JTサンダーズ

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JTサンダーズ
原語表記 日本たばこ産業男子バレーボールチーム
ホームタウン 広島県広島市
クラブカラー
創設年 1931年
所属リーグ V.プレミアリーグ
チーム所在地 広島県広島市
体育館所在地 同上
代表者 横山尚
監督 モンテネグロの旗ヴェセリン・ヴコヴィッチ
ホームページ 公式サイト
ユニフォーム
チームカラー チームカラー チームカラー
チームカラー
チームカラー チームカラー チームカラー
チームカラー
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画像外部リンク
エンブレム
en:File:Jtthunders.png

JTサンダーズ(ジェイティサンダーズ、: JT Thunders)は、広島県広島市を本拠地に活動する、Vプレミアリーグ所属の男子バレーボールチーム。

概要[編集]

日本たばこ産業男子バレーボールチーム
Japan Tobacco logo.svg
略称 JTサンダーズ
格付 任意団体
主な事業 バレーボールクラブ活動
郵便番号 732-0814
事務所 広島市南区段原南1-3-53広島イースト14F
日本たばこ産業株式会社 中国支社内
主な協力組織 日本たばこ産業
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1931年ごろ創部[1][2][3]。「日本たばこ産業(JT)」の実業団チームであり、1985年の専売制度廃止までは日本専売公社広島地方専売局のバレーボールチームだった[2]。同じくJTを母体とするバレーボールチームに、女子のJTマーヴェラスが存在する。JTは公式発表はしていないが“バレーボールは社技”という風潮が社内にあり、男女ともにJTグループ全体からサポートを受けている[4]。日本人選手のほとんどがJT社員で、その他はJTとプロフェッショナル契約を結んでいる。

チーム名はプレーする選手たちの勇姿から、「稲妻(Thunder)」をイメージして名づけられた[注 1]。チームカラーは母体の企業カラーと同じ「緑」。チームマスコットは、雷をモチーフとした「サンダー坊や」。

事務所は広島市南区広島イーストの中国支社内に置かれ、試合会場などは#拠点参照。

戦前から活動している日本でも古参のチームで、1967年から始まった全日本バレーボール選抜男女リーグ(日本リーグ)の初期6チームの一つである。それから今日のプレミアリーグ(Vリーグ)に至るまで、1度も2部落ちせずトップリーグで活躍する唯一のチームである[5]。その間2位が6回となかなかリーグ優勝ができなかったが、2014年シーズンで悲願のリーグ初優勝を果たした[3][6][7]。2007年、日本リーグ時代から1度も2部落ちせずトップリーグで在籍した業績を讃え、節目のリーグ40回目に日本バレーボールリーグ機構から特別功労賞として唯一の団体表彰を受けている。

歴史[編集]

創設期[編集]

1930年ごろの広島市の地図。右から2番目の川・京橋川最下流の御幸橋の右に「地方專賣局」が見える。猫田記念体育館は現在もこの地にある。

広島県でのバレーボールは多田徳雄が中心となって1919年(大正8年)頃から普及が始まる。1924年(大正13年)竣工した大蔵省広島地方専売局皆実工場[8]では、1920年代後半に構内でレクリエーションとしてバレーが行われていた[9]。なお1924年時点での職工は男372人/女1,261人[8]、1928年(昭和3年)時点で男228人/女277人[10]と女工の割合が多かった官製工場であった。そうした状況の中でまず、1931年(昭和6年)9人制バレーの広島地方専売局女子排球部が発足する[1][11][9]

現在のJTサンダーズである『広島地方専売局男子排球部』は、女子排球部の練習相手をしていた男子選手たちが中心となり9人制バレー部として発足したと言われている[1][11]。創部年は、後に起こる広島市への原子爆弾投下により記録資料が消滅したため不明であり、現在JTが公開している資料では“1931年ごろ”創部としている[1][9]。現在記録が残る初の対外試合は1935年(昭和10年)中国一般排球大会に出場したものであるため[9]、少なくとも1935年には創部されていたことになる。

