ケネディ大統領暗殺事件

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ケネディ大統領暗殺事件
暗殺直前のケネディ大統領夫妻。前列がコナリー・テキサス州知事夫妻。
場所 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国テキサス州ダラス
座標 北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度 / 32.7790306; -96.8086694座標: 北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度 / 32.7790306; -96.8086694
日付 1963年11月22日
概要 暗殺事件
攻撃手段 ライフル銃による狙撃
死亡者 ジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領
負傷者 ジョン・コナリーテキサス州知事
犯人 リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行とされている
対処 逮捕
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ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、Assassination of John F. Kennedy)は、1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中であった第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディダラス市内のパレード中に銃撃され死亡した事件のこと。

犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、2日後にダラス警察署の中でジャック・ルビーに撃たれて殺され、裁判の場に立つことはなかった。そして後にウォーレン委員会の公式調査報告でオズワルドの単独犯行として大統領が後方から撃たれたとする結論に対して、数々の疑惑が出るなど、長年にわたって真相についての議論が続いている。白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係も分からず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから、陰謀説も多い事件として半世紀が過ぎた現在でも論議を呼んでいる。

事件概要

テキサス遊説の背景

ケネディ大統領が1963年11月下旬にテキサス州を遊説することにしたのは以下の三つの理由からであった。

  • 翌1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。
  • その大統領選挙での再選へ向けての選挙活動の開始。南部諸州は以前は民主党の金城湯池と言われる牙城であったが、前年とこの年の夏にアフリカ系住民に対する人種差別について強硬な姿勢を取ったケネディに対する反感が渦巻き、翌年の大統領選挙で共和党から立候補が確実視されていた超保守派のゴールドウォーター[注釈 1]南部諸州を全て勝たれるとの予想が秋頃から民主党にはあった。そこで南部の中で唯一民主党が勝利する可能性があるのがテキサス州であった。選挙人数も南部で最大の州であり、ジョンソン副大統領の地元でもあり、最初のテコ入れをテキサス州にして、最低でもテキサスだけは確保するつもりであった[注釈 2]
  • 前回1960年の大統領選挙では、ジョンソンの地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで(ダラスでは共和党に敗北した)、しかもテキサス州の民主党が保守的なコナリー知事とヤーボロー上院議員(ケネディと親しい関係)が対立していて、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。

行程は11月21日(木)にホワイトハウスを発ち、専用機でサンアントニオからヒューストンを経てフォートワースに夜到着し、翌11月22日(金)の朝にフォートワースからダラス、最後はオースチンに行き、そしてオースティン郊外のジョンソン牧場で副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。

ダラス到着

ダラス・ラブフィールド空港に到着した大統領夫妻(1963年11月22日11時40分)

1963年11月22日(金)の朝にフォートワースでの朝食会に出席して[注釈 3]、終了後専用機でケネディ大統領夫妻はダラスに向かった。現地時間11時40分にダラス・ラブフィールド空港に到着した。「ダラス・トレードセンター」で昼食会と大統領のスピーチが予定されていたために、自動車パレードはダラス・ラブフィールド空港からダラス市内を通って、ディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過してダラス・トレードセンターに向かう計画であった。

11時50分にケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻はラブフィールド空港から、C123輸送機によりワシントンから運ばれた1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用のリムジンに乗車して空港を出発した。

リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ、左側に妻のジャクリーン・ケネディ、その前列の右側にテキサス州知事ジョン・コナリー、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンが乗車した[注釈 4]

この時、バブルトップと呼ばれる透明な防弾カバーの屋根をつけるかどうかは、その日の天気次第とされていた。当日のダラスの天気予報は終日雨の予報であったが到着の1時間前から天候は回復し、空は晴れあがり結局リムジンにバブルトップが付けられることはなかった[1]

市内パレード

暗殺事件現場のディーリー・プラザ。パレードの方向は黒の矢印、赤い四角が犯人がいたとされる教科書倉庫ビル、赤いバツ印2か所が狙撃された地点

ラブフィールド空港からのパレードには合計12台[注釈 5]の車が参加して、車列の先頭が先導する白バイで次にシークレット・サービスだけが乗った車で、その次が大統領夫妻が乗ったリンカーン・コンチネンタル、その後ろに再びシークレット・サービスが乗った車、そしてその次にジョンソン副大統領とレディバード夫人が乗った車を中心にパレードの車列は11時50分にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を時速16キロメートル(時速10マイル)前後のスピードを保ったまま、ダラス・トレードセンターに向かってゆっくりと進んだ[2]。ダラスの至る所、ルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために二度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に一人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。しかし全体としては歓迎ムードで、後にコナリー知事は「心からの温かさ、理解、敬意を示す大変な数の市民が繰り出していた。大統領もジャクリーン夫人も心から喜んでいる様子であった。」と語っている。ネリー夫人は大統領の方を振り返り「これでもうダラスがあなたを歓迎していないって、おっしゃらないでしょうね。[注釈 6]」と言うと大統領は「もちろん。考えていませんとも。[注釈 7]」と答えている[3]

12時30分にケネディのリムジンはメイン通りからディーリー・プラザに入って右折し、ヒューストン通りをテキサス教科書倉庫ビルの正面にゆっくり進んだ。そして次にリムジンはゆっくりと左折して、エルム通りに入り、教科書倉庫ビルからわずか20メートル離れた位置に達した。

狙撃

最初の銃弾が命中し喉を押さえるケネディ大統領。「ザプルーダー・フィルム」から
後方の車からリムジンに飛び移る護衛官のクリント・ヒル

リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫ビルの前を通過した時、およそ6〜9秒の間にケネディは狙撃された。狙撃の間リムジンの速度は時速14キロメートル(時速9マイル)から時速21キロメートル(時速13マイル)であった。ウォーレン委員会はその後、三発の銃弾の内一発は車列を外れ、一発がケネディに命中貫通してその後コナリーを傷つけ、最後の一発がケネディの頭部に致命傷を与えたと結論を下した。ほぼ全ての者がケネディに少なくとも二発の銃弾が命中し、頭部への銃弾で死亡したことを認めている[注釈 8]

大統領に当たった第一発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後に爆竹かバックファイアが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を胸に当てて頭を下向きにして、一瞬何が起こったのか判らず大統領の顔を覗き込むジャクリーン夫人にもたれかかった。その前列では撃たれたコナリー知事が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、それによってドライバーのビル・グリアーは状況を知った。狙撃の最中にグリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認し、再び前方を見た。その時に一瞬彼はブレーキを踏んでおり[注釈 9]、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。[注釈 10]

犯人が狙撃したと言われる教科書倉庫のビル

大統領に命中した第二発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。一発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが後方のトランクに飛び乗る直前のことであった。そしてクリント・ヒルはトランク上へ這い出たジャクリーン夫人を座席に戻し、パークランド・メモリアル病院へ向かうよう指示した。

テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている[注釈 11]。この大統領が狙撃されてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを目撃して現場はパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていた。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。

大統領の被弾

大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている[注釈 12]。二発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。狙撃の瞬間をたまたま8mmフィルムで撮影していたエイブラハム・ザプルーダーのいわゆるザプルーダーフィルムの映像(後述)では、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。ただしザプルーダーフィルムのコマ番号313は血しぶきなどの飛沫はコナリー知事が座っていた前方に飛び散っている。直後にジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、シークレットサービスのクリント・ヒルにすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。病院到着後に彼女は大統領の頭部の骨片を医師に渡している。

夫人の証言

ジャクリーン夫人は後にウォーレン委員会での証言で「銃撃は2発しかなかったと記憶している」「1発目が当たった時、彼がちょっと訝しげな表情を顔に浮かべていて片手が上がっていた」「2発目で吹き飛ばされた彼の頭蓋骨を押さえようと彼の髪をしっかり押さえて、彼の頭を膝に載せて車内で伏せていた」と述べて、後方に這い出したことは「そのことは全く覚えていない」と説明している[4]

記録された暗殺(ザプルーダー・フィルム)

大統領一行がダラスに到着した時に、地元のラジオおよびテレビ局は空港での到着の模様は中継放送したが、市内パレードは中継はしなかった。そして目的地のダラス・トレードセンターの昼食会の会場にテレビカメラを設置して昼食会を中継する予定であった。後にKBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方の車に乗車したメディア[注釈 13]を除いて、ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディの到着を待っていた。

しかしながら、ディリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの 8mmフィルムに 26.6 秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった[注釈 14]

FBIはザプルーダーが使っていた8ミリカメラが毎秒18.3コマで動いていたことから、暗殺時の大統領のリムジンの速度は11.2マイル[5](18キロ)の時速であったと推測した。そしてザプルーダーフィルム全486コマから各コマに番号を確定して、大統領が頭部に致命傷を負った弾を被弾したコマを番号313[注釈 15]と指定した。そして大統領が1発目の銃弾を受けたのが番号210から224の間と確定した。1発目は道路標識に遮られて、被弾した瞬間の大統領の様子は写っていない。大統領の顔が再び写っていたのは番号225で明らかに撃たれている様子であったため、それ以前に撃たれたと見られている。そしてコナリー知事が被弾したのは番号240であることが分かった[6]

これは事件直後にFBIが3発撃ち込まれて、1発目が大統領へ、2発目が知事へ、3発目が再び大統領へ当たったという報告と矛盾することとなった。オズワルドが撃ったとされるライフル銃[注釈 16]で連射した場合、「好機をとらえた二発の命中弾」の最低限の時間は2.3秒でザプルーダーフィルムで42コマが必要であった[7]。ここに当初考えられた単独の狙撃犯ではなく、別に狙撃犯がいたのではと考えられることとなった。

暗殺を現場で目撃し記録した者は、ザプルーダーだけではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている[8]。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている[注釈 17]。写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。

沿道の負傷者

暗殺を目撃した市民の一人であるジェームズ・ターグ(James Tague)は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。ただしこれは発射された弾の破片ではなく、弾が近くの橋の支柱に当り、その支柱のコンクリートの破片が飛んできたものであった[9][注釈 18]彼はすぐに地元警察に報告したが、その後は警察からの尋問はなく、翌年のウォーレン委員会でも殆ど無視されている。

その他の目撃者

メアリー・モーマンが撮影した画像

ディーリープラザでの目撃者で、直接ライフル銃を構えて撃っている姿を見た人として、ハワード・ブレナン[注釈 19]がいる。彼はちょうどヒューストン通りからエルム通りに入る角の壁の上に腰掛けていたが、1発目の音はオートバイのものだと思い、2発目の音は花火のような音に聞こえて上を見上げた時に、教科書倉庫ビルの6階窓から「ある種の高性能ライフル」を構え「左の窓の下枠に体をあずけ、銃を右肩にあてて、左手で銃を支えながら、最後の一弾を発射しました」とウォーレン委員会に証言している。彼の場所から教科書倉庫ビル6階までは直線でわずか35メートルの距離であった。彼はその直後に警察官に通報して、警官が教科書倉庫ビルに入ると同時に、ブレナンが見たライフルで撃った男の人相や風体が警察無線で市内のパトカーに伝わった[10][注釈 20]

またこの教科書倉庫ビルでオズワルドの仕事仲間が5階でパレードを見ていた時に、上の階からライフルのボルト(遊底)が引かれ、また押し込まれる音を聞き、また空薬莢が床に落ちる音も聞いている。翌年ウォーレン委員会が直接現場で実験したところ上の階でのライフル銃の操作の音も薬莢が床にゴツンと落ちる音も驚くほど聞こえることが分かった[11]

大統領が撃たれた所から前方にある草の生えた丘の上(グラシー・ノール、grassy knoll)から発砲があったとする複数の証言がある。ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言し、後に男が銃撃したと述べている。また狙撃時にパレードの前方にあったトリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド[注釈 21](Sam Holland)はアーケードの背後(behind the arcade)の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。この他にダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールでシークレットサービス(当日は配置されていなかった)を名乗る私服の男を見たと証言した。ウォーレン委員会では、この場所で結局物的証拠が全く見つからず、また当時この場所で数人の見物人が立っているので誰にも見つからずにライフル銃を発射できたとは想像できないとして重要視しなかった[注釈 22][注釈 23]

メアリー・モーマン[注釈 24]は、頭部に致命傷を受けた直後(約0.17秒後)の大統領と背後のグラシー・ノールをポラロイド写真機[12]で撮影した[注釈 25]。その際、暗殺犯とその発砲の瞬間[注釈 26]が撮影されたとする説がある。研究家ゲーリー・マック(Gary Mack)は「モーマン写真」を拡大すると「バッジを付けた人物と煙かマズルフラッシュ(発射炎)のような像」が確認できることを発見した。この説は1988年にEngland's Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」でも紹介されたが、この像は人間ではないとする説もある[注釈 27]。またゴードン・アーノルド[13]の証言[注釈 28]やロスコー・ホワイト[注釈 29]と結びつける主張もある。[注釈 30]

防弾カバー使用拒否

透明な防弾カバーをかぶせたリンカーン・コンチネンタルのオープントップ・リムジンに乗るケネディ(1963年6月27日、アイルランド訪問時)

事件後にオープンカーに防弾カバーをかぶせていなかったことが問題となった。

当初、所轄のダラス市警察本部とシークレット・サービス(大統領付き護衛隊)は、狙撃や投石などに対する治安上の見地から、無防備なオープントップでのパレードではなく、透明な防弾カバーをオープントップにかぶせた上でパレードを行うよう主張した(なおこの様な防弾カバーは、これまでに数回利用されていた)。実際に前月にダラス市を訪れたスティブンソン国連大使が暴漢に殴られたり、11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上に、反ケネディ派による、ケネディ大統領を「お尋ね者」とする黒枠付きの全面広告が掲載されるなど、反ケネディ派による襲撃が懸念されたにもかかわらず、翌年に再選に向けた選挙を控え、国民に対して「親しみやすいイメージ」と「毅然としたイメージ」をアピールしたいと願っていたケネディ大統領とその側近は、ダラス市警察本部とシークレットサービスによる防弾カバー使用の主張を退けた[14][15]

