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2014年2月3日 (月) 04:35時点における版
シアトル・シーホークス Seattle Seahawks | ||||||||||||||||
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所属地区 | ||||||||||||||||
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チームデザイン | ||||||||||||||||
チームロゴ | ||||||||||||||||
シーホークの頭部 | ||||||||||||||||
チームカラー | ||||||||||||||||
ネイビー ブルー ブライトグリーン 白 | ||||||||||||||||
ユニフォーム | ||||||||||||||||
{{{ユニフォーム}}} | ||||||||||||||||
ホームタウン | ||||||||||||||||
ワシントン州シアトル | ||||||||||||||||
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永久欠番 | ||||||||||||||||
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獲得タイトル | ||||||||||||||||
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球団組織 | ||||||||||||||||
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シアトル・シーホークス (Seattle Seahawks) は、ワシントン州シアトルに本拠地を置くNFLチームである。2002年のリーグ再編に際しAFC西地区からNFC西地区に移動した。オーナーはポール・アレン。現時点でAFCチャンピオンシップゲーム、NFCチャンピオンシップゲームに出場した唯一のチーム。第40回スーパーボウルに出場している。
歴史
1980年代まで
1972年6月15日にシアトルにNFLエクスパンションチームを誘致するための組織ができ、2年後の1974年6月4日、28チーム目として設立が決定[1]、同年12月5日、NFLのコミッショナー、ピート・ロゼールによってシアトルがエクスパンションチームのフランチャイズとなったことが発表された。翌1975年3月5日、ジョン・トンプソンがゼネラルマネージャーになった。6月17日に公募されていたチームの愛称(20000人以上から1700を超える名称が寄せられた。)がシーホークスに決まった。トンプソンはミネソタ・バイキングスのアシスタントコーチであったジャック・パテラを初代ヘッドコーチに起用した。1976年3月30日、31日に同じエクスパンションチームであるタンパベイ・バッカニアーズと共に他の26球団にプロテクトされなかった選手を獲得後、ドラフトでは全体2位でDTのスティーブ・ニーハウス[2]を指名した。同じ年オープンしたキングドームで1976年8月1日に行われたサンフランシスコ・フォーティナイナーズとの試合がチーム初の試合となった。
シーホークスはAFCとNFCの間を2度にわたり行き来した唯一のチームである。1976年はNFC西地区に属したが1シーズン終了後、バッカニアーズと入れ替わりAFC西地区に属するようになった。これはNFLの元々のプランであり、こうすることですべての他球団との試合が組まれた。2002年にヒューストン・テキサンズが32チーム目のフランチャイズとして加入したときに、各地区ごとのチーム数を4で統一させる際にNFC西地区に属するようになった。これによってAFC西地区に残った4チーム、デンバー・ブロンコス、カンザスシティ・チーフス、オークランド・レイダーズ、サンディエゴ・チャージャーズはいずれもアメリカン・フットボール・リーグ(AFL)からNFLに加入したチームとなった。これまでにAFC西地区で1988年と1999年、NFC西地区で2004年から2007年まで4年連続地区優勝を果たした。1983年シーズンにAFCチャンピオンシップゲームまで進出、2005年には1984年シーズンから2004年シーズンまで長い間勝てなかったプレーオフで勝ち星をあげてNFCチャンピオンシップゲームにも勝利し第40回スーパーボウルに出場した。
