ゴーマニズム宣言

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ゴーマニズム宣言』(ゴーマニズムせんげん)は、小林よしのりの主張を伴った日本漫画作品。通称『ゴー宣』[1]

概要

「ゴーマニズム」とは傲慢からの作者の造語である。各回の文末には「ごーまんかましてよかですか?」というキメ台詞と共に、総まとめをするスタイルになっている(初期など一部の回において上記のキメ台詞が無い回もある)。

「ゴーマニズム宣言」は時期が進むにつれ「新・ゴーマニズム宣言」、「ゴー宣・暫」と名前が変遷している。2007年9月から、再び当初の「ゴーマニズム宣言」に戻っている。『SPA!』から続く『SAPIO』での通常連載と、『わしズム』内の『ゴーマニズム宣言EXTRA』特別連載、『WiLL』誌での『本家ゴーマニズム宣言』連載、『戦争論』などの論シリーズなど数種類の連載・書き下ろしで発表されている。

連載当初はエッセイ風の漫画として始まった作品で、バラエティな内容に富んだ作品だった。連載が進むにつれ読者や、知識人との論争など思想本としての色合いが強くなっていき、様々な社会問題政治問題に対し主張を起こし、注目を浴びた。所謂、風刺漫画の面もある。

『ゴー宣』誕生

連載以前、『月刊宝島』に『おこっちゃまくん』を約2年半連載していた[2]。しかし、読者から反感を買うような内容が多く、編集側もページ末に作品を茶化すようなハシラ書きをしており、良好とは言えない状態が続いていた。これを見た扶桑社の『SPA!』より「ウチでもあんなのをやって欲しい」と執筆依頼を受け、1992年1月22日号より『ゴーマニズム宣言』を開始。当初のエッセイ的漫画から、社会に切り込む思想漫画と変遷し反響を呼んだ。その後、漫画活動の軸足をこれへと移していくこととなる。

皇太子徳仁親王成婚に関する回の掲載拒否

皇太子徳仁親王の結婚とそれを報道するマスコミをギャグにした作品(タイトル:「カバ焼きの日」)は当初『SPA!』誌での掲載を拒否された。このため小林は原稿を『ガロ』(青林堂)に持ち込み[3]、特別篇として1993年9月号に掲載される事となった。その後扶桑社から発行された単行本に収録されている[4]

部落解放同盟との対談

出版業界に対し差別表現を巡って安易で軟弱な姿勢から起こる自主規制に対して批判を加えており、後に部落解放同盟の関係者との対談等につながった。そこから『ゴーマニズム宣言・差別論スペシャル』の題名での書き下ろし本への出版となった。なおこの本の出版にあたっては書き下ろし漫画の表現を巡って小林側と部落解放同盟側と対立する一幕も見られた[5]

オウム真理教・関係知識人との対立

1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件では、漫画上で当初は名指しこそしなかったものの、オウム真理教を激しく追及。これに対しオウム真理教側は自らの存在を厳しく批判する小林の存在を恐れ、様々な口実を作って自らの施設へ単独で誘い込もうと図るが小林側の警戒心は強く実現しなかった。遂には山形明らがVXガスによる暗殺を試みる実力行使に出るが失敗に終わる。これは後にオウム真理教への司法の追及が進むうちに発覚した。この事件は当時の新聞等で大きく掲載され話題を呼んだ。しかし小林は、それすら「世界初暗殺されかかった漫画家」とネタにしつつ被害を訴えていた[6]

1995年、『SPA!』誌上でのオウム真理教擁護の動きに対し、靍師一彦編集長や宅八郎松沢呉一らと対立。オウムへの疑念と警戒を強める小林に対し『SPA!』本誌は宅八郎と上祐史浩とのインタビューを載せるなど雑誌内での両側の意見の乖離が現れていたのが連載を終了することになった原因である。当時の連載内容によると、小林は靍師と電話で話し「もしあなたの家族がオウムに殺されても、オウムのインタビューを載せるか」と聞いたところ、靍師は「載せる。それがジャーナリズムだ」と答えたという。この一件を契機として、小林は靍師と決裂した。

