎石より受衣という儀式を受け、この時俗体のまま「勝光智」の法名を持ったとも考えられる[80]。延文元年11月6日、幽閉先の天野金剛寺にて、「勝光智」から「光智」に改めた[81]
  12. ^ 同じく参上を禁じていた崇光上皇に関しては、四条隆蔭は祗候を許され、勧修寺経顕も時々参入していたという[89]
  13. ^ この話の年次について、『太平記』に具体的な記述はないが、『大乗院日記目録』には正平17年(1362年)としている。
  14. ^ なおこの置文は、「康永二年四月十三日(詣長講堂、本願 皇帝真影之寶前、熟有祈請之旨、即時染筆記之。)太上天皇量仁」と、光厳自身が、後白河院の月忌の際に、長講堂の後白河天皇の御影の前で祈願したことをすぐさま記したものらしい[112]
  15. ^ 当置文に、「…天照太神、八幡大菩薩、春日大明神及吾國鎮護諸天善神、惣三世諸佛、別曩祖後白川皇帝以来代々聖靈幽冥等、宜加治罸不可廻踵矣。凢継體之器者、國家之重任、社稷之管轄也。今所定、曾非好惡、非私曲。以有所観、遠貽斯言。後生必如金重、如石堅。而軽莫失朕意耳。」とある。
  16. ^ 「花園院御集」とも誤り伝えられた『光厳院御集』は、165首を有するものと249首を有するものがあり、百六五首本が光厳院詠、二四九首本は百六五首本に風雅集の光厳院詠と勅撰集の花園院詠が増補されたものである。[138]

出典

  1. ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』「本朝皇胤紹運録」
  2. ^ 塙保己一編『群書類従.第四輯』経済雑誌社、1898年、72頁。 
  3. ^ a b 『花園天皇宸記』同日条
  4. ^ 岩佐 2000, p. 13.
  5. ^ 飯倉 2015.
  6. ^ 『花園院宸記』元弘元年10月6日条
  7. ^ 飯倉 2015, pp. 58, 59.
  8. ^ 深津 2014, pp. 71, 72.
  9. ^ 深津 2014, p. 72.
  10. ^ 深津 2014, p. 75.
  11. ^ 『光厳天皇宸記』
  12. ^ 岩佐 2000.
  13. ^ 『花園天皇宸記』正慶元年11月13日条
  14. ^ 深津 2014, p. 74.
  15. ^ 深津 2014, p. 88.
  16. ^ 森 1994, pp. 34–37.
  17. ^ 深津 2014, p. 87.
  18. ^ 『太平記』第九巻「番場自害事」
  19. ^ a b 深津 2014, p. 92.
  20. ^ 『公卿補任』
  21. ^ 『皇年代略記』「光厳院」首書
  22. ^ 『増鏡』
  23. ^ 飯倉 2015, p. 89.
  24. ^ 深津 2014, p. 93.
  25. ^ 『園太暦』観応2年11月26日条
  26. ^ 深津 2014, p. 94.
  27. ^ 『小槻匡遠記』建武2年6月22日条
  28. ^ 鈴木 2021.
  29. ^ a b 家永 2016.
  30. ^ 『公卿補任』
  31. ^ 『皇年代略記』花園院、など
  32. ^ 飯倉 2015, p. 115.
  33. ^ 深津 2014, pp. 107, 108, 109.
  34. ^ 『皇年代略記』光厳院
  35. ^ 『太平記』第16巻「義貞朝臣以下敗軍等帰洛重山門臨幸持明院殿八幡東寺御坐」
  36. ^ 『醍醐寺座主次第』
  37. ^ 「宝簡集」第14〈高野山文書〉
  38. ^ 深津 2014, p. 112.
  39. ^ 村田 1971, pp. 70, 71.
  40. ^ 『師守記』暦応3年が5月14日条
  41. ^ 森 1984.
  42. ^ a b 田中 2010.
  43. ^ 深津 2014, pp. 130, 131, 132.
  44. ^ ウィキペディア土御門東洞院殿♯室町時代
  45. ^ 桃崎有一郎『中世京都の空間構造と礼節体系』(思文閣出版、2010年)
  46. ^ 『園太暦』貞和4年9月13日条
  47. ^ 岩佐 2000, p. 38.
  48. ^ 深津 2014, p. 120.
  49. ^ 飯倉 2015, p. 131.
  50. ^ 『夢窓国師語録』「光厳院臨幸天龍寺慶讃陞座拈香語」
  51. ^ 飯倉 2015, pp. 129, 130, 131.
  52. ^ 「久米田寺文書」
  53. ^ 石原 2020, p. 67.
  54. ^ 森 1984, p. 361.
  55. ^ 『中院一品記』康永元年11月29日条
  56. ^ 『武家年代記録』康永元年9月6日条
  57. ^ 『園太暦』観応2年12月15日条
  58. ^ a b 小川 2020, p. 90.
  59. ^ 『園太暦』観応2年11月24日条
  60. ^ 『園太暦』観応2年11月23日条
  61. ^ 小川 2020, p. 86.
  62. ^ 『園太暦』観応2年12月28日条
  63. ^ 林屋 1975, p. 99.
  64. ^ 渡邉 2019, p. 82.
  65. ^ 『皇年代略記』崇光院
  66. ^ 深津 2014, p. 194.
  67. ^ 『皇年代略記』光明院
  68. ^ 『園太暦』観応2年12月28日条
  69. ^ 秦野 2020, pp. 61, 62.
  70. ^ 飯倉 2015, p. 175.
  71. ^ 『仙洞御文書目録』
  72. ^ 井上宗雄『中世歌壇史の研究―南北朝期』p.510,1965,
  73. ^ 深津 2014, pp. 199, 226.
  74. ^ 岩佐 2000, p. 41.
  75. ^ 飯倉 2015, p. 178.
  76. ^ 飯倉 2015, pp. 175, 178.
  77. ^ 深津 2014, pp. 198, 199.
  78. ^ 飯倉 2015, pp. 179, 180.
  79. ^ 飯倉 2015, pp. 181, 182.
  80. ^ 芳澤 2020.
  81. ^ 『本朝皇胤紹運録』光厳院
  82. ^ 『公卿補任』
  83. ^ 飯倉 2015, p. 184.
  84. ^ 深津 2014, p. 211.
  85. ^ 『崇光院御記』
  86. ^ a b 深津 2014, p. 212.
  87. ^ 『園太暦』11月17日条
  88. ^ 深津 2014, pp. 211, 212.
  89. ^ 深津 2014.
  90. ^ 『園太暦』延文2年2月18・19日条
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参考文献

