諸行無常
諸行無常(しょぎょうむじょう、巴: sabbe saṅkhārā aniccā、सब्बे संखारा अनिच्चा)は、仏教用語で、この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象(サンカーラ)を指し、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはない(アニッチャ)という意味[1]。
諸法無我と並べられるが、行は因縁によって起こるこの世の現象を指すのに対し、法は涅槃すらも含むあらゆる事象を指している[1]。
宋代の仏教書『景徳伝灯録』によれば、釈迦牟尼仏がクシナガラで入滅した際、沙羅双樹の木の下で説いた言葉と伝えられる[3][より良い情報源が必要]。
仏典の記載
[編集]「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と
明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino,
Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽
解説
[編集]仏教の根本思想をなすもので、あらゆるものは刹那(一瞬=きわめて短い時間)の間にも変化をくり返している(有為法)。仏法の三法印の一つで、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つからなる[2]。涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」とあり、これを諸行無常偈、無常喝と呼ぶ[6]。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり[6]。これより雪山偈とも言われる[6]。
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。
- 生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観る(邪見;妄想を抱く)から苦が生じるのである(四顛倒)。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
なお『大乗涅槃経』では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。
三法印・四法印は釈迦の悟りの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されている。
日本文化への普及
[編集]しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると一説では言われているという。
いろはにほへどちりぬるを 諸行無常 わがよたれぞつねならむ 是生滅法 うゐのおくやまけふこえて 生滅滅已 あさきゆめみじゑひもせず 寂滅為楽
脚注
[編集]- ^ a b c アルボムッレ・スマナサーラ『無我の見方』サンガ、2012年、Kindle版、位置No.全1930中 869-921 / 45-48%。ISBN 978-4905425069。
- ^ a b 「大智度論」『SAT大正新脩大藏經テキストデータベース』第25巻、東京大学大学院人文社会系研究科、No.1509, 0222a27、2018年 。
- ^ 故事ことわざ辞典
- ^ アルボムッレ・スマナサーラ『無我の見方』サンガ、2012年、Kindle版、位置No.全1930中 1501-1522 / 78-79%。ISBN 978-4905425069。
- ^ 岡本英夫「雪山童子の求道」(PDF)『まなざし』第26号、沖縄聞法通信、2001年4月、1-17頁、2016年1月29日閲覧。
- ^ a b c 『諸行無常偈』 - コトバンク
- ^ 『学大国文』 32巻、大阪教育大学国語教育講座・日本・アジア言語文化コース、1989年2月、65頁。doi:10.11501/6023483。
- ^ 箕輪香村、高橋哲也『鉄道職員採用試験問題模範解答集 中等学校卒業程度』文憲堂書店、1935年、28頁。doi:10.11501/1025664。