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{{by|1998年}}は開幕当初は二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った[[金子誠]]に代わってスタメンで起用されると3割を超える打率をマークし、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着した<ref name="base_19981026_60">「新天地1年目を振り返る 奈良原浩 念願のシーズンフル出場も『喜び』と『悔しさ』の1年」『週刊ベースボール』、1998年10月26日号、P.60</ref>。その後、右肩を痛めた[[田中幸雄_(内野手)|田中幸雄]]が6月下旬から一塁手にコンバートされたため、2番・遊撃手となっている<ref name="base_19981026_60"/>。夏場は体調維持に苦しんだが、自身初の[[規定打席]]に到達し、[[ビッグバン打線]]の中で貴重なつなぎ役となった<ref name="number_19980730_153"/><ref name="base_19981026_60"/>。同年はリーグ2位の30盗塁、同5位の[[出塁率]].388を記録し<ref name="mainichi_19981124">毎日新聞、1998年11月24日付朝刊、埼玉地方面</ref>、年俸は2,600万円増の7,400万円(推定)となっている<ref>読売新聞、1998年12月1日付朝刊、P.25</ref>。 |
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{{by|1999年}}は田中が遊撃手に戻り、自身は守備固めなどでの起用が増えた。{{by|2000年}}は田中や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧な守備などで支えた<ref>読売新聞、2000年9月24日付朝刊、P.16</ref>。オフには[[フリーエージェント_(日本プロ野球)|FA]]の権利を行使し、複数年契約で残留している<ref>毎日新聞、2000年11月9日付朝刊、P.23</ref>。 |
{{by|1999年}}は田中が遊撃手に戻り、自身は守備固めなどでの起用が増えた。{{by|2000年}}は田中や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた<ref>読売新聞、2000年9月24日付朝刊、P.16</ref>。オフには[[フリーエージェント_(日本プロ野球)|FA]]の権利を行使し、複数年契約で残留している<ref>毎日新聞、2000年11月9日付朝刊、P.23</ref>。 |
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{{by|2002年}}には監督の[[大島康徳]]から指名され、主将に就任した<ref name="base_20021021_58"/>。同年は遊撃手のレギュラーとして期待され<ref>読売新聞、2002年2月23日付朝刊、P.18</ref>、オープン戦では打率.412の好成績を残している<ref name="base_20021021_57"/>。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大によって待球が難しくなった事もあり、打撃不振に陥った<ref name="base_20021021_57"/>。また、[[札幌市]]への本拠地移転計画の発表や[[日本ハム]]本社の[[牛肉偽装事件]]などがあってチームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている<ref name="base_20021021_56"/>。オフには400万円減の年俸6,800万円(推定)で契約を更改した<ref>毎日新聞、2002年12月5日付朝刊、P.19</ref>。[[木元邦之]]の成長などもあって出場機会は徐々に減り、{{by|2005年}}オフには翌年の年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている<ref>朝日新聞、2005年9月30日付朝刊、P.21</ref>。 |
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2013年5月16日 (木) 04:13時点における版
埼玉西武ライオンズ コーチ #74 | |
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2012年9月30日、西武ドームにて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県南埼玉郡白岡町(現・白岡市) |
生年月日 | 1968年5月16日(55歳) |
身長 体重 |
168 cm 65 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手、二塁手、三塁手 |
プロ入り | 1990年 ドラフト2位 |
初出場 | 1991年4月6日 |
最終出場 | 2006年10月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
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この表について
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奈良原 浩(ならはら ひろし、1968年5月16日 - )は、埼玉県南埼玉郡白岡町(現・白岡市)出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。2012年より、埼玉西武ライオンズのコーチを務めている。
来歴・人物
アマチュア時代
埼玉県白岡町でクリーニング店を営む家庭に生まれる[1]。4歳頃に軟式野球のボールとグローブを買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった[1]。篠津小ではスポーツ少年団で野球をし、篠津中学を経て帝京高校に進学[2][3]。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の前田三夫の優れたノックで守備を鍛えられたという[2]。1学年上には河田雄祐と小林昭則がおり、チームは2年春の選抜大会で準優勝している。主将となった3年春も選抜大会に出場し、初戦で高知高校と対戦して自身は1番・遊撃手として2安打1盗塁の成績を残したが、チームは0対3で敗れている[4]。
青山学院大学へ進むと、2年の秋に遊撃手として東都リーグのベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した[5]。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ[6]、同年は日米大学野球の代表にも選ばれた[7]。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している[8][9][10]。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。1990年のドラフト2位で西武ライオンズに指名され、契約金と年俸それぞれ6,000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ[11]。
プロ野球選手時代
西武ライオンズ
プロ1年目の1991年からコーチの伊原春樹には「走塁と守備でプロとして食っていける」という高い評価を受け[12]、4月21日には初めてスタメンで起用されるなどシーズンで70試合に出場した。同年の日本シリーズでは第1戦で代走としてシリーズ初出場を果たした[13]。
1992年は田辺徳雄の守備固めとして試合終盤にたびたび起用された[14]。同年の日本シリーズでは第3戦の8回に伊東昭光からシリーズ初安打、初打点を記録している[15]オフには380万円増の年俸1,700万円(推定)で契約を更改した[16]。
1993年は遊撃手として49試合にスタメンで出場するなど、110試合に出場。日本シリーズでは第1戦で9番・遊撃手としてシリーズで初めて先発出場し、2安打1得点の成績を残した[17]。1994年は5月7日の対ロッテ戦で送りバントした際に一塁上で転倒し、鎖骨を骨折して全治2ヶ月のケガを負っている[18]。
1995年は松井稼頭央と併用され、遊撃手として46試合にスタメンで出場し、2年ぶりに出場試合数が100試合を超えた。1996年は田辺とともに主に二塁手として起用され、53試合に先発出場し、22盗塁を記録している。1997年は高木浩之が二塁手として先発出場する事が多く、出場試合数は100試合を割っている。同年10月30日に西崎幸広との交換トレードで石井丈裕とともに日本ハムファイターズに移籍した[19]。この際、日本ハム監督の上田利治はトレード要員として奈良原と投手1名を要求し、他の野手なら交渉は破談にすると宣言したため、西武監督の東尾修はやむを得ず承諾したという[20]。
日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズ
1998年は開幕当初は二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った金子誠に代わってスタメンで起用されると3割を超える打率をマークし、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着した[21]。その後、右肩を痛めた田中幸雄が6月下旬から一塁手にコンバートされたため、2番・遊撃手となっている[21]。夏場は体調維持に苦しんだが、自身初の規定打席に到達し、ビッグバン打線の中で貴重なつなぎ役となった[20][21]。同年はリーグ2位の30盗塁、同5位の出塁率.388を記録し[3]、年俸は2,600万円増の7,400万円(推定)となっている[22]。
1999年は田中が遊撃手に戻り、自身は守備固めなどでの起用が増えた。2000年は田中や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた[23]。オフにはFAの権利を行使し、複数年契約で残留している[24]。
2002年には監督の大島康徳から指名され、主将に就任した[12]。同年は遊撃手のレギュラーとして期待され[25]、オープン戦では打率.412の好成績を残している[2]。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大によって待球が難しくなった事もあり、打撃不振に陥った[2]。また、札幌市への本拠地移転計画の発表や日本ハム本社の牛肉偽装事件などがあってチームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている[1]。オフには400万円減の年俸6,800万円(推定)で契約を更改した[26]。木元邦之の成長などもあって出場機会は徐々に減り、2005年オフには翌年の年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている[27]。
2006年6月20日に、金銭トレードにより中日ドラゴンズに移籍[28]。9月19日の対横浜戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっている[29]なお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対巨人戦で延長12回表に放った適時打であった。日本シリーズでは第1、2戦で代走として起用されている[30]。同年限りで現役を引退し、二軍内野守備走塁コーチに就任した[31]。
現役引退後
一塁コーチャーを務めたのち、2011年より二軍野手コーチとなった。同年をもって落合博満が監督を辞任すると、10月6日付でヘッドの森繁和ら他の8人のコーチとともに退団が発表された[32]。2012年より、埼玉西武ライオンズの一軍守備走塁コーチに就任した[33]。
プレースタイル
辻発彦と組んだ二遊間の守備は日本一とも言われ[34]、 オレステス・デストラーデからは「オジー・スミスとまでは言わないが、MLBで十分に通用する守備能力が奈良原にはある」と評価されている[35]。プロに入った頃から守備に自信はあったが、西武で辻や石毛宏典と一緒に練習したことにより、雑な部分が消えて上達した[14]。特に、辻からは練習に対する真摯な姿勢やプレーについてメモを取る事など多くを学んだという[14]。守備では特に打球へのスタートを重視しており、捕手のサインや打者のクセから常に打球の方向を予想していた[14]。
西武では細かいプレーができる選手として存在感が大きく、同じパ・リーグの日本ハムに移籍した際には西武がフォーメーションのサインを全て変更している[14]。トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと東尾修は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという[14]。日本ハムで主将に就任した際には、野球に対する情熱や知識、精神的な強さを高く評価されている[12]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | 西武 | 70 | 63 | 57 | 9 | 13 | 1 | 0 | 0 | 14 | 1 | 3 | 3 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 9 | 0 | .228 | .267 | .246 | .512 |
1992 | 66 | 40 | 35 | 9 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 4 | 3 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | .171 | .237 | .200 | .437 | |
1993 | 110 | 205 | 161 | 20 | 40 | 3 | 0 | 0 | 43 | 13 | 10 | 4 | 16 | 1 | 26 | 0 | 1 | 24 | 1 | .248 | .354 | .267 | .622 | |
1994 | 72 | 176 | 141 | 26 | 35 | 5 | 0 | 0 | 40 | 11 | 14 | 4 | 11 | 2 | 21 | 0 | 1 | 17 | 1 | .248 | .345 | .284 | .629 | |
1995 | 102 | 245 | 208 | 19 | 47 | 5 | 1 | 0 | 54 | 13 | 19 | 6 | 18 | 2 | 16 | 0 | 1 | 29 | 1 | .226 | .282 | .260 | .542 | |
1996 | 108 | 215 | 170 | 31 | 37 | 4 | 3 | 2 | 53 | 8 | 22 | 5 | 22 | 3 | 18 | 0 | 2 | 34 | 3 | .218 | .295 | .312 | .607 | |
1997 | 94 | 100 | 89 | 20 | 17 | 1 | 2 | 0 | 22 | 3 | 13 | 6 | 5 | 0 | 6 | 0 | 0 | 17 | 1 | .191 | .242 | .247 | .489 | |
1998 | 日本ハム | 128 | 464 | 364 | 72 | 102 | 6 | 4 | 1 | 119 | 25 | 30 | 6 | 36 | 0 | 60 | 1 | 4 | 50 | 9 | .280 | .388 | .327 | .715 |
1999 | 88 | 121 | 103 | 17 | 18 | 5 | 0 | 0 | 23 | 6 | 6 | 1 | 9 | 0 | 9 | 0 | 0 | 18 | 1 | .175 | .241 | .223 | .464 | |
2000 | 101 | 305 | 254 | 50 | 65 | 16 | 0 | 3 | 90 | 31 | 14 | 3 | 13 | 2 | 36 | 0 | 0 | 46 | 6 | .256 | .346 | .354 | .700 | |
2001 | 124 | 399 | 334 | 32 | 79 | 19 | 3 | 4 | 116 | 19 | 27 | 5 | 31 | 1 | 33 | 0 | 0 | 59 | 5 | .237 | .304 | .347 | .652 | |
2002 | 116 | 364 | 320 | 22 | 65 | 6 | 0 | 1 | 74 | 19 | 13 | 4 | 21 | 2 | 21 | 0 | 0 | 49 | 1 | .203 | .251 | .231 | .482 | |
2003 | 109 | 376 | 317 | 40 | 82 | 24 | 3 | 0 | 112 | 32 | 12 | 4 | 16 | 4 | 35 | 1 | 4 | 70 | 3 | .259 | .336 | .353 | .689 | |
2004 | 85 | 109 | 99 | 21 | 24 | 4 | 1 | 0 | 30 | 9 | 5 | 1 | 4 | 0 | 5 | 0 | 1 | 20 | 1 | .242 | .286 | .303 | .589 | |
2005 | 98 | 179 | 165 | 21 | 38 | 7 | 2 | 2 | 55 | 17 | 6 | 2 | 5 | 1 | 7 | 0 | 1 | 35 | 1 | .230 | .264 | .333 | .598 | |
2006 | 中日 | 37 | 35 | 31 | 4 | 6 | 2 | 0 | 0 | 8 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 11 | 0 | .194 | .219 | .258 | .477 |
通算:16年 | 1508 | 3396 | 2848 | 413 | 674 | 109 | 19 | 13 | 860 | 212 | 198 | 55 | 215 | 18 | 300 | 3 | 15 | 495 | 34 | .237 | .311 | .302 | .613 |
年度別守備成績
年 度 |
二塁 | 三塁 | 遊撃 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
1992 | 16 | 7 | 12 | 0 | 5 | 1.000 | - | 48 | 25 | 50 | 0 | 13 | 1.000 | |||||
1993 | 4 | 3 | 6 | 0 | 0 | 1.000 | - | 102 | 82 | 183 | 4 | 43 | .985 | |||||
1994 | 20 | 10 | 25 | 0 | 1 | 1.000 | - | 53 | 64 | 111 | 3 | 26 | .983 | |||||
1995 | 39 | 26 | 48 | 1 | 5 | .987 | - | 75 | 72 | 169 | 3 | 28 | .988 | |||||
1996 | 97 | 150 | 172 | 5 | 44 | .985 | - | 9 | 3 | 7 | 0 | 1 | 1.000 | |||||
1997 | 83 | 73 | 98 | 2 | 21 | .988 | - | - | ||||||||||
1998 | 33 | 76 | 78 | 2 | 23 | .987 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 99 | 117 | 215 | 11 | 46 | .968 |
1999 | 31 | 26 | 39 | 1 | 8 | .985 | 14 | 7 | 8 | 0 | 1 | 1.000 | 29 | 15 | 52 | 2 | 8 | .971 |
2000 | 30 | 64 | 85 | 2 | 15 | .987 | - | 80 | 96 | 149 | 11 | 40 | .957 | |||||
2001 | - | 40 | 14 | 40 | 3 | 1 | .947 | 96 | 79 | 233 | 6 | 49 | .981 | |||||
2002 | 65 | 107 | 153 | 0 | 29 | 1.000 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 52 | 69 | 131 | 2 | 23 | .990 |
2003 | 88 | 169 | 232 | 3 | 53 | .993 | 8 | 3 | 8 | 0 | 0 | 1.000 | 23 | 16 | 39 | 1 | 9 | .982 |
2004 | 65 | 31 | 67 | 2 | 11 | .980 | 5 | 0 | 6 | 1 | 1 | .857 | 13 | 9 | 20 | 0 | 6 | 1.000 |
2005 | 56 | 49 | 82 | 0 | 20 | 1.000 | 2 | 2 | 1 | 1 | 0 | .750 | 39 | 32 | 92 | 3 | 19 | .976 |
2006 | 14 | 6 | 18 | 0 | 3 | 1.000 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
通算 | 641 | 797 | 1115 | 18 | 238 | .991 | 83 | 28 | 63 | 5 | 3 | .948 | 718 | 679 | 1451 | 46 | 311 | .979 |
記録
- 初記録
- 初出場:1991年4月6日、対ロッテオリオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏にオレステス・デストラーデの代走として出場
- 初先発出場:1991年4月21日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、9番・遊撃手として先発出場
- 初安打:同上、3回表に山崎慎太郎から
- 初犠打:1991年4月23日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に星野伸之から一塁前犠打
- 初盗塁:1991年6月16日、対近鉄バファローズ14回戦(ナゴヤ球場)、8回表に二盗(投手:赤堀元之、捕手:光山英和)
- 初打点:1991年10月13日、対ロッテオリオンズ26回戦(川崎球場)、8回表に安藤信二の代打として出場、今野隆裕から適時二塁打
- 初本塁打:1996年7月18日、対日本ハムファイターズ20回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に今関勝からソロ
- 節目の記録
- 1000試合出場:2001年6月24日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)、6回裏に遊撃手として出場 ※史上368人目
- 200犠打:2003年6月22日、対大阪近鉄バファローズ14回戦(大阪ドーム)、10回表に岡本晃から投手前犠打 ※史上23人目
- 1500試合出場:2006年9月18日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、8回表に小林正人の代打として出場 ※史上147人目
背番号
- 9 (1991年 - 1995年)
- 5 (1996年 - 1997年)
- 4 (1998年 - 2006年途中)
- 95 (2006年途中 - 同年終了)
- 82 (2007年 - 2011年)
- 74 (2012年 - )
脚注
- ^ a b c 「新野球浪漫 男たちの詩 23回 勝利のスパイス 奈良原浩 たとえ小柄でも、頑張ればプロで通用するんだという気持ちになった」『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.56
- ^ a b c d 『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.57
- ^ a b 毎日新聞、1998年11月24日付朝刊、埼玉地方面
- ^ 朝日新聞、1986年3月31日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1988年11月4日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1989年5月27日付朝刊、P.18
- ^ 読売新聞、1989年6月10日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1989年10月27日付朝刊、P.18
- ^ 読売新聞、1990年5月24日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1990年10月26日付朝刊、P.18
- ^ 読売新聞、1990年12月21日付朝刊、P.19
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