1976年8月26日、シーホークスは翌年のドラフト8巡目指名権と引き換えにスティーブ・ラージェントを獲得した。同年10月17日にタンパベイ・バッカニアーズを破り初勝利をあげ、11月7日のアトランタ・ファルコンズ戦で地元での初勝利をあげた。この年は2勝12敗に終わったがジム・ゾーンとラージェントのプレイは注目されファンは足を運んだ。1977年1月17日にキングドームでプロボウルが行われ63214人の観衆が訪れた。この大会はプロボウル史上初のソールドアウトとなった。1977年のドラフトではダラス・カウボーイズに1巡目指名権を譲り代わりにカウボーイズの1巡目指名権と3つのドラフト2巡目指名権を獲得した。この時カウボーイズに譲られた指名権でトニー・ドーセットが指名された。
1977年シーズン開幕から4連敗した後、地元にバッカニアーズを迎え30-23で勝利をあげると、その2週間後の10月30日のバッファロー・ビルズ戦では負傷して4試合欠場していたゾーンが復帰し4タッチダウンをあげる活躍を見せてチームは56-17で勝利した。2シーズン目の1977年は5勝9敗で終えた。
1978年シーズン9勝7敗と初めて勝ち越しでシーズンを終え、ラージェントはNFL2位の1168ヤードを獲得した。ジャック・パテラはNFLのコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ゾーンもAFCのプレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選出された。またオークランド・レイダーズから1965年以来シーズン2勝をあげた初の対戦相手となった。
1979年10月29日にマンデーナイトフットボールに初出場した。アトランタ・ファルコンズに0-14とリードされたがその後31-28と逆転勝利をおさめたが、翌週のロサンゼルス・ラムズ戦ではNFLワースト記録となるオフェンス獲得ヤードがマイナス7ヤードに終わり0-24で完封負けを喫した。続く6試合で5勝をあげて9勝7敗でシーズンを終えた。
1980年、4勝3敗の後、9連敗で4勝12敗に終わると翌1981年のドラフト1巡目でUCLAのセイフティ、ケニー・イースリーを獲得した。1981年シーズン最初の6試合で5敗したが6勝10敗で終えた。スティーブ・ラージェントはレシーブで1224ヤードを獲得、12月6日のニューヨーク・ジェッツ戦でゾーンが負傷したため先発で初出場したデイブ・クレイグが26本中20本のパスを成功させ27-23で勝利をあげた。
ストライキで短縮された1982年シーズン開幕から2連敗したところでパテラは解任されてマイク・マコーミックが後任に就任した。チームは4勝5敗でシーズンを終えた。
1983年開幕前にチャック・ノックスがヘッドコーチに就任した[1]。6勝6敗でプレーオフ争いをしていたチームは残り4試合で3勝をあげ初のプレーオフ出場を果たした[1]。ワイルドカードプレーオフでルーキーQBのジョン・エルウェイ率いるデンバー・ブロンコスを31-7で破り、マイアミ・オレンジボウルで行われた同じくルーキーQBのダン・マリーノに率いられたマイアミ・ドルフィンズを27-20で破りAFCチャンピオンシップゲームに進出したが、ロサンゼルス・レイダーズに14-30と敗れスーパーボウル進出はならなかった。この年、カート・ワーナーが1449ヤードを走り14タッチダウンをあげてAFCルーキー・オブ・ザ・イヤーにノックスはAFCコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
1984年、クリーブランド・ブラウンズとの開幕戦で33-0と勝利をおさめたがワーナーがシーズン絶望となるひざの負傷をしてしまった。ワーナーを欠いたチームは"グラウンド・チャック"と呼ばれたオフェンスからデイブ・クレイグに率いられた"エア・ノックス"と呼ばれるオフェンスにスタイルを変えた。8連勝を含み12勝4敗でシーズンを終えた。第9週のサンディエゴ・チャージャーズとのマンデーナイトフットボールではスティーブ・ラージェントが3TDをあげた[3]。ディフェンスは相手チームを3回完封しており、第10週のカンザスシティ・チーフス戦ではインターセプトリターンでの4タッチダウンをあげるなど45-0で勝利した。シーズン終盤に連敗し地区優勝は逃したがレイダーズに13-7と勝利し、ディビジョナルプレーオフでドルフィンズに10-31で敗れた。ノックスはこの年もコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