『SPA!』での連載終了、移籍へ

小林はマルコポーロ事件の後、この事件を「百四十章 マルコ廃刊からジャーナリズムを考える(扶桑社1995/08/01 ゴーマニズム宣言 第8巻)」で取り上げ、同誌廃刊の切っ掛けとなった記事「戦後世界史最大のタブー『ナチ・ガス室』はなかった』(『マルコポーロ』1995年2月号)の原稿が、小林にも送られていたとして「絶対にお時間を無駄にさせません。最初の3ページだけでもお読み下さい[7]」と、著者が書き添えている資料の写真を掲載し、西岡昌紀を「西岡氏はたまたま/「反ユダヤオタク」に/はまっちゃった人なのだ」[8]など、激しく批判した。

これに対して西岡は、小林が掲載した資料は、「僕の『マルコ』事件についての記述があります。あれはぜんぜん事実と違うんですね。つまり、『マルコ』の原稿を僕が小林に送ったって話になってますでしょう。(中略)全然別のものなんですよ。僕が別のパンフレットを分前に彼に送ったことがあるんですけど、それが『マルコ』の原稿であったかのように書かれているんですね。」[9]と、小林が掲載したのは、「94年に、パンフレットを作って、随分いろんな人に送ったんですよ。送った一人に、小林よしのりもいたわけですね。それは『マルコ』の原稿とは全然違うものです。」[10]と語り「ナチ『ガス室』はなかった」の原稿ではなく、執筆依頼もしていないと主張。別の文書をマルコポーロの原稿としたのは「捏造」と批判、西岡は抗議文を『教科書が教えない小林よしのり』に発表したが、小林は返答をしていない。

その後、宅が、西岡を「週刊宅八郎」に招いたことが、小林を激昂させ『SPA!』決別の大きな原因になったと靍師、宅は証言。小林と『SPA!』編集部の対立、決別までを検証する座談会を収録した、『教科書が教えない小林よしのり』で、両者は以下のように語っている。

つる師「'95年3月の頭ぐらいに、小林さんが「宅の連載は不快だと伝えてきた。つまり、わしを攻撃してくる「噂真」の岡留の写真を載っけてけしからんとかさ。まず、それが一点で、次がすがさんのカラオケ。「わし」の作品を批判するすがの写真を載っけてカラオケするとは何たることかって。」
(中略)

つる師「3月上旬に「週宅」で西岡さんのインタビューを敢行したわけです。丁度その1号前の号で、小林さんが「ゴー宣」で西岡さんについて描いてたんですよ。編集部に対する3つ目の不満っていうのが、西岡さん問題だったんです。それも、小林さんは『宅は西岡の擁護にまわってる』みたいな書き方をしているけれども、実際ちゃんと読んでみれば宅さんはそんな記事は書いてないよねぇ。」
(中略)

つる師「ところが宅さんがその原稿を発表した後、3月8日になって小林さんが僕に『宅八郎を攻撃する』ということを通達してきたんです。さっきの岡留さんやすがさんなどを扱うこと自体が不快だと。で、もっと不快なのは、わしが西岡に触れた次の号で、宅が西岡にインタビューしていることだ、と。一週間後に西岡インタビューが載るってことは、宅は俺のを見て書いたんだろうって言ってきたわけ。そこまで言ってきたわけ。」
(中略)

— 『教科書が教えない小林よしのり』(ロフト出版、1997年)54〜65ページ

小林は、同誌での連載を1995年8月2日号で終了したが、こうした事情も、関係修復は不可能と判断した一因と考えられる。宅はこの頃から小林の圧力があったと主張するが、これに対して小林側は、『SPA!』での連載継続の意思を失ったと表明して間もなく、扶桑社の幹部から「どうすれば慰留して頂けますか?」と暗に宅や靍師らの更迭を示唆する申し出があったのを敢えて断ったとして否定している。『SPA!』での最終回では本誌への厳しい批判と他社での次回連載を告知するという異例の事態となった。

