伊原春樹
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基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 広島県甲奴郡上下町(現:府中市) |
生年月日 | 1949年1月18日(75歳) |
身長 体重 |
184 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1970年 ドラフト2位 |
初出場 | 1971年7月4日 |
最終出場 | 1980年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(内野手)・監督。1971年から1973年の登録名は「伊原 春植」(いはら しゅんしょく)。
西鉄・太平洋・クラウン・西武、巨人でプレーし、引退後は西武、阪神、オリックス、巨人のコーチ・監督を歴任した。
娘の伊原夏菜はモデル・タレント。
来歴
上下中学校、広島県北川工業高等学校(現:広島県立府中東高等学校)から芝浦工業大学へ進学。東都大学1部リーグ通算49試合出場、128打数29安打、打率.227、3本塁打、14打点の成績を残す。
1970年度新人選手選択会議で西鉄ライオンズから2位で指名され、入団する。当時、学生運動で大学がロックアウトされ授業が受けられなくなったことと、入団先が福岡であったことから卒業に要する単位が足りず、中途退学扱いでの入団だった。
入団後は主に三塁手として活躍。1973年、アメリカ1A・ローダイ・ライオンズに野球留学する。1976年、関本四十四・玉井信博とのトレードで加藤初と共に読売ジャイアンツに移籍。2年間在籍したが自由契約となり、1978年にクラウンライターライオンズに復帰。1980年限りで現役を引退する。
引退後は、1981年の二軍守備走塁コーチ補佐を皮切りに、一軍守備走塁コーチや作戦・走塁コーチなど、西武のコーチを歴任。1999年オフ、東尾修監督との野球観の違いやフロントの首脳陣若返り策により解任。2000年に阪神タイガースの守備走塁コーチに就任するが1年で退団し、翌2001年、西武に作戦・走塁コーチとして復帰。同シーズン限りで東尾監督が勇退し、次期監督と目された伊東勤が現役続行を望んだため、監督に就任するよう要請され、これを受諾する。
就任1年目の2002年、90勝[1]を挙げて4年ぶりのリーグ優勝を果たす。三塁コーチスボックスから指示を送る姿は他球団に強烈な印象を与えた。巨人との日本シリーズでは巨人の三塁コーチを務める鈴木康友との師弟対決が実現したが、4連敗で日本一を逃す。翌2003年は、後身の育成のために清水雅治に三塁コーチを任せ、好成績の2位で終わるものの、当初から予定されていた伊東の監督就任を受け辞任。
2004年、オリックス・ブルーウェーブの監督に就任(変則3年契約=2年契約 + オプション1年)。2年連続最下位に沈んだチームの再建を期待されるが、負けが込むに従って選手・コーチとの間に軋轢が生じ、最下位に終わる。また大阪近鉄バファローズとの合併のあおりを受け、契約年数を残して1年限りで監督を退任した。
2005年よりニッポン放送・Jスポーツ(CS衛星テレビ)のプロ野球解説者、日刊スポーツ評論家、ベースボール・マガジン社顧問。2005年の交流戦、横浜対西武では1試合のみテレビ神奈川の野球中継で解説を務めた。
2007年、巨人のヘッドコーチ[2]兼三塁コーチに就任[3]。2008年、兼任していた三塁コーチを緒方耕一に任せ、ヘッドコーチに専念する。
2009年、原がWBC日本代表監督に就任した関係で、3月のオープン戦において監督代行を務めた。この年の日本シリーズに勝利したことで、それまで記録していた自身の日本シリーズ連敗記録は6で止まった。
2010年、リーグ4連覇と日本一連覇を逃した責任を取ってコーチを辞任するが、球団の慰留を受け球団編成本部シニアアドバイザーに異動した[4]。
2012年1月、2011年12月31日付けで球団編成本部シニアアドバイザーを辞職したことが発表された(時事ドットコム[2])。