ただ戦前の広島バレー界は黄金期を築いた呉海軍工廠が全国大会で5度優勝するなど圧倒的に強かったため、広島専売局男子排球部は全国大会には1度も出場出来なかった[9][12]。一方で広島専売局女子排球部は1934年(昭和9年)・1935年と2度全日本選手権を制覇しており、男子はそれらの栄光の陰に隠れた[9]。戦前の全日本においては温井政記が唯一選ばれている。

なお女子排球部は1965年を境に自然消滅したと言われており、現在のJTマーヴェラスの前身ではない(マーヴェラスの詳細は当該リンク先参照)。

被爆と再開[編集]

画像外部リンク
被爆後の専売局
Hiroshima aerial A3395 アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真。写真中央左の敷地が専売局。
猫田記念体育館に隣接する慰霊碑。

太平洋戦争中、局面の悪化とともに活動を中止しており[1][9]、当時の排球部部員の出征状況は不明。

1945年(昭和20年)、広島市への原子爆弾投下により当時爆心地から約2.0km強に位置した広島専売局は、6日間燃え続け7割方を焼き尽くし、従業員のうち即死者1人を含む40人死亡、800人近く(うち局員は600人ほど)が重軽傷を負った[13][14]。なお、戦中における専売局の重要度[注 2]から局員は職域義勇隊として市内で作業することなくこの地で全員働いており[13]、排球部部員もここで被爆しうち1人が死亡している[9][14]

戦後1946年(昭和21年)、一人の工員が焼け野原となった広島の地でバレーボールを一つ見つけたことがきっかけとなり「バレーをしよう」と男女共に部活動を再開した[1][11]。同年秋から大会予選に出場したものの県大会1回戦も突破できないほど弱体化しており、活動費は困窮したため部員は審判のアルバイトなどで遠征費を稼いていた状況で、解散の危機が迫っていた[9]

1949年(昭和24年)、『広島地方専売局』から『広島専売』に名称変更[1]1953年(昭和26年)当時の宿敵であった帝人三原を全国実業団選手権大会県予選で降し、ようやく全国大会に初出場した[9]。1955年(昭和30年)の同大会では、メンバーギリギリの9人で優勝候補筆頭の日本鋼管を破り、ベスト4入りし名声を高めた[9]

また、部員は当時レベルが高く全盛時代だった地域のクラブチームにも参加しており、1952年(昭和27年)の第1回全日本都市対抗優勝大会では、芸陽クラブに主力選手を送り3位となっている。

猫田の時代[編集]

再開後も広島専売の強化はなかなか進まなかった。理由の一つとして、昭和30年代(1950年代中期)に入り大学卒の地方局採用が原則中止となったため、補強出来ない状況になってしまったためである[9]1958年(昭和33年)、チーム名を『専売広島』に変更[1]。同年、富山国体ではベスト8に進出。またこの頃から力を付け始めた地元・崇徳高校からの出身者が増えチームの主軸となっていった。

1962年(昭和37年)、崇徳高校から猫田勝敏が入社[15][16]。翌1963年(昭和38年)全日本入りした猫田に対して、日本バレーボール協会から「中央の6人制のチームへ移るべきだ」との勧告が出され、松平康隆(1964年東京オリンピック全日本男子コーチ)からも「広島にいてはダメだ。中央に出てこい。」と叱咤を受けたが、猫田は地元チームを選んだ[16][15]。これを機にチームも6人制に力を入れ、1965年(昭和40年)から一本化した[注 3][15]。この頃、社内のサポート体制も整うこととなり[15]、人気が出始めたバレーに、各企業もイメージアップのため参加を検討、公社である専売広島は思うような部費が得られず、選に洩れるのでは、という予想が多かったが、関係者各位の努力によって、1967年(昭和42年)に始まったバレーボール選抜男女リーグの、最初の参加6チームの一つに選ばれた。1969年(昭和44年)には専用体育館[注 4]が竣工し、練習拠点を探し市内を転々としていた状況は終わりを告げる[15][16]