1985年は連勝しては連敗する繰り返しで8勝8敗に終わった。この年クレイグは3602ヤードをパスで獲得した。
1986年は5勝2敗から4連敗したがその後5連勝で10勝6敗でシーズンを終えた。10勝6敗でその年の第21回スーパーボウルに出場を果たしたデンバー・ブロンコス、ニューヨーク・ジャイアンツに勝利したもののプレーオフ進出を逃した。
1987年、サプルメンタルドラフトの全体1位で1985年、1986年と2年連続ディック・バトカス]賞に選ばれたブライアン・ボズワースを獲得した。この年チームは9勝6敗でプレーオフに進出、プレーオフ初戦でヒューストン・オイラーズにオーバータイムの末20-23で敗れた。
1988年チームオーナーのノードストラム家からケン・ベーリングにチームが売却された。11月28日のロサンゼルス・レイダーズとのマンデーナイトフットボールでデイブ・クレイグは、MNF記録となる5TDパスを投げた[4]。9勝7敗でAFC西地区初優勝を果たしたがプレーオフ初戦でシンシナティ・ベンガルズに13-21で敗れた。1989年、ベーリングはオークランド・レイダーズの元ヘッドコーチ、トム・フローレスを球団社長兼ゼネラルマネージャーに起用した。
1990年代から2001年
1990年11月11日のカンザスシティ・チーフス戦で、デイブ・クレイグはデリック・トーマス1人に7サックされたが、試合終了直前、8回目のサック寸前にポール・スカンジへのTDパスを決めて、17-16で勝利した[5]。
1991年シーズン、7勝9敗に終わるとノックスヘッドコーチは辞任してロサンゼルス・ラムズのヘッドコーチに返り咲いた。トム・フローレスがヘッドコーチも行うことになった。1992年には長年先発QBを務めたデイブ・クレイグに代わり3人のQB(ダン・マグワイア、スタン・ゲルボウ、ケリー・ストーファ)が起用されたがチームワーストの2勝14敗に終わり唯一の明るい材料はコーテス・ケネディがディフェンス・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選ばれたことぐらいであった。
1993年のドラフト1巡目全体2番目でノートルダム大学のQB、リック・マイアーを獲得、彼はジェローム・ベティスと共にオフェンシブ・ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。しかしマイアーはその後3シーズン精彩を欠きベンチを暖めることが多くなり1996年にシカゴ・ベアーズに放出された。
1994年、プレシーズンゲーム及びホームでの3試合をキングドームの天井からタイルが落下する事故があったためハスキー・スタジアムでプレイした。チームは6勝10敗に終わりデビッド・ベーリングはフローレスをすべての役職から解任、マイアミ大学のヘッドコーチ、デニス・エリクソンが新ヘッドコーチとなった。
1996年、ケン・ベーリングオーナーはチームをロサンゼルスに移転させアナハイム・スタジアムを本拠地としたい意向を公表した。移転するための理由として地震による危険性などがあげられたが地震学者によってロサンゼルスの方がより危険性が高いことが明かされたり、2005年まではキングドームでプレーする必要があることが弁護士によってわかるとベーリングはチームの売却を決意、新スタジアムの建設がされることを条件にマイクロソフトの共同創業者であるポール・アレンがチームを購入する意向を示した。ワシントン州での住民投票の結果、新スタジアムの建設に同意がなされチームはアレンに売却された。NBAのポートランド・トレイルブレイザーズ、シアトル・スーパーソニックスでゼネラルマネージャーを務めたことのあるボブ・ウィットシットが球団社長になった。チームはチャド・ブラウン、ウォーレン・ムーン、リッキー・ワターズら大物選手を獲得したが1997年、1998年と2年連続8勝8敗の勝率5割に終わり、1998年シーズン終了と共にエリクソンコーチは解任された。この期間のニューヨーク・ジェッツ戦における相手QBのビニー・テスタバーディのPhantom Touchdown"によって31-32でシーホークスが敗れた試合はNFLによって誤審であったことが認められ、これをきっかけとしてNFLは翌シーズンからインスタントリプレイの再導入を行うことを発表した。