2012年からは東京スポーツ、およびこの年から西武主管試合の放送を始める朝日ニュースター(テレビ朝日直営。地上波の出演は当面なし)の野球評論家を務める[5]。
指導者として
西武コーチ時代、三塁ベースコーチとして的確な走塁判断を行い、西武の頭脳と呼ばれた。緻密な西武野球は伊原の手腕によるものと評価は高い[6]。対戦チームの選手の癖を見抜き、見抜いた癖をベンチでメモ帳に書き留めていく姿は対戦相手に脅威を与えた。
伝説の走塁
伊原の名前を全国区にしたのは、1987年の日本シリーズ第6戦であった。8回裏2対1と西武1点リードで迎えた二死一塁、秋山幸二がセンター前ヒット。通常は一、二塁、あるいは一、三塁の場面であるが、一塁ランナー辻発彦は一気にホームイン。後に「伝説の走塁」と呼ばれる走塁であり、このとき辻に突入を指示したのが、当時コーチだった伊原であった。
対戦チームである巨人の中堅手ウォーレン・クロマティは返球が緩慢であり、中継プレーに入る遊撃手川相昌弘には「二塁進塁を警戒して打者走者を見るために右回転し、結果先の走者を見ない」という癖があった。伊原は2人の癖を看破し、かつ巨人ベンチがこの癖に気付いていないと見抜き[7]、辻に突入を指示したのである。この走塁指示により、伊原の洞察力と走塁判断の確かさは全国に知れ渡ることになる。
伊原は巨人のコーチ就任後、2007年3月17日の東北楽天ゴールデンイーグルスとのオープン戦で「伝説の走塁」を再現した。5回裏二死一、二塁で、打者の谷佳知がセンター前ヒットを放つ。二塁ランナーの小坂誠はもちろんホームインしたが、谷が二塁を窺う姿勢を見せたため、中堅手の鉄平は二塁手の高須洋介に返球した。ここでボールを持った高須が谷に気を取られたのを伊原は見逃さず、既に三塁手前まで到達していた一塁走者の鈴木尚広にゴーサインを出し、鈴木はホームインした。本来なら1点止まりの場面で2点を入れた巨人はそのままこの試合に勝利した。
東京ドームの人工芝が張り替えられてから最初の試合で、まだ人工芝が踏み固められていないため打球の速度が落ちやすかったこと、一塁走者がプロでもトップクラスの俊足である鈴木であることなどの条件を瞬時に判断し、コーチ就任半年にもかかわらず、近年まで走塁に課題のあった巨人で「伝説の走塁」を再現したことは、伊原の能力を改めて証明した。
鬼軍曹
伊原は「コーチは嫌われ者でなければならない。選手に好かれようと思ったら、お互い成長が止まる」と発言しており、どのチームでも鬼軍曹として非常に厳しい指導を行った。また対戦相手となる他チームの選手や監督、コーチらに対しても容赦ない振る舞いを見せた。
西武コーチ時代
- 甲子園のヒーローとして入団した新人の清原和博を「礼儀がなっていない」と叱りつけ、殴った。
- 近鉄の三塁手だった金村義明が、三塁に進塁した清原に「契約金から300万もってこい」とからかったことに激怒し、金村にひざ蹴りを喰らわせた。
- 後年、西武に移籍して来た金村に対し「ここは前のチームとは違うぞ。俺がしごき倒してやる」と言い、宣言通り猛練習を課した。
- キャッチングの練習中、不満を漏らした大久保博元の顔面へ硬球を次々と叩きつけた。
阪神コーチ時代
- 2000年6月8日の巨人戦。阪神の攻撃でランナー二塁の場面、巨人・河本育之が送りバントを三塁に悪送球、この際巨人の三塁手元木大介が、二塁から三塁に進んだランナー平尾博司の上に乗りかかった。これを見た伊原は三塁コーチボックスを飛び出して元木を突き飛ばし、平尾を本塁に向かわせた。伊原の行為に対し巨人側から守備妨害のアピールがあったが、審判団はこのプレーは元木の明らかな走塁妨害であると判断、平尾のホームインは認められた。
- 当時監督を務めていた野村克也の息子であるカツノリにも容赦なくひざ蹴りを入れた。
西武監督時代
- 自分のことを「監督」ではなく「伊原さん」と呼ぶように指示し、違反したら罰金を科していた[8]。
オリックス監督時代
- 千葉ロッテマリーンズとのオープン戦で、三塁コーチスボックスで指示を出す伊原に対し、一塁側ベンチにいたボビー・バレンタイン監督が伊原に直接抗議。それに対して激怒し、試合中にも拘らず数分間、バレンタインと口論となった。かたや広島弁、かたや英語という噛み合わない口論であった。