以降、専売広島は猫田と同時期に全日本入りした西本哲雄がチームを引っ張っていくことになる。この2人がいないとチーム成績も落ち、例えば猫田が骨折し欠場した第5回日本リーグ(1971/72)では入れ替え戦に回っている[15]1972年9月ミュンヘン五輪で正セッターとして金メダルを獲得した猫田は「五輪と同じぐらい、ワシらにはもうひとつ大事な仕事があるんやぞ。」と五輪決勝から約1か月後に行われた入れ替え戦に挑んでいる[15][18]。猫田と西本が頻繁に全日本に呼ばれたオリンピックイヤーに成績が落ち、ミュンヘン五輪時の第5回日本リーグに加え、1976年モントリオール五輪時の第9回日本リーグでも入れ替え戦に回り、双方とも残留を果たしている[15]

1979年(昭和54年)の宮崎国体で優勝し、チーム初の日本一に輝く。1981年(昭和56年)の滋賀国体でも優勝。

時を前後して、1980年(昭和55年)それまで選手兼任監督だった猫田は現役引退し監督業に専念、選手発掘とチーム強化を期待されていたが、1983年(昭和58年)8月胃がんにより死去してしまう[15][5]。後任監督には西本が就任している。

日本リーグからVリーグ[編集]

1970年代から80年代にかけて専売広島は守備のチームとなり、後の「ディフェンスのJT」として今日まで続いていく[2]。母体の民営化により、1985年(昭和60年)から 『日本たばこ』、1988年(昭和63年)から『JT』に名称変更[1][5]。この頃、広島から他へのチーム移転の話があったが頓挫している[5]

結局、日本リーグ時代は2位が2度あったのが最高記録で一度も優勝は出来なかった[15]。生前の猫田は親しい人間に「俺は世界一になったことはあるけど、日本一になったことがないなあ。」と漏らしている[15]。猫田・西本の後には、下村英士原秀治栗生澤淳一らを五輪代表に送り出したが、彼らにもリーグ優勝は手が届かなかった[19]

1994年(平成6年)から始まったVリーグにも、最初の8チームとして参加、"サンダーズ"の愛称が付けられた[1]。同年平野信孝が入団し、そして以降外国人選手にエフゲーニ・ミトコフオレーク・シャトーノフパーベル・シシキンロシア代表選手を補強したことにより、チームはさらに力を付けVリーグや全日本選手権(黒鷲旗)でも度々優勝争いに加わるようになった。一方で第4回Vリーグ(1997/98)ではチーム史上最低成績のリーグ8位で終えている。

パルシン改革[編集]

1999年(平成11年)、部長の山下仁は、このまま純血主義を貫いてもリーグで優勝できないため外国人監督を招聘すると周囲を説き伏せ、元ソ連男子代表監督のゲンナジー・パルシンを起用する[19]。チーム史上初の外国人監督であり、当初は一部のOBから反発もあった[19]。それに加え元ソ連代表のオレーク・アントロポフをコーチに招聘、ロシア代表イリア・サベリエフを補強する。

パルシンのもと、練習の質が改善され、結果として現れるようになる[19]2001年(平成13年)黒鷲旗で悲願の初優勝[20]、2004年(平成16年)にも同大会で優勝した。国体では2001年の宮城国体で20年ぶりに国体優勝を果たすと[21]、翌2002年(平成14年)高知国体も優勝し2連覇、2004年埼玉国体[22]・2005年(平成17年)岡山国体でも2連覇した。2005年、RPAペルージャから加藤陽一を獲得し強化に務めた。

ただパルシン時代、リーグ優勝をも期待されており3度決定戦に出場しているが、すべてサントリーサンバーズに敗れ、またもリーグ優勝には届かなかった[11]

迷走[編集]

2006年(平成18年)、パルシン勇退に伴いアントロポフが監督に昇格する[23]。同シーズン末、特別功労賞として唯一の団体表彰される[24]。翌2007年(平成19年)秋田国体優勝する[25]も、リーグ開幕前にアントロポフが体調不良により帰国したため栗生澤コーチが監督代行に、臺光章と平野がコーチ兼任選手を務めた[26]。栗生澤のもと、同年の天皇杯優勝し初代チャンプとなる。

2年連続で準決勝リーグ入りを逃した2008年(平成20年)、堺で監督を経験し日本バレーにも精通したアメリカ人ゴードン・メイフォースを監督に招聘する[27]2009年(平成21年)、日本人としては初のJT出身外コーチとなる久保義人を招聘した[28]。同シーズンの天皇杯準優勝。 2010年(平成22年)3月、ゴードンがギリシャ男子代表監督就任に伴いチームを退団すると、同年4月から久保が監督に昇格した[29]。同年の黒鷲旗準優勝[30]。2011/12シーズン、豊田合成とセット率0.01差で7位になり、18年ぶりに入替戦に回り[31]ジェイテクトSTINGSに2試合勝利したことによりプレミアに残留した[32]

2012-13シーズン、イゴール・オムルチェンを補強するも、開幕から7連敗を喫する[33]。同年11月久保が体調不良のため監督を休養、一旦回復し同年度の天皇杯で指揮するも再び体調不良のため、徳元幸人コーチが監督代行[注 5]として指揮することになった[34]。シーズン終了後、久保は勇退する[35]

この間、プレーオフ圏内にも進めなくなり、チームでは降格の危機も囁かれ疑心暗鬼となっていた[19]。母体であるJTは、本業であるタバコの需要低下により2004年広島工場を閉鎖しており[36]、サンダーズも活動縮小の可能性もあった[37]。またJTマーベラスの方は強化が実り、2010/11シーズンにリーグ初優勝 を遂げていた[17]。その中で、部長の栗生澤はチーム改革を断行することになる[19]

ヴコヴィッチ改革[編集]

2013年(平成25年)、元セルビア・モンテネグロ男子代表監督のヴェセリン・ヴコヴィッチが監督に就任した[35]。JTは長くプレーオフ圏内に進めなかったことから、若手を育成することでチームを強化する方向へ進んでいく[35]。それに加え、全日本エースである越川優を獲得する[38]

この2013-14シーズンはイゴールら既存戦力に加えこれらの改革が実り、チームは8年ぶり・Vプレミアリーグ再編以降では初めてセミファイナルラウンドに進み10年ぶりに優勝決定戦に駒を進めたが、悲願の初優勝はならなかった[39][40]。翌2014-15シーズン、ブラジル代表レアンドロ・ヴィソット・ネヴェスを補強、越川をキャプテンに指名する[41]同シーズンの天皇杯で2007年から7年ぶりとなるタイトルを獲得[42]、そして同シーズンのVプレミアではファイナルを制し、創部から84年目で旧日本リーグ参戦から数えると48年目でリーグ初優勝を飾り[43]、2冠を達成した。

長年リベロとしてチームを支えた酒井大祐が退団し若返りを目指した[44]2015-16シーズン、シーズンを通じて主力に怪我人が続出したことも災いしチーム戦術の浸透がままならずサーブレシーブ成功率はリーグ最低を記録、レギュラーシーズン6連敗を喫するなど下位に低迷した[45]。ただ同年の黒鷲旗では2年ぶりに決勝に進出し勝利、チームとしては14年ぶりの優勝、JTとしてはマーヴェラスとともにアベック優勝を飾った[46]

2016-17シーズンに向けて当初はポーランド代表バルトシュ・カミル・クレクポーランド語版と契約していたがその後に双方合意の上で契約解除[注 6][48]、代わってシーズン直前にセルビア代表ドラジェン・ルブリッチが加入した[49]同年の国体優勝。

略歴[編集]

成績[編集]

主な成績[編集]

日本リーグ/Vリーグ/Vプレミアリーグ
全日本都市対抗/黒鷲旗全日本選抜
天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会
全日本総合(6人制)
国民体育大会成年男子(6人制)

年度別成績[編集]

大会名 順位 チーム数 試合数 勝率 備考 監督
日本リーグ 第1回 (1967) 4位 6チーム 10 4 6 日本の旗寺尾正三
第2回 (1968/69) 3位 6チーム 10 7 3
第3回 (1969/70) 3位 6チーム 10 4 6
第4回 (1970/71) 4位 6チーム 10 4 6
第5回 (1971/72) 5位 6チーム 10 3 7
第6回 (1972/73) 4位 6チーム 10 3 7
第7回 (1973/74) 準優勝 6チーム 10 7 3
第8回 (1974/75) 4位 6チーム 10 6 4
第9回 (1975/76) 6位 6チーム 10 2 8 日本の旗猫田勝敏
第10回 (1976/77) 3位 6チーム 10 5 5
第11回 (1977/78) 3位 6チーム 10 6 4
第12回 (1978/79) 準優勝 6チーム 10 7 3
第13回 (1979/80) 3位 6チーム 10 6 4
第14回 (1980/81) 3位 8チーム 14 9 5
第15回 (1981/82) 3位 8チーム 21 13 8
第16回 (1982/83) 5位 8チーム 21 9 12
第17回 (1983/84) 6位 8チーム 21 10 11 日本の旗西本哲雄
第18回 (1984/85) 3位 8チーム 21 15 6 0.714
第19回 (1985/86) 4位 8チーム 21 12 9 0.571
第20回 (1986/87) 4位 8チーム 21 12 9 0.571
第21回 (1987/88) 4位 8チーム 14 6 8 0.429
第22回 (1988/89) 5位 8チーム 14 6 8 0.429 日本の旗小田雅志
第23回 (1989/90) 3位 8チーム 17 11 6 0.647
第24回 (1990/91) 4位 8チーム 17 9 8 0.529
第25回 (1991/92) 6位 8チーム 14 5 9 0.357
第26回 (1992/93) 5位 8チーム 14 7 7 0.500
第27回 (1993/94) 7位 8チーム 14 3 11 0.214
Vリーグ 第1回 (1994/95) 5位 8チーム 21 10 11 .476
第2回 (1995/96) 3位 8チーム 21 13 8 .619
第3回 (1996/97) 準優勝 8チーム 21 14 7 .667
第4回 (1997/98) 8位 8チーム 21 3 18 .143
第5回 (1998/99) 7位 10チーム 18 6 12 .333
第6回 (1999/00) 5位 10チーム 18 10 8 .556 ラトビアの旗パルシン
第7回 (2000/01) 準優勝 10チーム 18 13 5 .722
第8回 (2001/02) 5位 10チーム 18 11 7 .611
第9回 (2002/03) 準優勝 8チーム 21 15 6 .714
第10回 (2003/04) 準優勝 8チーム 21 13 8 .542
第11回 (2004/05) 3位 8チーム 28 17 11 .607
第12回 (2005/06) 4位 8チーム 28 16 12 .571
V・プレミア 2006/07シーズン 5位 8チーム 28 14 14 .500 ラトビアの旗カザフスタンの旗アントロポフ
2007/08シーズン 6位 8チーム 28 12 16 .429 [注 7]
2008/09シーズン 5位 8チーム 28 14 14 .500 アメリカ合衆国の旗ゴードン
2009/10シーズン 6位 8チーム 28 14 14 .500
2010/11シーズン 5位 8チーム 24 12 12 .500 [注 8] 日本の旗久保義人
2011/12シーズン 7位 8チーム 21 7 14 .333
2012/13シーズン 6位 8チーム 28 9 19 0.474 [注 9] 日本の旗久保義人
日本の旗丹山禎昭[注 5]
2013/14シーズン 準優勝 8チーム 28 18 10 0.643 モンテネグロの旗ヴコヴィッチ
2014/15シーズン 優勝 8チーム 21 15 6 0.714
2015/16シーズン 5位 8チーム 21 10 11 0.476
2016/17シーズン 7位 8チーム 21 7 14 0.333
2017/18シーズン 8チーム 21

選手・スタッフ[編集]

選手[編集]

2017年8月15日版[50][51]

背番号 名前 シャツネーム 国籍 P 備考
1 安永拓弥 YASUNAGA 日本の旗 日本 MB
2 町野仁志 MACHINO 日本の旗 日本 MB
3 深津旭弘 FUKATSU 日本の旗 日本 S 主将
4 中島健太 NAKAJIMA 日本の旗 日本 MB
5 吉岡光大 YOSHIOKA 日本の旗 日本 WS 副主将
6 井上慎一朗 S.INOUE 日本の旗 日本 WS
7 八子大輔 YAKO 日本の旗 日本 WS
8 久原大輝 HISAHARA 日本の旗 日本 L
9 井上俊輔 INOUE 日本の旗 日本 S
10 井上航 W.INOUE 日本の旗 日本 L
11 安井勇誠 YASUI 日本の旗 日本 WS
12 ベゼラ・ジュニオル BEZERA 日本の旗 日本 MB
14 トーマス・エドガー オーストラリアの旗 オーストラリア OP
15 唐川大志 KARAKAWA 日本の旗 日本 L
16 塚崎祐平 TSUKAZAKI 日本の旗 日本 WS
17 金子聖輝 KANEKO 日本の旗 日本 S
18 山本将平 YAMAMOTO 日本の旗 日本 WS 副主将
20 筧本翔昴 TOIMOTO 日本の旗 日本 MB トップス広島1期生
21 ロジャーズ海 ROGERS 日本の旗 日本 WS

スタッフ[編集]

2017年8月15日版[50][51]

役職 名前 国籍
部長 横山尚 日本の旗 日本
副部長 臺光章 日本の旗 日本
GM 栗生澤淳一 日本の旗 日本
監督 ヴェセリン・ヴコヴィッチ モンテネグロの旗 モンテネグロ
コーチ ティネ・サトレル スロベニアの旗 スロベニア
コーチ 平馬慶太 日本の旗 日本
コーチ 菅直哉 日本の旗 日本
マネージャー 藤井星太郎 日本の旗 日本
S&Cコーチ 市毛賢二 日本の旗 日本
メディカルトレーナー 関野吉陽 日本の旗 日本
通訳 亀渕雅史 日本の旗 日本
事務局長 青山信夫 日本の旗 日本
総務 新川義雄 日本の旗 日本
広報 石田恭子 日本の旗 日本

在籍していた主な選手[編集]

拠点[編集]

広島県内での試合会場は、広島市中区広島県立総合体育館(旧・広島県立体育館)や、呉市呉市総合体育館などを用いている。

練習拠点は広島市南区にある猫田記念体育館で、合宿所を併設している。ここは元々戦前からあった専売公社広島工場、のちのJT広島工場敷地内で、2004年工場閉鎖に伴いイズミに賃貸しゆめタウン広島が開店している。つまり、体育館・合宿所含め旧工場敷地は現在もJT所有である[52]

ユニフォーム[編集]

ユニフォームはチームカラーである緑を基調とし、1stユニは緑、2ndユニは白を主体としている。リベロ用ユニは特別に作ったものでなく、1stユニと2ndユニが逆になることで他の選手と異なるようにしている。

サプライヤーはアシックス。ユニの掲示は、親会社であるJTの企業スローガンロゴや商品名の他、左胸にチーム名およびマスコットキャラクターが付く。マーヴェラスも同じ仕様であり、違いは左胸のマスコット「サンダー坊や」(マーヴェラスは「マーヴェりん」)と、サンダーズの方の右には「トップス広島ロゴ」が付いている。

育成・普及事業[編集]

親会社であるJTのCSR活動やトップス広島での活動の一環として、また2000年代からVリーグ機構がジュニア世代育成を奨励していることもあり[53]、地元広島を中心にバレーボール教室を開催し、自治体が主催する地域活性化事業に参加するなど、若年層選手の育成およびバレーボール普及に積極的に貢献している[4][54]

JTサンダーズバレーボール教室
広島県内を中心とした地元自治体が主催するバレーボール教室に現役選手やコーチを派遣し指導を行っている。ちなみにこのバレーボール教室はマーヴェラスの方も同様に行っている。
  • 対象 - 小中高校の若年層およびママさんチームなど
  • スタッフ - JT現役選手およびスタッフ
トップス広島バレーボール学校
2002年開校。トップス広島および県バレーボール協会が主催、JTが指導協力の形で運営している。現在JTのジュニアチームとして位置づけられており[55]全国ヤングバレーボールクラブ男女優勝大会などに出場している。2009/10シーズンには、1期生が初めてプレミアリーグ入りした[55]
  • 対象 - 広島県在住の中学生男子
  • 期間 - 毎年5月から翌年の3月までの毎週土曜日
  • 場所 - 猫田記念体育館
  • スタッフ - 校長:栗生澤淳一、ヘッドコーチ:原秀治、アドバイザー:下村英士、他JTのOBおよび現役選手が指導協力にあたる

関連情報[編集]

TVおよびラジオ
紙/ネット媒体

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ 本来稲妻を意味する英語のthunderは不可算名詞であるため、複数形の-sはつかないのが正しい(オクラホマシティ・サンダー参照)。
  2. ^ 広島専売局工場で当時扱っていたのはタバコクスノキからとれる樟脳[13]。樟脳は防虫剤・防腐剤・香料・強心剤(いわゆるカンフル剤)・鎮痛剤・血行促進剤など幅広い分野で用いられ、戦後化学合成品が登場するまで貴重な資源だった、
  3. ^ 専売茨木を前身とする現在のJTマーベラスもこの年に6人制に移行しているため[17]、専売バレー部全て1965年に移行したことになる。
  4. ^ 場所不明。現在の猫田記念体育館が建っている場所はこの当時は広島地方専売局局舎があった。
  5. ^ a b なお徳元幸人が実質的な監督ではあるが、2012年11月現在でリーグで指揮するための日本体育協会上級コーチライセンスを持っていないため、そのライセンスを持つ丹山禎昭マネージャーが名目上の監督として登録している[34]
  6. ^ ポーランドメディアでは精神障害を理由に契約解除したとしている[47]
  7. ^ シーズン前に体調不良によりアントロポフが休養したため、コーチの栗生澤淳一が監督代行を務めた[26]
  8. ^ 東日本大震災によるスポーツへの影響に伴い途中終了。
  9. ^ シーズン中の久保体調不良のため、レギュラーラウンド第7節以降は徳元幸人が監督代行。

出典
  1. ^ a b c d e f g h i j 歴史/チーム紹介”. JTサンダーズ公式. 2014年3月6日閲覧。
  2. ^ a b c Number203159, p. 1.
  3. ^ a b JT 創部84年目の初V - バレー : 日刊スポーツ”. 日刊スポーツ (2015年4月5日). 2015年4月6日閲覧。
  4. ^ a b 【バレー】創部84年目の初優勝へ。JT栗生澤GMのチーム掌握術”. スポルティーバ (2015年2月27日). 2015年4月14日閲覧。
  5. ^ a b c d Number203159, p. 4.
  6. ^ バレーボール:男子JTが初優勝 プレミアリーグ - 毎日新聞 - 毎日jp
  7. ^ 猫田さん、やったよ!JTサンダーズ、V・プレミアリーグ決勝、サントリー倒し1931年創部以来、悲願の優勝遂げる
  8. ^ a b 企業地としての広島』 広島商業会議所、1924年、68-72頁。2015年10月7日閲覧。
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参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]