国民に対するイメージ戦略を重視して、安全を軽視することとなったケネディ大統領とその側近によるオープントップ・リムジンの防弾カバーの使用拒否が、結局ケネディ大統領の運命を決定することとなった。

ティピット巡査の死とオズワルドの逮捕

リー・ハーヴェイ・オズワルド

ダラス市警察とFBIは現場で、付近のビルを直ちに出入口を閉鎖して不審尋問を始めた。銃声がした方角からテキサス州立公立学校教科書倉庫ビルに第一の容疑がかかり、数人の警官がすぐにビル内に捜索に入った。ダラス市警察のマーチン・ベーカー警察官はオートバイで伴走中に狙撃されるとすぐにオートバイを止めてビル内に入り2階の従業員食堂でコーラをラッパ飲みしていた男を見つけて、横にいたビルの支配人[注釈 31]に聞くと「この男はうちの従業員でリー・ハーヴェイ・オズワルドです」と支配人は答えた[注釈 32]

警官はそのまま上の階に上がっていった。警官たちは、まさかテキサス教科書倉庫ビルの従業員が犯人であるとは思わなかった。当然外部から入り込んだ人間の犯行という考えがあった。この時狙撃からほぼ3分が経過していた。そして6階の部屋(段ボール箱が山積みされた倉庫)からライフル銃1丁と弾丸の薬莢3個を発見[注釈 33]して、また、窓の手前に段ボール箱を積んでその上にライフル銃を安定させた跡があった[16]

すぐに従業員の点検が行われて、1人だけ姿が消えていることが判明した。つい先ほど食堂にいたリー・ハーヴェイ・オズワルドが何故か居なくなっていた。オズワルドのその後の足どりは、12時33分に警官が居たビルの出入口をすり抜けて、歩いて近くのバス停に行き、12時40分にバスに乗ったが大統領暗殺事件の混乱でバスが進まず、12時44分にすぐに降りて12時48分にタクシーに乗り、下宿先の自宅に帰ったのが13時頃で、下宿の管理人ロバーツ夫人[注釈 34]はオズワルドが息を切らして帰ってきたことを見ている。ここからすぐに着替えて再び出て、13時30分頃にテキサス劇場という映画館に入っている[17]。この間の13時20分にダラス市警に男性の声でパトカーの警官が撃たれて死んでいるというパトカーの無線通信を使った緊急連絡が入り、出動した警察官がダラス市警察のJ・D・ティピット巡査(en:J. D. Tippit)の死体を確認している[注釈 35]。ほどなく映画館の切符売りの女性から切符も買わずに館内に入った不審な男がいるとの緊急連絡が入り、警官隊が映画館を包囲して中に入り、照明を明るくして座席に座っている客を1人1人調べ始めると、突然殴りかかってきた男がいて格闘の末取り押さえた。こうして13時40分にオズワルドは逮捕された。[18][注釈 36]ケネディ狙撃の70分後に現場近くの劇場での逮捕であった。J・D・ティピット巡査はオズワルドの逃走でダラス市警から緊急に各警察官にオズワルドの手配が行われた時、オズワルドによく似た男を見かけて、パトカーを下りて訊問しようとして撃たれ3発の銃弾を浴びて即死であった。これを直接目撃したのが、ヘレン・マーカス[注釈 37]という女性で、その日夜遅くにダラス警察本部でオズワルドと面通して確認している。この他に6人の目撃者がオズワルドを確認している。[19]

リー・ハーヴェイ・オズワルドの訊問はこの22日深更までほとんど休みなしで続けられ、この日の18時30頃にダラス市警のJ・D・ティピット巡査を殺害した容疑で告発され、その夜遅く23時30分頃に大統領暗殺容疑で告発された。しかしオズワルドはケネディ大統領殺害もティピット巡査殺害もどちらも頑強に否定した[20]

パークランド病院

ダラス市の北西部にあるパークランド病院は隣りにテキサス大学医学部があって、病院はその付属病院であり、医師たちは全てテキサス大学の教授ないし助教授であった。また、当時この病院は1日に300件の急患を取り扱うことができる全米でも屈指の設備を擁していた[21]。そこへ瀕死のケネディ大統領らを乗せたリムジンがパトカーや白バイの先導で慌ただしく病院に到着したのは12時37分頃[注釈 38]で、この時に後ろの車から駆け付けたパワーズ補佐官は、ジャクリーン夫人が大統領の頭を胸の中に隠すようにうずくまる姿を見て「Oh My God」と呻き、ジャクリーンは「Dave,He is dead」と語って大統領の顔を誰にも見せようとはしなかった。車のドアに近かったコナリー知事を運び出した後に、大統領を担ぎ出そうとしたが動転したジャクリーンが動かなかったので、クリント・ヒルが自分のスーツを大統領の頭に掛けて他の誰にも見せないようにして、やっと車から大統領の身体を降ろした。

そしてケネディ大統領は救急室の第1手術室に運び込まれて、神経外科ウイリアム・クラーク部長、麻酔科M・T・ジェンキンス主任らが見守る中で外科手術担当のジム・カリコ医師がハイドロコーチゾンを注射した[注釈 39]。ジョーンズ医師がカテーテルを挿入するために大統領の左腕に入り口を開けて、カーチス医師が左足にも同じ処置をして、血液銀行から大統領と同じ血液型のRhマイナス型の血液が届きすぐに輸血が開始された。その時、カリコ医師が大統領の首の傷のところから泡が出ていることを見つけた。これは肺の中に穴が空いていることを意味して、急ぎマルコム・ペリー医師が気道を確保するために気管切開を行った[注釈 40][注釈 41]そしてピータース医師とチャールズ・バクスター医師が胸の右上部にチューブを挿入した。これは肺から血液と空気を取り除く処置である。神経外科のクラーク部長が大統領の両眼を見て「目が膨張して凝固している」と述べた。この時に心電図は取り付けられていたが微動だにしない状態であった。ペリー医師が心臓マッサージを行ったが、心電図の画面は空しく波がなく横にただ移動するだけであった。クラーク部長は「もう手遅れだ。手の施しようがない。」とペリー医師に語り、大統領の死亡を告げた[注釈 42]。パークランド病院第一外傷室の係員は、後に病院に担ぎ込まれた時にすでにケネディが「瀕死」状態だったと語った。ある医師は「我々には彼の命を救う希望が持てなかった」と語った。これは病院に到着したときすでに生存の可能性がなかったことを意味する。[22]

大統領が瀕死状態で到着して、死亡宣告、そして司祭が終油の秘蹟を与え終わるまでわずか23分間の短い時間であった。そして大統領の治療に当たった医師たち[注釈 43]が銃撃による入口と出口の傷の判定や死因の法医学的な評価を十分くだせるような診断も検査測定も写真撮影も病院では行われなかった[23]。死亡が確認されてジャクリーン夫人の希望で地元ダラスのカトリック教会のヒューバー司祭とトンプソン神父が病院に呼ばれ、枕元でケネディに病者の塗油(終油の秘蹟)を与えた後、医師団の判断で儀式を終えた13時00分を大統領の死亡時刻とすることが決まり、大統領の死亡診断書にはクラーク神経外科部長が署名した。ケネディに終油の秘蹟を行ったヒューバー司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたと後にニューヨーク・タイムズに語った。

ところで治療に当たったペリー医師は、直後の記者会見で大統領は前方から撃たれたようだと語り、後に銃弾がどこからきたか判断に必要な傷を調べていないとして取り消している[24]

一方大統領のリムジンに同乗していたコナリー知事[注釈 44]は救急室の第2手術室に運び込まれ、その日の内に二度の手術が行われて、一命を取り止めた[注釈 45]。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した(同一の弾丸によるものと考えられたが、これには疑問が提示され議論の対象となっている。「魔法の銃弾」参照)。その後医師は、コナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷(傷口から直接肺へ空気が流入していた)が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったと語った。

パークランド病院に大統領が担ぎ込まれた時に、シークレットサービスの2人が急ぎ軽機関銃を持って病院内に入り、手術室まで入って関係者以外の出入りを禁止したが、1人の平服の男が入ってきたので、あわてて胸ぐらを掴んで殴り倒す一幕があった。この殴り倒された男は直後に身分証明書を見せて「FBIだ」と名乗り、病院から急ぎFBIのフーバー長官に電話で報告した。誰もが興奮して殺気だっていた。[25]

ケネディ狙撃の速報と死去報道

ダラス市内でのパレードで大統領が狙撃されてから数分後には、全米のラジオとテレビでケネディ大統領が撃たれて重傷を負ったとの速報が相次いで出された。大統領の車がパークランド病院に向かっている時に、UPI通信が「ケネディ撃たれる」の速報を打電し12時35分には地元ダラスのラジオ局KBOXが放送中に「何か、パレード中に起こったようです」と最初にアナウンスしている。12時36分にはABCがラジオで臨時ニュースで報道し、後に暗殺事件調査委員会委員長となるウォーレン最高裁長官は12時37分にMBSラジオでその第一報を聞いた。12時38分にCBSの本局にいたウォルター・クロンカイトはUPI通信のスミス記者の打電を受けてすぐにテレビで速報を出す決意をしたがテレビカメラを動かすのに時間がかかるので、ラジオのスタジオに入り、音声だけで「CBS NEWS BULLETIN」(CBSニュース速報)をテレビに流した[注釈 46]。NBCテレビは12時45分に最初の速報を出している。

この頃には全米で大きな混乱が巻き起こり、ワシントンD.C.では、12時43分(東部標準時13時43分)から電話網が59分間散発的になった。回線はニューヨークを経由させることとなったが、結局つながらなかった。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。ニューヨークでは車のカーラジオに歩行者が集まって来て刻々とニュースが流れるのを聞き入っていた。

12時53分(東部標準時13時53分)にはNBCテレビがスタジオからの報道体制に入り、テレビカメラが動かないので、しばらくは固定画面で音声だけのもので、12時57分に画面が3人のアンカーマン[注釈 47]を映す出し、3人が揃って各通信社の打電文とダラスからの電話レポート、ラジオが伝える情報を次々と報道した。

CBSテレビとABCテレビも13時00分(東部標準時14時頃)には通常番組を切り替えてスタジオからの報道体制に入った。CBSは昼食会場であった「ダラス・トレードマートセンター」にカメラを配置していたのでそこからレポートを流していた。ABCは夕方のイブニングニュースのアンカーマンであるロン・コーチャンがレストランで食事中に速報を受けて急遽スタジオに入り13時08分から報道していた。

CBSテレビのウォルター・クロンカイトは「ダラス・トレードマートセンター」からのレポート以外は報道室からずっと喋っていた。報道体制が整った時に、すでにこの時点ですでにジャクリーン夫人付きの警護担当者がケネディが死亡した模様だと語ったとUPI通信が打電し、地元ダラスのテレビ局WFAA-TVのジェイ・ワトソン[注釈 48]が12時58分に伝えている。[注釈 49]

そしてケネディ大統領に終油の秘蹟を行った司祭がパークランド病院を出た直後に、取り囲まれた報道陣の質問に答えて大統領の死亡を伝え、これが直接大統領の死去を確認したものであったので、13時30分過ぎにこの情報はすぐにテレビやラジオを駆け巡った。ABCテレビではこの情報が入った13時33分に大統領死去(ケネディの顔写真と下に1917〜1963と記されていた)と伝えた。ただいずれも非公式な情報で、生存説と死亡説が両方飛び交う状況が続いた。NBCテレビは13時35分に、この司祭からの情報とダラス警察の情報からダラスのWBAPテレビのチャールズ・マーフィー記者が「The President kennedy died 」と伝えた。

この時とほぼ同時の13時33分にパークランド病院の一室で今回の大統領一行の随員であったホワイトハウスのマルコム・キルダフ副報道官が「ケネディ大統領は本日午後1時に死去しました」と公式発表を行い、キルダフは顔面蒼白で今にも泣きだしそうな表情でわずか3分の短いケネディ政権最後の記者会見であった。

死亡した同じ時刻13時(東部標準時14時)から大統領狙撃の特別ニュース番組を放送していたCBSのウォルター・クロンカイトはそれまで死亡説の情報が入っても未確認情報として慎重な姿勢で「still alive」「critical condition]と伝えていたのが、13時38分(ダラス時間)に報道室に届いたこの公式発表の至急電を読み、途中メガネをはずして「The President kennedy died at1:00 pm」と述べて報道室の右上の掛け時計(この時、14時38分を指していた)を見ながら、「東部標準時では午後2時ですので38分前のことです」と言って絶句し涙ぐんだ。大統領撃たれるの第一報が入ってからその対応で報道室から1人で喋り続け、寒い11月下旬なのにスーツの上着を着る余裕もなくワイシャツ姿で伝え続けたこの時のテレビ映像はその後「ケネディ暗殺」の象徴的映像となった。同じ時刻にNBCテレビではパークランド病院の電話回線を使っていたが、電話の相手側の声がどうしてもテレビの音声に入らないのでキャスターのフランク・マギーがNBCロバート・マクニール記者の電話報告を一言一句繰り返し復唱して公式発表を伝え、レポートが終わって受話器を置いた瞬間にショックから涙をこぼした。

ケネディ大統領死去の公式発表に全米は大きな衝撃と深い悲しみに包まれた。

なおケネディ政権最後の記者会見を行い大統領死去の発表を行ったマルコム・キルダウ副報道官は席次でいえば3番目のスポークスマンで、いつもの首席報道官ピエール・サリンジャーは東京での日米貿易経済合同委員会に出席するため飛行機でラスク国務長官らと日本に向かっている時であり(この暗殺事件で途中で急遽引返した)、次席副報道官アンドルー・ハッチャーは首都ワシントンに留守番として残り、普段はあまり記者会見の場で立つことの無い人であった。また、彼が大統領死去の直後にパークランド病院内で、発表のタイミングを詰めるためジョンソン副大統領のところへ行った時に、「ミスター…ミスタープレジデント(大…大統領閣下)」と声をかけたことは有名な話である[注釈 50]。ここですでに新大統領となったジョンソンと打ち合わせて、ジョンソンがパークランド病院を出た直後に記者発表することとなった[26]