- これについて伊原は「俺はいつも『ここは日本じゃ』言うとろうが。日本語でしゃべらんあいつ(バレンタイン)が悪い」と述べている。
- 2004年4月16日の近鉄戦。当時15連敗中だった川越英隆がKOされた時、試合中であるにもかかわらず川越を呼びつけ、ベンチで怒鳴りつける姿がテレビカメラに映された。相手の近鉄の選手や首脳陣もこれを見て唖然としていた。
巨人コーチ時代
エピソード
![]() | この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 2003年、中退扱いになっていた芝浦工業大学へ再入学し、残っていた単位を取得して2004年に卒業。卒業式は当時の江崎玲於奈学長らを交えてマスコミにも紹介され話題となった。
- 現役時代宅地建物取引主任者の資格試験を一発で合格。これは当時の伊原の居住先の大家が、大学卒業を果たせず、特に資格も持たなかった伊原に「ユニフォームを脱いでも職に困らぬよう」受験を薦めたためである。伊原は後年この大家の娘と結婚した。
- 1985年~1994年までは背番号78であったが、東尾修が監督就任時に78を希望した為、1995年より背番号73を着けた。これは夫人の名前にあやかった為であり、西武、オリックスの監督就任時にもこれを貫いたが、2007年より巨人の野手総合コーチに就任すると78を着けた。これは緒方耕一が恩師藤田元司の背番号の73を既に着けていたことと、自身が8回日本一になったゲンのいい番であるからという理由である。
- 1978年の所沢への球団移転に対しては、東尾、竹之内雅史らと共に最後まで反対していたが、西武監督時代にはトミー・ラソーダの「俺にはドジャー・ブルーの血が流れている」に倣って「俺にはライオンズ・ブルーの血が流れている」とまで発言している。巨人ヘッドコーチ就任後も、当時守備が上達しなかった西武の中島裕之を「ナカジはどうしてる?あいつはサードが一番向いているんだが…」と案じていた。
- 西武監督時代、2002年オフに放出した鈴木健がヤクルトスワローズに移籍して大活躍。オールスターに選出され、前年リーグ優勝チーム監督としてパ・リーグを率いる伊原のもとに挨拶に行ったが理不尽に怒鳴られ退散せざるをえなかったという。
- 強面の反面リップサービスも嫌いではない。大きくは取り上げられなかったが、西武の監督として2002年のリーグ優勝を果たした時のインタビューでは「憎きジャイアンツを倒し日本一に」と発言(なお結果は西武の4戦全敗に終わった)。ニッポン放送の解説者時代、中継開始前に野村克也の物まねをしたこともある。
- 携帯電話が大嫌い。西武時代に首脳陣が持たせようとしたが「携帯電話で、自身の行動範囲を縛られる感覚が理解できない」と拒否、現在も持っていない。伊原への伝言は全て夫人が管理していると言う。
- 2008年、萩本欽一が巨人のキャンプを訪れ、ファンの前で欽ちゃん走りをするよう伊原に振った。伊原は「イメージ壊すからね~…」と始めは拒んだものの、「イメージを壊して違うところへ行く巨人が見たい」という一歩も引かない萩本の態度に屈し、欽ちゃん走りを披露した。
- 好きな食べ物はカレーライスで、それも普通の人ならとても食べられないレベルの激辛が好み。2010年の巨人春季キャンプでは、宿舎となったホテルで提供されるカレーライスが伊原のリクエストで日を追うごとに辛さを増し、他の選手・スタッフがとても食べられないほどになってしまったため、キャンプ後半には普通の選手用の「中辛」と伊原用の「激辛」の2種類が用意されたという[9]。
- 自伝によると二軍のコーチ時代から監督時代も含め、20年間、攻撃時には三塁コーチを担当する事が多かったが、最初に一軍のコーチに配置転換した際には、一塁コーチを務めていた時期も僅かにあったと言う。
野村克也との確執
好成績を残したにも拘らず1年限りで阪神から西武に復帰したことから、野村克也とは不仲とされている(本当の退団理由は家庭の事情によるもの)。