1999年、チームはグリーンベイ・パッカーズヘッドコーチとしてスーパーボウルを制したことのあるマイク・ホルムグレンを新ヘッドコーチとして迎えた。この年のマンデーナイトフットボールのパッカーズ戦では24-7と勝利した。8勝2敗と好スタートを切ったが最後の6試合中5試合に敗れキングドームでの最後の試合となったワイルドカードプレーオフでマイアミ・ドルフィンズに17-20と敗れた。この試合はダン・マリーノのキャリア唯一のロードでのプレーオフ勝利であった。2000年、2001年シーズンは新スタジアムが完成するまでの間として1994年に使用したハスキー・スタジアムを本拠地とした。2000年のドラフトでショーン・アレキサンダーを獲得した。チームは6勝10敗に終わった。オフシーズンにホルムグレンはパッカーズの控えQBだったマット・ハッセルベックを獲得し、2001年シーズン先発QBに起用したが5勝7敗となり、前年にボルチモア・レイブンズで第35回スーパーボウル優勝メンバーとなったトレント・ディルファーを先発QBとし、9勝7敗でわずかの差でプレーオフ出場を逃した。
2002年以降
2002年にヒューストン・テキサンズがエクスパンションチームとして加入する際、チームはAFC西地区からNFC西地区に移ることになった。ダラス・カウボーイズはセントルイス・ラムズより西に位置していたがワシントン・レッドスキンズとのライバル争いを考慮してNFC東地区にとどまった。この年のシーズン、ディルファーが第7週に負傷し、その後ハッセルベックが先発した。チームは最後の3試合をすべて勝ったが7勝9敗にとどまった。
2003年シーズンを前にホルムグレンはヘッドコーチに専念することになり、兼任していたゼネラルマネージャー職を放棄する決断をした。ホルムグレンがパッカーズを離れた理由にロン・ウルフGMの影響力があったこともあり、彼にとって厳しい決断であった。チームはホームで8戦全勝し、10勝6敗でプレーオフに出場、ランボー・フィールドで行われたパッカーズ戦ではオーバータイムの末、アル・ハリスのインターセプトタッチダウンで敗れた。
2004年、チームはスポーツ・イラストレイテッドで第39回スーパーボウル出場有力チームとして取り上げられるなど期待された。開幕3連勝で迎えたセントルイス・ラムズ戦で第4Q途中まで27-10とリードしていたがそこから2タッチダウン、1FGで同点とされオーバータイムの末敗れた。残り12試合を6勝6敗とした。シーズン最終戦のアトランタ・ファルコンズ戦に勝利して9勝7敗で地区優勝を果たしたがホルムグレンとRBアレクサンダーの間に不和がおこり、シーズン最終戦アレクサンダーはサイドラインにとどめられニューイングランド・ペイトリオッツのカーティス・マーティンに破れシーズンリーディングラッシャーの地位を得ることができなかった。クエスト・フィールドで行われた初のプレーオフゲームとなったこの年2敗を喫した同地区ライバルのラムズ戦では20-27と敗れた。
2005年、NFCトップの13勝3敗の成績を残しプレーオフのホームアドバンテージを得るとプレーオフではワシントン・レッドスキンズ、カロライナ・パンサーズを破り第40回スーパーボウルまで勝ち上がった。翌2006年2月5日にミシガン州デトロイトで行われたスーパーボウルではピッツバーグ・スティーラーズと対戦しオフェンス獲得ヤードでは396ヤード対339ヤードとリードしたがスティーラーズが3回のビッグプレイをタッチダウンに結びつけ一方シーホークスは敵陣深く攻め込んだものの厳しいペナルティのコール、パスミス、インターセプトなどで効果的に得点をあげられず10-21で敗れた。
2006年、9勝7敗で3年連続の地区優勝を果たした。プレーオフのダラス・カウボーイズ戦では相手QBのトニー・ロモからパスを受けたテリー・グレンをエンドゾーンでつぶしセイフティを奪い、その後ハッセルベックの37ヤードのタッチダウンパスで21-20と逆転勝利をおさめた。ディビジョナルプレーオフではシカゴ・ベアーズと対戦しオーバータイムの末、24-27と敗れた。
2007年、10勝6敗で4年連続の地区優勝を果たした。プレーオフではワシントン・レッドスキンズを35-14で破った後、グリーンベイ・パッカーズに20-42で敗れた。
