インテルナツィオナーレ・ミラノ

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インテルナツィオナーレ・ミラノ
原語表記 Football Club Internazionale Milano
愛称 I Nerazzurri(黒と青)
La Beneamata(恋人)
Il Biscione(ビショーネ
Baüscia(ロンバルド語で自慢屋)
クラブカラー Inter 青・黒
創設年 1908年
所属リーグ セリエA
ホームタウン ミラノ
ホームスタジアム スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ
収容人数 80,018
代表者 インドネシアの旗 エリック・トヒル
監督 イタリアの旗 ロベルト・マンチーニ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

インテルナツィオナーレ・ミラノFootball Club Internazionale Milano)は、イタリアミラノをホームタウンとする、イタリアプロサッカーリーグ(セリエA)に加盟するプロサッカークラブ。

略称は『インテル』『インテル・ミラノ』『インター・ミラン』である。1929-1930年に発足したセリエAとして知られるイタリアサッカーのトップディビジョンの歴史上降格経験のない唯一のクラブである[1]

概要

ミラノダービー
インテルのユニホーム
スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ

1908年創設。ホームスタジアムスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ。愛称はクラブカラーに由来するネラッズーロイタリア語で「黒 (nero) と青 (azzurro)」[2])。サポーターはインテリスタと呼ばれる。

これまでにリーグを18回、コッパ・イタリアを7回、スーペルコッパ・イタリアーナを5回制し、計30の国内タイトルを獲得している。2006-2010にはリーグを5連覇し、リーグ記録に並んだ[3]UEFAチャンピオンズリーグでこれまでに3回優勝している(1964年、1965年の2連覇と2010年)。これは地元のライバルACミランに次いでイタリアで2番目の記録である。2010年にはイタリアのクラブとして史上初の3冠(コッパ・イタリア、スクデット、ビッグイヤー)を達成した[4]。また、UEFAカップを3回、インターコンチネンタルカップ2回、FIFAクラブワールドカップを1回制している。

2012年9月のDemos & Pi社の調査によると、インテルはイタリアで3番目(14.5%)に人気のクラブである[5]。2010年9月のドイツSport + Markt社の調査によると、欧州では8番目にファンが多いクラブ(1750万人)である[6]

同じ都市・同じスタジアムを本拠地とするACミランとは永遠のライバル関係にある。ACミランが労働者階級から支持を集めているのに対し、インテル・ミラノは富裕層を中心に支持を集めているとされていたが、現在では階級差は特になく、お互いにミラノの一般市民の広い層から支持を集めている。

ユヴェントスFCとの対戦はイタリアダービー[7]、ACミランとの対戦はミラノダービーと呼ばれ、国内外の関心を集めるビッグマッチとなっている。

2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2012-13シーズンのクラブ収入は1億6880万ユーロであり、世界のサッカークラブの中では15位、イタリアではユヴェントス、ACミランに次ぐ3位である[8]

歴史

ジュゼッペ・メアッツァでの試合前。
インテルのサポーター
初のスクデットを獲得した1910年のインテルの選手達。

1908年-20年代前半 -インテルの誕生〜発展期-

前身はACミランと同じ「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ (Milan Cricket and Football Club)」だが、外国人選手の加入問題を巡ってクラブ内で対立が生じ、その反主流派(外国人選手の加入に積極的な一派)は1908年3月9日にミラノのレストラン“オロロージョ”にて会合を開き、ミランからの分離・独立を決める。新クラブは「国籍を問わず世界中の選手に門戸を開く」、という意味を込め、「FCインテルナツィオナーレ」と命名され、チームカラーは青、黒、金に決まった。

ACミランとのダービーマッチは、ACミランの5連勝で始まり、当初インテルはACミランに歯が立たなかった。しかし、1910年に5-0でACミランから初勝利。その後、両チームのライバル関係は激化していった。

そして、設立より2年後の1909-10シーズンには当時無敵だったプロ・ヴェルチェッリを10-3で倒して初のスクデットを獲得し、1919-20シーズンにもリヴォルノを倒して2回目のスクデットを獲得する。

1920年代後半-40年代前半 -ベッピーノの登場と第一次黄金時代-

「ベッピーノ」という愛称で呼ばれたジュゼッペ・メアッツァ

1920年代後半、ムッソリーニを党首とするファシスト党の影響はサッカー界にも及び、国粋主義を掲げるファシスト党にとってこのクラブ名と外国に対して寛容な精神は思想に反するものだった。

ムッソリーニは1928年にインテルとUSミラネーゼ(Unione Sportiva Milanese)を合併させ、更には翌年チーム名をアンブロシアーナ(Ambrosiana)に、ユニフォームをセント・ジョージ・クロスをモチーフとした赤十字デザインに変更させる。

しかし、この決定は熱狂的なインテリスタの怒りを買った。そして、彼らの抗議により、1932年クラブ名はアンブロシアーナ・インテル(Ambrosiana-Inter)となり、ユニフォームも元に戻され、辛くも"INTER"の名と青と黒の縦縞の伝統は守られた。

その頃、インテルユースから超新星が誕生した。彼の名はジュゼッペ・メアッツァ。「ベッピーノ」という愛称で呼ばれたこの選手は、デビューシーズンの1928-29シーズンにいきなり得点王に輝く活躍をした。ドリブルが巧く、シュートも正確で、テクニックも抜群。パス能力にも優れ、更に美男子だった彼は瞬く間にクラブのアイドルとなり、また中心選手となるのに時間はかからなかった。 翌1929-30、初の全国リーグ(セリエA)が開催され、得点王に輝いたメアッツァ(35-36、37-38シーズンにも得点王になった)の活躍もあり、アンブロシアーナ・インテルは初の全国リーグのチャンピオンに輝いた。 勢いは止まらず1937-38シーズンにも彼の活躍で4回目のスクデットを獲得、翌シーズンには初のコッパ・イタリアを獲得した。 1939-40シーズンもメアッツァが病気により試合に出られなかったにも関わらず、5回目のスクデットを獲得した。翌年メアッツァは408試合、287得点という偉大な記録(歴代最多得点)を残してクラブを去り(1946-47に復帰)、アンブロシアーナ・インテルの黄金時代は終焉した。