ケネディ兄弟への通報

司法長官であった実弟のロバート・ケネディは自宅で、FBIのフーバー長官[注釈 51]からの電話で、狙撃の第一報を知らされた。フーバー長官のもとへ第一報が入ったのは、病院からの報告より早くFBIダラス支局からのもので、長官はすぐにワシントン郊外のヒッコリーヒルのロバートのもとへ電話した。最初に出たエセル夫人からロバートにフーバーからの電話と知った時、それがFBI長官からの初めての電話であったのですぐに重要な話であることを感じたが、フーバーの口調はかなり事務的な雰囲気でそれほど興奮したものでなかった、と後にロバートは苦々しく回想している[27][注釈 52]。その直後にパークランド病院に電話して、警護官のクリント・ヒルを呼び出している。この時に「クリント、そっちで何があった?」「重傷とはどういうことだ?どれくらい悪いんだ?」と聞いてクリント・ヒルは「最悪です」と答えている[28]

エドワード・ケネディはこの日、上院本会議の議長席にいて、13時42分(東部標準時・ダラス時刻12時42分)に通信社からの至急電を持った議会スタッフのリチャード・リーデルより伝えられた。すぐに休会が宣言されてマンスフィールド[注釈 53]民主党院内総務の提案で議会付きの牧師を呼んで祈りを捧げ「…彼の命脈が未だ尽きざらんことを」で言葉を結んだ。この日の審議がなぜ中断されたのか議会議事録には何も記録されていない。

またロバート・ケネディはジョン・マコーンCIA長官に電話してすぐ来るように要請し、暗殺のショックがさめやらぬ時に来訪したCIA長官に対して、「CIAが兄を殺したのか?」と詰問し、マコーンは即座に暗殺には無関係だと否定している[29]。2年前の第1次キューバ危機からケネディとCIAの関係は冷え込んでいたのである。この暗殺事件直後に、CIA内部では世界中のCIA支局に打電して暗殺事件に関するどんな些細な情報も含めて情報収集に取りかかっていった。そしてすぐにオズワルドと名乗る男が10月1日にメキシコシティのソ連大使館に電話して申請した旅行ビザについて尋ねていたことを記録したファイルが見つかった。オズワルドが逮捕されたという報道が流れてわずか2分後のことであった[30]。そしてこの日の深夜に興奮状態が続く中で会議が延々6時間続き、「オズワルドがメキシコのソ連大使館を訪ねていたことをCIAは前もって知っていた」ことを聞かされたマコーン長官は激怒した。そしてCIA内部の事件調査はこの後に混乱と猜疑のために挫折して、今日に至るまで消えない疑念の影を残すことになったのである[31]

ホワイトハウスに大統領の死が伝えられたのは、終油の秘蹟を行った時にロイ・ケラーマンからクリント・ヒルに大統領が亡くなったことが伝えられ、その時にちょうどクリント・ヒルがホワイトハウスの大統領付き警護官ジェリー・ベーンと電話中で、ベーンが「どうしたクリント。今ケラーマンは何と言ったんだ?」と電話の向こうで聴いていて、クリントが「大統領が亡くなりました。ジェリー」と伝えたのが最初であった[32]。ほぼ14時(ダラス時刻13時)前後であった。

空港への遺体搬送

14時前に、遺体をダラスで解剖しようとするダラス警察のアール・ローズ検視官と、首都ワシントンに遺体を一刻も早く搬送しようとするシークレット・サービスのロイ・ケラーマンらとの間で10〜15分間、一悶着があった。大統領が暗殺されてもテキサス州法が適用[注釈 54]されて遺体の解剖はテキサス州で行うと説明しても、シークレット・サービスにとっては何よりも遺体をワシントンに戻すことが優先されると考えていた。結局ローズ検視官[注釈 55]は引き下がった[注釈 56]。そして後に彼は遺体解剖はやはりダラスで行うべきであった、遺体を州外に持ち出したことが陰謀説を生み出していると語っている[33]。そしてこのことは皮肉にもワシントンに戻ってから司法解剖を行ったベセスダ海軍病院の病理医も後に同じ意見であった。

14時05分にケネディ大統領の遺体はパークランド病院からエアフォース・ワンに搬送された。死去の発表から30分過ぎて全米が重苦しい雰囲気に包まれていた。

ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途

暗殺された直後エアフォースワン内で第36代大統領の就任宣誓を行う副大統領リンドン・ジョンソン

リンドン・B・ジョンソン副大統領はケネディが乗ったリムジンの2台後の車に乗っていたが難を逃れ、パークランド病院で大統領の死に接して、シークレットサービスの警護を受けながら急遽ラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンに向かった。

機内に入ってすぐに大統領専用電話を使って、アイゼンハワーとトルーマンの両元大統領に事態の説明をして全面的協力を求めた。そしてワシントンにいる閣僚4名[注釈 57]と大統領補佐官らに職場を離れないことを伝えた。[注釈 58]そしてジャクリーン夫人らが遺体とともに戻ってきた後に機内でアメリカ合衆国大統領の就任宣誓を行い、第36代大統領に昇格した。[注釈 59][注釈 60]

ジョンソンとジャクリーン夫人らを乗せたエアフォース・ワン[注釈 61]は、ジョンソンの大統領就任宣誓が終わった後にダラスを飛び立ち、史上初めて2人の大統領を乗せてワシントンD.C.郊外のアンドルーズ空軍基地に着陸した。ケネディ大統領の遺体の入った棺は、空港の荷物搬送機で降ろされ、ジャクリーンと迎えに来てすぐに機内に入ったロバート・ケネディらもケネディの棺とともに同じ搬送機で降りて、ベセスダ海軍病院に搬送された。

ジョンソン新大統領は、その後にタラップを利用して降り、その場で新大統領としてのコメントを発表して「今は全ての人々にとって悲しみの時である。我々は計り知れない損失を受けた。私にとって、これは深い個人的な悲劇である。ケネディ夫人とそのご家族の悲しみを全世界が分かち合うものと思う。私は全力をつくす。神のご加護を」と述べた。ダラスからアンドルーズ空軍基地にケネディの遺体が戻り、空港でコメントを発表したジョンソン新大統領の強いテキサス訛りのある英語と、ケネディの小気味のよいボストン英語の対比に、アメリカ国民は、大統領交代を実感したという。

この後にジョンソンは空港からヘリコプターで飛び立ち、ホワイトハウスの南芝生に着陸した。この時にワシントンにいたマクナマラ国防長官、マクジョージ・バンディ特別補佐官、ジョージ・ボール国務次官が同乗して機内で国防と外交情勢の説明を受けた[34]。到着後にはフーバーFBI長官を呼び暗殺事件の捜査の進展状況を聞いている。また民主、共和両党の議会首脳とも夜にすぐに会談した。実はこの日はケネディ政権の閣僚10名のうち6名は日本で24日開催される予定の日米貿易経済合同委員会に出席するため太平洋上を飛行中であった[35]。ラスク国務長官・ディロン財務長官・ユードル内務長官・ホッジス商務長官・フリーマン農務長官・ウイルツ労働長官で、一行はホノルルで急ぎ引き返し、深い悲しみの中をケネディ大統領一行が戻った同じアンドルーズ空軍基地に、ほぼ7時間後の同日深夜(東部標準時12:42)に戻り、ラスク国務長官とは翌朝9時に新大統領は会議を行った。そしてジョンソンはその直後にアイゼンハワー元大統領とも会見している[36]。暗殺のショックを癒すひと時もなくこの日から大統領の激務が始まった。

司法解剖

大統領の遺体が搬送されたベセスダ海軍病院[注釈 62]では、海軍医学校研究所所長ジェームズ・ヒュームズ、海軍病院病理主任ソントン・ボズウェルと射創専門の病理医ピエール・フィンクの3名の病理医によって検死が行なわれた[注釈 63]。 解剖検視台に遺体を載せて4時間にわたった検視[注釈 64]で、大統領の傷は2つで、致命傷は頭蓋後頭部から入り頭部右側の一部15㎝位を吹き飛ばしていること、もう一つは頸部の付け根に入口があったが出口が分からなかった。[注釈 65]この2つの傷はいずれも頭蓋内側の傷口が小さく、抜け出た側に現れるそれより大きいスリ鉢状の傷が頭蓋外部につくものでなかったので、この2ヵ所で被弾したと結論を出している。また、弾丸が当った時の熱で表皮が剥離して皮膚が焼け焦げたり裂けることから、後部からの狙撃であるとしている。また、遺体のX線写真を14枚、白黒写真25枚、カラー写真27枚を撮影している[注釈 66][注釈 67]検視報告書は、11月24日に作成されて、死因は頭部の射創で、2ヵ所にえぐられたような傷を受けて死亡した、銃弾は故人の後方の頭の位置より上の地点から撃ち込まれた、どちらの傷が最初かは不明である、頭蓋の傷は被害者が生存する可能性を全く排除するほど多大な損傷を脳に与えた、とされている。この検視報告書は24日夜にホワイトハウスでバークリー提督に手渡している。そして12月6日に補足説明書と合わせて解剖に関する一切の資料、写真や弾丸の破片などを全てバークリー提督に渡したとヒュームズは28年後に述べている。[37]

この司法解剖について、大統領死亡後にダラスではなくワシントンで行ったことで、ベセスダ海軍病院に到着した時に大統領の着衣が無かったこと[注釈 68]、頭蓋骨の欠片や脳の一部が遅れて運ばれて来たこともあって、担当したヒュームズとボズウェルはダラスで遺体解剖が行われていればその後の混乱はなかっただろうと述べている。この大統領の着衣も他の解剖資料とともに現在は国立公文書館に保存されている。[38]

時系列

暗殺事件のタイムライン(現地時間:CST
6月6日 ケネディジョンソンコナリーがテキサス遊説を提案する
9月 テキサス遊説の発表する
9月25日 オズワルドメキシコシティに行く
10月第3週 オズワルドがテキサス教科書倉庫に職を得る
11月19日 自動車パレードのコースを発表する
11月21日 大統領一行がテキサス遊説に出発。サンアントニオ、ヒューストンを経てフォートワースに夜に到着する。
11月22日
大統領一行がテキサス州フォートワースで商工会議所主催の朝食会に列席。ケネディ最後の演説を行う。そして専用機でフォートワースからダラスに向かう。この日の朝にDallas Morning News紙上にケネディをお尋ね者とする広告が掲載される。
11:40 ケネディ大統領夫妻がダラスのラブ・フィールド空港に到着する
11:50 ラブ・フィールド空港を出発して市内へパレードを開始する
12:15-20 昼休みで休憩中のオズワルドがカフェテリアで目撃される
12:15-16 武装した男が教科書倉庫ビルの西側窓と東側窓で目撃される
12:29 パレードの車列がディーリー・プラザに進入し、教科書倉庫ビルの前を左折する。
12:30 ケネディが銃撃される
74-90秒後 すぐにダラス市警が教科書倉庫ビルを捜索。オズワルドとダラス市警とが最初に遭遇する。
12:30-39 大通り沿いにある草深い丘の駐車場と鉄道操車場を捜索する
12:37 狙撃された大統領の車がパークランド病院に到着。この頃からテレビ・ラジオでニュース速報が放送される
12:53 NBCテレビがスタジオからケネデイ大統領重体の速報体制に入る。他のCBS、ABCも13:00からスタジオからのニュースに切り替える。
13:00 パークランド病院で二人の神父により終油秘蹟が行われる
13:05 教科書倉庫ビルの捜索でライフル銃が発見される。
13:15 ティピット巡査がオズワルドに撃たれて死去。
13:30 テキサス劇場の案内係の女性から不審な男が入ったと警察に連絡。
13:33 パークランド病院の一室でキルダフ副報道官が大統領死去の公式発表を行う。ほぼ同時刻に終油秘蹟を行った二人の神父が取り囲まれた記者に「大統領は亡くなられた」と語ったと各局が相次いで報道。
13:37-38 大統領死去の公式発表がテレビ・ラジオで一斉に伝えられる。
13:50 警官がテキサス劇場内のオズワルドを逮捕。
14:05 ケネディの遺体がパークランド病院から運び出されてエアフォース・ワンに向う。
14:15 ケネディの遺体がエアフォース・ワンに搬送される。
14:38 ジョンソンが機内で第36代大統領就任宣誓を行う。
17:05 エアフォース・ワンがワシントンD.C.近くのアンドルーズ空軍基地に到着し、海軍病院に移送する
18:30 オズワルドがティピット巡査殺害の罪で告発される
23:36 オズワルドがケネディ大統領暗殺の罪で告発される
11月23日早朝 遺体を海軍病院からホワイトハウスに移送する
11月24日
11:21
オズワルドがジャック・ルビーに撃たれる
13:07 オズワルドの死亡が発表される

暗殺事件の反応

ホワイトハウスのイーストルームに安置されたケネディ大統領の棺

ケネディ暗殺のニュースは全米に衝撃を与えた。まずラジオから、そしてテレビから。ニューヨークを始めとして多くの都市で男女が公然と泣き、多くの人々が最初はカーラジオでの速報に耳を傾け、テレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。ニュースを聞いた者は衝動に駆られたように家族や知人に電話をかけた。この日午後にはニューヨークで数十万台の電話がいっせいに使用中止となった。いくつかの地区での交通は、ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、停止することとなった。アメリカ合衆国やカナダの学校では、学生を下校させた。ニューヨークのコンサートホールではジョージ・セルがニューヨーク・フィルを指揮していたが途中で演奏中止となった。ブロードウェイでは全ての劇場が公演中止となり、夜の社交行事は中止となった。

「地球が止まった気がした」と表現した人もあった。茫然自失の人、絶叫する人、蒼白となって走り回る人、マンハッタンにもさまざまな人間模様があった。その後には絶望感にも近い深い悲しみが一様にアメリカ国民を襲った[39][注釈 69]

NBC・CBS・ABCの三大ネットワーク[注釈 70]は国葬が終わる25日まで全ての定時番組とCMの放送を取りやめて特番だけになった。ワシントンポスト紙のジェームズ・レストン記者は翌日の朝刊記事で詩を掲載してその最初の一行が「今宵アメリカは泣く」[注釈 71]であった。

また、「テキサス州およびテキサス人」に対する怒りの声も聞かれた。暗殺直後、ソ連が「我々が手を下したのではない」と表明を行っていることからみても、その衝撃は大きなものであった。アメリカのみならず世界中がショックを受けた(小説『オデッサ・ファイル』の冒頭でも描写されている)。

日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星による初の日米間の衛星中継(当時は宇宙中継と呼ばれた)テレビ伝送実験において即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた[注釈 72]。伝えたのは毎日放送北米支局の前田治郎記者。第一声は「日米宇宙中継という輝かしい試みの電波に乗せて、悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います。アメリカ合衆国第35代ジョン・F・ケネディ大統領は11月22日、日本時間11月23日午前4時、テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました。」だった。

オズワルド殺害とジャック・ルビー

オズワルドがジャック・ルビーに狙撃される瞬間を撮った写真
ジャック・ルビー

ケネディ大統領暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日11時21分にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)によって射殺された。なお、この現場はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万のアメリカ人が映像でこの瞬間をリアルタイムに見た[注釈 73]

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーンが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会どころかマスコミさえもが、その不可解さを取り上げることはなかった。また、事件後にルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を常に追いかけていたことが複数の人物から証言があったし、この事件と何の関係もなく、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入りこめたのか、についてウォーレン委員会は、ダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判するだけで、その理由については最終的に満足な説明はしていない。ただルビーの犯行が計画されたものでないことは明らかになっている。もともと24日10時にオズワルドを移送する予定(前日に報道陣に説明はしていた)であったのが取り調べが長引き11時20分に延びたのだが、この日ルビーは10時に起き、すぐに自宅にダンサーからギャラの支払いを請求する電話が来て急ぎ郵便局で25ドルの送金をするために11時過ぎに車で郵便局に着き、11時17分に送金を終えて外へ出るとすぐ近くの警察署でオズワルド移送の動きがあるのを見て、車に愛犬を置いたまま警察署の地下通路を通って入って行った。郵便局を出てわずか4分後の犯行であった。もしオズワルドの移送が予定通り10時であったら、或いはもう少し2~3分早く移送していたら11時21分の犯行は無かったことになり、彼の衝動的な行動であったことは疑う余地はない[40]

なお、ルビーは死刑判決を受け再審を待っている間に精神的に不安定になり「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。4年後の1967年肺癌による肺塞栓症により獄中で死亡した。

国葬

国会議事堂を後にして運ばれていくケネディ大統領の棺
ホワイトハウスを後に砲車に載せて行進する大統領の棺
その後を歩いて教会に向かうジャクリーン(中)、ロバート(左)、エドワード(右)の3人

ベセスダ海軍病院での検死後にケネディの遺体はマホガニー製の棺に移されて、11月23日4時24分にホワイトハウスに無言の帰宅をしてイーストルーム[注釈 74]に安置された。23日10時にイーストルームでケネディ家及び親しい友人のみの密葬が行われ、翌24日午後、犯人とされたオズワルドが撃たれたという情報が入った直後に国旗に覆われたケネディの棺は国会議事堂まで運ばれた。議事堂の円形大広間(ロタンダ)に棺が安置され、国会議員らによる追悼式が行われて、マンスフィールド民主党上院院内総務の追悼の辞、ジョンソン大統領からの献花、そしてジャクリーン夫人と娘キャロラインが棺の前に膝まずき、棺を覆う国旗にキスをした。

式が終わってからは一般の弔問となり、昼夜に渡っておよそ250,000人の人が弔問に訪れた。ケネディの弔問をするため10時間もの間、凍り付くほどの気温の中で行列に並び、その行列は40ブロック先にまで及んだ。この弔問は翌25日の葬儀直前の9時まで続いた。

ケネディの追悼行事は直ちに世界中で行われ、各国の米国大使館には多くの人々が弔問に訪れた。合衆国政府はケネディの国葬の日、11月25日(月)を全国民が喪に服す日とすることを宣言した。

葬儀は、25日10時20分にホワイトハウスから国会議事堂に車で向かい、10時40分に円形大広間でジャクリーン、ロバート、エドワードの3人が棺に祈りを捧げてから始まった。ホワイトハウスには世界各国から指導者が訪れていた。フランスからドゴール大統領とクーヴ・ド・ミュルヴィル外相[注釈 75]、イギリスからエリザベス女王夫君のエジンバラ公ヒューム首相とウィルソン労働党党首[注釈 76]、西独からエアハルト首相とブラント市長[注釈 77]、日本から池田勇人首相と大平外相、韓国から朴正煕大統領[注釈 78]、ソ連からミコヤン第一副首相、ウ・タント国連事務総長など、92か国から首脳・政府高官等220人が国葬に参加していた。国内ではトルーマン元大統領、アイゼンハワー元大統領、ニクソン前副大統領、ロックフェラーニューヨーク州知事、ゴールドウォーター上院議員、ウォレスアラバマ州知事、マーティン・ルーサー・キング牧師、ジョン・グレン中佐など、これらの要人がホワイトハウスに参集している頃に、10時55分頃に葬送の列が議事堂からホワイトハウスに向かうペンシルベニア通りを行進して、11時30分すぎにホワイトハウスに到着すると、すぐにジャクリーン、ロバート、エドワードらが車から降りて、棺が砲車に載せられ葬送のドラムの音とともに進んでいく中で、その後についてホワイトハウスからセント・マシューズ教会まで歩いて行った。外国の首脳もホワイトハウスからその後を追って歩いて行進した。これはジャクリーン夫人の希望であった。

ホワイトハウスからの葬列は、スコットランドのバグパイプ隊がアイルランドの曲を奏でる中を、まず海軍が先導して、カトリック司祭が2名、その後ろから6頭の馬に引かれて大統領の棺を載せた砲車、大統領旗を持った旗手、誰も騎乗しない馬、その後をジャクリーンとロバートとエドワードの3人が先頭で歩き、その後を米国政府首脳(その中にはジョンソン新大統領も)、そして各国首脳が距離にしておよそ2キロメートルの行程を歩き、セント・マシューズ教会にほぼ12時頃に到着した。

セント・マシューズ大聖堂での告別式ではクッシング枢機卿が司り、テノール歌手ルイジ・ベナが「アベマリア」を歌った[注釈 79]。告別式が終わり、セント・マシューズ教会の階段下で葬列が出発する際に、ケネディ大統領の長男であった当時3歳のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが目前で砲車に載せられて曵かれゆく父の棺に対し挙手の敬礼をした。

やがて13時15分に棺は埋葬のために葬送のドラムの音とともにアーリントン国立墓地に向かって出発した。参列者は今度は車に乗って墓地に向かった。14時30分には墓地予定地[注釈 80]に到着。墓地では埋葬式が行われて、3台の礼砲が21発の轟音を放ち、礼装の兵士達がそれぞれ3発の銃声を響かせ、そして陸軍軍曹が葬送ラッパを吹き、その悲しみの音が暮色のアーリントンの丘に吸い込まれていった。 そして永遠の炎にジャクリーン、ロバート、エドワードが松明で点火し、棺を覆っていた国旗がジャクリーンに手渡されて葬儀は15時に静かに終わった。[41]

ケネディの葬儀は日本ではNHKで26日午前7時-8時 (JST) に衛星中継でダイジェスト版が放送され、ビデオリサーチ・関東地区調べで38.5パーセントの視聴率を記録した[42]

政府による公式調査

ケネディ大統領暗殺の翌日11月23日にFBIのフーバー長官からジョンソン新大統領に事件の報告が行われ、オズワルドの単独犯行の可能性が強いことが伝えられたが、11月25日にジョンソンはフーバー長官に改めて大統領暗殺事件の全容についての公式報告を求めた。これはこの時点でFBIからの詳細な公式報告を受けてそのまま国民に公表することで事件の調査を終了するつもりであった。ところがテキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表し、翌26日に合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表し、そして翌27日には合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。大統領の衝撃的な暗殺、犯人とされた被疑者を警察署内で殺されるという異常な展開、そして動機も背後関係も一切謎のままとされて、事件があったテキサス州は連邦に対する強い州権意識から、そして議会は三権分立の立場から独自に調査に入る構えを示した。これに対してジョンソンは11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することを決めた。これで上下両院の独自調査は結局延期されて、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出することとなった。そしてこの調査委員会の委員長に起用されたのが当時の連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンであった。[43]

この委員会はウォーレン委員会と呼ばれ、1963年12月5日にスタートして、翌1964年9月24日に調査報告をジョンソン大統領に提出した。この調査報告をウォーレン報告と言われている。委員会の構成メンバーは最高裁判所長官(ウォーレン)、上下両院の与野党議員(リチャード・ラッセル[注釈 81]ジョン・クーパー[注釈 82]ヘイル・ボッグズ[注釈 83]ジェラルド・フォード[注釈 84])、前CIA長官(アレン・ダレス[注釈 85])、民間人(ジョン・J・マックロイ[注釈 86])の7名であった。

FBI は捜査を行った最初の機関だった。暗殺のわずか17日後、1963年12月9日にFBIの報告書はウォーレン委員会に提出された。FBIは三発だけが暗殺時に発射されたと報告して、一発目はケネディ大統領に命中し、二発目がコナリー知事に命中、三発目が大統領の頭部に命中し彼に致命傷を与えた。そして三発ともリー・ハーヴェイ・オズワルドが発射したと報告した。FBIは総計で25,000回の面接、約2,300項目と25,400頁にわたる報告書を委員会に提出[44]した。シークレットサービスについては1,550回の面接、約800項目と4,600頁にわたる報告書を委員会に提出[45]している。

委員会はこの後に独自調査として延べ552人の証人喚問を行い(委員が出席して行う証人尋問は94名)[注釈 87]、この中には、ジャクリーン夫人、コナリー知事夫妻、オズワルドの母マルガリート、そして妻マリーナも喚問している。やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた[46]

ウォーレン報告

9か月の調査後、1964年9月27日にウォーレン委員会報告書が公表された。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。委員会の結論の骨子は

  • ケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である。
  • オズワルドはまた、ダラス市警のチピット巡査をも殺害した。
  • そのオズワルドはジャック・ルビーに単独で殺害された。
  • この暗殺事件に絡む陰謀は内外を問わず一切なかった。
  • 大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射された。
  • 大統領に向かって発射された銃弾は合計3発である。1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。あとの1発は命中しなかった。[47]

オズワルドの単独犯行

オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリー[注釈 88]と呼ばれる。

二つの公式調査が、ディーリー・プラザのテキサス教科書倉庫[注釈 89]従業員リー・ハーヴェイ・オズワルドが暗殺者だったと結論を下した。一つの調査(ウォーレン委員会)はオズワルドが単独で行動したと結論を下し[注釈 90]、1976年に別の調査(下院暗殺調査委員会)が開始されて2年後に発表された調査結果ではオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下した[注釈 91]

三発の銃弾

委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射され、二発の弾丸がケネディ大統領とコナリー知事を命中した。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下した[注釈 92]

委員会の判断はケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くを貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。一発は車列から外れたと考えられる(三発の内の何射目かは特定できない)。そして最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となった。委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目していた。ライフル銃は近くに隠されていたことが判明した。ケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。弾丸はほとんど形状を保ったまま[注釈 93]担架(stretcher)[注釈 94]から発見されたとされる。この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。

銃弾の入口とされるコナリー知事の背部(右半身)の傷は、出口とされる胸部(右半身)の傷より小さかった。銃弾の入口とされる右手首(甲側)の傷は出口(掌側)よりも大きかった[注釈 95]。この問題について、胸部を貫通した銃弾が回転し、前後逆に手首に侵入したとする「回転説(Tumbling Theory)」がある[48]

その後の調査

1976年に、下院で1960年代のケネディ兄弟とキング牧師らの相次いだ暗殺事件について真相解明のための特別委員会[[::en:United States House Select Committee on Assassinations|下院暗殺調査委員会]]が設置されて2年間(1976年ー78年)の調査が行われた。このケネディ暗殺から13年後の調査によると、暗殺前後の数分間、ダラス警察の白バイ警官のマクレーン(H・B・McLain)の無線は「送信」状態にされ、警察無線の通信指令席でレコーダー(プラスチックベルト)に記録されたとされる[注釈 96]。下院暗殺調査委員会は、この[[::en:Dictabelt evidence relating to the assassination of John F. Kennedy|口述録音機用録音テープの証拠]]の研究から、銃声は4発であるとして、狙撃者はオズワルド以外にもう一人いた可能性が高いと結論した。このテープはアメリカ国立公文書記録管理局に保管されているが、証拠能力には議論がある[注釈 97]。下院暗殺調査委員会は音声記録の証拠認定を後に取り消している[注釈 98]

ウォーレン報告の評価

この報告書が出てから9年後の1973年1月にジョンソン前大統領が世を去ったが、亡くなる前に「自分はオズワルドが引き金を引いたことまでは承服できる。だが委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかは確信がない。私のカンだが、オズワルドは失敗に終わったキューバ侵攻作戦への復讐を狙うキューバ人と関連があったのではないか」と語っている[注釈 99]。また、1975年4月25日の夕方のCBSイブニングニュースでウォルター・クロンカイトは、ジョンソンがケネディ暗殺がオズワルドの単独犯行だとは一度も考えたことがないとそれよりも6年前の1969年にインタビューで述べていたことを明らかにした。[49]

また、最初にCIAを疑ったロバート・ケネディだが、50年後の2013年1月に息子のロバート・ケネディ・ジュニアがテレビでのインタビューで、父親がウォーレン委員会の答申を全く受け入れていなかったことを明らかにした[50]

陰謀論

オズワルドによる単独の犯行であったとする政府の公式説明に納得せず、何らかの陰謀があったと主張するものも多い。2003年の世論調査では、70パーセントの人々がケネディ暗殺は単独犯ではなく複数犯による犯行であったと考えている。実行犯についてもオズワルド以外に狙撃したものがいたとする説もある。証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、大規模な証拠隠滅が行われたと主張するものもいる。リー・ハーヴェイ・オズワルドがダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺され、さらにジャック・ルビーが服役中に病死したのは口封じのためであるとする意見もある。陸井三郎は目撃証言者12人が変死または怪死していると主張している[51][注釈 100]

今日までに下記のような仮説、陰謀説が提示されている。

マフィア壊滅作戦に反発したサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説

「マフィア主犯説」は、かつてジアンカーナらがケネディ本人や父のジョセフ・ケネディ・シニアによる依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人であるフランク・シナトラらとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである[52][注釈 101]

軍産複合体の意を受けた政府主犯説

「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」は、「ケネディの南ベトナムからのアメリカ軍による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力が、大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」とするものである。ケネディはその大統領就任中に、ベトナム戦争からの早期撤退を計画した(ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」、当時のマクナマラ国防長官の証言を参照)。ケネディはテレビインタビューに答えて言った、「(南ベトナム)政府がたいへんな努力をして支持されない限り、ベトナムで勝とうとは思わない。最終判断として、ベトナム戦争はベトナム人の戦争であり、勝つのも負けるのも彼らである。」 [53][注釈 102]

ケネディ兄弟によって汚職を追及されていたリンドン・ジョンソン副大統領が黒幕説

ジョンソン黒幕説の根拠は、指紋の一致という物証である。暗殺現場そばのテキサス教科書倉庫ビル6階窓際のダンボール表面に、オズワルドの指紋と共に別人の指紋1個が暗殺直後の現場検証によって発見されていた。その指紋は、永らく誰のものか不明だった。しかし、1990年代後半になって情報公開されたジョンソンの長年の手下で前科者のマルコム ウォレス(Malcolm Everett Wallace)の指紋と一致することが、元オースティン市警鑑識課長のA. ネイサン ダービー(A. Nathan Darby)によって確認された。
実は、ジョンソン副大統領は、地元テキサスで政治資金を得るために数々の汚職に手を染めてきたのである。その汚職を追及したのがケネディ兄弟とテキサス州の検事総長だった。副大統領職を追われ政治生命を絶たれる危機を感じたジョンソンは、ケネディ大統領暗殺事件の黒幕の一人となった。証拠は上記指紋の一致である。
またジョンソンは、自らが関わった別の殺人事件の大陪審で起訴の必要ありと認定されている。しかし、ジョンソン本人が既に死亡しているので小陪審での審理には移されなかっただけなのである。また、他に数件の殺人事件に関わった容疑がジョンソンには濃厚である、と検証されている。
以上は、バー・マクレラン著『ケネディを殺した副大統領―その血と金と権力』(文藝春秋)、ウィリアム・レモン著『JFK暗殺―40年目の衝撃の証言』(原書房)による。

その他

上記の3つの説以外にも、

などがある。

クレイ・ショー裁判

ケネディ暗殺事件が法廷上で検討された唯一の例がクレイ・ショー裁判であった。ニューオリンズジム・ギャリソン検事は、1967年3月2日、ニューオリンズの実業家クレイ・ショー([[::en:Clay Shaw|Clay Shaw]])を大統領暗殺に関わる陰謀罪で逮捕した。ギャリソンはクレイ・ショーがCIA経由でケネディ暗殺事件に関わっており、事件はCIA、軍部、国家の関与するクーデターであると主張した。裁判はギャリソンが敗北するが、後に、CIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたこと、クレイ・ショーが実際にCIAのために働いていたことが公的に示された[注釈 104][54]。1991年に公開された映画「JFK」はクレイ・ショー裁判をモデルにした作品である[注釈 105]

陰謀論者が問題視する政府の公式説明

  • ザプルーダー・フィルムでは、大統領の頭部が弾丸の衝撃により破壊された直後に大統領の上半身は後方に動いている。また、脳の一部が後方にも飛んでいる[55]。この映像について、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、前方にも射撃手がいたとする議論がある。
  • 海兵隊時代のオズワルドは、特級射手 (expert)、一級射手 (sharpshooter) 、二級射手 (marksman)の資格について、1956年12月に一級射手の資格に必要な得点をクリアしており、射撃の技量が高かったとされているが、1959年5月には二級射手の資格に必要な得点はクリアしているものの一級射手の資格に必要な得点はクリアしていない[56]
  • 教科書ビルの窓の外には常緑樹が茂っており、木の葉が邪魔して狙いにくい。さらに、政府側報告(ウォーレン委員会)によるオズワルドが使用したボルトアクション方式カルカノ銃では 5-6 秒程度の間に三発発射し二発を命中させるのは非常に困難であり、事件後から現在に至るまで行われた検証実験で成功した例は皆無である。また、通常は一発目、二発目、三発目と順を追うごとに照準に狂いが生じるものだが、致命傷を与えた最も正確な射撃は3発目とされている(ザプルーダー・フィルムの分析から発射した時間は 5-6 秒より長いとする説もある)。
ウォーレン委員会の報告による致命傷を与えた銃弾の軌道
後部に座っているのがケネディ大統領、前に座っているのがコナリー知事
陰謀論者が問題視する「魔法の弾丸」
  • (大統領頸部への1銃弾を考慮すると、)大統領とその同乗者の他の被弾箇所(約5箇所)が政府見解である1発の銃弾で説明できるか(いわゆる「魔法の銃弾」の謎。アメリカのケーブルTV番組ディスカバリーチャンネルによる再現実験では、ザプルーダフィルム223コマ目における位置を再現しカルカノ銃を使用した銃創は、一直線の弾道とほぼ一致したとしている)。
  • オズワルドの両手からは硝煙反応が出たが、頬からは硝煙反応が出なかった(通常ライフルを使用すると手だけではなく顔や上半身全体に硝煙が付着する)。凶器とされたライフルからは、当初の検査では指紋、掌紋は発見されなかった。オズワルド殺害の翌日(11月25日)に掌紋が発見された。
  • 暗殺直後オズワルドは逃げもせずビル内の食堂でコーラを飲んでくつろぐなどした。狙撃地点とされる部屋から食堂へ向かう階段には女性が2人いたが、その女性はオズワルドは通っていないと証言した。食堂のオズワルドを警官が1度やり過ごしている。
  • 教科書ビルから撃たれたとした警官が包囲に10分もかかったのに対し、その後オズワルドを逮捕するまでの経緯は不自然なまでに鮮やかだった。
  • オズワルドがダラス市警察本部内で殺害されるという異常な事態が起きている。
  • 証拠物件の公開が政府によって、2029年(下院暗殺調査委員会)もしくは2039年まで不自然にも制限されている。資料はアメリカ公文書図書館に保管されているが公開されるのは2039年とされている。しかし、現在でも資料の多くが紛失しているため、2039年に公開されても完全に真実が明らかになるかどうかは未知数である。

その他の指摘された問題点

  • 事件当日、ダラス市長の指示で急にパレードのコースが変更された。また、慣例からすれば歴代大統領は直線コースをパレードしていたが、ケネディはわざわざ車の速度を落とさなければならない迂回ルートを走らされ、そこで銃撃された。なお、このときのダラス市長アール・カベルはピッグス湾事件で更迭された CIA 副長官チャールズ・カベルの弟であった(いわゆる「パレードルート変更の謎」説)。この説について、パレード後の予定地であったトレードマート (Dallas Trade Mart、2100 North Stemmons Freeway Dallas, TX 75207) に向かうには、迂回ルートのエルム通り (ELM STREET) を通過してステモンスフリーウェー (North Stemmons Freeway) に入る必要があった。直線コースのメイン通り(MAIN STREET)からは入れないとする反証がある[57]。ただし、トレードマートへは、フリーウェイを利用せずともリバーフロント・ブールバードからマーケットセンター・ブールバードを通って向かう事ができる)。
  • 事件当日のダラスは快晴だったにもかかわらず、ザプルーダー・フィルムに黒いこうもり傘をさした人物が映っている。この人物は通称アンブレラマン (The umbrella man) と呼ばれ、映画『JFK』にも登場する。アンブレラマンを暗殺グループの一員とする説もある。なお、自分がアンブレラ・マンであると主張する人物、ルイス・ウイット (Louis Witt) はケネディ暗殺下院特別調査委員会 (1978年) において証言をおこなっている。
  • 本来なら大統領の近辺にいなければならないシークレットサービスが後ろへ退くように命令された(大統領狙撃時に車に飛び乗ったクリント・ヒルによると車両間隔は 5ft≒1.5m。大統領のリムジンには2人のシークレットサービスが同乗していた(ロイ・ケラーマン、ビル・グリアー)。後続車と白バイ警官はリムジンを追い、クリント・ヒルら4人のシークレットサービスは後続車のサイドステップに立っていた)。[注釈 106]
  • 傷口が変造されていた[58]
  • 検視の医者は弾丸の検視の専門医ではなかった。このためか、ケネディが背中の古傷のせいで猫背気味であることが失念され、命中時の入射角の判定に誤りが生じたと言われる。[注釈 107]
  • 発見された銃弾は本物か。銃弾(証拠物件399、コナリー知事の担架(stretcher)から発見された)は、垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形していた。弾頭部分は損傷していなかった。
  • ケネディの死が確認され、大統領専用機エアフォース・ワンの機内でリンドン・B・ジョンソン副大統領が大統領宣誓を行ったが、機内でジョンソンに対し、ウインクするアルバート・トマス下院議員の姿が写真に残されている。トマスはジョンソンの旧知の友人であり、トマスに対してジョンソンは笑いかけているようにも見える。
  • 暗殺事件発生当時、閣僚の大半は外遊しており、また、ケネディ死亡の公式発表から、ジョンソンの宣誓式までの数十分間、いわゆる「権力の空白」時間が流れている。もっと正確に言えばケネディが撃たれて即死に近い状態であったことを考えると12時30分から14時38分まで権力の空白が生じたことになる。[注釈 108]
  • オズワルドが狙ったのは実際には同乗していたコナリーでケネディは巻き添えになったという説もある。
  • 2013年11月21日に放送された『BS世界のドキュメンタリー』では、専門家たちによりケネディ暗殺の状況を再現する実験が行われた。この中では、ケネディの首を貫いた弾丸がコナリーの背中と右手を貫いてもほぼ変形しない状態に保たれること、オズワルドが単独でケネディとコナリーを銃撃することは可能だったことが実験によって立証されたとする[注釈 109]。ケネディに致命傷を負わせた弾丸は、背後からの銃撃によるものだったことも専門家の調査によって立証されたとしている[注釈 110]

未公表のドキュメント

暗殺の瞬間をザプルーダーよりも間近でフィルム撮影していたと思われる身元不明の女性がおり、研究家により、バブーシュカ・レディーと呼ばれている。他のフィルムや写真には、メアリー・モーマンとジーン・ヒルの右後方で、彼女がフィルム撮影をしている姿がはっきりと映っている。この女性の身許は特定されておらず、フィルムも確認されていない。1970年、ビバリー・オリバー(Beverly Oliver)は自分がバブーシュカ・レディーであると主張している[59]

暗殺当日に撮影されたそれまで未公開だったカラーフィルムが、テキサス市のSixth Floor Museumによって新たに2007年2月20日に公開された。フィルムは実際の暗殺の90秒ほど前に、ジョージ・ジェフリーズ (George Jefferies) によって現場から数ブロック離れた地点で撮影されたものである。

ロバート・ケネディ暗殺事件

ジョン・ケネディが暗殺された5年後の1968年、実弟であるロバート・ケネディも暗殺された。ロバートはカリフォルニア州で行われた民主党大統領予備選に圧勝し、同6月5日に同州ロサンゼルスのアンバサダーホテルで予備選勝利宣言を行ったが、その直後にサーハン・サーハンによって銃撃を受け倒れ、右脳を損傷し意識不明の重体となった。この模様は当時テレビが実況中継している最中に起こり、床に倒れたロバートの傷ついた姿は4時間後には衛星中継で日本にも送られた。そして意識を回復することなく翌6月6日没した。

ケネディ大統領暗殺事件を扱った作品

映画

ドラマ

  • ダークスカイ』 - Dark Skies (1996)
  • PAN AM/パンナム』 - Pan Am (2011- ) 第12話(2012年1月放送)で「ケネディ大統領狙撃」に関する当時のニュース映像が使用された。

アニメ

ドキュメンタリー

  • 『疑惑の陰謀 JFK暗殺容疑者の殺害』(Conspiracy?Jack Ruby/ヒストリーチャンネル 2004年)
  • 『発掘テープが語る ケネディ暗殺』(The Lost JFK Tapes -The Assassination/NHK BS 2009年)
  • 『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』(JFK-3 Shots That Changed America/ヒストリーチャンネル 2009年)
  • 『ケネディ大統領暗殺後の24時間』(The Kennedy Assassination: 24 Hours After/ヒストリーチャンネル 2009年)
  • 『ケネディ大統領を殺した男』(Killing Kennedy/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『ケネディ大統領暗殺の真相』(JFK: The Lost Bullet/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『JFK:その時すべてが変わった』(JFK: The Day That Changed Everything/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『JFK:人生を変えた七つの岐路』(JFK- Seven Days That Made A President/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『決定版:JFK暗殺 最新レポート』(JFK Assassination: The Definitive Guide/ヒストリーチャンネル 2013年)
  • 『オズワルド〜最後の48時間〜』(Lee Harvey Oswald: 48 Hours to Live/ヒストリーチャンネル 2013年)
  • 『JFK暗殺のシナリオ』(Capturing Oswald/ディスカバリーチャンネル 2013年)
  • 『コールド・ケース JFK〜暗殺の真相に迫る〜』(Cold Case JFK/NHK BS1 2013年)

ゲーム

  • JFK: Reloaded』- イギリスのゲームソフト。事件から41年目の2004年11月22日発売。ダウンロードによる販売。プレイヤーはオズワルドになり、ケネディを狙撃する。最初に「暗殺」したプレイヤーに賞金をかけたこともあり、不謹慎であると物議をかもした。2011年現在ではサイトも閉鎖されている。

注釈

  1. ^ バリー・ゴールドウォーター。共和党上院議員で、翌年共和党大統領候補となり、ケネディ暗殺後昇格した民主党ジョンソン大統領と争い大敗を喫した。その後議会での重鎮として活躍し、1973年8月にウォーターゲート事件で弾劾の発議が可決されて絶体絶命の立場に立たされたニクソンに引導を渡したのがゴールドウオーターであった。
  2. ^ 仮に南部で票が取れなかったとしても、ケネディは東部や北部で安定した支持票で勝利していたであろう、と言われている。
  3. ^ この時のスピーチがケネディの生涯最後のスピーチとなった。
  4. ^ このロイ・ケラーマンが大統領のダラス旅行の警備責任者であった。この2時間後にパークランド病院から大統領の遺体を運び出す際に、地元ダラス警察の検視官アール・ローズがテキサス州法に則り地元での司法解剖を要求したのにもかかわらず、拒否して空港への搬送を強行したのは彼であった。
  5. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」の本では12台だが「ケネディ暗殺50年目の真実」ビル・オライリー著の本では5台となっている。白バイか或いは後方の報道陣の車を加えての違いと思われる。
  6. ^ Mr.President, you can't say Dallas don't love you ?
  7. ^ That is very obvious. これがジョン・F・ケネディの生涯最後の言葉となった。
  8. ^ 大統領のリムジンからは銃弾の破片が回収されており、証拠物件「CE567」および「CE569」と呼ばれている。
  9. ^ この時点でリムジンのブレーキランプが点灯していることが撮影されている。後にウォーレン委員会でビル・グリアーは証言しているが、この時にスピードダウンしたことが、結果的に狙撃者に狙いを定めやすくしたのではないかという後悔に彼は苛まされることになった。またこのことを後で知ったジャクリーン夫人は激怒したという。
  10. ^ ビル・グリアーは大統領が乗った車に同乗した者ではジャクリーン夫人以外ではただ一人致命傷を負った場面を目撃している。ただ沿道でこの瞬間を目の前(3メートルくらいの距離)で目撃した人間は何名もいる。ザプルーダー・フィルムでも車の左側で4〜5名が確認され、その内1人の男性はすぐに芝生に伏せているし、車の右側では子ども連れの若い夫婦が目撃してすぐに芝生の上に横たわっている。この若い夫婦は、現場にいた地元ダラスのテレビ局のディレクターのジェイ・ワトソンがすぐにテレビ局WFAA-TVのスタジオに運び、狙撃から15分後に地元のテレビ局WFAA-TVが定時番組を中断してすぐに速報をスタジオから報道して、この夫婦をスタジオでインタビューして狙撃の瞬間の様子を聞いている。この夫婦は名前をウィリアム(ビル)・ニューマンとゲイル・ニューマン夫妻で、この時はまだ12時50分前後でケネディの生死も分からない状況であった。
  11. ^ この広場の名前の由来はジョージ・ディーリーという男の名前から付けられたものだが、このジョージ・ディーリーは1926年に地元の新聞社を買収して新聞経営に乗りだし、1963年当時は息子のテッド・ディーリーが新聞社の社主であった。その新聞社こそ「ダラス・モーニング・ニューズ」紙で、暗殺当日に黒枠つきの反ケネディの広告を掲載した新聞であった。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 178P
  12. ^ 但し声帯を損傷して声を発することが出来なくなる可能性があった。
  13. ^ この中にフィルムカメラで撮影中に銃声とともにカメラが激しく動いたフィルムがすぐに世界に配信されている。ザプルーダー・フィルムが公開されるまで、暗殺現場での映像資料としてその後長く使われた。
  14. ^ ザプルーダー・フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある。タイム・ライフ社(『ライフ』)がザプルーダー・フィルムを借りた際にフィルムが損傷したためとされる(奥菜、関連文献 参照[[::en:Zapruder film]])。欠落の無い完全版のフィルムはRobert J. Grodenが販売するビデオ(「The Assassination Films」)に収録されている。
  15. ^ この各コマに番号を付けたのは当時ウォーレン委員会で作業していたFBIの主席写真分析官のリンダル・シャニーフェルトであった。
  16. ^ マンリッヒャー・カルカーノ・ライフル
  17. ^ いわゆる"バブーシュカ・レディー"とは別人。
  18. ^ 『JFK暗殺 40年目の衝撃の証言』の著者ウイリアム・レモンは、このジェームズ・ターグが頬に受けた流れ弾が原因のコンクリートの破片の話から、それが教科書倉庫ビルから発射された3発の銃弾の一つであるとしている。ジェームズ・ターグが立っていた位置から後方から飛んできた弾であると推定している。
  19. ^ スチームパイプ修理工。44歳。
  20. ^ 但し、ハワード・ブレナンはこの日の午後に行われた警察署での犯人の面通しでは、オズワルドを確認していない。彼は後に大統領暗殺というショッキングな事態に陰謀があるとしたら自分が危なくなると感じたからで、面通しでは結局嘘をついたと認めている。
  21. ^ 本名スターリング・M・ホランド。ユニオン・ターミナル鉄道の管理職で当時陸橋の上の信号を点検していた。
  22. ^ エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。
  23. ^ 前述のホランドも、狙撃直後にグラシー・ノールに行き、そこで12~15人くらいの警察官と私服警官がいて空薬莢を探していたと証言している。しかし物的証拠になるものは出てこなかった。
  24. ^ Mary Moorman ジーン・ヒル(Jean Hill)の隣に立つ姿が、ザプルーダー・フィルムに記録されている
  25. ^ メアリー・モーマンはFBIなどに聴取を受けたが、ウォーレン委員会には呼ばれなかった。FBIによるメアリー・モーマンのインタビュー(1963年11月22日)
  26. ^ バッジマンと呼ばれる
  27. ^ 清涼飲料のボトルとその反射光とする説などがある。
  28. ^ アーノルドはTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」に出演している。
  29. ^ Roscoe White 遺族によってケネディ暗殺犯とされたが、後に誤りであることが判明した警察官
  30. ^ ロスコー・ホワイトについては、Dave Perry's John F. Kennedy Assassination Pages Roscoe Whiteの項(The Roscoe White Curse? Who Speaks for Roscoe White?)、『Texas Monthly』1990年10月号の記事 I Was Mandarin...参照、奥菜秀次『捏造の世界史』(祥伝社、2008年)第三章参照。『月刊現代』1991年2月号(講談社)にロン・レイトナーによる記事が掲載。中日新聞 1990年8月7日に記事「ケネディ大統領暗殺「CIA命令で父が撃った」当時2歳の男性が会見」。
  31. ^ ウォーレン委員会報告では上司のロイ・トゥルーリー。
  32. ^ この2人が会うまでの時間は何秒という僅かな時間であった。翌年にウォーレン委員会の実験で、その間にオズワルドが6階から2階に降りてくることが可能であり、ベーカーがオートバイを止めて教科書倉庫ビルの2階に上る時間も可能であることが立証されている。
  33. ^ ドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』ではライフル銃の発見は13時05分となっている。
  34. ^ アーリン・ロバーツ。全く奇妙な話だが、彼女の姉妹はオズワルドを殺害したジャック・ルビーと面識があり、むしろ親しい関係で、ケネディ暗殺の4日前にルビーから投資話があって、姉妹はジャック・ルビーに会ったことを後にFBIに語っている。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 259P。
  35. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著では女性の声でその後現場には居なかったとなっているが、ドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』ではこの時の無線通信の声が入っていて明らかに男性の声であった。そしてこの男性の身元はダラス市警が捜査せず分からなかったが、翌年3月にウォーレン委員会の調査で自動車修理工ドミンゴ・ベナヴィデスと確認できた。彼の名は捜査記録に一切載っていない「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 334P。
  36. ^ 但しドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』では13時50分に逮捕したとされている。このオズワルド逮捕の時刻は資料によって食い違う。
  37. ^ レストランのウエートレス。この時離婚して5人の子どもを養っていた。47歳。後に一部の報道で「オズワルドを巡査の殺人犯だと確認することを取り下げた」と報じられ、一時はパニック状態になってもっとも論議の的になった証人と言われた。しかしウォーレン委員会での喚問ではオズワルドがティピットを射殺したことを証言している。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 338〜339P。
  38. ^ ドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』では12時37分だが、ウォーレン報告書では12時35分と掲載されている。クリント・ヒルがこれより50年後に書いた「ミセスケネディ」によると12時34分になっている。また「ケネディ暗殺50年目の真実」ではパークランド病院に直前の緊急連絡が入ったの12時33分であった。ちなみに撃たれたディーリープラザからパークランド病院まで6.5キロメートル(4マイル余り)の距離である。
  39. ^ これはケネディ大統領が副腎機能低下症にかかっていると新聞記事で読んだことを思い出したため。
  40. ^ この気管切開をした所が、大統領が被弾した第1発目の弾丸の出口であったことで、同日夜にベセスダ海軍病院での司法解剖で担当医が第1弾目の出口が分からず、後に論議を呼んだ。
  41. ^ この翌日にペリー医師に、検視を行ったワシントンのベセスダ海軍病院のヒュームズから電話が入っている。そこで弾丸の出口がこの喉の切開した所であることにヒュームズが気づくのであったが、彼はその時に気管切開をなぜしたのか尋ねている。検視した病理医から見ると、ケネディの頭の損傷からいって、気管切開したり、腕や脚の静脈から血液を送り込む必要があったのか疑問であった。頭部の状態からほぼ即死状態であった。
  42. ^ ジャクリーン夫人に「大統領は亡くなられました」と告げたのはウイリアム・クラーク部長であった。「ケネディ暗殺50年目の真実」ビル・オライリー著 江口泰子訳 313P
  43. ^ 実際に医療チームとして中心的な役割を果たしたのは、カリコ、ペリー、ジェンキンス、バクスターの4名であった。後に大統領は前方から撃たれたとする説を唱えたチャールズ・クレンショーはこの時研修医として室内にいたが治療には加わっていない。それどころか彼が治療室にいたという記憶が4名とも無かった。また、同じく前方から撃たれたとしたロバート・マクレラン医師は治療の最後に室内に駆けつけている。この異説に対して、治療に直接かかわった前述の4人はいずれも完全な間違いであるとして、後方上部からの狙撃であることは自分達の見解と矛盾しないと28年後に述べている。「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 76〜80Pを参照
  44. ^ 彼はこの後に民主党から共和党へ鞍替えしてニクソン政権で財務長官を務めることになる。
  45. ^ コナリー知事は被弾してすぐに意識を失い、翌日に意識を回復した時に、ネリー夫人から大統領の死を知らされた。彼は後に大統領が2発目を受けた時に大統領は助からないと感じたという。そして自分もこれで死ぬと思ったと語っている。「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 39P
  46. ^ この時代は昼間はフィルム放映が多く、スタジオを使うことが無かったので、スタジオは電源を落として休止状態であった。急に動かすことになって電源を入れても、当時は真空管を使っており、テレビカメラが作動するまで15分以上はかかるものであった。結局3大ネットワークのCBS、NBC、ABCともに、最初は画面上は「BULLETIN」の文字テロップだけで音声だけのニュースであった。
  47. ^ ビル・ライアン、チャット・ハントリー、フランク・マギーのNBCキャスター陣であった。
  48. ^ 彼は狙撃現場のディーリー・プラザにいた人間で、すぐに目撃したニューマン夫妻をスタジオに運び、8ミリカメラで撮影したザブルーダーもスタジオに運んでインタビューしている。
  49. ^ このジャックリーン夫人の警護担当者が大統領が死亡したようだと語ったというUPI通信からの速報メモが手元に来た時に、思わず「少しお待ちを‥」と言ってしばらく目で速報文を確認して、心を落ち着かせてからゆっくりと伝えている。これが大統領死去の最初のテレビ報道であった。
  50. ^ 「この時に、こちらを振り向いたジョンソンの顔を私は一生忘れないだろう」とキルダウ副報道官は1ヶ月後のラジオでの会見で語っている。「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 88P
  51. ^ フーバーFBI長官とケネディ兄弟との関係は大統領就任以前から冷たいものであった。そして兄ジョンはフーバーをFBI長官のポストから勇退という形で引き摺り降ろそうとしたが、大統領のプライベートな関係のところでの醜聞ネタを持ち出し、結局FBI長官の交代を諦めざるを得なかった。その一方でジョンソン新大統領とフーバーの関係は議員時代から親しいもので、その後はホワイトハウスとFBIの関係はケネディ時代と違って良好であった。
  52. ^ この直後にフーバーは、オズワルドをFBIがマークしていたが危険者リストには記載せず、シークレット・サービスにダラスでの要注意人物としてオズワルドの名前を挙げていなかったことを知り激しく怒ったと言われている。彼はやがてオズワルドがFBIの秘密情報提供者であったとの批判に晒されることとなった。
  53. ^ 民主党の重鎮。ジョンソン政権でのベトナム戦争で反対の論陣を張り、後に駐日大使として来日した。
  54. ^ ロバート・ケネディに大統領狙撃の知らせが入ってすぐに、連邦司法省は法令を調査して、大統領の殺害に関して連邦に捜査権が無いことをすぐに確認している。ほぼ同時の動きであったが、この限りではテキサス州警察が捜査し、ローズ検視官が遺体解剖を行うのは全く当然のことであった。このことが3日後にテキサス州司法長官が独自の調査を開始する動きとなり、それを牽制するために急遽大統領直属の調査委員会(ウォーレン委員会)を設置する動きに繋がっていった。
  55. ^ このアール・ローズ検視官は、この直後オズワルドに射殺された警官のティピット巡査の検視を行い、2日後にジャック・ルビーに殺されたオズワルドの検視を行い、そして4年後獄死したジャック・ルビーの検視も行ったとされている。
  56. ^ 引き下がったのは、1つの条件をつけてホワイトハウス側がその条件を了解したからでもある。その条件とは医療関係者(この場合は大統領の主治医バークリー提督)が遺体に付き添い、ダラスに戻って証言することを承諾したからであった。「ミセス・ケネディ」クリント・ヒル著 379~380P
  57. ^ 4名以外の閣僚はこの時に、日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機で東京に向かっていた。
  58. ^ この時にジョンソンは後にこう回想している。「私の脳裏を走ったのは次は誰を撃つだろうか、ということだ。そしてワシントンで何が起こるか。ミサイルは飛んでくるのか。私は陰謀だと思った。」「CIA秘録」上巻 317P ティム・ワーナー著 文藝春秋 2008年11月発行
  59. ^ エアフォース・ワンの運用責任者であったマクヒュー空軍准将(Godfrey T. McHugh)によると、リンドン・B・ジョンソンは就任宣誓の前に機内のトイレで「殺される。これは陰謀だ。みんなやられる (They're going to get us all. It's a plot. It's a plot. It's going to get us all.)」と喚いていた(共同通信 2009年11月03日、Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President)。また、ロバート・ケネディにジョンソン自身が電話で相談し、宣誓式は即刻、ダラスで行えとのアドバイスを受けたという主張があるが、ケネディサイドのスタッフはこれを否定している。
  60. ^ 大統領が死亡、辞職、不能力者になった場合や議会で弾劾が決議した場合は副大統領が昇格することが憲法に規定されており、1961年8月にケネディとで「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、ケネディが意識不明になった時点で「大統領代行」を自ら宣言することは可能であり、死亡した時点で自動的に昇格している。したがって宣誓式を行わなくても大統領はすでにケネディからジョンソンに受け継がれている。
  61. ^ 副大統領はエアフォース・ツーという専用機があり、ダラスに来た時も副大統領専用機に乗ってきたが、大統領死亡という緊急事態で新大統領となったことで、ケネディが搭乗してきた大統領専用機に急遽搭乗することとなった。
  62. ^ 司法解剖をこの病院で行うことになったのは、大統領主治医のバークリー提督がワシントンに戻る途中のエアフォース・ワンから連絡していた。そしてこれはジャクリーン夫人の希望であったと述べている。
  63. ^ 検視が行われた海軍病院解剖検視室は30〜40人が座れる階段教室になっており、FBIとシークレット・サービスと他の医療関係者が見ていた。ジャクリーン夫人とロバート・ケネディら家族は上の階で待機して、主治医のバークリー提督も検視が始まると上の階へ行った。
  64. ^ 解剖自体は4時間だが、その後の弾の出口などを巡って延々と論議があり、この夜は19時30分から5時30分まで3人は室内にいた。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 30P。
  65. ^ 「二人のFBI捜査官が、ケネディは右側頭部に大きな傷を受け、別の傷はスーツのエリの部分から5.5インチ下、背骨の右部分にあり、三番目の傷は彼の喉仏の下の部分にあったことを明らかにした。」と一部で述べているが、検視の過程でも喉仏の下の部分については、あくまで気管切開口として認識していて、頸部から入った弾の出口が分からずX線でも弾丸の確認が出来なかった。ヒュームズ医師は検視の翌日にパークランド病院のペリー医師と電話して気管切開口が弾の出口であることに気がついた。この曖昧さが後にさまざまな議論になった。
  66. ^ 後にウォーレン委員長にFBIから送られて来た写真は全て約10センチ×13センチで白黒18枚、カラー22枚であった。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 132P。
  67. ^ 「数枚の写真およびレントゲン写真が検死のために撮影された(それらの数枚は公式記録から消えた)」とする情報もあるが、少なくとも合わせると66枚の写真が撮られている。また、「FBIが撮影していた、あるいは病理医が撮った写真をFBIが持ち帰った」とする話についてはヒュームズは否定している。
  68. ^ 検視を担当した病理医が大統領の着衣を初めて見たのは、翌年のウォーレン委員会の調査担当官との面接の場であった。ボズウェルは遺体解剖直後に遺体のスケッチを描いていたが、これが着衣にできた穴と一致しなかったことで後に疑惑を生むことになった。この食い違いは大統領が沿道の観衆に手を振っている時に被弾したことで背広が盛り上がっていた時に起きたことによって生じたとされている。
  69. ^ 著者の宮本倫好氏は、この時ニューヨークに滞在していて、ケネディ暗殺の衝撃の模様を直接見聞きしていた。そして同じ著書に「自分がその瞬間にどこそこにいたと何十年もたっても明確に記憶している事件がある。アメリカ人にはケネディ暗殺がまさにそれに当たる」と書いている。
  70. ^ この当時は、現在のCNNもFOXもまだ開設されていなかった。
  71. ^ 今宵アメリカは泣く。若くして逝った大統領のためのみならずわが身のために。悲しみはすべての人のものであった。なぜならば国のなかの最悪のものが最善のものを打ち破ったがゆえに。告発されたのは暗殺者だけではない。なぜならば国民の中に存在するあるもの、狂気と暴力が法と秩序の最高のシンボルを破壊し去ったがゆえに。 ジェームズ・レストン 1963.11.23
  72. ^ 当初はケネディによる日本へのメッセージが放送予定だったが中止となった。事前に11月上旬ホワイトハウスにて収録されたもので、暗殺の翌日には日本の各局のニュースで「送られるはずだったケネディ大統領のメッセージ」として放送された。この映像と音声メッセージはジョン・F・ケネディ図書館に現在も保管されており、その後フジテレビ系『スピーク』など後にテレビ番組で放送されたことがある。
  73. ^ サンケイ新聞の記者小池英夫はルビーがオズワルドを射殺する瞬間を目撃した(産経新聞1963年11月25日夕刊、小池英夫 『ケネディ暗殺事件見聞録』(ラ・テール出版局、1996年))。
  74. ^ これより98年前のリンカーン暗殺事件の際も、リンカーン大統領の遺体が安置されたのもこのイーストルーム(東の間)であった。
  75. ^ 後に1968年に首相となる。
  76. ^ 翌年10月に総選挙で勝利して首相となる。
  77. ^ この年8月にベルリンをケネディが訪問して、ベルリンの壁の前で有名な「イッヒ・ベルリーナ」の演説を行った。この時のベルリン市長がブラントで後に西独首相となった。
  78. ^ この前月に大統領選挙に当選していたが、この日までにはまだ就任していない。当時は国家再建最高会議議長であった。
  79. ^ このクッシング枢機卿と歌手ルイジ・ベナの「アベマリア」というのは10年前にジョンとジャクリーンとの結婚式でも同じ顔合わせであった。ケネディ大統領は同じ枢機卿で同じ歌手で「アベマリア」の歌とともに結婚を祝され、そして葬儀で送られていった。
  80. ^ この葬儀の時のケネディの墓はその後、少し移動しており、現在の墓の位置ではない。
  81. ^ 民主党上院議員。上院軍事委員長。
  82. ^ 共和党上院議員。元インド大使。
  83. ^ 民主党下院議員。党院内副総務。
  84. ^ 共和党下院議員。後に1974年にニクソン大統領の辞任に伴い副大統領から昇格して第38代大統領となる。
  85. ^ 1961年春に亡命キューバ人がキューバに上陸して撃退された第1次キューバ危機当時のCIA長官で、最初からCIAの支援で行ったことで、その後に責任を取って辞任した。この人選については後に議論を呼んだ。
  86. ^ 元世界銀行総裁でケネディ政権の軍縮問題顧問。
  87. ^ この証人尋問に7人の委員が全員出席したケースは一度もない。また、出席率がわずか6.4パーセントの委員もいて、委員の最高出席率は74.5パーセントのフォード下院議員であった。「ケネディはなぜ暗殺されたか」77P
  88. ^ オズワルドの単独犯行説に対して、次のような説が主張されている。大統領が撃たれた場所の前方の丘(グラシー・ノール grassy knoll)付近から狙撃があったとする説。教科書倉庫ビル(Texas School Book Depository)にオズワルド以外の狙撃者がいたとする説。別のビル(ダルテックスビル Dal-Tex Building、カントリーレコーズビル Country Records Building など)に狙撃者がいたとする説。オズワルドを共犯者とする説と身代わりとする説がある。研究家D.ペリーは暗殺事件に関与したとされた68人の名とソースを列挙している。RASHOMON TO THE EXTREME
  89. ^ 教科書ビルで犯行に使用されたダンボール(スナイパーズ・ネストと呼ばれる)には、オズワルドとマルコム・ウォレス (Malcolm [Mac] Wallace) の2人の指紋があったする説がある。参照:バー・マクレラン『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』(文藝春秋、2005年)バー・マクレランはL・ジョンソンの顧問弁護士の一人、ブッシュ政権の大統領報道官スコット・マクレランの父。参考:JFK Breakthrough?
  90. ^ チャーチ委員会(アメリカ合衆国上院外交委員会)、ロックフェラー委員会(アメリカ合衆国 CIA 国内活動調査委員会)も調査を行った。
  91. ^ 重要な証拠とされた[[::en:Dictabelt evidence relating to the assassination of John F. Kennedy|口述録音機用録音テープの証拠]]は後に証拠認定を取り消されている。
  92. ^ 『応用統計学年報』(Annals of Statistics Volume 1, Number 2,2007)に掲載された論文(Cliff Spiegelman, William A. Tobin, William D. James, Simon J. Sheather, Stuart Wexler, and D. Max Roundhill Chemical and forensic analysis of JFK assassination bullet lots: Is a second shooter possible?)は、発見された銃弾と破片の分析から、銃弾と破片は3発もしくはそれ以上の銃弾に由来する可能性もあり、科学的な再調査が必要としている。参照[1]参照ケネディ暗殺は複数犯?命中弾丸3発以上…米大チーム新説
  93. ^ 水中に向かって撃つような事をしない限り、通常弾丸は必ず変形する。弾丸は垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形し、弾頭部分は損傷していなかった。
  94. ^ ケネディは緊急処置室で運ばれた担架から移動していないとされることから、証拠は無いものの、コナリー知事を運んだものと推定されている。
  95. ^ 一般論として銃弾の入口と出口の見分けは、入口側が小さく出口側が大きい。ケネディの場合もベセスダ海軍病院の検視で首に受けた弾の出口が分からなかったことと、頭部の致命傷となった傷について頭部の骨片がダラスから後に到着していて、不透明な部分があり、議論を呼んだ。
  96. ^ 後にマクレーンは記録された音声が自分の白バイの無線によるものであることを否定している。
  97. ^ 録音された場所および時間、録音された銃声等の真実性について議論がある。司法省の依頼を受けた全米科学アカデミー(NAS)による調査(1982年)は下院暗殺調査委員会の結論("scientific acoustical evidence establishes a high probability that two gunmen fired at President John F. Kennedy" (科学的な音響の証拠は、2人の射手がジョン F. ケネディ大統領に発砲したことを高い確率で立証している))を否定した。National Academy of Sciences Report of the Committee onBallistic Acoustics ディクタベルト(Dictabelt)は磁気テープではなく針を使用するため、再生を繰り返すと破損する。Tape of Kennedy's Killing Is Getting Digital nalysis(ケネディ暗殺の録音テープ、デジタル解析へ)
  98. ^ 1979年、下院暗殺調査委員会は音声記録を証拠認定しオズワルド以外の狙撃者が存在した可能性が高いと結論したが、後に証拠認定を取り消した(Harrison Edward Livingstone , Robert J. Groden High Treason: The Assassination of JFK & the Case for Conspiracy (Carroll & Graf Publishers, 1998))。銃声の回数には議論があり、4回とする証言もある(ローズマリー・ウィルス([[::en:Rosemary Willis|Rosemary Willis]]、ザプルーダー・フィルムの赤いスカートの少女とされる人物。)、ジーン・ヒルなど)。
  99. ^ 1973年7月に月刊誌「アトランチック」に掲載された評論家・作家レオ・ジャノスとの会見記事で述べている。
  100. ^ ダラスの熱い日』は、事件後に3年間で18人が死亡したとする説を引用している。この説には批判もある(奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社、2008年)。
  101. ^ ピーター・ローフォードはジョン・F・ケネディの妹パトリシアの夫(1954年ー1966年)。なお実際に、ケネディによる一方的な関係断絶に対しシナトラは激怒し、ジアンカーナや、ルビーやオズワルドとの面識もあったテキサス州を縄張りとするマフィアのカルロス・マルセロらは、マフィア壊滅作戦を進めるケネディの暗殺をほのめかすような発言を繰り返していたことが、FBIの盗聴により明らかになっている。
  102. ^ しかし、撤退計画はケネディ暗殺によって頓挫し、後任のジョンソン大統領によってベトナム戦争への介入は逆に押し進められて、ベトナム戦争は泥沼化した。ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が産軍複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。映画「JFK」はこの可能性を追及して話題となった。
  103. ^ ソ連側も極秘裏に KGB と共に、ケネディ大統領暗殺事件を独自に調査した、結論は「オズワルドを替え玉とした複数犯行説」としている。
  104. ^ ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判については、ジム・ギャリソン(著)、岩瀬孝雄(翻訳)『JFK ケネディ暗殺犯を追え』(早川書房、1992年)、オリバー・ストーン、ザカリー・スクラー(著)、中俣真知子、袴塚紀子(翻訳)『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』(テンプリント、1993年)等参照。また、クレイ・ショー裁判を批判した著作としてEdward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)。
  105. ^ 映画は事実とフィクションを織り交ぜており、様々な論争の原因となった(『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』(テンプリント、1993年参照))。
  106. ^ Globe Magazine(タブロイド誌[2])は「運転手ビル・グリアーが発砲した」とする記事を掲載した。この「説」は「Majority 12」関係者も主張したことがある(MJ-12Majestic 12参照。参考:[3][4])。 後続車に乗っていたシークレットサービスのジョージ・ヒッキー(George Hickey)が発砲したとする説(Mortal Error参照)は訴訟に発展した。
  107. ^ しかし、検視したベセスダ海軍病院の病理医3人のうち、1人は銃創の専門家であり、そもそも司法解剖での検視の役割は死因の確定であって、弾道の入口と出口を確認はするが弾道の入射角の判定はしていない。判定はウォーレン委員会で行っている。それとケネディの背中には痛みを和らげる補助具が固定して装着されており暗殺時は猫背気味ではない。
  108. ^ しかしケネディとジョンソンとの間では1961年8月に「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、大統領が意識不明に陥った場合は副大統領が「大統領代行」を宣言することが出来、死亡した場合は即大統領に昇格することになっている。このダラスの場合は突然の事態であったがケネディが死亡した13時の段階ですでにジョンソンは大統領であった。宣誓の有無は関係なくこれはその後も同じである。なお何らかの非常事態で副大統領以下も同時に死亡した場合は、下院議長・上院仮議長・国務長官・財務長官・国防長官・司法長官・・・というように大統領を継承する順番が決められていて、権力の空白を生じないように定められている。『ケネディ暗殺事件 その背景と真実』98〜99P参照 仲晃 著
  109. ^ 「ただし、『映像に残る暗殺場面では前から撃たれている』という事実は説明できていない。」という意見があるが、ザプルーダー・フィルムによっても、前から撃たれていると断定できるものではない。
  110. ^ ケネディの頭蓋骨の骨折線は前からの銃撃ではなく、背後からの銃撃によるものということを証明したとしている。

出典

  1. ^ 1963年11月22日ダラスKRLD Radio、WFAA TVなどの実況中継 Prospect all day rain....
  2. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 36〜37P
  3. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 38P
  4. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 下巻 107〜110P 文藝春秋 2013年11月発行。
  5. ^ ウォーレン報告書 第2章 暗殺 49P 参照
  6. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 342〜343P。
  7. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 342P。
  8. ^ Maria Muchmore(Muchmore Film)、Orville Nix(Nix Film)、Robert Hughes(Hughes Film)
  9. ^ ウィリアム・レモン、ビリー・ソル・エステス(著)、広田明子(翻訳)『JFK暗殺 40年目の衝撃の証言』 26~27P参照
  10. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 334~336P。
  11. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 332~333P。
  12. ^ Polaroid Highlander Model 80A
  13. ^ Gordon Arnold
  14. ^ 『菊の御紋章と火炎瓶』文藝春秋 佐々淳行 2009年
  15. ^ 『香港領事動乱日誌』文藝春秋 佐々淳行 1997年
  16. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 51〜53P
  17. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 331P
  18. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 331P。
  19. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 340P。
  20. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 56P
  21. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 43P
  22. ^ 大統領の治療に関する詳細は、「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 45〜47P、及び「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 73〜80Pを参照。
  23. ^ 「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 73P
  24. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 350〜351P
  25. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 44P
  26. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 89P
  27. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 54P。
  28. ^ 「ミセス・ケネディ」クリント・ヒル著 373~374P
  29. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 56P。
  30. ^ 「CIA秘録」上巻 318P ティム・ワーナー著
  31. ^ 「CIA秘録」上巻 317P ティム・ワーナー著
  32. ^ 「ミセス・ケネディ」クリント・ヒル著 375P
  33. ^ 「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 86〜92P
  34. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 94P
  35. ^ ギャレス・ジェンキンズ著「ジョン・F・ケネディ」305P
  36. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 95P
  37. ^ 「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 47〜48P
  38. ^ 司法解剖に関する詳細は「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 15〜52P を参照
  39. ^ この項は「アメリカの戦後50年~ジャーナリストから見た半世紀~」宮本倫好著 丸善 1995年8月発行の90Pを参照
  40. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 下巻 250P。
  41. ^ 密葬から国会での追悼式、そして国葬など葬儀の詳細については「ミセス・ケネディ」クリント・ヒル著 390~408P 参照
  42. ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、82頁。ISBN 4062122227
  43. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」仲晃 著 63〜71P
  44. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」56P
  45. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」56P
  46. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」56〜57P
  47. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」仲晃 著 58〜59P
  48. ^ Gerald L Posner Case Closed (Random House Value Publishing ,1995)
  49. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」仲晃 著 59〜60P
  50. ^ 「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 下巻 65P。
  51. ^ 日本大百科全書』(小学館
  52. ^ ジェイムズ・スパダ著、広瀬順弘訳『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 読売新聞社刊、1992年
  53. ^ http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/kentv.htm
  54. ^ 参考:クレイショー裁判
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  56. ^ Warren commission report
  57. ^ Gerald L Posner Case Closed (Random House Value Publishing ,1995)
  58. ^ ディヴィッド・S・リフトンの説。関連文献参照。
  59. ^ バブーシュカ・レディーの項目参照。

参考文献 関連文献

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  • ロバート・サム・アンソン(著)、和田敏彦(翻訳)『彼らは大統領を撃った ケネディ暗殺の謀略を追う』 角川書店 1976年
  • バート・R・シュガー(著)、長沼芳夫(翻訳)『暗殺の構図 米国指導者暗殺の系譜』 荒地出版社 1978年
  • 落合信彦『二〇三九年の真実 ケネディを殺った男たち』 集英社 1979年
  • ジェームズ・マッキンレー(著)、和田敏彦(翻訳)『アメリカ暗殺の歴史 』 集英社 1979年
  • エドワード・J・エプスタイン(著)、高田正純(翻訳)『アメリカを撃った男 オズワルドの謎 』 早川書房 1981年
  • ディヴィッド・S・リフトン(著)、土田宏(翻訳)『ベスト・エヴィデンス ケネディ暗殺の虚実』 上巻・下巻 彩流社 1985年、1986年
  • 広瀬隆『億万長者はハリウッドを殺す』 下巻 第11章 講談社 1989年
  • コンノケンイチ『ケネディ暗殺とUFO』 たま出版 1989年
  • 土田宏『ケネディ兄弟の光と影』 彩流社 1992年
  • ジェイムズ・スパダ(著)、広瀬順弘(翻訳)『ピーター・ローフォード ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』上・下 読売新聞社 1992年
  • マーク・レーン(著)、飯塚忠雄(翻訳)『大がかりな嘘 だれがケネディを殺ったのか 』 扶桑社 1992年
  • チャールズ・クレンショー(著)、岩瀬孝雄(翻訳)『JFK謀殺 医師たちの沈黙』 早川書房 1992年
  • 文藝春秋(編集)『JFK暗殺の真実 ケネディ解剖医、28年間の沈黙を破る!』 文藝春秋 1992年
  • クレイグ・ジーベル(著)、石川順子(翻訳)『テキサス・コネクション JFK暗殺 ジョンソンの最も危険な賭け』 竹書房 1992年
  • 堀田宗路『ジョン・F・ケネディの謎 権力の陰謀とアメリカの悪夢』 日本文芸社 1992年
  • ジム・ギャリソン(著)、岩瀬孝雄(翻訳)『JFK ケネディ暗殺犯を追え』 早川書房 1992年
  • 仲晃『パクス・アメリカーナの転回 ジャーナリストの見た現代史』 岩波書店 1992年
  • オリバー・ストーン、ザカリー・スクラー(著)、中俣真知子、袴塚紀子(翻訳)『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』 テンプリント 1993年
  • 桧山良昭『ケネディを撃った男たち 現代史の謎』 東京書籍 1993年
  • 井上一馬『ケネディ その実像を求めて』第1章、第9章 講談社 1994年
  • ジョン・H・デイヴィス(著)、市雄貴(翻訳)『マフィアとケネディ一族』 朝日新聞出版 1994年
  • 松尾弌之『JFK 大統領の神話と実像』 ちくま書房 1994年
  • 仲晃『ケネディはなぜ暗殺されたか』 日本放送協会 1995年
  • 瀬戸川宗太『「JFK」悪夢の真実 ベトナム戦争とケネディ暗殺のシネマ学』 社会思想社 1995年
  • ロバート・D・モロー(著)、河合洋一郎(翻訳)『ケネディ暗殺 アメリカに殺されたJFK 』 原書房 1996年
  • 小池英夫『ケネディ暗殺事件見聞録』 ラ・テール出版局 1996年
  • 『週間 マーダーケースブック ケネディ暗殺』 デアゴスティーニ 1996年
  • 『週刊YEARBOOK 1963 昭和38年日録20世紀 ケネディ大統領暗殺!』 講談社 1997年
  • サム&チャック・ジアンカーナ(著)、落合信彦(翻訳)『アメリカを葬った男』 光文社 1997年
  • ジョン・ニューマン(著)、浅野輔、池村千秋(翻訳)『オズワルド 「ケネディ暗殺犯」と疑惑のCIAファイル』 TBSブリタニカ 1997年
  • 宮本倫好『大統領たちのアメリカ 指導者たちの現代史』 丸善 1997年
  • フリッツ・スプリングマイヤー(著)、太田龍(翻訳)『イルミナティ 悪魔の13血流 世界を収奪支配する巨大名家の素顔』第6章 ベストセラーズ 1998年
  • ジョナサン・バンキン、ジョン・ウェイレン(著)、石谷尚子(翻訳)『「超陰謀」60の真実』 徳間書店 1998年
  • 落合信彦『決定版 2039年の真実』 集英社 1999年
  • 布施泰和『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』 近代文芸社 2000年
  • 藤本一美(編)『ケネディとアメリカ政治』 EXP 2000年
  • 奥菜秀次『ケネディ暗殺 隠蔽と陰謀』 鹿砦社 2000年
  • 柘植久慶『JFKを撃った男 テロリストの眼から暗殺のナゾを解く』 小学館 2000年(フィクション)
  • 柘植久慶『歴史を変えた「暗殺」の真相 時代を動かした衝撃の事件史』第42章 PHP研究所 2003年
  • 土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺 天国からのメッセージ』 彩流社 2003年 ISBN 4-88202-855-7
  • 三浦二三男『J・F・K ダブルステイツ』新風舎 2003年
  • 浜田和幸『黒いホワイトハウス 今なお消えぬケネディ家の呪い』 祥伝社 2004年
  • ウィリアム・レモン、ビリー・ソル・エステス(著)、広田明子(翻訳)『JFK暗殺 40年目の衝撃の証言』 原書房 2004年
  • バー・マクレラン(著)、赤根洋子(翻訳)『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』 文藝春秋 2005年 ISBN 4-16-367680-5
  • エドワード・クライン(著)、金重紘(翻訳)『ケネディ家の呪い』 綜合社 2005年
  • 渡邉良明『J.F.ケネディvs.二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』 熊本出版文化会館 2006年
  • マイケル・コリンズ・パイパー(著)、太田龍(翻訳)『ケネディとユダヤの秘密戦争』 成甲書房 2006年
  • 海野弘『陰謀の世界史』文春文庫 2006年
  • 『世界史未解決事件ファイル』第二章 PHP研究所 2006年
  • 『未解決事件の謎と暗号』第二章 青春出版社 2007年
  • 土田宏『ケネディ 「神話」と実像』第七章 中央公論新社 2007年
  • 奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社 2008年
  • 大澤正道『暗殺の世界史』 第九章 PHP研究所 2008年
  • ティム・ワイナー(著)、藤田博司、山田侑平、佐藤信行(翻訳)『CIA秘録』上 第3部 文藝春秋 2008年
  • ジョン・コールマン(著)、太田龍(翻訳)『新版 300人委員会(下)陰謀中枢の正体』第14章 成甲書房 2008年
  • 週刊『歴史のミステリー』5号(歴史検証ファイル ケネディ暗殺事件の首謀者は誰だったのか)デアゴスティーニ 2008年
  • 『週刊朝日百科 週刊昭和 2009年1月18日号』 「特集 ケネディ暗殺の衝撃」朝日新聞出版 2009年
  • 『歴史108のミステリー 暗殺・闇の真実』 コスミック出版 2009年
  • 『世界中が凍りついた疑惑の大事件』第三章 河出書房新社 2009年
  • 『ケネディ暗殺 暗殺の検証と最期の2日間』(DVD) コスミック出版 2009年
  • アーサー・ゴールドワグ(著)、住友進(翻訳)『カルト・陰謀・秘密結社大事典』 河出書房新社 2010年
  • グループSKIT『世界の見方が変わる「陰謀の事件史」』PHP研究所 2010年
  • 小田桐一『歴史を震撼させた暗殺事件』彩図社 2010年
  • 『検証 陰謀論はどこまで真実か』第三章 文芸社 2011年
  • 奥菜秀次『アメリカ陰謀論の真相』第三章 文芸社 2011年
  • 小川謙治『ケネディ暗殺の真犯人とUFOアポロ疑惑』 学研パブリッシング 2013年
  • ジム・マース(著)、 渡辺 亜矢(翻訳)『マスメディア・政府機関が死にもの狂いで隠蔽する 秘密の話』 河出書房新社 2013年
  • フィリップ・シノン(著)、村上和久(翻訳)『ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜』上下巻 文藝春秋 2013年
  • クリント・ヒル、リサ・マッカビン(共著) 白須清美(翻訳)『ミセス・ケネディ~私だけが知る大統領夫人の素顔~』原書房 2013年
  • ギャレス・ジェンキンズ(著) 澤田澄江(翻訳)「ジョン・F・ケネディ」原書房 2006年
  • Josiah Thompson Six Seconds in Dallas: A Micro-Study of the Kennedy Assassination (Bernard Geis / Random House Inc; 1st edition ,1967)
  • Jim Garrison A Heritage of Stone (Berkley Medallion; 4th printing edition ,1975)
  • Edward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)
  • Alan J Weberman, Michael Canfield Coup d'Etat in America: The CIA and the Assassination of John F. Kennedy (Quick American Archives ,1992)
  • Jim Marrs Crossfire: The Plot That Killed Kennedy (Basic Books; Carroll & Graf Pub. 1993)
  • Robert J. Groden The Killing of a President: The Complete Photographic Record of the JFK Assassination, the Conspiracy, and the Cover-Up (Studio. 1994)
  • Gerald L Posner Case Closed (Anchor,2003 Random House Value Publishing ,1995)
  • L. Fletcher Prouty JFK: The Cia, Vietnam, and the Plot to Assassinate John F. Kennedy (Citadel Pr; Upd Sub, 1996)
  • Harrison Edward Livingstone , Robert J. Groden High Treason: The Assassination of JFK & the Case for Conspiracy (Carroll & Graf Publishers, 1998))
  • James H Fetzer(editor) The Great Zapruder Film Hoax: Deceit and Deception in the Death of JFK (Open Court Pub Co; illustrated edition, 2003)
  • Antoinette Giancana, John R. Hughes, Thomas H. Jobe JFK And Sam: The Connection Between the Giancana And Kennedy Assassinations (Cumberland House ,2005)
  • E Howard Hunt, Greg Aunapu American Spy: My Secret History in the CIA, Watergate, and Beyond (John Wiley & Sons Inc, 2007)
  • Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President (Basic Books, 2009)

関連項目

外部リンク