野村率いる楽天との交流戦(2008年5月29日)で、楽天2点リードの9回2アウト1塁で矢野謙次が盗塁を失敗しゲームセットになる。試合後、野村は「バッカじゃなかろかルンバ、巨人は面白い野球をするね」とコメントし、これをマスコミは総じて「巨人ベンチの凡ミスを野村が指摘」という論調で取り上げた。翌日、野村のその言動を知った伊原は激怒し「うちの監督(原辰徳)を侮辱するな」と発言、マスコミに対して猛烈な反論を展開。伊原は野村がとった一連の言動を「選手が成功すれば自分の手柄にし、失敗すれば責任を他人へ押し付ける。そういう悪い癖は昔から何ひとつ変わっていない」と批判し、更に「年寄りだから仕方がない。考えを正す、思い直すということをしないのだろう」「年長者だからとみんな許してしまい、大抵の理不尽はまかり通ってしまう」などと厳しい言葉を続けた。野村も負けじと「先日の走塁ミスは原(辰徳)の策じゃないのはわかっている。彼は賢い男だから、その程度のミスは絶対に犯さない」と発言、伊原のコーチとしての采配能力についても触れ「(阪神コーチ時代の伊原は)どんな場面でも、誰が走者でも関係なく走らせた」「あまりにもチャンスを潰すものだから、最終的に伊原から走塁に関する指示の権限を取り上げるしかなかった」と語った。さらに野村は「昔から先輩に対するマナーがなっておらず、無礼で非常識な男」という伊原の人物評を明らかにし、マスコミの前で散々に皮肉った。伊原はなおも「自分の非を認めず、常識がない人間の言うことに耳を傾ける必要はない」とコメントしたが、その頃には各種マスコミで原や自身がバッシングに晒されていた[10]。
翌2009年の交流戦で巨人が楽天に4戦全勝すると、伊原は報道陣の前で「野村監督さま、今年の交流戦は4連勝させていただき、ありがとうございます。これもひとえに『ノムラの考え』のおかげでございます。昨年いただいたお言葉は非常に参考になりました。今日は、1年間お預かりしていた、あのお言葉をそっくりそのままお返しさせていただきます。バッカじゃなかろうか~、ルンバ!」と野村をこき下ろし、執念深い性格を見せつけた[11]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971 | 西鉄 太平洋 |
39 | 123 | 115 | 13 | 31 | 6 | 0 | 2 | 43 | 8 | 3 | 0 | 2 | 1 | 3 | 0 | 2 | 24 | 2 | .270 | .298 | .374 | .671 |
1972 | 118 | 366 | 332 | 23 | 80 | 15 | 1 | 7 | 118 | 32 | 2 | 2 | 1 | 0 | 20 | 0 | 13 | 41 | 11 | .241 | .310 | .355 | .665 | |
1973 | 32 | 55 | 48 | 4 | 13 | 0 | 1 | 0 | 15 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | 2 | 1 | .271 | .364 | .313 | .676 | |
1974 | 44 | 80 | 78 | 5 | 19 | 3 | 0 | 1 | 25 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 12 | 2 | .244 | .250 | .321 | .571 | |
1975 | 22 | 25 | 24 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | .125 | .160 | .125 | .285 | |
1976 | 巨人 | 9 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1978 | クラウン 西武 |
80 | 90 | 83 | 10 | 21 | 1 | 0 | 2 | 28 | 5 | 2 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | 13 | 1 | .253 | .311 | .337 | .648 |