戦争が終わり、ファシスト政権が倒れ、1945年にクラブ名は元のインテルナツィオナーレに戻った。

1940年代後半-50年代 -サン・シーロとカテナチオ-

1948年、インテルはそれまでのホームスタジアム、スタディオ・チーヴィコ・アレナ(Stadio Civico Arena)の老朽化に伴い、ホームスタジアムをミランのホームスタジアムサン・シーロに移転し、共同でスタジアムを使うことになった。

1952-53シーズン、監督のアルフレド・フォーニはそれまで弱小チームが使っていた堅い守備からのカウンター(のちにカテナチオと呼ばれる)を基本とした戦術を使い、ストライカーの"Veleno(毒)"ことロレンツィニエルス、左ウィングの"Nacka"ことスコグルンド、GKの"Kamikaze"ことゲッツィらの活躍もあり、6回目のスクデットを獲得。 翌1953-54シーズンは前シーズンに守備的過ぎると批判されたことから、攻撃的になり、7回目のスクデットを獲得した。

そして1955年、後に伝説となる石油王アンジェロ・モラッティが会長に就任する。

1960年代 -魔術師とグランデ・インテル-

就任以来、監督の首を次々とすげ替えていったモラッティ会長だったが、1960年についに素晴しい監督に巡り会った。 彼の名はエレニオ・エレーラ。スペインのFCバルセロナに2回の優勝をもたらした、"マーゴ(魔術師)"と呼ばれるアルゼンチン人監督である。

愛弟子ルイス・スアレスを引き連れ、スペイン風の攻撃的サッカーで臨んだエレーラだったが、当初は結果が出ず1962年に一度解任された。しかしスペイン代表を率いたチリワールドカップから戻ってくると、再びインテルの監督に就任し、今度は堅い守備からのカウンターアタックを基本戦術とし、当時としては珍しいメンタルトレーニングも行い、強化に着手した。

そして1962-63シーズン、インテルはGKジュリアーノ・サルティアルマンド・ピッキを中心としたタルチシオ・ブルニッキアリスティーデ・グアルネーリジャチント・ファッケッティの守備陣の奮闘、司令塔スアレスのゲームメイクやコルソ、サンドロ・マッツォーラのファンタジーあふれるプレー、当時としては革新的だったSBのファケッティのオーバーラップによるカウンター攻撃で8回目のスクデットを獲得した。

翌1963-64シーズンはボローニャに同勝点によるプレーオフに負けてスクデットは逃したものの、UEFAチャンピオンズカップでは当時無敵だったスペインのレアル・マドリードを倒し、イタリア勢ではミランに次ぐ2番目のヨーロッパチャンピオンに輝いた。翌シーズンにはアルゼンチンのCAインデペンディエンテを撃破してインターコンチネンタルカップを制し、イタリア勢では初の世界チャンピオンになり、ベンフィカを倒してUEFAチャンピオンズカップも連覇、更にはスクデットも獲得した。 翌1965-66シーズンにも再びインデペンディエンテを撃破して世界チャンピオンになり、国内では10回目のスクデットを獲得してユヴェントスに次ぐラ・ステッラ(スクデット10回獲得を表す星)をユニフォームにつけることを許された。翌シーズンもUEFAチャンピオンズカップ決勝に進んだが、今度はスコットランドのセルティックに敗れた。

そして1968年、モラッティ会長はイヴァノエ・フライッツォーリに会長職を譲り、グランデ・インテル時代は終わりを告げた。

1970年代-80年代前半 -夢の終わり-

1970-71シーズン、選手と対立していたエリベルト・エレーラ監督の後を受けたジャンニ・インヴェルニッツィ監督はグランデ・インテルの遺産と得点王に輝いたロベルト・ボニンセーニャの活躍で11回目のスクデットを獲得、翌シーズンはUEFAチャンピオンズカップ決勝に進んだが、ヨハン・クライフ率いるオランダアヤックスに完敗した。

そしてマリオ・コルソタルチシオ・ブルニッキがクラブを去り、サンドロ・マッツォーラも引退、ジャチント・ファッケッティも1977-78シーズンに2回目のコッパ・イタリアを手土産に引退しグランデ・インテルは完全に消滅した。

ファイル:Serie A 1979-1980 - Beppe Baresi + Franco Baresi.jpg
1979-80シーズンのミラノダービーで対戦したバレージ兄弟。(左がジュゼッペ・バレージ、右がフランコ・バレージ。)

1979-80シーズンにエウジェニオ・ベルセッリーニ監督の下、イヴァノ・ボルドンガブリエレ・オリアーリジャンピエロ・マリーニジュゼッペ・バレージエヴァリスト・ベッカロッシアレッサンドロ・アルトベッリ等の活躍で12回目のスクデットを獲得、1981-82シーズンに3回目のコッパ・イタリアを獲得し、黄金時代の再来を期待させたが、それも長くは続かなかった。

また、1979年にジュゼッペ・メアッツァが他界、これに対しミラノ市は1980年3月2日に彼の功績を讃えてスタジアムの正式名称をスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(Stadio Giuseppe Meazza)と定めた。

1980年代後半 -一瞬だけの栄光-

ファイル:Bergomi Inter.jpg
ジュゼッペ・ベルゴミはキャリアのすべてをインテルで過ごし、「Mr.インテル」と呼ばれた。

その後フライッツォーリ会長は1984年に"フィアットの従業員"と揶揄されたエルネスト・ペッレグリーニに会長職を譲る。 そして1986年、ペッレグリーニ会長はユーヴェに黄金時代を築いたジョヴァンニ・トラパットーニ監督を招聘し、インテルの復活を託す。

最初の2年間は結果が出なかったが、1988-89シーズン、勝負弱さをドイツ人ローター・マテウスの"ゲルマン魂"を注入することにより補填し、ファケッティ引退以降不在となっていた左SBを同じドイツ人のアンドレアス・ブレーメで埋め、生え抜きのワルター・ゼンガジュゼッペ・ベルゴミリッカールド・フェッリ、若手のニコラ・ベルティ、アルゼンチン人のラモン・ディアス、得点王に輝いたアルド・セレーナなどを擁し、スクデットを獲得した。 この時のスクデットは勝ち点が勝ち=2の制度の下では最高記録となる58(34試合26勝6分2敗。現在のシステムでは84)、アウェー最多勝ち点26(17試合11勝4分2敗。現在のシステムでは37)、アウェー最多勝利など数々の当時のリーグ記録を塗りかえるものだった。

翌シーズンドイツ人のユルゲン・クリンスマンを迎え、ドイツトリオを中心としたインテルはスーペルコッパ・イタリアーナを制し、今度こそ黄金時代の再来かと思わせたが、それも一瞬の栄光に過ぎなかった。

1990年代-2000年代前半 -苦悩のネラッズーロ-

1990-91

その後ドイツトリオとトラパットーニ監督は1990-91シーズンにローマを破り、インテルにUEFAカップのタイトルをもたらした。しかし、トラパットーニ監督はシーズン終了後、ファンの「つまらないサッカー」という声の下に解任され、インテルの迷走が始まる。

1992-93

1992-93シーズン、監督にエラス・ヴェローナに唯一のタイトルをもたらしたオズヴァルド・バニョーリを招聘し、"ゴールの詩人"ことルベン・ソサの活躍で2位になったインテルは、翌シーズン、ACミランがオランダ人を獲得して成功したのを見てデニス・ベルカンプヴィム・ヨンクを獲得しスクデットを狙ったが、期待されたベルカンプが全くもって活躍せず結果は13位という史上最低の成績、彼らも途中就任で選手時代にここでスクデットを獲得しているジャンピエロ・マリーニと共に2回目のUEFAカップのタイトルをもたらしただけだった。

1994-95

1994-95シーズン、ナポリに最初のタイトルを持ってきたオッタビオ・ビアンキを招聘して立て直しを図ったものの、期待されたベルカンプ、パンチェフはシーズンを通して活躍せず、一時はトップとは大きく離れた2桁順位にまで低迷する。1995年2月18日、グランデ・インテルを築きあげたアンジェロ・モラッティの息子マッシモ・モラッティが、累積赤字で経営に行き詰まっていたペッレグリーニからインテルを買い戻し、インテルは再びモラッティ家のものとなった。これをきっかけにチームは巻き返して最終節で7位になり、UEFAカップ出場権を得ることに成功した。

1997-98
ハビエル・サネッティ。マッシモ・モラッティが最初に獲得した選手だった。

そしてハビエル・サネッティを皮切りに、毎年のように多額の移籍金でスター選手を買い漁り、チームを強化し、何度も監督の首をすげ替えてきたが、これが実を結んだのが1997-98シーズンであった。シーズン開幕前にロナウドを獲得したチームはユヴェントスと首位争いを演じる。しかし、ユヴェントスとのイタリア・ダービーでは、ユヴェントス優位の判定が行われ、後味の悪さを残しながらチームは敗れた。これが響いてリーグ優勝を逃し、3回目のUEFAカップを獲得することしかできなかった。

1998-99

クラブは序盤で躓く。シーズン途中で監督のルイジ・シモーニが解任されるのをきっかけに、チームの規律が乱れ、更に、ロナウドの大怪我という不運もありチームは低迷した。この混乱と低迷は、2004-05シーズンにロベルト・マンチーニが監督に就任するまで続くこととなる。

1999-00

マルチェロ・リッピを監督に招聘し、クリスティアン・ヴィエリアンジェロ・ペルッツィヴラディミル・ユーゴヴィッチといったリッピの教え子を次々に獲得する一方で、ジャンルカ・パリュウカジュゼッペ・ベルゴミといったこれまでインテルの屋台骨を支えてきた両選手に戦力外通告した。これら一連のインテルのユヴェントス化は、選手とリッピとの溝を深め、インテリスタには不評であった。最終的にUEFAチャンピオンズリーグ予備予選出場を賭けたパルマとのプレーオフでは、ロベルト・バッジョの活躍のおかげでリッピの首の皮が繋がったという有り様であった。

2001-02

21世紀に入り、2001-02シーズンにバレンシアCFを2年連続UEFAチャンピオンズリーグ決勝に導いたアルゼンチン人監督のエクトル・ラウル・クーペルを招聘し、最終節まで首位に立っていたが最後の試合に敗れ、またしてもスクデットを逃した。翌シーズンもスクデットを獲得できず、成績不振によりクーペルは解任される。

2000年代後半 -久しぶりの歓喜〜新たな黄金時代-

2004-05

ロベルト・マンチーニが監督に就任し、2004年夏の移籍市場ではエステバン・カンビアッソらを獲得。しかし、コッパ・イタリアでは優勝を果たしたものの、セリエAでは3位に終わる。

2005-06

2005年夏の移籍市場ではルイス・フィーゴワルテル・サムエルジュリオ・セーザルらを獲得し、2005-06シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナ制覇、コッパ・イタリア2連覇を果たす。セリエAは当初は3位で終えたものの、シーズン後に発覚したカルチョ・スキャンダルにより、1位のユヴェントスFCが優勝の剥奪、2位のACミランも30ポイントの減点となり、最終的には3位のインテルが17季ぶりのセリエA優勝に認定された。

2006-07

2006年夏の移籍市場ではズラタン・イブラヒモビッチパトリック・ヴィエラらを獲得し、2006-07シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとセリエAにて優勝を果たした。

2007-08

2007-08シーズンはセリエA3連覇を達成するも、シーズン終了後にマンチーニは解任された。

2008-09
ドリブルをするサミュエル・エトオ
インテルを史上初の3冠に導いたジョゼ・モウリーニョ
2009-10CL決勝で2得点を挙げたディエゴ・ミリート

2008年6月、ジョゼ・モウリーニョが監督に就任[9]。2008-09シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナ制覇とセリエA4連覇を達成。2009年夏の移籍市場ではイブラヒモビッチとのトレードでサミュエル・エトオを獲得したほか、ディエゴ・ミリートティアゴ・モッタルシオヴェスレイ・スナイデルらを獲得。2010年冬の移籍市場ではゴラン・パンデフマクドナルド・マリガを獲得した。

2009-10

セリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグを全て制覇し、かつてユヴェントスFCとトリノFCが達成して以来史上3度目となるセリエA5連覇、また、イタリア史上初の主要タイトル3冠を達成した[10]。なお、UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦終了後にモウリーニョは辞任を表明し、シーズン終了後の2010年5月28日に監督を退任した。

2010年代前半 -サイクルの終わり〜新オーナー就任-

2010-11

2010年6月9日、前リヴァプールFC監督のラファエル・ベニテスが監督に就任。シーズン開幕前にスーペルコッパ・イタリアーナを制覇し、12月のFIFAクラブワールドカップ2010ではTPマゼンベを破って初の同大会優勝を成し遂げた。しかし、同年12月24日にベニテスはリーグ戦での成績不振を理由に解任され[11]、前ACミラン監督のレオナルドが監督に就任[12]。2011年冬の移籍市場ではジャンパオロ・パッツィーニ長友佑都[13][14]アンドレア・ラノッキアらを獲得。コッパ・イタリアで2連覇を達成した[15]ものの、シーズン終了後にレオナルドは監督を辞した。

2011-12

2011-12シーズンはジャン・ピエロ・ガスペリーニ監督の下でスタートし、夏の移籍市場ではディエゴ・フォルランらを獲得する一方でサミュエル・エトオらを放出した。しかし、開幕直後から不振が続いたことでガスペリーニは早々に解任され、後任にクラウディオ・ラニエリが迎えられた。一時は7連勝を挙げるなど好転の兆しをみせるも、1月末から9戦勝ちなしなど再び不振に陥ると、3月26日にラニエリが解任。シーズン3人目の監督としてインテル・プリマヴェーラの監督を務めていたアンドレア・ストラマッチョーニが昇格した。

2012-13

2012-13シーズンは夏の移籍市場で大きくチーム改革を行い、優勝時の主力だったジュリオ・セーザルマイコンルシオジャンパオロ・パッツィーニなどを放出し、サミール・ハンダノヴィッチアルバロ・ペレイラロドリゴ・パラシオらを新たに獲得した。シーズン序盤こそユヴェントスの無敗記録を49で止めるなど順調だったが、主将のサネッティら負傷者が続出して以降は低迷。UEFAヨーロッパリーグ出場権すら逃す9位に終わり、ストラマッチョーニ監督は解任された。

2013-14

2013年5月24日、新監督として元SSCナポリ監督のワルテル・マッツァーリが就任。同年11月15日、クラブの株式の70%を取得し、筆頭株主となったインドネシアの実業家のエリック・トヒルが会長に就任した。前会長のマッシモ・モラッティは名誉会長に就任。

2013-14シーズンは5位に終わり、ヨーロッパリーグ出場権を獲得。2014年5月、キャプテンでありクラブの象徴であったハビエル・サネッティが2013-14シーズン限りでの引退を発表。7月、サネッティの副会長就任が発表された。背番号「4」は業績を讃えて永久欠番となる事が決定。また、エステバン・カンビアッソワルテル・サムエルディエゴ・ミリートクリスティアン・キヴといった2009-10シーズンの三冠に貢献したメンバーも退団が決定。

2014-15

2014-15シーズンは夏の移籍市場でネマニャ・ヴィディッチガリー・メデルヤン・エムヴィラパブロ・オスヴァルドらを獲得するも、リーグ第11節終了時点で4勝と序盤から低迷。マッツァーリは11月14日に解任された。後任は2007-08シーズン以来の就任となるロベルト・マンチーニ

冬の移籍市場ではオスヴァルド、エムヴィラ、イブラヒマ・エムバイェレネ・クルヒンら夏に獲得した選手を半年で放出。ニューカッスル・ユナイテッドFCからダビデ・サントンを復帰させ、マルセロ・ブロゾヴィッチジェルダン・シャチリルーカス・ポドルスキらを獲得。コッパ・イタリアは準々決勝で敗退。UEFAヨーロッパリーグは決勝トーナメント2回戦で敗退。リーグは8位に終わり、来季のEL出場も逃したが、マウロ・イカルディがリーグ得点王に輝いた。

タイトル

国内タイトル

  • セリエA:18回
    • 1909-10, 1919-20, 1929-30, 1937-38, 1939-40, 1952-53, 1953-54, 1962-63, 1964-65, 1965-66, 1970-71, 1979-80, 1988-89, 2005-06(繰り上げ), 2006-07, 2007-08, 2008-09, 2009-10

国際タイトル

UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10 決勝での巨大なインテルのロゴ‐マドリッドエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにて

過去の成績

※()は優勝回数

シーズン カテゴリ 順位 勝点 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点 コッパ・イタリア UEFACL註1 UEFAカップ CWC註2  監督
2014-15 セリエA 8位 55 38 14 13 11 59 48 ベスト8 ベスト16 ワルテル・マッツァーリ
ロベルト・マンチーニ
2013-14 セリエA 5位 60 38 15 15 8 62 39 ベスト16 ワルテル・マッツァーリ
2012-13 セリエA 9位 54 38 16 6 16 55 57 ベスト4 ベスト16 アンドレア・ストラマッチョーニ
2011-12 セリエA 6位 58 38 17 7 14 58 55 ベスト8 ベスト16 ジャン・ピエロ・ガスペリーニ
クラウディオ・ラニエリ
アンドレア・ストラマッチョーニ
2010-11 セリエA 2位 76 38 23 7 8 69 42 優勝(7) ベスト8 優勝(3) ラファエル・ベニテス
レオナルド
2009-10 セリエA 優勝(18) 82 38 24 10 4 75 34 優勝(6) 優勝(3) ジョゼ・モウリーニョ
2008-09 セリエA 優勝(17) 84 38 25 9 4 70 35 ベスト4 ベスト16 ジョゼ・モウリーニョ
2007-08 セリエA 優勝(16) 85 38 25 10 3 69 26 準優勝 ベスト16 ロベルト・マンチーニ
2006-07 セリエA 優勝(15) 97 38 30 7 1 80 34 準優勝 ベスト16 ロベルト・マンチーニ
2005-06 セリエA 優勝(14)註3 76 38 23 7 8 68 30 優勝(5) ベスト8 ロベルト・マンチーニ
2004-05 セリエA 3位 72 38 18 18 2 65 37 優勝(4) ベスト8 ロベルト・マンチーニ
2003-04 セリエA 4位 59 34 17 8 9 59 37 ベスト8 グループリーグ ベスト8 エクトル・ラウル・クーペル
コッラード・ヴェルデッリ
アルベルト・ザッケローニ
2002-03 セリエA 2位 65 34 19 8 7 64 38 3回戦 ベスト4 エクトル・ラウル・クーペル
2001-02 セリエA 3位 69 34 20 9 5 62 35 3回戦 ベスト4 エクトル・ラウル・クーペル
2000-01 セリエA 5位 51 34 14 9 11 47 47 ベスト8 予選3回戦 4回戦 マルチェロ・リッピ
マルコ・タルデッリ
1999-00 セリエA 4位 58 34 17 7 10 58 36 準優勝 マルチェロ・リッピ
1998-99 セリエA 8位 46 34 13 7 14 59 54 ベスト4 ベスト8 ルイジ・シモーニ
ミルチェア・ルチェスク
→ルシアーノ・カステリーニ
→ロイ・ホジソン
1997-98 セリエA 2位 69 34 21 6 7 62 27 ベスト8 優勝(3) ルイジ・シモーニ
1996-97 セリエA 3位 59 34 15 14 5 51 35 ベスト4 準優勝 ロイ・ホジソン
ルシアーノ・カステリーニ
1995-96 セリエA 7位 54 34 15 9 10 51 30 ベスト4 1回戦 オッタビオ・ビアンキ
→ルイス・スアレス
ロイ・ホジソン
1994-95 セリエA 6位 52 34 14 10 10 39 34 ベスト8 1回戦 オッタビオ・ビアンキ
1993-94 セリエA 13位 31 34 11 9 14 46 45 ベスト8 優勝(2) オズワルド・バニョーリ
ジャンピエロ・マリーニ
1992-93 セリエA 2位 46 34 17 12 5 59 36 ベスト8 オズワルド・バニョーリ
1991-92 セリエA 8位 37 34 10 17 7 28 28 ベスト8 1回戦 コッラード・オッリーコ
→ルイス・スアレス
1990-91 セリエA 2位 46 34 18 10 6 56 31 3回戦 優勝(1) ジョバンニ・トラパットーニ
1989-90 セリエA 3位 44 34 17 10 7 55 32 グループリーグ 1回戦 ジョバンニ・トラパットーニ
1988-89 セリエA 優勝(13) 58 34 26 6 2 67 19 2次リーグ 3回戦 ジョバンニ・トラパットーニ
1987-88 セリエA 5位 32 30 11 10 9 42 35 ベスト4 3回戦 ジョバンニ・トラパットーニ
1986-87 セリエA 3位 38 30 15 8 7 32 17 ベスト8 ベスト8 ジョバンニ・トラパットーニ
1985-86 セリエA 6位 32 30 12 8 10 36 33 ベスト8 ベスト4 イラリオ・カスタニエル
マリオ・コルソ
1984-85 セリエA 3位 38 30 13 12 5 42 28 ベスト4 ベスト4 イラリオ・カスタニエル
1983-84 セリエA 4位 35 30 12 11 7 37 23 グループリーグ 3回戦 ルイジ・ラディス
1982-83 セリエA 3位 38 30 12 14 4 40 23 ベスト4 Rino Marchesi
1981-82 セリエA 5位 35 30 11 13 6 39 34 優勝(3) 2回戦 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1980-81 セリエA 4位 36 30 14 8 8 41 24 グループリーグ ベスト4  エウジェニオ・ベルセッリーニ
1979-80 セリエA 優勝(12) 41 30 14 13 3 44 25 ベスト8 2回戦 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1978-79 セリエA 4位 36 30 10 16 4 38 24 ベスト8 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1977-78 セリエA 5位 36 30 13 10 7 35 24 優勝(2) 1回戦 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1976-77 セリエA 4位 33 30 10 13 7 34 27 準優勝 1回戦 Giuseppe Chiappella
1975-76 セリエA 4位 37 30 14 9 7 36 28 2次リーグ Giuseppe Chiappella
1974-75 セリエA 9位 30 30 10 10 10 26 26 2次リーグ 2回戦 ルイス・スアレス
1973-74 セリエA 4位 35 30 12 11 7 47 33 2次リーグ 1回戦 エレニオ・エレーラ
→エネア・マシエロ
1972-73 セリエA 4位 37 30 15 7 8 32 23 2次リーグ 3回戦 ジャンニ・インヴェルニッツィ
エネア・マシエロ
1971-72 セリエA 5位 36 30 13 10 7 49 28 ベスト4 準優勝 ジャンニ・インヴェルニッツィ
1970-71 セリエA 優勝(11) 46 30 19 8 3 50 26 1次リーグ エリベルト・エレーラ
ジャンニ・インヴェルニッツィ
シーズン カテゴリ 順位 勝点 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点 コッパ・イタリア UEFACL註1 UEFAカップ CWC註2  監督
1969-70 セリエA 2位 41 30 16 9 5 41 19 ベスト8 エリベルト・エレーラ
1968-69 セリエA 4位 36 30 14 8 8 55 26 1次リーグ アルフレード・フォーニ
1967-68 セリエA 5位 33 30 13 7 10 46 34 3位 エレニオ・エレーラ
1966-67 セリエA 2位 48 34 19 10 5 59 22 ベスト4 準優勝 エレニオ・エレーラ
1965-66 セリエA 優勝(10) 50 34 20 10 4 70 28 ベスト4 ベスト4 優勝(2) エレニオ・エレーラ
1964-65 セリエA 優勝(9) 54 34 22 10 2 68 29 準優勝 優勝(2) 優勝(1) エレニオ・エレーラ
1963-64 セリエA 2位 54 34 23 8 3 54 21 ベスト8 優勝(1) エレニオ・エレーラ
1962-63 セリエA 優勝(8) 49 34 19 11 4 56 20 ベスト16 エレニオ・エレーラ
1961-62 セリエA 2位 48 34 19 10 5 59 31 ベスト16 エレニオ・エレーラ
1960-61 セリエA 3位 44 34 18 8 8 73 39 ベスト8 エレニオ・エレーラ
1959-60 セリエA 4位 40 34 14 12 8 55 43 ベスト8
1958-59 セリエA 3位 46 34 20 6 8 77 41 準優勝
1957-58 セリエA 9位 32 34 10 12 12 36 36 1次リーグ
1956-57 セリエA 5位 35 34 11 13 10 53 46
1955-56 セリエA 3位 39 34 16 7 11 57 36
1954-55 セリエA 8位 36 34 13 10 11 55 49 アルフレード・フォーニ
1953-54 セリエA 優勝(7) 51 34 20 11 3 67 32 アルフレード・フォーニ
1952-53 セリエA 優勝(6) 47 34 19 9 6 55 24 アルフレード・フォーニ
1951-52 セリエA 3位 49 38 21 7 10 86 49
1950-51 セリエA 2位 59 38 27 5 6 107 43
1949-50 セリエA 3位 49 38 21 7 10 99 60
1948-49 セリエA 2位 55 38 22 11 5 85 39
1947-48 セリエA 12位 37 40 16 5 19 67 60 ジュゼッペ・メアッツァ
→カルロ・カルカノ
1946-47 セリエA 10位 36 38 13 10 15 59 54 カルロ・カルカノ
Nino Nutrizio
ジュゼッペ・メアッツァ
1942-43 セリエA 4位 34 30 15 4 11 53 38 ベスト16
1941-42 セリエA 12位 26 30 7 12 11 31 47 ベスト16
1940-41 セリエA 2位 35 30 14 7 9 52 42 ベスト16
1939-40 セリエA 優勝(5) 44 30 20 4 6 56 23 ベスト32
1938-39 セリエA 3位 37 30 14 9 7 55 37 優勝(1)
1937-38 セリエA 優勝(4) 41 30 16 9 5 57 28 ベスト4
1936-37 セリエA 7位 31 30 9 13 8 43 35 ベスト4
1935-36 セリエA 4位 36 30 14 8 8 61 34 ベスト16
1934-35 セリエA 2位 42 30 15 12 3 45 22
1933-34 セリエA 2位 49 34 20 9 5 66 24 アルパド・ワイズ
1932-33 セリエA 2位 46 34 19 8 7 80 53 アルパド・ワイズ
1931-32 セリエA 6位 38 34 15 8 11 67 52 イシュトヴァーン・トート
1930-31 セリエA 5位 38 34 15 8 11 60 45 アルパド・ワイズ
1929-30 セリエA 優勝(3) 50 34 22 6 6 85 38 アルパド・ワイズ

註1旧UEFAチャンピオンズカップを含む
註2旧インターコンチネンタルカップを含む
註3最終順位は3位だが、上位2クラブの不正による勝ち点剥奪により繰り上げ優勝

ダービーマッチ

ミラノダービー

クラブ 試合 得点 失点 +/-
セリエA
インテル 180 67 53 60 262 242 +20
ACミラン 180 60 53 66 242 262 -20
コッパ・イタリア
ACミラン 23 9 7 7 32 22 +10
インテル 23 7 7 9 22 32 -10
UEFAチャンピオンズリーグ
ACミラン 4 2 2 0 4 1 +3
インテル 4 0 2 2 1 4 -3
合計
インテル 207 74 62 71 285 278 +7
ACミラン 207 71 62 74 278 285 -7
その他の試合
ACミラン 73 39 11 24 161 129 +32
インテル 73 24 11 39 129 161 -32
合計
ACミラン 280 110 73 97 439 414 +25
インテル 280 98 73 110 414 439 -25

※2012-13シーズン終了時点での対戦成績

イタリアダービー

クラブ 試合 得点 失点 +/-
セリエA
ユヴェントス 186 84 45 56 267 233 +34
インテル 186 56 46 84 233 267 -34
コッパ・イタリア
ユヴェントス 29 12 7 10 44 36 +8
インテル 29 10 7 12 36 44 -8
スーペルコッパ・イタリアーナ
インテル 1 1 0 0 1 0 +1
ユヴェントス 1 0 0 1 0 1 -1
合計
ユヴェントス 216 96 53 67 311 270 +41
インテル 216 67 53 96 270 311 -41

※2012-13シーズン終了時点での対戦成績

現所属メンバー

2015-16シーズン 基本フォーメーション


2016年1月28日現在

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK スロベニア サミール・ハンダノヴィッチ
5 DF ブラジル フアン・ジェズス
7 MF フランス ジョフレイ・コンドグビア
8 FW アルゼンチン ロドリゴ・パラシオ ()
9 FW アルゼンチン マウロ・イカルディ ()()
10 FW モンテネグロ ステヴァン・ヨヴェティッチ
11 FW フランス ジョナタン・ビアビアニー
12 DF ブラジル アレックス・テレス ()
17 MF チリ ガリー・メデル
21 DF イタリア ダビデ・サントン
22 FW セルビア アデム・リャイッチ ()★
23 FW イタリア エデル ()
No. Pos. 選手名
24 DF コロンビア ジェイソン・ムリージョ ()
25 DF ブラジル ジョアン・ミランダ
27 MF コートジボワール アサヌ・ドゥモヤ・ニュクリ
30 GK アルゼンチン フアン・パブロ・カリーソ
33 DF イタリア ダニーロ・ダンブロージオ
44 MF クロアチア イヴァン・ペリシッチ
46 GK イタリア トンマーゾ・ベルニ
55 DF 日本 長友佑都
77 MF クロアチア マルセロ・ブロゾヴィッチ
83 MF ブラジル フェリペ・メロ ()
97 FW アルバニア レイ・マナイ

※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

※3番はジャチント・ファッケッティ 永久欠番

※4番はハビエル・サネッティ 永久欠番

ローン移籍

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
6 DF ブラジル ドド (ローマ)
10 FW モンテネグロ ステヴァン・ヨヴェティッチ (マンチェスター・シティ)
12 DF ブラジル アレックス・テレス (ガラタサライ)
22 FW セルビア アデム・リャイッチ (ローマ)
No. Pos. 選手名
23 FW イタリア エデル (サンプドリア)
25 DF ブラジル ジョアン・ミランダ (アトレティコ・マドリード)
77 MF クロアチア マルセロ・ブロゾヴィッチ (ディナモ・ザグレブ)
97 FW アルバニア レイ・マナイ (クレモネーゼ)
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
23 DF イタリア アンドレア・ラノッキア (サンプドリア)
93 DF イタリア フェデリコ・ディマルコ (アスコリ)
-- GK イタリア フランチェスコ・バルディ (フロジノーネ)
-- DF イタリア マルコ・アンドレオッリ (セビージャ)
-- DF イタリア レオナルド・ロンゴ (マントヴァ)
-- DF イタリア クリスティアーノ・ビラーギ (グラナダ)
-- DF イタリア アンドレア・バンディーニ (ズュートティロール)
-- DF イタリア シモーネ・パーサ (ポルデノーネ)
-- DF イタリア ファビオ・エグエルフィ (クレモネーゼ)
-- DF ガーナ アイザック・ドンカー (バーリ)
-- DF ブラジル ドド (サンプドリア)
No. Pos. 選手名
-- MF イタリア ロレンツォ・クリセティグ (ボローニャ)
-- MF イタリア ニコロ・ベッローニ (テルナーナ)
-- MF イタリア ダニエル・ベッサ (コモ)
-- MF 赤道ギニア ヴァレリアノ・ヌチャマ (モンテベッルーナ)
-- MF イタリア アンドレア・ロマノ (レナーテ)
-- MF アルジェリア サフィル・タイデル (ボローニャ)
-- FW 中央アフリカ共和国 エバンス・コンドグビア (レナーテ)
-- FW イタリア サムエレ・ロンゴ (フロジノーネ)
-- FW イタリア フランチェスコ・フォルテ (クレモネーゼ)
-- FW イタリア ヴィンチェンツォ・トンマソネ (ラメーツィア)
-- FW ルーマニア ゲオルゲ・プスカシュ (バーリ)

歴代監督

2013年5月から2014年11月まで指揮を執っていたワルテル・マッツァーリ監督
2014年11月から指揮を執るロベルト・マンチーニ監督
氏名 国籍 期間
Virgilio Fossati イタリアの旗 イタリア 1909-1915
Nino Resegotti イタリアの旗 イタリア 1920-1922
ボブ・スポティッシュウッド イングランドの旗 イングランド 1922-1924
パオロ・スキエドレ イタリアの旗 イタリア 1924-1926
ヴェイス・アールパード  ハンガリー 1926-1928
ヴィオラ・ヨージェフ  ハンガリー 1928-1929
ヴェイス・アールパード  ハンガリー 1929-1931
トート・イシュトヴァーン  ハンガリー 1931-1932
ヴェイス・アールパード  ハンガリー 1932-1934
フェルドマン・ジュラ  ハンガリー 1934-1936
アルビノ・カッラーロ イタリアの旗 イタリア 1936
アルマンド・カステラッツィ イタリアの旗 イタリア 1936-1938
トニ・カルネッリ  オーストリア 1938-1940
ジュゼッペ・ペルケッティ イタリアの旗 イタリア 1940
イタロ・ザンベレッティ イタリアの旗 イタリア 1941
イヴォ・フィオレンティーニ イタリアの旗 イタリア 1941-1942
ジオヴァンニ・フェッラーリ イタリアの旗 イタリア 1942-1945
カルロ・カルカノ イタリアの旗 イタリア 1945-1946
ニノ・ヌトリツィオ イタリアの旗 イタリア 1946
ジュゼッペ・メアッツァ イタリアの旗 イタリア 1947-1948
カルロ・カルカノ イタリアの旗 イタリア 1948
ダイ・アストリー ウェールズの旗 ウェールズ 1948
ジュリオ・カッペッリ イタリアの旗 イタリア 1949-1950
アルド・オリヴィエリ イタリアの旗 イタリア 1950-1952
アルフレード・フォーニ イタリアの旗 イタリア 1952-1955
アルド・カンパテッリ イタリアの旗 イタリア 1955
ジュゼッペ・メアッツァ イタリアの旗 イタリア 1955-1956
アンニベレ・フロッシ イタリアの旗 イタリア 1956
ルイジ・フェッレーロ イタリアの旗 イタリア 1957
ジュゼッペ・メアッツァ イタリアの旗 イタリア 1957
ジェシー・カーヴァー イングランドの旗 イングランド 1957-1958
ジュゼッペ・ビゴーノ イタリアの旗 イタリア 1958
アルド・カンパテッリ イタリアの旗 イタリア 1959-1960
カミッロ・アッキーリ イタリアの旗 イタリア 1960
ジュリオ・カッペッリ イタリアの旗 イタリア 1960
エレニオ・エレーラ アルゼンチンの旗 アルゼンチン 1960-1968
アルフレード・フォーニ イタリアの旗 イタリア 1968-1969
エリベルト・エレーラ パラグアイの旗 パラグアイ 1969-1971
ジオヴァンニ・インヴェルニッツィ イタリアの旗 イタリア 1971-1973
エネア・マシエロ イタリアの旗 イタリア 1973
エレニオ・エレーラ アルゼンチンの旗 アルゼンチン 1973
エネア・マシエロ イタリアの旗 イタリア 1974
ルイス・スアレス スペインの旗 スペイン 1974-1975
ジュゼッペ・キアッペーラ イタリアの旗 イタリア 1976-1977
エウジェニオ・ベルセッリーニ イタリアの旗 イタリア 1977-1982
リノ・マルケージ イタリアの旗 イタリア 1982-1983
ルイジ・ラディチェ イタリアの旗 イタリア 1983-1984
イラーリオ・カスタネル イタリアの旗 イタリア 1984-1986
マリオ・コルソ イタリアの旗 イタリア 1986
ジョバンニ・トラパットーニ イタリアの旗 イタリア 1986-1991
コッラード・オッリーコ イタリアの旗 イタリア 1991
ルイス・スアレス スペインの旗 スペイン 1992
オズワルド・バニョーリ イタリアの旗 イタリア 1992-1994
ジャンピエロ・マリーニ イタリアの旗 イタリア 1994
オッタビオ・ビアンキ イタリアの旗 イタリア 1994-1995
ルイス・スアレス スペインの旗 スペイン 1995
ロイ・ホジソン イングランドの旗 イングランド 1995-1997
ルシアーノ・カステリーニ イタリアの旗 イタリア 1997
ルイジ・シモーニ イタリアの旗 イタリア 1997-1998
ミルチェア・ルチェスク  ルーマニア 1998-1999
ルシアーノ・カステリーニ イタリアの旗 イタリア 1999
ロイ・ホジソン イングランドの旗 イングランド 1999
マルチェロ・リッピ イタリアの旗 イタリア 1999-2000
マルコ・タルデッリ イタリアの旗 イタリア 2000-2001
エクトル・ラウル・クーペル アルゼンチンの旗 アルゼンチン 2001-2004
アルベルト・ザッケローニ イタリアの旗 イタリア 2004
ロベルト・マンチーニ イタリアの旗 イタリア 2004-2008
ジョゼ・モウリーニョ ポルトガルの旗 ポルトガル 2008-2010
ラファエル・ベニテス スペインの旗 スペイン 2010
レオナルド ブラジルの旗 ブラジル 2011.1-2011.6
ジャン・ピエロ・ガスペリーニ イタリアの旗 イタリア 2011.7-2011.9
クラウディオ・ラニエリ イタリアの旗 イタリア 2011.9-2012.3
アンドレア・ストラマッチョーニ イタリアの旗 イタリア 2012.3-2013
ワルテル・マッツァーリ イタリアの旗 イタリア 2013.5-2014.11
ロベルト・マンチーニ イタリアの旗 イタリア 2014.11-

歴代所属選手

脚注

  1. ^ ユヴェントスが2005-2006シーズン後に不祥事によりセリエBに降格したため。
  2. ^ 複数形はネラッズーリ(nerazzurri)
  3. ^ Italy – List of Champions”. RSSSF. 2014年1月31日閲覧。
  4. ^ Inter join exclusive treble club”. uefa.com. 2012年8月9日閲覧。
  5. ^ . http://www.demos.it/2012/pdf/2397capsoc35_tifocalcio.pdf 
  6. ^ . http://www.scribd.com/doc/40164831/20100909-SPORT-MARKT-Football-Top-20-2010-Abstract-Press 
  7. ^ イタリアダービーは「一度も降格経験がない2チームだから」というのは俗説で本当は、インテルが1965-1966シーズンに10回目のスクデットを獲得してラ・ステッラを付けられる2番目のチームになったときにイタリアの有名なジャーナリストのジャンニ・ブレラが「この常に優勝争いをしている2チームの対戦がイタリアのナショナルダービー」と言ったことから名付けられた。この当時はACミランとボローニャFCも降格経験がなく、ACミランは1979-1980シーズン、ボローニャFCは1981-1982シーズンに初の降格を経験している。
  8. ^ Deloitte Football Money League 2014(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
  9. ^ José Mourinho joins Inter
  10. ^ インテル45季ぶりV!イタリア勢初3冠
  11. ^ インテルがベニテス解任を発表
  12. ^ インテルの新監督はレオナルドに決定
  13. ^ 長友佑都が世界王者インテルに移籍決定
  14. ^ インテル・長友「誇らしく思う」
  15. ^ 長友のインテルが優勝 サッカーのイタリア杯

関連項目

外部リンク

公式