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  • 次田香澄岩佐美代子『風雅和歌集』三弥井書店〈中世の文学〉、1979年。 
  • 中村直勝 「光厳天皇」 『歴代天皇紀(中村直勝著作集 第6巻)』(淡交社、1978年) ISBN 978-4-4730-0583-0
  • 夏井豊「風雅和歌集巻十七雑歌下・光厳院詠一八〇七番歌の「をさまらむ」考察―後醍醐院詠一八〇六番歌との対比を軸に」『瀧川国文(31)』2015年。 
  • 秦野裕介『乱世の天皇―観応の擾乱から応仁の乱まで』東京堂出版、2020年。 
  • 林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』角川書店、1975年。 
  • 久水俊和『中世天皇葬礼史─許されなかった“死”』戎光祥出版、2020年。 
  • 深津睦夫『光厳天皇 をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2014年。 
  • 藤井讓治・吉岡眞之監修・解説 『光厳天皇実録(天皇皇族実録76)』(ゆまに書房、2009年) ISBN 978-4-8433-2010-5
  • 村田正志『南北朝史論』中央公論社、1971年。 
  • 森茂暁『佐々木導誉』吉川弘文館人物叢書〉、1994年。 
  • 森茂暁『南北朝期公武関係史の研究』1984年。 
  • 芳澤元「光厳天皇─南北朝動乱に翻弄された人生」『久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝 後醍醐天皇から後陽成天皇まで』』、戎光祥出版、2020年。 
  • 渡邉大門『奪われた「三種の神器」―皇位継承の中世史』草思社、2019年。 

関連項目

外部リンク