1979 | 85 | 102 | 93 | 7 | 22 | 2 | 0 | 0 | 24 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 5 | 0 | 1 | 13 | 2 | .237 | .280 | .258 | .538 | |
1980 | 21 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:9年 | 450 | 852 | 784 | 66 | 189 | 27 | 2 | 12 | 256 | 58 | 7 | 6 | 5 | 3 | 39 | 0 | 21 | 107 | 21 | .241 | .294 | .327 | .621 |
- 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更
年度別監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002年 | 西武 | 1位 | 140 | 90 | 49 | 1 | .647 | 183 | .278 | 3.20 | 53歳 |
2003年 | 2位 | 140 | 77 | 61 | 2 | .558 | 191 | .271 | 4.43 | 54歳 | |
2004年 | オリックス | 6位 | 133 | 49 | 82 | 2 | .374 | 112 | .283 | 5.66 | 55歳 |
通算:3年 | 413 | 216 | 192 | 5 | .529 |
- ※1 2001年から2003年までは140試合制
- ※2 2004年から135試合制(但し、2試合ストライキのため中止)
背番号
- 7 (1971年 - 1975年)
- 56 (1976年 - 1977年)
- 30 (1978年 - 1980年)
- 78 (1981年、1985年 - 1994年、2007年 - 2010年)
- 91 (1982年 - 1984年)
- 73 (1995年 - 1999年、2001年 - 2004年)
- 87 (2000年)
脚注
- ^ これは球団史上最多勝利記録であり、かつ新人監督勝利数の記録を更新するという好成績であった。
- ^ 当初は「野手総合コーチ」という肩書きだったが、開幕前に変更された。
- ^ 監督の原辰徳に電話をかけて「OBとして立て直したい、私にやらせて欲しい」とコーチを申し出、実現した。
- ^ 読売ジャイアンツ公式サイト 伊原シニアアドバイザーが就任会見
- ^ 週刊ベースボール、2012年2月24日号、p36
- ^ 東京スポーツ 2009年8月8日 3面。
- ^ この試合の2回裏、俊足とは言えない二塁ランナー清原和博がセンターフライ(クロマティの捕球)によるタッチアップでホームインした。伊原は巨人ベンチで誰ひとりクロマティに注意しないのを見て、巨人ベンチが癖に気付いていないと確信した。
- ^ 1998年に横浜ベイスターズを日本一に導いた権藤博も、自分自身のことを「監督」と呼ばせないようにしていたが、伊原は当初それを知らず、2002年のキャンプで記者に指摘されたときに「そのように(日本一に)なるといいのだが」と述べた。
- ^ 東京スポーツ 2010年2月25日付・2面
- ^ 盗塁については、楽天のキャッチャー藤井彰人がすでに腰を浮かせていたという意見があり、野村が「伊原ならここで走らせてくる」と見抜いていたという説、もしくはバッターボックスにいたキャリアの浅い短距離打者隠善智也にサポートの意図でエンドランのサインを出したのを隠善が見逃したという説がある。
- ^ [1]
出演番組
- J SPORTS STADIUM
- ニッポン放送ショウアップナイター
- tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE(2005年の横浜対西武の交流戦の1試合)
著書
- 『二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」』(2011年5月20日、ベースボール・マガジン社)
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference