「ヨハネス21世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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| 日本語名 = ヨハネス21世 |
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| タイトル = 第187代 ローマ教皇 |
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| 画像説明 = |
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| 就任 = 1276年9月13日 |
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| 離任 = 1277年5月20日 |
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| 先代 = [[ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス5世]] |
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| 次代 = [[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]] |
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| 司祭 = |
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| 司教 = |
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| その他 = |
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| 本名 = |
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| 生年月日 = 1215年 |
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| 生地 = {{POR}} [[リスボン]] |
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| 没年月日 = 1277年5月20日 |
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| 没地 = {{ITA}} [[ヴィテルボ]] |
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| 埋葬地 = |
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| 原国籍 = |
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| 宗派 = |
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| 居住地 = |
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| 親 = |
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| 妻 = |
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| 子 = |
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| 母校 = |
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| 署名 = |
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| 曖昧 = ヨハネス |
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[[リスボン]]で生まれたとされ、[[リスボン大聖堂]]内の神学校で教育を受けた。後に[[パリ大学]]に入った(一部の歴史家は彼が[[モンペリエ大学]]で学んだと主張する)。 |
[[リスボン]]で生まれたとされ、[[リスボン大聖堂]]内の神学校で教育を受けた。後に[[パリ大学]]に入った(一部の歴史家は彼が[[モンペリエ大学]]で学んだと主張する)。 |
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[[1245年]]から[[1250年]]にかけ、ペドロ・ヒスパノ([[ヒスパニア]]で知られる[[イベリア半島]]出身の為こう呼ばれた)で知られ、[[シエナ大学]]で薬学を教えた。彼はこの地で''Summulae Logicales''を書き、この本は300年以上ヨーロッパ諸国の大学で用いられた。こうして有名な大学講師としてリスボンへ戻り、[[ギマランイス]]の宮廷で[[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]の教会関係の助言者・スポークスマンとなり、ギマランイスの修道院長となった。彼はリスボン司教になろうとしたが、競い負けている。その後リスボンの学校講師となり、[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]の主治医となった。 |
[[1245年]]から[[1250年]]にかけ、ペドロ・ヒスパノ([[ヒスパニア]]で知られる[[イベリア半島]]出身の為こう呼ばれた)で知られ、[[シエナ大学]]で薬学を教えた。彼はこの地で''Summulae Logicales''を書き、この本は300年以上ヨーロッパ諸国の大学で用いられた。こうして有名な大学講師としてリスボンへ戻り、[[ギマランイス]]の宮廷で[[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]の教会関係の助言者・スポークスマンとなり、ギマランイスの修道院長となった。彼はリスボン司教になろうとしたが、競い負けている。その後リスボンの学校講師となり、[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]の主治医となった。 |
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1276年[[8月18日]]の[[ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス5世]]の死後、ペドロは9月13日に[[コンクラーヴェ]]で教皇に選出された。彼の短い治世は、強力な枢機卿ジョヴァンニ・ガエターノ(ヨハネス21世の後継の教皇、[[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]]となる)が代わりに政治を取り仕切っていた。ジョヴァンニは聖地への[[十字軍]]結成の為、[[正教会]]とカトリックの合同とキリスト教国の平和を保とうと努力した。しかし、[[タタール人]]を改宗させようと働きかけたが、成果はなかった。 |
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ヨハネス21世は[[ヴィテルボ]]にある別荘に |
ヨハネス21世は[[ヴィテルボ]]にある別荘に新たな翼を付けさせた。それは手抜き工事でつくられた為、ある時に彼が就寝していると屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から8日後の1277年5月20日に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は彼1人である。遺体はヴィテルボのドゥオーモに埋葬された。現在も彼の墓がそこで見られる。死後、『ヨハネス21世は魔法使いであったのだ』と噂が広まった。 |
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[[ダンテ・アリギエーリ]]は『[[神曲]]』の中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空でヨハネス21世と面会した話を書いた。 |
[[ダンテ・アリギエーリ]]は『[[神曲]]』の中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空でヨハネス21世と面会した話を書いた。 |
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== 関連項目 == |
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* [[ヨハネス20世 (ローマ教皇)]] |
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{{ローマ教皇|第187代:1276年 - 1277年}} |
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2010年4月11日 (日) 06:35時点における版
ヨハネス21世 | |
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第187代 ローマ教皇 | |
教皇就任 | 1276年9月13日 |
教皇離任 | 1277年5月20日 |
先代 | ハドリアヌス5世 |
次代 | ニコラウス3世 |
個人情報 | |
出生 |
1215年 ポルトガル リスボン |
死去 |
1277年5月20日 イタリア ヴィテルボ |
その他のヨハネス |
ヨハネス21世(Johannes XXI、1215年 - 1277年5月20日)は、ローマ教皇(在位:1276年 - 1277年)。本名をペドロ・ジュリアォン(Pedro Julião、ラテン語ではペトルス・ヒスパヌスPetrus Hispanus)といい、現在に至るまで唯一のポルトガル出身の教皇である(ダマスス1世はポルトガル出身とされているがはっきりしない)。在位僅か8ヶ月で死去した。
リスボンで生まれたとされ、リスボン大聖堂内の神学校で教育を受けた。後にパリ大学に入った(一部の歴史家は彼がモンペリエ大学で学んだと主張する)。
1245年から1250年にかけ、ペドロ・ヒスパノ(ヒスパニアで知られるイベリア半島出身の為こう呼ばれた)で知られ、シエナ大学で薬学を教えた。彼はこの地でSummulae Logicalesを書き、この本は300年以上ヨーロッパ諸国の大学で用いられた。こうして有名な大学講師としてリスボンへ戻り、ギマランイスの宮廷でアフォンソ3世の教会関係の助言者・スポークスマンとなり、ギマランイスの修道院長となった。彼はリスボン司教になろうとしたが、競い負けている。その後リスボンの学校講師となり、グレゴリウス10世の主治医となった。
1276年8月18日のハドリアヌス5世の死後、ペドロは9月13日にコンクラーヴェで教皇に選出された。彼の短い治世は、強力な枢機卿ジョヴァンニ・ガエターノ(ヨハネス21世の後継の教皇、ニコラウス3世となる)が代わりに政治を取り仕切っていた。ジョヴァンニは聖地への十字軍結成の為、正教会とカトリックの合同とキリスト教国の平和を保とうと努力した。しかし、タタール人を改宗させようと働きかけたが、成果はなかった。
ヨハネス21世はヴィテルボにある別荘に新たな翼を付けさせた。それは手抜き工事でつくられた為、ある時に彼が就寝していると屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から8日後の1277年5月20日に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は彼1人である。遺体はヴィテルボのドゥオーモに埋葬された。現在も彼の墓がそこで見られる。死後、『ヨハネス21世は魔法使いであったのだ』と噂が広まった。
ダンテ・アリギエーリは『神曲』の中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空でヨハネス21世と面会した話を書いた。
参照
- Maxwell-Stuart, P. G. Chronicle of the Popes: The Reign-by-Reign Record of the Papacy from St. Peter to the Present, Thames & Hudson, 2002, p. 119. ISBN 0500017980.