なお、『教科書が教えない小林よしのり』(ロフト1997)には、当時の小林が関係者に送付したファックスや、逆に小林に送付された内容証明郵便などが掲載されている。

その後、宅は扶桑社の意向などで小林批判を自粛。切通理作を批判するなかで誹謗中傷や自宅への嫌がらせ行為、プライバシー侵害行為を紙面上で展開し、切通の抗議を受けて連載が打ち切られた。宅の行為を容認し、連載中止に反対していた靍師も編集長を解任された。この一件で宅や靍師に憤慨した小林は『SPA!』連載分の単行本版権を扶桑社から引き上げ、双葉社に移した。

『新・ゴーマニズム宣言』 連載開始

連載終了の動きを察知して小林にオファーをかけた小学館SAPIO』で1995年9月27日号より『新・ゴーマニズム宣言』を開始する。なお、連載開始前に同社の週刊誌週刊ポスト』でオウム事件の顛末を描いた予告編的な書き下ろしを2週に分けて掲載している。

薬害エイズ問題を巡って

旧『ゴー宣』時代に薬害エイズ事件を取り上げた事がきっかけで、「HIV訴訟を支える会」代表に就任し精力的に活動する。小林は積極的に朝まで生テレビなどのTV番組へ出演し、問題の重要性を訴えた。自らのネームバリューを生かそうと考え、広告塔であることを積極的、能動的に捉えていた。本編においても支援集会の告知をし、ほぼ同時期にオウムとのトラブルを抱えながらも画面露出は抑えることなくつづけていた。HIV薬害感染者としてカミングアウトした川田龍平を全面的に肯定。厚生省製薬会社に対して対抗する案を本編で提案していた。

原告勝訴後、運動に協力した学生ボランティアが、協力団体(共産党系)の影響で薬害問題に限定したボランティアではなく、永続的な薬害運動、そして「戦争責任追及」など無関係な問題にスライドさせられている事例を知り[11]学生が日常生活に戻らなくなる事を危惧し、作品内において「ボランティアの役目は終わった。後はプロフェッショナルの仕事であり、学生は日常へ復帰して、現場に出てプロの仕事をして、次の薬害を防げ!」と主張した。また左翼運動家を「弱者にたかるハイエナ」と批判した。しかし支える会からは「ボランティアの役目は永遠に終わらない、二度と悲劇が起こらないよう行政をボランティアの目から監視すべきだ」と批判された。

支える会との対立は、『新・ゴーマニズム宣言』14章[12]が掲載されたことから起こったため、「14章問題」と言われる。読者を切り捨ててでも自らの主張を貫く、小林よしのりの姿勢を印象付けた事件であった。ボランティアの中心となった学生は、14章が発表された時点から団体の人間からの批判に晒され、小林に対しては沈黙と批判で答えることとなる。その後、小林は学生と対話するが要領を得ず、「私達は、良いことだけ言ってくれるよしのりさんが欲しかったんです」(『カナモリ日記』)などと言われ、決裂が決定的となる。なお、小林がHIV訴訟の代表川田龍平に対して、原告団や学生達が民青などの左翼活動家に利用されていることを問うと川田は「知ってますよ」と答えた。小林にはそれが自分に対する悪意を見せたかのように感じられ、愕然としたという[13]

小林は学生に範を示す意を持って会長を辞任したが実質的な解任であった。『ゴー宣』と『脱正義論』で自省と「運動の正義」への批判を行い、薬害エイズ運動を沈静化させる道を選んだ。「学生は運動をやめて日常に復帰せよ!」と、運動家に乗っ取られた薬害エイズ運動を批判した小林を、ボランティアの学生達、弁護士らは激しく抗議した。団体の広報誌では、小林よしのり批判の方が薬害エイズ批判よりも多くなってしまう状態となった反面、『ゴー宣』読者からは驚きと好意的な反応が帰ってきていた。小林はこの後、読者には「良き観客でいろ」と言い、その後の様々な活動でも読者に一定の距離を保つことを求め続け、現在に至っている。