2008年、怪我により成績の低下したショーン・アレキサンダーを解雇してカウボーイズよりジュリアス・ジョーンズ、デトロイト・ライオンズからT・J・ダケットを獲得したがキッカーのジョシュ・ブラウンをセントルイス・ラムズに奪われた。10シーズン目となったホルムグレンヘッドコーチが勇退しディフェンスバックコーチのジム・L・モーラ(ニューオーリンズ・セインツ、インディアナポリス・コルツのヘッドコーチを務めたジム・E・モーラの息子)がシーズン終了後にヘッドコーチとなることが発表された。
このシーズンは怪我人が続出し、ディオン・ブランチ、ボビー・イングラムは最初の3試合を欠場、ネイト・バールソンは開幕戦でシーズン絶望の怪我を負った。QBのハッセルベックも背中を痛め9試合を欠場した。シーズン後半にチームは6連敗を喫したが最後の3試合中2試合に勝利、ホルムグレンヘッドコーチが指揮するクエスト・フィールドでの最後のホームゲームとなったニューヨーク・ジェッツ戦も13-3と勝利した。最終的にチームは4勝12敗に終わり1992年以来最悪の成績に終わった。
2009年、ジム・L・モーラがヘッドコーチとなったが5勝11敗に終わり、2010年USCヘッドコーチのピート・キャロルが新ヘッドコーチとなった。
2010年シーズンは7勝9敗でラムズと同率首位ながら、地区内対戦成績のアドバンテージによる地区優勝を決めた。「負け越し」で地区優勝はNFL史上初の出来事であった[6]。ワイルドカードプレーオフではマーショーン・リンチの活躍などでニューオーリンズ・セインツを破ったがディビジョナルプレーオフでシカゴ・ベアーズに敗れた。
2011年、マット・ハッセルベックがテネシー・タイタンズに去り、ミネソタ・バイキングスからQBタバリス・ジャクソン、WRシドニー・ライスを獲得した。
2012年、オフシーズンにグリーンベイ・パッカーズの控えQB、マット・フリンを獲得、当初ジャクソンとフリンによる先発QBが期待されていたが、開幕先発QBには、ドラフト3巡で指名されたラッセル・ウィルソンが選ばれた。
シーズンごとの成績
Note: 勝 = 勝, 敗 = 敗, 分 = 引分
シーズン | 勝 | 敗 | 分 | 最終順位 | プレーオフ |
---|---|---|---|---|---|
1976 | 2 | 12 | 0 | NFC西部地区5位 | |
1977 | 5 | 9 | 0 | AFC西部地区4位 | |
1978 | 9 | 7 | 0 | AFC西部地区2位 | |
1979 | 9 | 7 | 0 | AFC西部地区3位 | |
1980 | 4 | 12 | 0 | AFC西部地区5位 | |
1981 | 6 | 10 | 0 | AFC西部地区5位 | |
1982 | 4 | 5 | 0 | AFC10位 | |
1983 | 9 | 7 | 0 | AFC西部地区2位 | ワイルドカードプレーオフ勝利 31-7 デンバー・ブロンコス ディビジョナルプレーオフ勝利 27-20 マイアミ・ドルフィンズ AFCチャンピオンシップゲーム敗北 14-30 |
1984 | 12 | 4 | 0 | AFC西地区2位 | ワイルドカードプレーオフ勝利 13-7 ロサンゼルス・レイダーズ ディビジョナルプレーオフ敗北 10-31 マイアミ・ドルフィンズ |
1985 | 8 | 8 | 0 | AFC西地区3位 | |
1986 | 10 | 6 | 0 | AFC西地区2位 | |
1987 | 9 | 6 | 0 | AFC西地区2位 | ワイルドカードプレーオフ敗北 20-23(OT) ヒューストン・オイラーズ |
1988 | 9 | 7 | 0 | AFC西地区優勝 | ディビジョナルプレーオフ敗北 13-21 シンシナティ・ベンガルズ |
1989 | 7 | 9 | 0 | AFC西地区4位 | |
1990 | 9 | 7 | 0 | AFC西地区3位 | |
1991 | 7 | 9 | 0 | AFC西地区4位 | |
1992 | 2 | 14 | 0 | AFC西地区5位 | |
1993 | 6 | 10 | 0 | AFC西地区5位 | |
1994 | 6 | 10 | 0 | AFC西地区5位 | |
1995 | 8 | 8 | 0 | AFC西地区3位 | |
1996 | 7 | 9 | 0 | AFC西地区4位 | |
1997 | 8 | 8 | 0 | AFC西地区3位 | |
1998 | 8 | 8 | 0 | AFC西地区3位 | |
1999 | 9 | 7 | 0 | AFC西地区優勝 | ワイルドカードプレーオフ敗北 17-20 マイアミ・ドルフィンズ |
