いずみたく

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いずみ たく
出生名 今泉隆雄
生誕 (1930-01-20) 1930年1月20日
出身地 日本の旗 日本東京市下谷区
(現・東京都台東区
死没 (1992-05-11) 1992年5月11日(62歳没)
学歴 舞台芸術学院演劇学科
ジャンル 歌謡曲
職業 作曲家
活動期間 1950年代 - 1992年

いずみ たく1930年1月20日 - 1992年5月11日)は、日本作曲家。元参議院議員第二院クラブ)。本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。

概要

東京市下谷区(現・東京都台東区谷中生まれ。

仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。

東京府立第五中学校を経て、1946年昭和21年)、一期生として鎌倉アカデミア演劇科に入学する(同窓生として前田武彦高松英郎らがいた)。1950年昭和25年)に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。1955年昭和30年)には、朝日放送ホームソングコンクール[1]・グランプリを受賞。

歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲にのぼるという。

1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。

1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。いしだあゆみピンキーとキラーズ佐良直美らが所属していた[2]

1965〜69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”をデュークエイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。

1969年昭和44年)には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞 特別賞を受賞。

1972年昭和47年)テイチク・レコード傘下にBLACKレーベルを開設。 1973年「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を提供していたNHK総合テレビの番組「ステージ101」卒業生にグループ・サウンズフィフィ・ザ・フリー等もとメンバーをスカウトなどで集めプロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成、テレビ番組出演や全国各地にて公演を行った。歌手兼ダンサー・チームと演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、但し演奏者クレジットは非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋のソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。

歌はドラマである」のモットーに基づき、「見上げてごらん夜の星を」「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」「歌麿」「船長」「死神」「聖スブやん」(エロ事師たちの舞台化)、など多数のミュージカルを手がけた。ミュージカルの制作と共に、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎ、日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。その俳優養成がもととなり、ミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現・ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)を旗揚げ。客席数100席の劇場・アトリエフォンテーヌを作り、そこを拠点に数々の実験的な公演を行った。

1986年昭和61年)、第二院クラブから参議院比例区に出馬するも落選。1989年平成元年)、青島幸男辞職による繰り上げ当選となった。第二院クラブから出馬した理由は、一部に日本共産党支持者として有名であったものの同党がタレント議員に否定的だったためとされているが、同党への支持は変わりなかった。なお、友人である青島幸男に強く請われたためだとする説も有力である。議員としての活動では、「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」として、文教関係予算の増額のために尽力したが、1992年平成4年)5月11日肝不全のため任期半ばで死去。62歳没。

晩年は以前からミュージカルをプロデュースしていた「アンパンマン」のアニメ化作品「それいけ!アンパンマン」の音楽を担当しており、「すすめ!アンパンマン号」(ミュージカル『アンパンマンと勇気の花』挿入歌)が遺作となった。作詞を担当したやなせたかしによると、いずみの病状が悪化した為、他の作曲家に依頼するプランもあったものの、いずみが引き受け病床で妻に口述筆記させて完成させた[3]。編曲を担当した弟子の近藤浩章によるといずみが亡くなったのは編曲作業が終了し録音に入る直後だったという[4]

孫はシンガーソングライターラブリーサマーちゃん[5]

作曲・編曲した作品

童謡

ミュージカル

CMソング


北海道エリア
東北エリア
近畿エリア
中国・四国エリア

テレビ・ラジオ

団体歌

その他

音楽担当作品

自作自演アルバム

  • 『このままでいいのだろうか』(1971年、ガーリック・レーベル)

音楽作品アルバム類

  • 「いずみたく作品集」, 音楽CD(2枚組), EMIミュージック・ジャパン、(1999年9月8日).

著書

  • 『ドレミファ交友録』(1970年、朝日新聞社)
  • 『真夜中のコーヒーブレイク』(1974年、講談社)
  • 『体験的音楽論』(1976年、大月書店 国民文庫)
  • 『見上げてごらん夜の星を―わが歌のアルバム』(1977年、新日本出版社)
  • 『新ドレミファ交友録―ミュージカルこそわが人生』(1992年、サイマル出版会)

連載

「夜明けのスキャット」盗作説

1970年日本テレビ系『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』にて、大橋巨泉は、いずみたくのヒット曲「夜明けのスキャット」と「いいじゃないの幸せならば」をピアニスト中島一郎に弾かせた上、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」とサンバの名曲「クマーナ」を弾かせ、「これは明らかに盗作である」と言った[10]。対象が1969年レコード大賞受賞曲だったため、巨泉のこの指摘は大きな話題を呼んだ[10]

1970年3月28日付の新聞で、作曲家の塚原晢夫は「もし盗作でないというなら、訴えたまえ、いずみ君。それが出来ないならレコード大賞は辞退すべきだ」と呼びかけたが、いずみたくは何も反応しなかった[10]。巨泉は2004年の自伝の中で「今やいずみさんもこの世にないが、これもボクは主張を変えていない」と記している[10]

脚注

  1. ^ 「クレハホームソングコンテスト」。 田家秀樹『みんなCM音楽を歌っていた』(2007年、徳間書店)p.27
  2. ^ 矢崎泰久『「話の特集」と仲間たち』(話の特集)P.260
  3. ^ 「詩とメルヘン」1992年8月号より
  4. ^ 近藤のブログより
  5. ^ https://rockinon.com/feat/lovelysummerchan_201611/ 宅録女子・ラブリーサマーちゃん、 メジャーデビュー! その正体とは!?
  6. ^ 劇団四季60年の歴史 | 劇団四季 - 1970年
  7. ^ 【いよてつそごうの歌(歌詞あり版)】 - Youtube
  8. ^ 【ことでん公式 KOTODEN SOUND 緑と海の国】 - Youtube
  9. ^ 逝去後、音楽担当は弟子の近藤浩章に引き継がれたが、いずみが生前に作曲した楽曲も当時の音源又は近藤の手で再アレンジされるなどして引き続き使用されている。
  10. ^ a b c d 大橋巨泉『ゲバゲバ70年!』p.256-257

関連項目

外部リンク