従軍慰安婦問題から「新しい歴史教科書をつくる会」へ

従軍慰安婦問題への事実関係についての疑問を発表。それをきっかけに左派や人権派の激しい批判を受ける。その一方で自虐史観に対して憂えていた人達からは熱狂的支持を受ける。この為小林の反権力的意見に共感していた一部の読者は、これを機に離れていった。小林は後の著書『本日の雑談』にて「慰安婦問題や戦争論で左の読者が離れ、保守を批判した事で右派も離れた。商売としては美味しくない。でも、わしは自分の正義を貫くだけだから。」と、語った。

その流れから新しい歴史教科書をつくる会に参加。当初のつくる会は、藤岡信勝司馬史観[14]で進んでいて、大東亜戦争肯定論を語る知識人を呼ばない戦略を立てていた。しかし小林は「戦争論」執筆の際には司馬史観を飛び越え「大東亜戦争肯定論」を描いた[15]。そして『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』がヒットした事で、つくる会がそれに追従する形となる。自らも西尾幹二に強く依頼された事から教科書の内容を執筆し、漫画でも克明に作業ややりとりについて記した。発刊後しばらくして会の運営や理論姿勢等について内部で行き違いが発生し、小林は一部の支持者の親米主義に批判的態度を強めて行き遂には脱会する事となる。小林脱会後のつくる会では大東亜戦争に批判的な意見も少なからず挙がっており、小林はそのことをとらえて、脱会後のつくる会を「ポチ保守」として批判している[16]

『論』シリーズ・近代史論

戦争論』を皮切りに、近代史から現代に至るまでの様々な問題・疑問・イデオロギーなどについて主張を展開した。

『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』シリーズ

『戦争論』内において、元日本兵の弁護の為小林は大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の軍事行動を自存自衛として肯定、大東亜共栄圏を肯定、南京大虐殺をほぼ「なかった」論を展開して論争を巻き起こした。続く『戦争論2』では同時多発テロを非難するならばアメリカの空爆も非難されるべきだと問題提起。それまで小林の言動を支持していた親米保守派の中から、一転批判に転じる者もあった。小林も親米保守派をポチ保守と批判し、これ以降「真正保守」を自認する立場から反米の立場を取る。イラク戦争後に発売された『戦争論3』ではさらに反米色を強め、アングロサクソンの歴史的残虐性を指摘。日本とアメリカの対決は運命であったと主張。『戦争論』シリーズはこの3をもって完結。イラク戦争に関しては、アメリカ追従の言論人を批判し、独立自尊の精神を持てと主張した。それにより親米派が大半である保守系右派の言論人と袂を分かち、手厳しく批判している。

なお、『わしズム』Vol. 7の「戦争論3はこう読め!!」という、秘書の金森(当時)による小林へのインタビューによれば、『戦争論』1を描いた時、小林とスタッフ一同は「これを出したら右翼と言われて、ゴー宣も終わりじゃないか」と覚悟していたが、『ゴー宣』は続き、『戦争論』も3作まで出せたと言い、リスクを取る事の重要さを語った。

『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』

台湾総統李登輝の招きによる台湾訪問を一部始終『新-』本編に描き、その後前総統陳水扁らとの対談、書き下ろしなどを加えて『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』として出版した。2008年には一部描き下ろしを加えた上で文庫化されている。小林作品に一貫するが、実際には日本統治・支配の神聖化はしていない。日本人に比べ、台湾人が第二国民として、同じ成績でも評価が低くされたなどの事実も描く。しかし、初等教育の徹底、インフラ整備など「それでも日本が、ちゃんとした教育を与えてくれた事は嬉しかった」と日本に感謝する台湾人の声を出し、そして李登輝などによる「過去の日本が、台湾で悪い事ばっかりやったと思って、日本の若い人が、なんて悪い国に生まれたんだ、と自信を失っているのは悲しい事だ」という言葉を出し、歴史的遠近感から日本を肯定する。また、国民党よりは日本人の方が、よほど良かったという「犬が去ってブタが来た」という声、戦前はどちらかと言えば反日だった者が、中国に一度は期待し、しかし戦後の国民党支配の過酷さと低劣さに親日に転じた例など、内容は広範に渡る。この作品は台湾でも大問題となり、小林は一時期台湾から入国禁止処分を受けた。また、本作の影響力に危機感を覚えた中国共産党が小林と同種の作品を描く人材を育成しようと図るなど、海外に与えた影響も大きかった。

『新ゴーマニズム宣言スペシャル・沖縄論』

2005年6月に刊行した本書では沖縄米軍基地問題を描き、沖縄に関心を持とうとしない本土の人間の無関心さを批判した。左翼勢力が強いとされる沖縄では批判的な評論が多いが、反面小林の主張に共感を寄せる県民も少なからずいるようでベストセラーとなった。作品内で日本沖縄同祖論DNA鑑定により立証されたと主張。2005年8月14日、宜野湾市沖縄コンベンションセンターで小林よしのりの沖縄論講演会が開かれた際、現在の沖縄の同調圧力の強さ、中国共産党によるチベットへの侵略、台湾への恫喝などを語り、「自国内で平和平和と言ってて、それで平和が来ますか?」と問いかけた。その一方で、「東アジア共同体に参加すべき」などこれと反する内容も描かれた。

『新ゴーマニズム宣言スペシャル・靖国論』

2005年8月にこれまでの靖国神社に関する章をまとめ、描き下ろしを加えて出版。戦後60周年の首相公式参拝をめぐる議論に加わった。政治家(特に首相経験者)各参拝方法に対する批判、天皇親拝に関する見解を作品内で展開した。中曽根康弘の簡略化参拝を批判。儀礼への侮蔑と小林は言い、それを咎めた松平永芳を毅然とした立派な存在と描いている。戦死者を犠牲者と見なしている小泉純一郎首相の参拝姿勢に対しては「国難に立ち向かった戦死者を奉る靖国神社の存在意義を冒涜している」と批判。天皇親拝が廃された理由を三木武夫の私人参拝発言としている。

『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』

SAPIO』誌上にて全10回連載されたものに描き下ろしを加え、2009年6月に出版。天皇の歴史、伝統などについて解説している。『天皇論』刊行後は『SAPIO』誌上において「天皇論追撃篇」を連載しており、反響や反論に対し小林の主張を述べている。

主な主張としては、天皇は祭祀を司り、民の安寧を祈る「祭司王」であるとし、世俗的君主である欧州の王や中国の皇帝とは一線を画する存在である(実際にはイギリス国王イギリス国教会首長であり、中国の皇帝は「天子」として天地の祭祀を行い祭祀者としての側面を持つ)としている。また、天皇について、その存在の廃止や権威の弱体化に繋がる事を論ずる者は左翼であると定義し、批判している。近世までの庶民は天皇の存在を知っており、敬慕していたとも述べている。天皇・皇后および皇太子夫妻への批判については「バッシング」の語を用い、擁護姿勢を見せている。また、美智子皇后のお言葉を引用して女系天皇も容認すると語った。関連著作の「皇后論」(『女性セブン』2009年8月6日号掲載)においては、「美智子皇后のような人物は滅多に出ないものだから、多少劣っていたとしても受け入れなければならない」と発言している。

『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論追撃篇』

『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』の続編に当たる。主に前作の女系容認を支持したことに対する男系主義者の批判に反論した内容となっている(皇位継承問題)。また、旧皇族皇籍復帰論に反対している。

『ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論』

描き下ろし単行本。2010年3月刊行。昭和天皇についての小林よしのりの見解・主張・研究などをまとめている。主に終戦前後の時期の昭和天皇にスポットを当てている。

『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』

2010年12月15日刊行。皇位継承問題について、小林の見解を描いている。 女系天皇の「公認」を主張している。

『ゴーマニズム宣言SPECIAL 国防論』

 2011年8月刊行。3月11日に起きた東日本大震災とその救援活動を行った自衛隊の様子を作者の視点で描いている。
 自衛隊の組織内部(防衛学校も含む)や隊員の生活が詳細に書かれていると同時に、『脱原発論』につながるエピソードもある。

『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論』

2013年12月現在、連載中。第1巻「巨傑誕生篇」は2014年1月8日、第2巻「愛国志士、決起ス」は2015年12月9日刊行。 頭山満などのアジアの自立に力を尽くした志士の人生や人柄を描く。 詳細は「ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇」を参照。

『ゴーマニズム宣言SPECIAL 反TPP論』

2012年2月刊行。農協の陰謀?と誤解されたマンガ

『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』

2012年8月刊行。「自称『保守』は原発推進しているが、保守であれば反原発でなければおかしい」とし、「原発がないと経済が落ち込む」などの嘘を暴くとしている[17]。なお、同書に記載されたエピソードには、原発賛成派の右派言論人や、原発推進派の一人でかつて論文事件を機に交流関係にあった田母神俊雄と対立するに至った過程が描かれている。

『ゴーマニズム宣言ライジング1』

2013年9月季刊。政治家の愛国心のマンガ脱原発論が載っている。

『ゴーマニズム宣言ライジング2開戦前夜』

『女性天皇の時代』

『ゴーマニズム宣言SPECIAL AKB48論』

『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新戦争論』

対談本

『本日の雑談』

『ゴーマニズム宣言』を通じて友好を深めた評論家西部邁との対談本は数多く出版されている。本書は、西部邁の「僕の文章は、論理的過ぎて分かりにくいと言われる」ため、「大胆で、雑談相手である小林さんが、相手をしてくれればなあ」と提案され、ゴー宣の発刊ペースでは時事を追いきれない小林よしのりも同意、2004年4月より約3カ月おきのペースで対談本シリーズとして刊行した。政治経済からスポーツ芸能にいたるまでの幅広い時事問題を2人が雑談形式でざっくばらんに話したものである。2005年11月刊行の第8巻で終了(第9巻からは第II期として、西部邁と、漫画家弘兼憲史の対談となった)。なお西部邁は、「小林よしのりさんと付き合いがあった頃にも思ったけど、漫画の世界は非常に嫉妬とかをしない、男らしい世界なんでしょうね」という言葉を発しており[18]、一部では「小林と西部の対立」が原因でII 期へ移行したのではないか、という憶測がある。

主張・内容

親米保守派の言論人を作品内で猿に描くなど、強く批判[19]。これに対してモデルとされる言論人等が月刊誌などで小林を激しく批判し、泥仕合の様相を呈した。以後、小林は該当の人物達をベタ塗りで描くと宣言した。これは上杉聡との裁判で、上杉が彼らの批判を裁判所に提出し、小林の描写が名誉毀損である証拠として、裁判所に提出したためである[20]。そして裁判も小林勝訴に終わり、西尾石井は『ゴー宣・暫』2巻「第四幕・第三場 捨てられポチの一生」にて、めでたく(?)批判対象の親米保守の一員として、イラストが復活した。

2004年に起こったイラク日本人人質事件に対してマスコミやネット等からの、当の人質となった人間や家族の言動に対する激しいバッシングが沸き起こった一件に関して、『わしズム』vol.11にてアシスタントの時浦兼との対談で「日本本来の国民性を損ねる行為である」として厳しく批判した。その後『わしズム』掲載分の対談に新たな語りおろしを加えた対談本を緊急出版した[21]。問題の人質関係者や左翼と呼ばれる(それを自称する)人間達の主張にも批判も行いながらも一面理解を示すなど、思考の柔軟性を損ねて事の本質を見誤る危険性に対する警鐘を提言した。

インターネット上での無責任な小林自身への批判・誹謗中傷に対し激しく批判を行っていたが、2007年3月『SAPIO』誌上で一転して立場を翻し、いわゆる「ネット保守」に共闘をもちかける[22]情報番組などに出演し[23]東京裁判史観を押し付けるマスコミの報道姿勢[24]を批判した。作品内では「わしの『ゴー宣』は、描き始めてから発表に3週間かかる。あえて批判してきたネット保守に共闘をもちかけたい。今後、同調圧力をかけるマスコミがいたら、直ちに批判してくれ!わしの力の限界を超えてくれ!」と、「ネット保守」に共闘を呼びかけている。しかし、それまでネットを厳しく批判していた小林の急変に、不信や疑問の声が上がっている。一方、「共通の敵」(主に日本のサヨク・中国韓国反日)と戦うと言う名目で、共闘に賛成する意見もある。『ゴー宣・暫』1巻のスタッフとの「幕間ばなし」では、これに関して、「ネットの連中と、ちょっと遊んでやろうと思ったが、何の成果もなかったというだけのことだね」と語り、さらに鈴木邦男に、異様な様子で「ネットなんかに協力求めちゃだめですよ!」と批判され、「どうでもいいとしか思ってないのに」と語った。

小林と上杉聰による裁判

上杉聰が執筆した『脱ゴーマニズム宣言』の題名で出版された「ゴー宣」批判本において、作品内の絵を大量に「無断引用」されたとして、小林は著作権法違反および不正競争行為(小林の著書と誤認させる恐れがあると主張)として民事訴訟を起こした。小林によれば、自分自身への批判は問題ではなく自分の絵を許可なく使用されたことを問題視して訴訟へ踏み切った。 一審は上杉のほぼ全面勝訴となったが、それについて小林は「悪質で一方的なこじつけ裁判だ」と語っている[25]。二審では、必要以上に改変されているとして一箇所の著作権侵害を認めたが、引用自体の差し止めなどは棄却となった(墨塗りも止むを得ない改変であり、合法との判断)。全体的に上杉寄りの判決自体には少なからず不満を示すも出版差し止め自体は認められた事で「最初から出版差し止めが要求であり、目的は果たされた」と表明。その後、上杉のみ上告したが、棄却され出版差し止めを認めた高裁判決が確定する[26][27]

前記の著作権裁判の高裁判決後、上杉は小林に対して名誉毀損(作中で『ドロボー』呼ばわりされた事なども加えて)を理由に民事訴訟を起こしたが、二転三転の末に最高裁で小林側の勝訴が確定した。判決は、「本件漫画(小林の『ゴーマニズム宣言』)においては、被上告人(上杉)の主張を正確に引用した上で、本件採録の違法性の有無が裁判所において判断されるべき問題である旨を記載していること、他方、被上告人(上杉)は、上告人小林を被上告人著作中で厳しく批判しており、その中には、上告人小林をひぼうし、やゆするような表現が多数見られることなどの諸点に照らすと、上告人小林がした本件各表現は、被上告人著作中の被上告人(上杉)の意見に対する反論等として、意見ないし論評の域を逸脱したものということはできない。」とあり、上杉の『脱ゴーマニズム宣言』で数多くの誹謗が行われていることから、主張を正確に引用し反論した小林の行為は、「論評の域を超えるものではない」とされ、小林勝訴となった[28]

なお、上杉は『脱ゴー宣』で引用した小林の絵の中で、「醜く描かれた人物をそのままで引用したのでは、引用した書物も名誉毀損になる可能性がある」としてそれらの人物描写の一部に墨塗りを行った。小林は墨塗りを改竄と批判したが、上杉は「これ以上自分自身を醜く描けば名誉毀損で訴える」と宣言。これに対して、小林は上杉を全てベタ塗りで描くようになった。

また、他人の作品を無許可で意図的に大量引用する事について著作権違反であると小林は主張したが、小林自身も過去の『ゴーマニズム宣言』の作品内において、他者の漫画作品[29]から引用転載を行っていたことがある[30]。その後はそのまま文庫本に収録され、特に何も起こっていない。

書籍

脚注

  1. ^ ゴーマニズム宣言文庫版第1巻前書き
  2. ^ ゴーマニズム宣言文庫版第1巻p169
  3. ^ 小林よしのり (2015年5月14日). “今は亡き青林堂のやせ我慢の精神”. 小林よしのりオフィシャルサイト. 2016年3月10日閲覧。
  4. ^ 小林, よしのり『ゴーマニズム宣言』 3巻、扶桑社、147-154頁。 
  5. ^ 両者は後に戦争責任論を巡って対立関係になる。
  6. ^ 第158章参照
  7. ^ 扶桑社1995/08/01 初版第一版 79頁
  8. ^ 扶桑社1995 83頁
  9. ^ ロフト1997 『教科書が教えない小林よしのり』54〜65頁
  10. ^ ロフト1997
  11. ^ 従軍慰安婦問題への謝罪をラップで訴えよう」などといった運動活動。
  12. ^ 第1巻・脱正義論に収録。冒頭で大学時代に「学生活動やりかけたことがある」と描かれている。このエピソードは『ゴーマニズム宣言』第2巻・49章「絶対個の彼方へ」に詳しく、すでに学生運動は下火となっていたが「レーニンマン」とされる左翼系のバイブルレーニン毛沢東マルクスなど)を読み込んでいる男に影響され、学生運動に参加。「わけのわからんことをほざきながら、ヘルメットにタオルという、ダサい格好だけは拒否していた」と語る。結局、宗教の勧誘の方が人数を増やしている状況、運動自体が目的化し遊んでいるようなものだと感じ、社会に出て漫画家になるための勉強を選び、参加することを辞める。漫画家になった数年後、「レーニンマン」と偶然、街で出会い「中小企業で、ガンガン戦っている」と語る彼に、最初は呆れ半分に感心するが、資本主義を揺るがすような漫画を描くことを求められ、「個を潰して、社会のために働く気は無い」と、社会主義を明確に否定し、立ち去った。
  13. ^ 『脱正義論』p. 78参照。
  14. ^ 「日露までの日本は良かった、昭和に入り敗戦までの日本は暗黒の時代だった」とした司馬遼太郎等の主張。
  15. ^ 製作の中で渡部昇一中村粲に会い、名越二荒之助の本も読むなど様々な著書や意見を参考にした。
  16. ^ 『わしズム』Vol. 7
  17. ^ 『ゴーマニズム宣言 SPECIAL脱原発論』 小林よしのりさん(漫画家)東京新聞
  18. ^ 『本日の雑談』10巻
  19. ^ 主に西尾幹二石井英夫など。
  20. ^ 『新・ゴーマニズム宣言』14巻参照。
  21. ^ 『ゴー外!! 1』アスコム刊。
  22. ^ 2007年『SAPIO9月27日号参照。
  23. ^ NHKの『日本の、これから』や、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』などの番組など。
  24. ^ サンフランシスコ講和条約・第11条を「諸判決」ではなく「裁判」と訳すなど恣意的な操作が行われている事を指摘・批判。
  25. ^ 『新・ゴー宣』8巻
  26. ^ http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/9080B34D1A37B16F49256A77000EC329.pdf
  27. ^ 判決後は、違法にならない体裁に修正されて販売されている。
  28. ^ 最高裁判決文
  29. ^ 主に白土三平の『カムイ外伝』2巻、山口貴由の『覚悟のススメ』。
  30. ^ 『ゴーマニズム宣言』67章「自主規制というファシズム」ほか差別論にも収録。
  31. ^ 本の帯・そでに活字版ゴーマニズム宣言初登場と記載されている。それ以前に全編活字の「個と公」論が刊行されているがこれは新・ゴーマニズム宣言であるため矛盾はしない。

関連項目