2000 | 6 | 10 | 0 | AFC西地区4位 | |
2001 | 9 | 7 | 0 | AFC西地区2位 | |
2002 | 7 | 9 | 0 | AFC西地区3位 | |
2003 | 10 | 6 | 0 | NFC西地区2位 | ワイルドカードプレーオフ敗北 27-33(OT) グリーンベイ・パッカーズ |
2004 | 9 | 7 | 0 | NFC西地区優勝 | ワイルドカードプレーオフ敗北 20-27 セントルイス・ラムズ |
2005 | 13 | 3 | 0 | NFC西地区優勝 | ディビジョナルプレーオフ勝利 20-10 ワシントン・レッドスキンズ ディビジョナルプレーオフ勝利 34-14 カロライナ・パンサーズ 第40回スーパーボウル敗北 10-21 ピッツバーグ・スティーラーズ |
2006 | 9 | 7 | 0 | NFC西地区優勝 | ワイルドカードプレーオフ勝利 21-20 ダラス・カウボーイズ ディビジョナルプレーオフ敗北 24-27(OT) シカゴ・ベアーズ |
2007 | 10 | 6 | 0 | NFC西地区優勝 | ワイルドカードプレーオフ勝利 35-14 ワシントン・レッドスキンズ ディビジョナルプレーオフ敗北 20-42 グリーンベイ・パッカーズ |
2008 | 4 | 12 | 0 | NFC西地区3位 | |
2009 | 5 | 11 | 0 | NFC西地区3位 | |
2010 | 7 | 9 | 0 | NFC西地区優勝 | ワイルドカードプレーオフ勝利 41-36 ニューオリンズ・セインツ ディビジョナルプレーオフ敗北 24-35 シカゴ・ベアーズ |
2011 | 7 | 9 | 0 | NFC西地区3位 | |
2012 | 11 | 5 | 0 | NFC西地区2位 | ワイルドカードプレーオフ勝利 24-14 ワシントン・レッドスキンズ ディビジョナルプレーオフ敗北 30-28 アトランタ・ファルコンズ |
レギュラー シーズン |
280 | 300 | 0 | ||
プレーオフ | 9 | 12 | 0 | ||
合計 | 289 | 312 | 0 |
主な選手
殿堂入り選手
- フランコ・ハリス
- スティーブ・ラージェント(NFL歴代パスキャッチ記録を持っていた。彼の記録はワシントン・レッドスキンズのアート・モンクに更新された。)
- カール・エラー
- ウォーレン・ムーン
- ジェリー・ライス
- ジョン・ランドル
永久欠番
- 12 ファンのため(激しいクラウドノイズでチームに献身的な貢献をするファンのために、1984年12月15日に12番(アメリカンフットボールはコート上に11人がプレイするので12番目の選手の意味)をファンのための永久欠番とした[1]。
- 80 スティーブ・ラージェント[7]
歴代ヘッドコーチ
- ジャック・パテラ (1976-1982)
- マイク・マコーマック (1982)
- チャック・ノックス (1983-1991)
- トム・フローレス (1992-1994)
- デニス・エリクソン (1995-1998)
- マイク・ホルムグレン (1999-2008)
- ジム・L・モーラ (2009)
- ピート・キャロル (2010)
脚注
- ^ a b c d ““12番目の選手”がいる唯一のチーム、シーホークス誕生”. NFL JAPAN (2011年6月4日). 2012年1月18日閲覧。
- ^ シアトル(1976-78)、ミネソタ(1979)、1976年に9.5サックをマークしてディフェンス・ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
- ^ “MNF History: 1984”. ABC (2002年8月29日). 2013年6月1日閲覧。
- ^ “MNF History: 1994”. ABC (2002年8月29日). 2013年6月1日閲覧。
- ^ “Thomas of Chiefs Gets 7 Sacks”. ニューヨーク・タイムズ (1990年11月12日). 2013年6月1日閲覧。
- ^ シーホークス、負け越し地区優勝にも「謝る理由はない」 - NFL JAPAN.com、2011年1月3日
- ^ 2004年にジェリー・ライスが移籍してきた際に一時的に永久欠番でなくなった。
関連項目
外部リンク
- シアトル・シーホークス公式サイト (英語)
- NFL JAPANチーム紹介 (日本語)