粟原寺

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粟原寺跡 史跡碑と塔跡
粟原寺跡 塔跡の東に並べられた礎石

粟原寺(おおばらでら)[1]は、奈良県桜井市粟原にかつてあった寺。創立は7世紀末にさかのぼる。現在は廃寺となり建物などは残っていないが、寺の跡は「粟原寺跡」として国の史跡に指定されている(1927年4月8日指定)。

所在地[編集]

大宇陀から女寄峠を越えて桜井に抜ける忍阪街道(現在の国道166号線)の中ほどの丘陵地に粟原の集落があり、その南の端に天満神社がある。寺はその裏手に隣接した高台にあった。

概要[編集]

発掘調査が行われていないため、伽藍の規模や配置など詳しいことは不明である。 現在は塔跡に心礎や礎石などが確認できるほか、東側の一段低くなった場所にも礎石が並べられている。ただし東側の礎石は元からこの場所にあったのではなく、塔跡の西側にある十三重石塔が建てられているあたりから運ばれたと見られている。石塔が建てられている場所は通称「コンドー」と呼ばれていて礎石もいくつか確認でき、ここに金堂があったと考えられている。

由緒[編集]

談山神社が所蔵する『粟原寺三重塔伏鉢』(国宝)に刻まれた銘文によって、寺の由緒がはっきりとしている(伏鉢とは、仏塔の上部にある相輪の一部)。この伏鉢は古代の金石文の重要な資料として国宝に指定されるとともに、寺跡も史跡に指定された。

銘文によると、仲臣朝臣大嶋草壁皇子を忍び寺の設立を発願した。大嶋の死後、比賣朝臣額田によって甲午年(持統天皇8年、694年)に起工し金堂と丈六の釈迦像が造られ、22年後の和銅8年(715年)に三重塔が完成したと記されている。

大嶋は文献でも名前が確認できる人物であるが、比賣朝臣額田に関してはいっさい不明であり、一部に飛鳥時代の歌人・額田王ではないかとする説も出されている。

脚注[編集]

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  1. ^ 「おおばら」の仮名表記は、桜井市サイトなど諸資料に基づく。なお、1986年内閣告示の「現代仮名遣い」では、「歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」または「を」が続くものはオ列の仮名に「お」を添えて書く」としており、「粟原」(歴史的仮名遣いでは「あははら」)はこれに該当しないので、「現代仮名遣い」の原則にしたがえば、表記は「おうばら」となる。

参考文献[編集]

  • 「大和の遺宝」橿原考古学研究所(1997年)
  • 「飛鳥発掘物語」河上邦彦(産経新聞社、2004年)

外部リンク[編集]

座標: 北緯34度29分50.4秒 東経135度53分33.1秒 / 北緯34.497333度 東経135.892528度 / 34.497333; 135.892528